第21話

「うおーすげーあのおっさんAV観ながら寝てるよ」

「止めなって如月……」

 そう言って私は隣の男をたしなめるが、ついつい私も彼につられてその部屋の中身をのぞき込んでしまった。人間というものは好奇心を抑えられない生き物なのである。

「にしても広いなここ」

如月は辺りを見渡して言う。

二人部屋だった。十種類くらい部屋のタイプがあるネットカフェだったが、駅前という好立地のせいか店内は混んでいた。まさか一人用で寝るスペースのあるタイプの部屋が埋まっているなんて誰が予想しようか。

各自ドリンクやソフトクリームを調達して部屋に戻る。如月がパソコンを起動して明日の電車を調べる。

「……」

「……」

「(あー、どうしよ。気まずい)」

 何か話すべきなのだろうが、適当な話題を思いつけないもどかしい時間が続く。これはアレだ、話の続かないお客さんを家に招くときには、猫をどこかから調達しておけばいいというやつだ。とりあえず猫を話題の中心に据えて話を進めればいいのだから、そうすればあとは楽なものである。そして今までの私たちの場合、その話題の中心は車窓の風景にあったのだが、今回私たちは電車になど乗っていない、つまりは話題にすべき共通の事項が存在しないのだ。いや、まあ、話題になる共通の事項はないわけではないのだが、ここで踏み込んでも……

 不意に沈黙を破ったのは如月だった。

「あ、そうそう。覚えてる? 三年の時の文化祭で生徒会が演劇したやつ。確か俺たちアレで知り合ったんだよな」

「……うん」

 話題になる共通の事項――それは高校時代の思い出だった。再会してから今の今まで、腫れ物のようにして互いに一度も触れてこなかったその話題に、ついに如月は踏み込んだ。

「実はアレ誰かが動画撮ってたみたいでさ、YouTubeに載ってんだよね」

「へ?」

「いやマジで、ほら」

 私の理解が追いつくよりも先に、如月は件の動画と思しきものをパソコンの画面上に映し出す。

「え、ちょっ、ヤダ止めてよ恥ずかしいって!」

「減るもんじゃないだろ」

「精神がすり減るわあ!!」

 一応見ようという努力はした。本当だ。偽らざる本音である。けれどもなんか変な着ぐるみを身にまとって「ガオー」とか叫んでいる数年前の若き自分の姿を見たとたん、言いようのない感情が私の頬を熱くするのだ。見られたものではなかった。

「懐かしいよな~ホントつまんねえ脚本」

 如月はさっそく道後ビールの瓶を空けて中身をあおっていた。

「飲む?」

「飲む」

 アルコールが入れば少しは見られるだろうか、分からないが、試してみる価値は十分にあった。

 懐かしい体育館に懐かしい顔ぶれ、そして懐かしい空気が、そのままの形で画面上に存在していた。それはどんな写真よりも鮮明に当時を思い出させてくれる。当たり前だ。文字通り、情報量の桁が違う。写真が瞬間を切り取るものならば動画は一体何だろう。時間を切り取るものとでも言おうか。

「……昔の話でもしよっか?」

 二人してパソコンの画面に視線を注ぎながら、私は話を切り出した。

「いいね。昔の……何について?」

 今、全てを打ち明けたら如月はどんな反応をするのだろう。やっぱり嫌われてしまうのだろうか、それとも――

 こういう時お酒の力は本当に役に立つ。どこかの聖人君子はアルコールの力に頼ることを良しとしないかもしれないけれど、私はずる賢くて、そしてとても弱い……これくらいは目をつぶってほしいところだ。

「今まで隠してきたことについて――文化祭の時、どうして私はあんなに仕事を引き受けて、自分からさらに仕事を増やして、だれにも頼らずに、学校に泊まり込んで、徹夜までして、頑張っていたんだと思う?」

