第17話

 どうしてこんなことになったんだろう。

 往々にして人は何かにつまずいた時、こんな言葉を漏らす。後悔という心情を吐露する。相田みつをはそんな私たちを、丸みを帯びた素朴な文字と言葉とで優しく包みこもうとしてくれたが(そしてあの有名な「人間だもの」というフレーズが誕生することになったわけだが)、どうあれ、そのフレーズはただ小さなことでくよくよと悩む我々人類に対して、宇宙の壮大さを比較に持ってきて「ほら、君の悩みなんて大したことないんだよ」と幻惑させて悩みから目を背けさせるだけのものでしかない――まあ、実のある解決策を提示するのではなく、ただ暖かな眼差しとともに私たちに寄り添おうとした姿勢こそがこの作品の本質なのは明白なのだが――ので、どうしたって弱気な心を反映して弱音というのは口から呟かれてしまうのである。

 随分と長い一文が出来上がってしまったが、結局のところ何が言いたいのかというと、やっぱり

「どうしてこんなことになったんだろう」

になるのが今の私だった。

 午前中に乗ってきた線路を、今度はゆっくりと普通電車で引き返す。どんな線路でどのような車窓の風景が望めるのか、そういった細かで詳しいことをアンパン号の上で眠りながら高知駅まで来た私は知らない。

 電車は名前も知らない駅にとまった。四十分後か、それか二時間後の電車に乗ればもう少し先まで進めそうだった。というよりも昨晩の宿、阿波池田駅まで遡れるらしい。調べてみるとそれ以降の電車は特急以外になく、どうやら私は阿波池田駅周辺で二晩を過ごすことになりそうだった。

 駅舎の一部を借りて出店しているセブンイレブンで早めの夕食を確保する。昨日の反省が活かされた瞬間だった。やはりというか何というか、ここのセブンイレブンも午後八時閉店らしい。セブンイレブンという店名はいったいどこから来たというのか。

「ただいま停止信号が灯っておりますので今しばらくお待ちください」

 四十分後にやってきた電車に乗って数十分、電車はそのようなアナウンスを発した後、実に三十分も停車した。土讃線は一車線しかない区間でもあるのだろうか、対向車の通過を確認しないと出発できないらしく、実際これまでにもちょくちょく停車していたのだが、ここまで長い時間停車するのは初めてだった。手持ち無沙汰の私は少し非常識かとも思ったのだが空腹には堪えられず、そこで少し早めの夕食を摂ることにした。

 車両のエンジンだけが響く。ここに来て気づいたが、どうやらこの車両、エンジンで動いているのだ。つまり電車ではない。道理でうるさいわけだと私は半ば得心しながらもコンビニ弁当を取り出した。

 私以外の乗客はラフな格好のおじさんと、学校帰りだろう女子学生の二人。彼らは私からは大分離れたところにいるので迷惑にはならないだろうと安心する。

「……いただきまーす」

 小さく唱えられた食事の挨拶は一つきりだった。

「……」

 そう、私は一人だった。



 何故こうなったかは二、三時間前にさかのぼる。

 有り体に言ってしまえば、私と如月はケンカをしたのだ。別に明確にどちらかが悪いとかそういうものではなく、ただちょっとした意思疎通の乱れが事を呼び起こした。旅にハプニングはつきもので、私とて勿論それは理解しているつもりだった。けれどもたとえ理性が理解していようと感情は納得してくれないなんてことは本当によくあることで、私は彼の無謀とも思える旅程に、ほんの少しケチをつけたのだ。

 いや、果たしてそれは「ほんの少し」だったのだろうか。私はよく子供の頃、相手に聞こえない謝罪なんて謝罪じゃないといった、まあそのような趣旨の言葉を母親から聞かされていたものだが、まさしくその通りで、コミュニケーションというものは受け手の捉えようでいかようにも変化するのだ。私がほんの少し、半ば冗談のつもりで発した言葉であっても、それが悪意あるものと受け止められてしまえば、悪いのはあやふやな発信をした私だ。

 ともかく私は、高知駅に来るまでに特急列車を使用したことや、自転車で合計二四キロもの道程を走破せねばならなかったこと、そして、四国島の南西を鉄道でぐるっと一周しようという如月の無鉄砲な計画に、不満を持ったのだ。愛想をつかしたのだ。そしてその不和は、高知駅で私たちに決定的な亀裂をもたらした。

