第19話

 早朝の公園は静かだった。蚊の羽音はもう聞こえない。しかし段々と町全体の起き上がってくる気配がする。生活にかかわる様々で、そして雑多な音が聞こえてきた。

「……」

 眠れたのは正味三十分ほどだろうか。ずっと交感神経は活動していた気がする。

 しばらくぼんやりしていると、ビニル袋やトングと手にした人たちが公園にやってきた。町内の清掃行事だろう、彼らは私たちを見つけても怪しまずに、笑顔で「おはようございます」とだけ言って清掃作業に取り掛かった。

 隣に目をやると、如月は私とは反対に気持ちよさそうに深い眠りを堪能しているようだった。

「……寝顔でも撮ってあげよう」

 二日前に寝顔を見られたことへの単純な仕返しと、それと特に悩みもなさそうに寝ていることへの恨めしさから、私はスマートフォンを起動して如月の寝顔を記録する。これこそカメラの醍醐味というものだ。こんな写真、こういう時でなければなかなか撮れない。

 自分の荷物をまとめ、如月のそばに置いておく。まだ始発の電車には早かったので、少し散歩でもしようと私は公園を出て街を歩く。

 北へ向かうと山につき当たった。というよりも、この辺りは山々を吉野川が東西にぶった切って流れているような地形なので、北か南に向かえば自然と山につき当たる。

 急な階段をジョギングにいそしむ女性とともに少し上ると、少し開けた場所に出た。山の奥には高校があり、そして平地のほうに目をやると、街全体が一望できるほどの大パノラマが待っていた。

「おお……」

 思わず声が漏れた。石製のベンチに腰掛けて、ゆっくりとその景色を眺める。朝方からいいものが見られた。澄んだ空気のおかげで街並みを細かく観察することができる。

「……アレ?」

けれども、スマートフォンで撮った写真はなかなかその迫力を十全に伝えてはくれなかった。私の技術が不足しているからだろうか。それとも、やはり写真よりも、現物のほうが――

「お嬢さん、観光かい?」

「ええ、まあ」

 私がスマートフォンをしまったのを見計らってか、隣のベンチに座っていた老人に声をかけられた。やはり、ある程度小さな集落では全員が知り合いで、よそ者にはすぐ気づいてしまうのだろうか。

「ウェイクボードを見に?」

「いえ、ここには泊まっただけで……」

「そうか、じゃあ宿とるの大変だっただろう。こっちは大会関係者がこの辺り一帯に泊まるから忙しい忙しい……」

 おいおいもしや昨日ホテルが満室だったのはウェイクボードの大会のせいか……?

 老人とはその後軽く話した後別れた。階段を下るところで再びジョギング中の女性とバッティングしたが、別に挨拶を交わしたりなどはなかった。

それにしても、不意に見つけた高校をまさかあそこまで懐かしく思うとは、私も年を取ったということだろうか。



 始発の電車に乗って今度は土讃線の北の方へ向かう。徳島の上、香川県に再び戻るらしい。十分な睡眠はとれていないはずだったが、不思議と眠たくはならなかった。のんびりと穏やかな心持ちで窓の外、どんよりとした曇り空を眺めていると、そこから水滴が降ってきた。雨だ。

「茜、傘もってる?」

「一応折り畳み傘ならあるよ。如月は?」

「持ってない」

「ほうほう……じゃあ何か言うことがあるんじゃない?」

「……電車降りたら入れてください、お願いします」

「よろしい」

 如月は頭を下げた。それを見て自然と勝ち誇った気分になってしまう。相合傘の約束が成立した瞬間だった。

 一時間ほどで列車は目的地の琴平駅へとたどり着いた。幸か不幸か雨は傘を差すか差さないか判断に困るほどの小降りになってしまい、如月は私の傘を待つことなくそのまま外に出て行ってしまった。

 琴平駅。「こんぴらさん」でお馴染み、あの金刀比羅宮の最寄り駅である。商店街らしき通りを歩くこと十数分、道はそのまま石の階段へと変わっていた。ここがこんぴら表参道というところだろうか、気がつかないうちに足を踏み入れていた。

