第16話

「目が覚めるとそこは保健室だった。ついぞ利用したことのない、けれども掃除のたびに目にする保健室のベッドは、想像以上に落ち着かないものだった。幼いころに祖父母の家へ泊りにいった際に使っていたような、ザラザラとしていてとても重い掛布団……正直に言ってしまえば違和感があり、若干不快ですらある。別に保健室のベッドに淡い期待のようなものを抱いた覚えなどこれっぽっちもないのだが、不意に訪れた現実は、悲しくも私に落胆を覚えさせた――」

「……勝手に私の気持ちを代弁しないでいただけます?」

 日向は口だけを動かしてそれだけを言うと、目を開き、上体を起こした。数秒間あたりを見回して、俺を見つけて、一言。

「私襲われてるっ!?」

「襲ってないわ!」

 素早い動作でその身をかき抱きながら日向は叫ぶようにして言った。

「嘘だ! じゃあどうして私はこんな夜遅くに保健室のベッドで目を覚ましたの!?」

「俺と一緒に作業してていきなりぶっ倒れたんだよ、お前」

「あ――ああ……なんかそんなこともあったような気がする」

 日向は頭に手をやりながら応える。これまでの出来事を記憶の底から復活させようとしているらしい。

「私が倒れたのは多目的室で合ってる?」

「ああ」

「……じゃあ、如月くんが私をここまで運んできたと」

「そういうこと。んで先生呼びに行こうとしたら日向がウンウン唸って、起きて、今に至る」

「じゃ、じゃあ先生にはまだ何も言ってないんだね!?」

「ん? うん」

 日向はこのとき何かに怯えているかのような焦りを見せていた。彼女から必死さが読み取れたのはこの時が初めてだったかもしれない。数秒前に自分の体を抱いて震えるそぶりを見せたのも、よくよく観察してみれば戯れ半分、本気半分といった感じに少なからずシリアスな雰囲気を漂わせていたように思う。

何にせよ、当時の俺は、ただ日向は体調不良を理由に教師から文化祭への関わり方の見直しをされてしまうことを恐れているのだろうと、そんなひどく楽観的な受け止め方をしていた。

「にしてもまさか保健室が開いてるなんてな、また怒られるぞあの先生」

 今年からこの高校に配属された養護教諭はまだ若く、しょっちゅう間抜けなミスを犯していた。生徒からは友達のように接せられ、教師たちからは子供のように扱われている、冷静に考えてみれば少しかわいそうな存在だった。

 保健室は多目的室を出て二部屋分ほど廊下を進んだ先にあった。倒れた日向に駆け寄り、彼女の意識がないことを確認して、急いで職員室へ駆け出した矢先に俺の目に映ったのがこの保健室である。養護教諭は普通の教師たちと違って学校を去るのが早く、それもあって俺はダメもとで部屋の扉をノック、スライド式のドアに手をかけたのだが、幸運なことに保健室には鍵が掛かっていなかった。

「あはは……あの先生適当だからね~。まああの先生だけが悪いわけじゃないんだけど」

 日向は軽く肩を震わせて笑うと、おもむろにベッドから降りようと重心を移動させる。

「急に立って大丈夫かよ」

「大丈夫だって、病人じゃあるまいし」

「いきなり意識失ってぶっ倒れるやつが病人じゃないわけないだろうが。そもそも何があった? どうして倒れた?」

 俺は日向の両肩をつかんでベッドへと押し返す。日向は抵抗しようとしたがすぐに諦めてくれたようで、彼女の肩からは力が抜け、後には小ささと柔らかさだけが残った。

「……言わなきゃダメ?」

「むしろ言わずに切り抜けられる選択肢があるなら教えてほしいね」

 室内の照明はともっていない。保健室に不法侵入、加えて無断使用しているという後ろめたさがそうさせたのだが、廊下の照明のおかげである程度の明かりは確保できていた。しかしそれでもやはり暗いことに変わりはなく、この時、ベッドに座りながらこちらを見つめる日向の瞳が――おそらく教師の車だろう――自動車のヘッドライトを反射して輝いたその一瞬のきらめきに、俺はどうしようもなく心を奪われた。

「いやー……たぶん、過労?」

 日向は右の人差し指で頬をかきながら、俺の質問に疑問形で応えた。後ろめたいのか目はあらぬ方に逸れている。

「ここ最近ずっと学校にいるし」

「そりゃ学生だからな」

「いや、そうじゃなくて……毎日二十四時間、ずっと学校にいるし」

「は?」

 素っ頓狂な声が出た。

「あはは~色々と仕事引き受けたはいいものの、全然終わんなくてね。前に駅のイルミネーションがワカメ色だとか何とか言って如月くんと一緒に帰った時もそのまま電車乗らずに引き返したし」

「アレって、確か手芸部を覗きに行ったときだろ? そんな前から……」

「そうそう。食事は購買で三食分買えば何とかなるしね」

「いやいやいや。無理だろ。風呂は? 洗濯は? 寝る場所は?」

 畳みかけるような俺の質問にも日向は動じなかった。その大きな目はまっすぐに俺をとらえていて、彼女の態度は平静そのものだった。

「お風呂と洗濯は清流会館だよ。前に私、バザー係長と会館の戸締りについて話してたでしょ? まあぶっちゃけると私が夜に出入りできるように鍵開けっぱにしておいただけなんだけよ。卓球部がよく合宿であそこ使うから、ちょっと合鍵を拝借しようかなとも思ったけど、さすがにそれは躊躇った」