言葉が交わされるごとに私たちの感情は増大していった。お互いに引けなくなっていた。私たちは――少なくとも私は――如月とけんかをすることを望んでなどいなかった。でも、変な意地が、プライドが、私に頭を下げることを許さなかった。

そうして私は元来た道を引き返し、如月は土讃線を南西方面へと進んでいった。

「大変お待たせいたしました。発車いたします」

 大きな駆動音を鳴り響かせて鉄道の旅は再開した。すでに日は沈んでいたので景色は見られない。

「……どうしよ」

 勢いで阿波池田駅方面へ乗車したはいいものの、如月と別れてしまった今、特にすることもなくなってしまったのが現状の私である。

「お金もあまりないんだよなあ……」

 財布の中身をのぞき込みながら、阿波池田駅周辺に郵便局があっただろうかと思案する貧乏の私でもあった。



「……はあ」

「誠に申し訳ございません、はい」

「あ、いや……はい」

 私の目の前で頭を深々と下げるフロントの女性。かなりの低姿勢だが、それが謝意の大きさ、誠実さを表しているようで、私は複雑な気分とともにビジネスホテルの建物を後にした。

 昨夜泊まったビジネスホテルは、どうしたというのだろう、今夜は満席だった。経営が成り立っているのかなんて失礼なことを考えた罰が当たったのだろうか、皮肉なものだ。

 インターネットで調べたところ、どうやらほかにホテルらしきものは見当たらなかった。私の頭に嫌な二文字が浮かぶ。しかし現実が示す道はそれしかないようで、私はその残されたたった一本の道を選ばざるを得なかった。

「野宿するかあ」

 というわけで寝床を探そう。



 ビジネスホテルのある脇道を少し進んだ先に銭湯があった。私の身体は桂浜までの往復によって汗でベトベトになり、桂浜の潮風によって更にベトベトになっていたので、そのベトベトを洗い落とすべく、私は迷わず直行した。

 私の大好きなサウナの中にはテレビが置いてあり、ニュースが現在開催中のアジア大会の結果を伝えてくれていた。男子の四継は無事金メダルを獲得してくれたようだ。オリンピックや世界陸上ではマイルリレーとともに毎度アジアトップの成績を残してくれる日本代表だが、彼らはアジア大会となると意識の緩みからかなかなか金メダルを取ってくれない。アジア記録保持国、世界歴代四位の記録を持つ国としてようやくトップの座を勝ち取ったのはむしろ遅すぎるくらいだ……などと関係者はなかなかに厳しいコメントをしている。

 サウナに出たり入ったりを繰り返していると、どうやらそろそろ銭湯の閉まる時間らしい、いつの間にかお客さんは私だけになってしまっていた。

「コーヒー牛乳一つ」

 着替えを済ませ、私は番頭のおじさんに小銭を渡した。こういう場での飲み物は毎回コーヒー牛乳になってしまう。一度フルーツ牛乳なるものを飲んでみたいが、あいにくと私の訪ねる銭湯ではコーヒー牛乳しか取り揃えられていないのだ。

番頭さんはスキンヘッドで筋肉隆々な体格をしていたが、その見た目とは反して気さくな方のようで、私がチビリチビリとコーヒー牛乳を嚥下する間にも、銭湯の掃除をしながら話しかけてくれた。

「はー、十八きっぷだと東京から十時間以上もかかるのか。もうおいちゃんみたいに仕事があると飛行機とかでね、早さを優先しちゃうもんだけど」

「あはは、そこはほら、時間はあるけどもお金がないなんてのが大学生ですから。こんな旅、今しか出来ないですよね」

「明日はどこ観光すんの? 大会? ウェイクボードの」

「いえ、まだ何も考えていなくて。どうしましょう?」

 ウェイクボード? アレか、Wiiスポーツリゾートで出来るやつか? ゲームでなら得意だけども、確か任天堂の提示するウェイクボードというのは海でやっていなかったか? ここは四国のど真ん中、言うなれば海なし県のようなものだが……?