 如月からパンフレットを借り受けて、階段をのぼりながら軽く目を通す。雨で滑りやすくなっており大変危険な感じもしたが、まあのぼる速度はゆっくりとしたものなので大事には至らなかろう。海の神様であり、五穀豊穰・大漁祈願・商売繁盛……などなど何でもござれな効があるらしい。参道口から御本宮までは七八五段、奥社までは一三六八段の石段が有名で、その通りを挟むようにして商店や宝物館や海洋資博物館、資料館(いずれも有料)が建ちならんでいる。

「で、ここって何がすごいの?」

「さあ」

「さあって……」

 パンフレットを如月に返して質問してみたが、どうやら彼も詳しくは知らないらしい。

「いや、雑誌も大きく取り上げてたし、なんか有名なんだろ。両親も知ってる風だったし」

「ええ? それだけで来たの?」

「まあ旅行なんてそんなもんでしょ」

 言って、如月は大きなあくびをした。彼は私の隣というよりも体半分ほど後ろを歩いている。私のペースに合わせてくれているのだろうか。気遣いがうれしかった。

 御本宮は、まあ、雨のせいもあるだろうが、何というか、

「地味……」

だった。桂浜ほど巨大なわけでも、平城宮跡ほど夕日を反射して華やいでいるわけでもない、普通の木造社だった。

「罰が当たるぞ茜」

 とたしなめた如月だったが、彼の方も彼の方で落胆の色は隠せていないようだった。いつもよりか写真を撮る回数が少ない。

 御本宮に着く直前あたりから雨脚が強まってきた。しばらく建物を眺めながら雨宿りをしたのち、階段を下りてゆく。あまりに時間が早すぎたため、ほとんどの店は行きの時閉まっていたのだが、帰りはだいぶ開店した店が増えた。雨も弱まってきた。

「あー、猫だ」

 おそらく客引きに飼われているのだろう土産物屋の猫と戯れたり、日本酒博物館(なんと無料!)を見学したり、日本初上陸らしい一九〇円もするエナジードリンクを自動販売機で購入したところお釣りの一〇円が返ってこず憤慨したりなど(見かねて飲料補充のお兄さんが補填してくれた。惚れそう)、行きよりもかなり時間がかかった気がする。

 石段が終わって少し行くと、まだ午前八時だというのに営業しているうどん店を発見した。

「香川のうどんはおつゆがないんです。このおだしをかけてお召し上がりください」

 若い夫婦で切り盛りしているのだろうか、ホールを担当している奥さんの方が食べ方を説明してくれる。

「なんだこれ、うまっ」

「これが本場……!?」

 うどんのあまりの美味しさに感動して写真を撮り忘れたのは内緒である。



店を出ると雨はこれ以上ないほど強まっていた。ゲリラ豪雨並みの激しさだ。駅の出入り口を探すのに手間取り、あやうく電車を逃すところだった私たちは、無事目的の電車に乗れたころにはずぶ濡れだった。相合傘の意味とは。いや、効果とは。

「三十分ほど進むと多度津駅に着くから、そこで予讃線に乗り換えて、愛媛県は松山を目指します」

「なぜに敬語……」

 その多度津駅に着くころには再び雨脚も弱まり、傘も必要ないほどだった。次の電車まで時間もあったので、いったん駅を出ることにする。

 駅員に十八きっぷを見せる折、如月が尋ねた。

「あの、ここから普通列車で松山までどのくら」

「五時間」

「あっ、はい……どうも」

 中年女性の駅員に食い気味に返され、少し気圧される如月。その様はかなり可愛らしく傍観者のこちらとしては面白いものだったのだが、問題は駅員の返事の内容だった――五時間?

