第三話 荒神、異世界に転生する

◆◆◆ 荒神裕也――


 泉の中は一切の無が広がっていた。

 光も音も一切存在しない謎の空間。

 吸い込まれる引力は光をも飲み込む巨大な重力の奔流だった。

 喉からせり上がる叫びは震えることなく一切の無音となって黒点に沈んでいく。

 闇をも通さぬ真の闇。


 視界の一切が闇に包まれ、音すら掻き消えた謎の世界。


 時間が何時間、何百時間と引き延ばされるような奇妙な感覚と共に、身体の内側に存在していた痛みや乾きといった情報が次々と剥がれていくのを感じていった。

 これが魂が欠落していくという状態なのだろうか。


 このままこの空間に居続けてはまずいと俺の本能がガンガン警鐘を鳴らしている。

 しかし、身を任せることしかできない現状で一体なにができる。


「――ッ」


 一瞬喉元までせりあがってきた嘔吐感を必死に堪え、存在する意識を必死に手繰り寄せる。何かあるはずだ。なにか――。

 薄っすらと瞼を持ち上げた先、僅かな光の瞬きが俺の網膜を焼き付ける。

 極小の光の点を確かに見た。


 出口。


 しかし遠すぎる上に、身体が持ちそうにもない。


 今にも魂が剥離しそうな不吉な感覚に叫び声をあげる。気付けば本能に従い、俺の身体は無意識に握りしめていた黒曜の能力を全開放していた。

 今までため込んだ全ての神気を≪邪気≫に変換し、解放する。


 それは暗闇全てを切り裂く破壊の咆哮だった。


 指先程度しかなかった光の点に布を裂いたような亀裂が走る。闇を照らす白い光は徐々に蜘蛛の巣を伸ばすように伝播していく。

 やがて闇の皮袋は次第に原型を失いはじめ、巻き起こる突風と共に、俺の身体が闇の中から吐き出される感覚を覚えた。


「くっ――」


 強烈な光と同時に酸素が肺を犯しにかかる。

 激痛にむせ返り喘ぐように呼吸を整えれば、瞼の裏側で強烈な光を感じた。

 徐々に目を細めて、ゆっくりと瞼を持ち上げる。

 耳元で唸り声をあげる風切り音や衣服がはためく音に構わず、俺の意識はある一点に囚われ、思わず感嘆の言葉が魂から漏れた。


「すげぇ」


 視界一面に広がる青い大地。

 遠ざかるたびに広さを増し、雲の寝具に顔をうずめればそこは俺の知らない青空が広がっていた。

 身を焦がすように照りつく日の光。僅かに香る和やかな空気。

 全て、俺の知らない未知の世界だ。

 視線を下に向ければ、広大な大地に肥沃ともいえる深い森が無造作に大地に根を下ろしていた。

 

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」


 身体を穿つような空気の圧に、身体の自由が利かない。

 パニクって落下死なんて間抜けな死に方はごめんだ。

 徐々に近づく地面。考えている時間はもはやない。


 舌打ちして、身体を枝に引っ掛けクッションにするば、生木が断ち折れる音が肉を通して響き渡り、身体に衝撃が加わる。鋭く伸びた枝が身体に突き刺さらないようにだけ細心の注意を払い、衝撃に逆らわず寧ろ身体全体を使って身を委ねる。

 多少の切り傷など関係ない。

 そして迫りくる地面を見切り、素早く受け身を取った。


「ぐはっ――!?」


 せりあがる苦痛。上空数千メートルから落下した衝撃は並大抵のものではなかった。内臓を駆け巡る衝撃が止められない。


「――ッ、痛ぇ」


 あれだけの高さから落ちて痛ぇで済んだのは僥倖だった。本来なら即死でもおかしくない高さだ。身体の感覚からして骨が折れたような感触はどこにもない。

 

 とりあえず痛覚意識を散らすように空を眺め、のたうち回る内臓を落ち着かせる。


 そうしてしばらくの間、呼吸を整え身体の回復を図りながら俺は新しい世界を肌で感じていた。

 大地が硬いのは知っていたが、それでもここまで間直に大地の息吹を感じたのは初めてだ。土の奥底に生き物が無数に存在する気配が伝わってくる。


「――ここがあのクソ女神の言ってた異世界ってやつか」


 感慨深げに呟いてゆっくりと上体を起こす。

 周囲の様子をさぐれば至って変哲もないただの森が広がっていた。

 地面に転がる黒曜を拾い上げ、丁寧に損傷具合を確認する。


 黒曜の持つ能力は他者の魂や穢れを喰らって己の能力に転化、変換させる術を持つ禁呪具だ。

 あのクソ女神がどういった方法で俺をこの世界に引きづり込んだかは知らねぇが、どうやら今まで喰ってきたものすべてはあの暗闇の通路で使ってしまったらしい。


 どうやら折れた様子はない。

 あの程度で衝撃でくたばるような神木ではないが、それでもやはり魂を喰らわなければただの木刀なので折れずに済んで助かった。


「にしてもここまでしっくりきすぎると、逆に不気味だな、おい」

 