「それではこの辺で。ごちそうさまでした」

 言って、銭湯を後にする。サウナによって全身を温められた私は、再び汗をかきそうな心配に襲われながらも、阿波池田駅まで戻る。駅舎には照明と申し訳程度の冷房と蚊取り線香とベンチと座布団がある。ここで朝まで寝転がっていようとしたらさすがに怒られるだろうか。怒られるか。

 駅を出るとすぐに商店街の入り口が待っているが、そこの手前で右を向くと何やら大きな公園らしき場所が見えた。十数メートル大の、古代ギリシアの演劇ホールのような場所を通りすぎて進むと、正方形型で人が横になれそうなほど大きなベンチがあった。屋根らしきものもついている。

「よし、ここで寝よう」

 人目につきにくく、それでいて見晴らしがよい。すぐ先には駅のホームがあり、公共物の安心感もある。つまり、怪しまれず、襲われづらいのだ。

 連日の猛暑は熱帯夜を誘発させることを意味していて、つまりは寒くて凍え死ぬなんて心配もない。この時ばかりは暑さに感謝である。

「さて……」

問題はほかにある。だいぶ前に張っていた伏線をソロ回収しておこう。具体的には二日目の夕方、鳴門から徳島駅を目指して電車に乗った時のことだ。「私たちは忘れていた、最強の敵の存在を」だなんてやたらと物々しく表現した覚えがあるが、実際、地球の裏側でそいつは最も人類を殺している存在だったりする。

私は忍び寄るモスキート音に対して反射的に狙いも定めずに体を叩くという愚行を演じながら、

「どこかに蚊とり線香でも転がってないかなあ」

と、はかない希望を口にした。



 蚊。吸血虫。夏場に大量発生し、刺されるととっても痒い。

「うへえ~」

 私はすぐ近くにある公衆トイレの水道水で露出している肌を濡らしたのち、バッグから貴重品、それと昨日と一昨日に着た衣服を取り出した。肌の水分が乾いたころを見計らって、衣服で私の体と貴重品とを一緒に覆う。というか巻きつける。最後に頭にも衣服をかぶり、これで完成だ。その様は傍から見ればまるでミイラのように映ることだろう。違いといえば私がまだ死んでいないことと、モスキート音を聞こえないようにするために手が胸の上ではなく耳にあてがわれていることくらいだ。ああなんて不格好。他人には絶対見せられない。しかしこれもすべては蚊に刺されないようにするためであって、私は率先してこの格好をとろうとしたわけではないことをこの場を借りて弁明したい。

「ふうー、はあ~」

 衣服に巻きつけられて呼吸が苦しかった私だが、しかしこの息遣いは私のものではなかった。

「ああ、どうも……こんばんは」

「あ~?」

 いったん衣服を外して周囲を窺うと、そこには酔っているのだろう、千鳥足のおじいさんが顔を赤らめて隣のベンチに座ろうとしていた。異様に数の多いスナックで飲みすぎたのだろうか。一応挨拶をしてみたが返事はなかった。

「う~、飲みすぎたあ」

 でしょうね。

 おじいさんはいよいよ立っていられなくなったか、重力に引っ張られるようにして勢いよくその場にくずおれた。頭がベンチの角にゴッと音を立ててぶつかった気もするが、「痛てえ~」とむにゃむにゃ寝言を呟きながら転がったりもしているので、まあ大した心配も必要ないだろう。

 私は再び衣服にくるまった。

「……」

 ああ、孤独。ここまで一人が寂しいものだとは思わなかった。人とのつながりは大切にすべきものだと改めて思う。胸の辺りをずっとかきむしりたくなるような違和感が占拠している。なかなか眠れないのは、蚊のせいか、寝床のせいか、それともこの胸にわだかまる不快感のせいか、果たして。

 そんなことを考えているうちにようやく精神状態も落ち着いて、私は半覚醒状態の心地よい感覚に包まれようと――

「――ひゃあ」

したところで、そんな悲鳴が漏れた。その悲鳴が私の発したものだと理解するまでに少し時間がかかった。

 違和感は、左足――いや、左脚。くるぶしとふくらはぎ、ちょうどそのどちらとも明言できないそんな微妙な部位に、違和感があった。その違和感は温かくて、かなりの圧迫感があって、その範囲は私の脚をちょうど一周しようというほどだった。