「え、そんなに遠いの松山駅?」

「らしい。いやー始発に乗ってよかった。電車内にトイレあるのかな?」

「なければ困るっ!」

 なんて会話を交わしながら特に何もない街をぶらつき、駅に戻り、電車に乗った。

 乗る前から暗い気分にさせてくれた松山行きの電車だが、しかしそれは四国旅行中で最も楽しい乗車体験となった。具体的には

「海だあ~」

鉄道のそのほとんどが海沿いを走るのである。夏、麦わら帽子に白いワンピースを着た少女を乗せて、水泳バッグに虫取り網を携えた少年を乗せて、太陽の光を反射させ輝く水面を背景に進む田舎の電車がそこにあった。――実際はもう九月で夏休みも終わっていたため少年少女は見つけられず、そもそも曇っていたため太陽の光なぞ反射していなかったがそんなことは気にしない。

 海を眺めている間に電車は松山駅に到着した。本当である。海は人から時間を奪うのだ。

 松山市では中々に高い建物がメインストリートを囲んでいた。看板広告もそこかしこに踊っており、駅前が整然としすぎている高松や高知などよりかは遥かに安心できる街並みを持っている。おまけに路面電車が走っている。高知でも走っていた路面電車であるが、松山のそれは建物と建物の隙間を縫うようにして走っているため、市民生活の一部としての親密さを感じられるのだ。名前は忘れたが、鎌倉を走るあの鉄道――ああ、江ノ電か――が曲がりくねっているのと似たような現象だろう。

「というわけで、まずは路面電車に乗って松山城に行こう」

「え、こんな中心部に城があるの?」

「城下町として栄えた松山がそのまま県庁所在地になったとか、そういうことなんじゃないの? そのあとはもう一度路面電車に乗って道後温泉に入り、これで全旅程は終了」

 五日目は東京までの復路に丸一日を費やすらしい。そうしないと帰れないとのことだ。今日で観光がすべて終わりだと思うと少し寂しい気持ちもするが、まあ仕方ない。

すぐ近くにある駅に徒歩で向かう。途中でネットカフェを発見した。どうやら今日の寝床はあそこになりそうだった。

この路面電車は坊ちゃん列車とも呼ばれているらしく、かの夏目漱石の小説と関係があるらしいが、だからといって特別何かを感じたりなどはなかった。

十分ほどで名前の一部に「松山城」と入った駅に着いた。

「松山城まではロープウェイでも登れるらしいけど、高いので歩こう」

 如月の言葉に大人しく頷いた私だったが、城までの道程は私の想像をはるかに超えて過酷なものだった。傾斜のきつい上り坂が延々と続く。如月は十分ほどで着くと言っていたが、その十分は私の大腿をいじめにいじめ抜いた。午前中に金刀比羅宮を訪ねて参道を上った疲労も合わさって、そのダメージは大きい。

 きつい坂の果てに黒い瓦屋根と白い漆喰の壁でできた建物を見つけ、そのそばに建てられた受付所で入城料を払う。

「修学旅行の時、俺のクラスの副担任が城マニアでさ。なんかいろいろ面白い解説をしてくれたんだよね。もうほとんど覚えてないけど」

 言いながら如月は城の様々な部位に目をやりながらゆっくりと歩を進める。ぶっちゃけ私は城よりも、城の建つ高台から覗く眺望に目を奪われていたが、ここでは口に出さないほうが賢明だろう。

 建物内部では城の歴史についての展示のほかに、実際に甲冑を着てみようといった体験コーナーも存在していた。如月は鎧を着たがっていたが、隣にいた外国人家族の、十歳前後の息子が恨めしそうにこちらを見つめていたので、泣く泣く諦めた。

「すいません、写真撮ってもらっていいですか」

 帰り際、老夫婦にお願いして松山城と一緒に写真を撮ってもらった。写真スポットと思しきベンチのある場所には謎のゆるキャラのパネルもあったが、生憎とゆるキャラには詳しくないのでその正体は分からない。地元にはゆるキャラグランプリで殿堂入りを果たしているキャラクターがいるので、無名キャラなど眼中にないというのもある。

 さて、これで残すところ観光地はあと一つとなった。最後の最後に疲れを癒す温泉を持ってくるとは如月も憎いやつだ。金刀比羅の参道に松山城への登山という体力的にもキツい二つを頑張ってのぼった甲斐もあるというものである。まあ、如月の企画した本来の予定では松山城と道後温泉を観光、そして最後に金刀比羅という旅程だったので、決して如月が企図したタイムテーブルではないのだが。