 黒曜の確認ついでに、肩を揉んだり回したりしながら、身体の様子を確認するがあのクソ女神の言うように違和感は感じない。

『天翔』の操作ミスで地面に落ちて以来の土の味だ。

 口の中が切れたのか錆び臭い味が口の中に広がり、吐き捨て大地に染みを作る。


「自分の血の味すらうまいなんて感じるなんざ、いよいよ末期かこりゃ」


 そう言って周囲に視線を走らせるが、自分でもはしゃいでいるのが目にわかるほど興奮している。

 まぁそれも仕方がない。

 見渡す限り森ばかり。けれども個々の命がぶつかり合うように喧嘩しているさまは見ていて気持ちがいい。


「やっぱこうでなくちゃあな」


 選定されるのを恐れて生きるお行儀のいい命はここにはいない。

 サングラスをしていなきゃ眩しいくらいだ。

 すぐに動き出したいのもやまやまだが慎重に身体の調子を確認するのが先だ。

 あのクソ女神が原因で転生してしまったが、どこかに不備がありましたじゃ話にならねぇ。

 黒曜を振ったり、軽く屈伸したりなどしばらく身体の調子を見るが違和感はない。むしろ少々回復力が早いくらいだ。口内の傷もすでにふさがっている。

 全てを掬いあげたとあのクソ女神は言っていたから、おそらく俺自身にまつわるの類もそのまま残っているのだろう。


「さてどうすっかな」


 このまま適当にぶらついても仕方がない。当面の目的を決めねば時間の無駄だ。


 自由に生きてほしいなんてアバウトすぎるだろう。

 当面の目的は『世界を知ること』だが、本当にあのクソ女神の言葉を信用していいのか測りかねる。

 嘘は言っていなかったようだが、何か別の目的が見え隠れしているのも真実だ。


「(とりあえず気に入らねぇ奴は片っ端から狩っていくか。そのうち適当な目的もできるだろう)」


 とりあえず自分がどこまでできるかは知っておきたい。

 守りたくても守れませんでしたなんつぅ『間抜け』の二の舞だけはごめんだ。

 唸るように思案すれば、風に乗って二人分の息づかいが聞こえてきた。


「チッ――、メンドクセェなおい」


 吐き捨てるように愚痴を漏らし、閉じた瞼を持ち上げる。

 歩幅が小さく、息が荒い。しかも無遠慮に群がる命の気配は人間とは別種の何かのようだ。

 追われている。

 あのクソ女神はと言っていた。ここに来て適当な場所に放り出すほど馬鹿じゃねぇと信じたい。


 とにかく追われているどちらかが『目標』である可能性が高い。

 すると甲高い悲鳴が右手奥の森の中から響いた。やはりそういう類の状況らしい。舌打ちして草木をかき分け森を進む。藪や高低差のある山道を走り回るのはガキの頃から慣れている。