 それが人の手だと気づくまでに半秒、そしてその手の持ち主がもしや先ほどのおじいさんなのでは? と想像が及ぶまでにもう半秒。

 私は叫んだ。

「だっ、大丈夫ですか!?」

 まずは自分を心配しろよ。

まったくどこまで行っても私は優しいようで、とっさに口を突いて出た言葉は相手を思いやるそれだった。

「う、ああ……」

 私の脚をつかんだのは本当に件のおじいさんだった。おじいさんは片方の手で私の脚を、もう片方の手でベンチの縁をつかんでいた。その姿はよろよろとおぼつかないが、ゆっくりと立ち上がろうとしているのは私にも分かった。おはようおじいさん、いい加減手を放してほしいな。

 しかしまあ、そんな簡単に状況を理解できるほど私は聡明でもなかった。単純に寝起きというのもある。当時の私はそれはもう恐怖した。襲われる心配もないと選んだ寝床だったが、やっぱり怖いものは怖いのである。

「(ヒイイ! 襲われるうう!!)」

 本気でそう思った。詳しく描写されている辺りは後から述懐したものであって、当の瞬間は、うら若き乙女が真夜中、脚をつかまれ、その乙女に覆いかぶさらんばかりにご老人(男)が唸っていたのだ。

 そう、

だから――

「茜から離れろテメえええ」

ヒーローがごとく、数時間前にケンカ別れしたはずの如月が、私の前に現れた時は、それはもう――



 夏休み、私たちが四国を訪れる数週間前、西日本は大きな災害に見舞われた。俗に西日本豪雨と呼ばれるもので、岡山県だったか、川が氾濫して辺り一帯が水没するなど、その被害は甚大。けれども対岸の火事とはよく言ったもので、東日本は東京で日々を過ごしていた私は詳しい被害状況も知らないし、もっといえば復興がまだ完了していないということすら知らなかった。

 だからまあつまり、

「電車が走っていなかった……?」

「一応、代替手段としてバスを走らせてはいたみたいだけどね」

私は――私たちは、愚かにも西日本豪雨の被害で鉄道が運行できない状況にあったことなど、知らないどころか想像もしていなかったのである。

「バスなんて言ってもそう頻繁に走ってるわけでもなし、茜に無鉄砲だとか言われて、まあ、反省もしてたから、おとなしく引き返してここまで戻ってきて……そうしたら、茜の声が聞こえて、その声を辿ってみて、今に至る」

 そういえば確か、二時間後にも阿波池田駅行きの普通列車の運行は予定されていたっけ。

 二人して公園の正方形型のベンチに腰掛ける。酔っぱらいのおじいさんはすでにいない。別に私を襲おうとしていたわけではないと誤解が解けたのち、家へ帰っていった。

すでにミイラ姿は解いてある。当たり前だ。あんな姿、見られてたまるものか。しかしその代償に、蚊の羽音は耳に触るし、ところどころ痒くて仕方ない。

「……何でこんなとこで寝てたの」

「満席だったの、ホテル」

「こんなど田舎で?」

「たぶんウェイクボードの大会せい」

「ウェイクボード? こんな海なし県みたいなところで?」

「ことごとく私と同じ感想やめてよ……」

 私たちは隣りあうようにしてベンチに腰かけているため、表情もうかがえなければ目も合わない。しかしそれは却って話しやすかった。それでもやはり気まずいのだろうか、恥ずかしいのだろうか、私の声はひどく弱々しいものだった。如月はどうだろう。分からない。

「……ごめん」

 思いのほか簡単にその言葉は出た。

「なんか如月のこと軽率だとか旅程がいい加減だとか言ったけど、私もあんま変わんなかった。こんなとこで寝ようとしちゃうし、ね。あとやっぱり一人旅は寂しいし不安なので、その……これからもいろいろ連れていってくれると……うれしいな」

 その日最後の特急列車がホームを出発した。煌々とした明かりが私たちを照らす。私たちを明るくする。まるで私たちの心を明らかにするかのように。

「こちらこそ、ごめん。俺一人での旅ならいざ知らず、茜がいるんだから、俺の希望だけでなくもっといろいろ考えるべきだった。むしろこっちからお願いしたいくらいだ、あと二日、一緒に旅しようぜ」

 願ってもない返事は、列車のエンジンにかき消されることなく、しっかりと私の耳にまで届いた。

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