「それは、自分がやりた――」

「私さ、虐待受けてたんだ」

 隣にいる如月の身体が少し硬くなった気がした。

「父親がね、結構荒れてて……」

 日向家の家族構成は父母に私に、そしてもう一人、双子の妹、葵がいた。よく向日葵だなんだと名前を如月にからかわれた記憶があるが、彼女は正真正銘の向日葵である。いつでも笑う、笑顔の綺麗な妹だったように思う。

 それに対して私は、まあ何というか、そこまで笑わない子供だった。双子が容姿だけでなく性格まで似通っていると思ったら大間違いだ。

「でもお前、日向葵は親戚だって言ってたじゃないか」

「妹だって親戚の一人だよ。嘘じゃない」

「それで、その子は」

「父親に病院送りにされたのが、ちょうど文化祭の頃かな」

 画面上にいた文化祭の頃の私は、満面の笑みを浮かべて演技をしていた。

「妹は頭悪かったからね、父親は外面を気にする男だったから、暴力の標的は妹の方により向けられてた……酷い時は家から出してもらえないほどに」

 私は毛布をかき抱きながら滔々と語る。寒かった。

「もうそろそろ分かったんじゃない? どうして私はあんなに頑張ってたんだろうね?」

 それは高校生活の最後に思い出を作りたかったとか、少しでも文化祭を盛り上げたかったとか、そんな明るくて前向きな理由なんかじゃない。もっと暗くて、後ろ向きな理由だ。

「文化祭の頃、ちょっと一線超えちゃいそうなやばい雰囲気だったんだよ、ウチの父親。本気で殺されるかと思った。実際妹はその一歩手前まで殴られたし……私は、学校へ逃げたんだよ。仕事を言い訳にして、妹を見捨てて、一時避難したの」

 児童相談所や警察には連絡しなかった。もし仮に連絡していれば少しは変わった未来を迎えられたかもしれない。妹が、一生消えないかもしれないような傷を負わない未来だって、あったかもしれない。日向葵が、笑顔を絶やさない未来だって、あったはずなのだ。

でも私はしなかった。

なぜ? 簡単だ。私には勇気がなかった。余計なことをしたと恨まれて、父親の暴力の矛先が私にだけ向くことが怖かった。私は、ただ静かに、傍観者に徹していることしかできなかったのだ。

「じゃあ……名字が変わったのって」

「うん。今は別の人の子供だよ。子供っていっても、もう私たち成人してるけどね。妹が病院送りになったことがきっかけで、今は父親とは何の縁もない」

 なので今の私はもう日向ではない。日向茜ではないし、妹ももはや日向葵ではない。私たちの中に、向日葵と形容されるべき対象はもういない。

「幻滅した? 思えば文化祭の準備で、私ってば散々如月をこきつかってたよね。迷惑だったよね、ゴメンね。学校に泊まる口実がほしくって、仕事を引き受けまくった挙句、全然仕事終わんないんだもん。アレも全部、妹を見捨てて家から逃げ出すためのものだったんだ。ひどいよね」

「……」

 如月は応えなかった。いつの間にか動画は終わっている。最高に楽しかったはずの時間が終わっている。

 どうして私はこんな話をしたのだろうか。気分でも盛り上がっていたのだろうか。如月に対して正直になりたかったのだろうか。自分とやらを曝け出したかったのだろうか。茜は悪くないって、そうやって優しい言葉で慰められるのを期待していたのだろうか。

 それとも、私は幻滅させたかったのだろうか。隣に座る男を幻滅させて、そして遠ざけたかったのだろうか。数年前、文化祭の余韻冷めやらぬ中、彼から告白されたときのように。そうやって、私はふさわしくない女だと言外に示して、如月への気持ちを押し殺そうとしたのかもしれない。

 自分探しを目的に始めた旅は、ここにきて最大の壁にぶつかっていた。

「ゴメンね、変な話して。そろそろ寝よっか――陽太」

 如月陽太。

 太陽や月のごとき理想主義者は、今、何を考えているだろう。

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