 (笑)とでも語尾につきそうな口調で日向は語る。

「じゃあ、まさか寝る場所も……」

「うん、清流会館と、それと保健室」

「保健室?」

「ここだよ」

 人差し指で自身の下、すなわちベッドを示す日向。それはさも当然と言わんばかり、ケロッとした態度だった。



「はいはい、コレあんなま。食べなよ」

「おおマジか、俺食ったことねえんだよ。サンキュ……じゃなくて!!」

「どうしたのカリカリしちゃって。生理?」

「なるかボケぇ!」

 あんなま――あんぱんに生クリームを入れた、わが校の購買きっての人気商品だった。あまりに人気で俺はこれまでの高校生活で一度も食したことはないし、よく友人に無理な頼みごとをする際には代価として使用されることもあるくらいの価値を秘めている。らしい。普通科、それも文系の教室は購買所までの距離が最も長いので、あんなまには大抵ありつけないのだ。

「……美味えなコレ」

「そりゃ人気商品ですから。持つべきものは理数科の友人だね、全く感謝してね」

 片や最も購買所まで近い教室に通う理数科の日向は、大した感動もなくこともなげにあんなま、それからカツサンドを次々に頬張っていった。その食べっぷりに、俺はふとカロリミットファンケルのCMを思い出した。

いっぱい食べる君が何とやら。

「そっか……保健室の鍵が開いてたのは日向のせいか」

「ああいや、私は下の方にある小さな窓の鍵を開けておいて、そこから侵入してただけだよ」

「え、つまりじゃあ入口の鍵は」

「あの先生、普通に鍵をかけ忘れてたね」

「大丈夫かよ養護教諭!」

 応急処置を安心して任せられない不気味さだけが残った会話だった。

 俺たちは二人、ベッドに座って少し遅めの夕食を済ませていた。俺の両親は比較的過保護なので、今頃俺が中々帰ってこないことに慌てているかもしれない。後で色々連絡しておこう。

 総菜パンが胃の中へ消えても、その都度日向がベッドの下をのぞき込み、ごそごそとビニル袋を漁る音がしたかと思うと、彼女の手には別の種類のパンが握られていた。

「まだまだあるよ。食べたりなかったら言ってね、清流会館にもあるし」

 清流会館には体育会系の部活の合宿所としての機能もあり、布団は当然いくつも用意されている。ではなぜわざわざ寝る場所を保健室にもう一つ確保していたのか、日向はおどけながら布団は広げたり畳んだりするのが面倒で、ベッドは楽だからだと言っていたが、食料も清流会館と保健室とで二分しているあたり、保険としての意味合いもあるのだろう。どちらかが不慮で使用不可になってしまった場合――一番考えやすいのは当直の教師に鍵を閉められてしまった場合か――への備え……その辺り、日向の周到さに感心する。

「――って感心してる場合じゃねえ!」

「大声出すとバレちゃうよ」

「おっと」

 とある数学教師は平気で時計の短針がてっぺんを回るまで仕事をしているそうで、窓から覗くと職員室にはまだ明かりがともっていた。

「というかご両親はどうした、そんなに何日も家に帰らなくていいのかよ」

「んー、ウチの親は結構私に外面の良さを求めるタイプだからね。だから生徒会になんて入ってるわけだし。だから、生徒を代表して仕事に追われて仕事が忙しいって言い訳すれば、ある程度は許容してくれるんだ」

ある程度……?

「いやいや、外面の良さを求めてるんなら、ご両親は日向が無断で学校に留まっていることが公になった場合のリスクを心配するんもんなんじゃねえの?」

「ギク」

「やっぱりダメなんじゃねえか!」

 ともあれ、大体の状況は把握できた俺だった。日向の家庭の事情には違和感を覚えないでもなかったが、まあ(バレなければ)すぐに大事になる心配のある問題でもない。ならば俺はどうすべきか。この問題の根本的な解決策とは何か。それは簡単なことだった。

 下校していては終われないというその日向の作業を、俺が手伝ってしまえばいい。

「で、そのまだ残ってる仕事って、何なんだ?」

「ん? ああ、色々だよ。……おやおや? まさか如月くん、手伝ってくれるの?」

「乗りかかった船だなんて言葉を使う日が来るだなんてな……」

「いやっほう、愛してるう如月くん!」

「オイコラ、背中叩くな! 痛い痛い!」

 抱きつかれんばかりだった。意識してか無意識か、とにかく日向の顔からは視線をそらしていた俺だったが、きっと今、彼女の表情が向日に照らされたかの如く輝いているだろうことは容易に想像できた。

 これで俺も共犯者、晴れて犯罪者の一因になることが確定してしまった。けれども俺は何年か後にこの出来事を懐古した時には、まるで予定調和のように、この過去を「青春」と、こう評するのだろう。



 そして俺は見落とすことになる。眩いばかりの笑顔に隠されて、その笑顔の美しさにかどわかされて、その違和感の中の事実に気づけない。あるいは、気づけてもそこから踏み込んで、辿りつこうとする気力を保てない。



 それぞれがそれぞれの思いを抱え、時間はいやおうもなく進んでゆく。

 文化祭が迫っていた。

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