 縫うように樹木の隙間を潜り抜けた先。飛び込みざまに人外の気配のする何かの頭に黒曜を打ち下ろした。

 血しぶきと共に濁った呻き声が聞こえ、黒曜越しに骨を砕き脳漿をまき散らした感覚が伝わってくる。


「まずは一匹」


 バランスを取りつつ、身体をひねって急停止する。

 ゆっくりと上体を起こせば全ての視線が突如現れた狼藉者に向けられた。

 そこにはなかなか愉快な光景が広がっていた。

 緑色の肌をした小鬼どもというのが最初の印象だ。耳まで避けた口を下品に歪め、黄色い十の眼球が俺を捕らえる。その全てが俺の知らないバケモノだった。

 そしてその奥、老獪な樹木を背に身を寄せ合うようにして震えた女と少女の視線が信じられないといった驚きの表情で俺を凝視していた。


「ぐぎゃごごが!?」

「ぐぎぎがご」

「ごごげごごげ!!」


 口々に不快な言葉が飛び交うが関係ねぇ。

 ただ一点、怯えた表情の女と子供に視線を集中させれば、震える女の口から悲鳴が漏れ出た。


「た、助けてください!! 冒険者の方ですか!? わたしロンソン村の者です。ゴブリンに追われてーーきゃッ!?」


 黙ってればいいものを。

 錆びた銅のナイフを首筋に押し当てる緑の小鬼。あれで人質のつもりか。下卑た笑みを浮かべた小鬼が勝利を歌い、残りの小鬼共が高らかに笑い声をあげてみせる。

 女の横で震えてるガキはおそらく妹だろう。姉にしがみつく形で体を震わせ、茶色い瞳に大粒の雫を浮かべていた。


「お、おねぇちゃん助けて」

「ががぎょごがご!!」


 か細い悲鳴がガキの口から漏れ、それを楽しそうに嘲笑う小鬼。

 言葉はわからねぇ。だがなんとなく言いたいことは伝わった。

 おそらくコイツがどうなってもいいのか、とでも言いたいのだろう。

 俺がそいつらを助ける義理なんてないとも知らず、無駄なことをするもんだ。


「……知能を持つ化け物。なるほど、こいつらがゴブリンねぇ。――おい女。お前、エルマネシュっつう女神のことは知っているか」

「えっ――」

「いいから答えろ、死にてぇのか」


 すると怯えた視線と共に何度も首が横に動く。

 どうやらクソ女神が言っていた『あの子』じゃねぇらしい。

 なら――、


「無駄足を踏んだな」

「――えっ?」


 まるで信じられないといったような声を背中に感じ、そのまま歩き去る。

 今更正義の味方ごっこなんざ反吐が出る。利益にならねぇならそれまでだ。助けたところで意味はねぇ。

 そのまま女の悲鳴を無視して歩き出そうと足を進め、


「不意打ちたぁ、味な真似してくれるじゃねぇか」

「ぐぎゃ!?」


 振りぬかれた棍棒を素手で握りつぶす。

 大層な驚きようだが、この程度ある一定の芸達者ならできて当然の技術だ。足音も隠さずノコノコ近づいてくるような馬鹿に一撃貰っちまったら、それこそ一生の恥だ。

 空中でもがいたまま何とか棍棒を引きはがそうと躍起になっているが、一睨みしてやれば手を離すという選択すらこいつにはないらしい。


「このまま俺を見逃していれば生きる道はあったんだが、もう手遅れだなお前ら」


 なんであれ向かってくるなら殺すだけだ。

 握りつぶした棍棒ごとゴブリンを放り捨て黒曜で頭蓋ごと叩き割る。

 動揺に駆られ怒り狂う馬鹿どもだが所詮は化け物だ。仲間が殺されたとわかるや否や人質の存在も忘れて直情的に襲い掛かってきた。

 ある者は錆びたナイフを。

 ある者は鉈を。

 ある者は石斧を振り回して突進してくる。


「喰らえ、黒曜」


 その一言で頬にこびりついていた血液がたちまち掻き消え、口の中に不快な味が広がると同時に穢れが身体中に脈打つのを感じた。

 儀式は終了。あとはただひたすら殺すだけだ。

 打ち振るう攻撃とも呼べない一撃を半身で躱し、黒曜を振るう。

 脳天を割り、首をへし折り、石斧ごと砕き割って地面の染みにする。

 脳漿と骨と肉が交じり合う頭部のない亡骸が四つ出来上がる。


「まじぃ魂だなおい」

「ギギギッ!?」


 偉そうにふんぞり返っていた化け物の表情に焦りの色が浮かぶ。

 娘の首筋に押し当てたナイフを震わせ、錆びた刃は女の首元に赤いつぼみを生み出していく。


「女を殺すってか? はっ、やってみろよ。テメェも俺の言葉がわかってんだろ。俺には関係のねぇ女だ好きにするといい」


 全ての穢れと魂を喰らいつくした黒曜を己の肩に当て、一歩一歩と距離を縮める。

 奴との距離までおよそ五メートル。


「よけてお兄ちゃん!!」

「あん――?」


 ガキの悲鳴と同時に現れた大柄のゴブリン。その手には鋭い大斧が握られており、背後の茂みに隠れていたのか、出現と同時に大斧を振り下ろしている姿が見えた。


「満足したか格下」

「ギギッ!?」


 驚くのも無理はねぇ。なにせ大斧は確かに俺の肩に喰い込んでいるのだから。だがその鋭い断面から出血は見られない。間髪入れずにもう一度大斧を振りかぶろうとするゴブリンだが、


「遅ぇ」


 横なぎに振るった黒曜が巨体と首を切り離す。勢いよく頭上高く舞ったゴブリンの頭部はあっけなく地面に落下し、残された身体から鮮血のシャワーが上がった。


「グ、ギギ?」

「一応頭を使ったよォだが、残念だったな。んな鈍らじゃあ、八岐大蛇の鱗で織ったコイツにゃ刃は通らねぇよ」


 そのままゴブリンの頭蓋を踏みつぶし、生き残った哀れなリーダー格を嘲笑してやれば、人質の存在も忘れて緑色の小鬼は奇声を上げて襲い掛かってきた。

 しょうもねぇ相手だったが試運転にはなった。

 銅のナイフを俺の顔に突き立てようとする最後の残党に別れを告げる。


「獄の獄へ落ちて死にな」


 邪気転化。


 蓄積された全ての穢れを放出し、黒曜から溢れ出た膨張した黒い邪気が一瞬で影をも飲み込む漆黒のアギトに変わる。

 その残酷なまでに地を這う影狼は絶望に逃げ惑う一匹の哀れな小鬼を同胞の怨念で飲み込み、醜い断末魔の叫びと共に噛み砕かれて絶命した。


 そうしてか細いの叫びすら掻き消えたあと。

 残ったのは、血肉すら残らぬ塵のカスだけだった。

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