 坊ちゃん列車の鉄道はJR松山駅と道後温泉を結ぶ形でひかれており、ちょうどその中途に松山城が位置している。

「道後温泉ってどのくらいかかるの?」

「なんかそれぞれ入れる浴槽やサービスによって値段が変わる。一番高い奴だと千円超えるし、一番安いと五百円しない。ただしタオルその他のレンタル料金でプラス三百円くらいは覚悟しといたほうがいいんじゃない?」

「やばいお金が……」

「マジ?」

「いや、まだ大丈夫だけど、今日の宿泊費による」

 道後温泉という名前は聞いたこともあるけれど、実際に何がすごいのかは知らない私だった。金刀比羅の時と同様に如月からパンフレットを受け取ってみると、どうやら道後温泉は最古の温泉として名高いらしい。まさかここにきて聖徳太子の名前を見るとは思わなかった。見開きで掲載された大きな写真に写る道後温泉の本館はなるほどどこかで見たことのあるものだ。

 路面電車を降りる。時刻はまだ午後五時といったところで、五時間以上もの長い間電車に乗っていたとはとても思えない。直で道後温泉を訪ねる前に周囲の街を歩いてみた。よくわからないが古めかしい公園などを回り、道に迷い、商店街を回り、歓楽街に迷い込み、文字通り一足先に足湯を堪能し、野良猫の餌としておばあちゃんからさつま揚げの一部をもらい受け、猫に与え、松山城で出会った外国人家族に再会したりなど、そんなことをしているうちにすっかり日も暮れ、辺りの空間は橙色の街灯と暗闇とが半々に分け合っていた。

「あ、あの、写真撮ってもらってもいいですか」

 現代風の街並みの中、まるでそこだけ時間を巻き戻したかのように和風建築を貫いている建物――道後温泉の本館――を発見して、私は近くのベンチに座る中年女性二人組に声をかけた。

 両腕でバックの本館に注目を集めるようなポーズをとる。「ジャジャーン」と効果音が付きそうなあのポーズだ。

 近くのコンビニのカップ麺で夕食を済ませた私たちは、近くのスーパーで売れ残った一個五十円のおにぎりを明日の三食分買い占め、最後に近くの土産物屋で軽くお土産を買い、いよいよ道後温泉の受付へと向かった。

 コースはもちろん最も安いやつである。如月の言うとおりバスタオルや石鹸などのオプションが値を張ったが、そこは諦めるしかあるまい。

 しかしまあ、なんというか。道後温泉のすごいところはあくまでその古さであって……言ってしまえばそれ以外のところは、うん。別に豪華な内装なんて期待していたわけではないが、それにしてももう少しやりようはなかったものか。原点にして頂点なんてそんな都合のいいセリフは中々吐けないものである。

 それでもせめて料金を無駄にしてはいけないと、制限時間いっぱいにお湯につかること数十分、のぼせるギリギリのところで私は浴場を後にした。

 如月と合流して路面電車の駅を目指す。如月は片手に小瓶を抱えていた。道後ビールというらしい。話を聞けば高知駅でも高知県の地酒を購入しており、お土産にするのだとか。

 真っ暗闇の中を電車は進んでゆく。県庁だったか市役所だったか、行きの電車では立派な建物を眺められたものだが、あいにくと帰りの電車はそれを許してくれなかった。

「さて……」

 松山駅へと戻った私は財布の中身を確認する。残金は千円と二〇〇円。野宿すれば宿泊費はタダになるので余裕も余裕の残金なのだが、もう昨日のような目には遭いたくなかった。第一意外と都会的な場所なので危険度は昨日の比ではない。気がする。

「とりあえずあそこのネットカフェ行ってみるか」

 如月の言に従って歩く。一日目に止まったネットカフェでは一五〇〇円かかったが、今回のネットカフェは果たして。偶然今日はレディースデーだったりとかしてくれないだろうか。

 果たして、

「深夜パック七時間一一〇〇円……っ!」

大勝利だった。

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