第15話

 大歩危駅舎横の自販機で買ったペプシコーラの量の少なさに憤慨していると、駅に子連れの家族がやってきた。祖母と母親と、三歳くらいの男の子の三人。駅長さんにアンパンマン号が見たいのだと話すと、何ということでしょう、改札を抜けてホームまで案内されてゆくではないか。東京ではまず見られない光景に困惑する。

「そろそろ俺たちもホーム行くか」

 子連れの家族が駅長とともにホームへと向かう姿を眺めながら如月が言った。時計を見ると、特急列車がやってくる時刻まで残り五分となかった。

 ホームにはまたもかずら橋のレプリカが存在していた。このあたりの名物で簡素な造りのため比較的設置しやすいのだろうが、そう何個もあるとありがたみが薄れてしまうというのが本当のところだ。

 その模倣かずら橋のすぐ隣には木製のベンチが一つ置かれていた。こちらも観光客向けのものだろう、肝心の座る部分がVの字のように谷になっており、質感はスベスベ。このベンチに座ったカップルは自然と中心でギュムギュムと押し合うような形になり、彼らの縁を末長いものにしてくれるだとかなんとか。

「座る?」

「何を馬鹿な!?」

 ついうっかり否定してしまった。そもそも座ったところでどうにかなるものでもあるまいと自分に言い聞かせると、家族連れの三人、その母親がおもむろに近づいてきて

「あの、撮りましょうか?」

と提案してきたではないか。

「……うひゃー」

 私は重力の力強さと摩擦力の有効性を思い知った。予想以上に如月との距離が近くなって、あとは、まあ、はい。

「ママ、アンパンマン来たよー」

と、全身をアンパンマンの絵に包まれた特急列車が到着した旨を三歳の男の子が報告してくれる声が、ひどく遠く聞こえた。



 寝た。

 思いのほか特急列車の旅は快適で、一度目を閉じて開いた時にはすでに高知県。あと数駅で目的の高知駅まで到着というところだった。車内は普通電車と違って多くのお客さんに溢れている。

「あ、ケーズデンキ」

 高知駅で停車しようと速度を落とす列車の窓から外を覗いてみると、そこには想像以上に背の高い建物が乱立していた。そしてその中にはお目当ての家電量販店も見える。

「まあこの際家電量販店ならどこでもいいや」

 如月はスマートフォンの電池残量を確認しながら言った。

 改札を抜けて駅舎から出ると強烈な日差しが私たちを襲った。地面のコンクリートからの反射も相まって一段とまぶしく、自然と目を細める。

 ケーズデンキは駅から徒歩五分ほどの所にあった。やはりコードはどんなに安くても消費税を含めてしまえば千円を超える買い物になってしまうようで、如月は苦渋の表情で最安のコードをレジへと持っていった。

「で、これからどこに行くの?」

「ここから南に数キロ行った先にある、桂浜っていう浜」

 聞いたことのあるような、ないような。

 再び高知駅。南側には土佐藩出身の有名人三人の銅像があった。三人のそれぞれの名前は知らないが、銅像はかなり大きい。高さ五メートルはあるんじゃないだろうか。

「侍らしいポーズって何だろう?」

「エアーで日本刀持ってるフリとか?」

 如月の意見をそのまま採用して刀を構える格好をとる。握りこぶしを二つ並べたところで、徐々に充電して力を蓄えなおしているであろう如月のスマートフォンからシャッター音が聞こえた。なかなか様になっていると自分で思ってしまった。

 その後、昼食を摂ろうとしたのだが、近くにめぼしい飲食店は見当たらなかった。いや、飲食店もあるにはあったのだが、カツオのたたきが食べたいと如月が言って聞かなかったというのが大きな理由だった。桂浜も有名な観光地なので、そこに行けばカツオのたたきもあるだろうということで、仕方がないので私たちは空腹のまま桂浜に向かうことにした。

 土佐藩士の銅像横にあった観光窓口(窓口! なんと親切なことだろう!)を訪ねると、無料で自転車をレンタルできるそうな。いくつかの個人情報を専用の紙に記入して、受付で登録する。シティーバイク(ママチャリのこと)、クロスバイク(走りに特化してそうな自転車)、電動自転車の三つから好きな種類を選んでいいとのことで、私は電動自転車を、如月はクロスバイクを選んだのだが現在はすべて貸し出し中とのことで、泣く泣くシティーバイクを選択した。

 着替えなどを詰め込んだバッグは駅のコインロッカーに預けた。

「おおお~、めっちゃラクだ!」

 上京してみて、最初は電動自転車の多さに驚いたものだ。子供を乗せて坂道をぐいぐいと昇るママさんたちは全員電動自転車。自転車といえば空っ風にも負けずに学生たちが毎日こぐママチャリというイメージしかなかった私にとって、その事実はなかなかの衝撃と共に受け入れられた。

 そしてその電動自転車にいざ乗ってみると、その快適さに私は心を躍らせてしまった。思わず声も弾んでしまう。坂道を下っているかのように少ない力でスイスイと進んでゆける。ジメジメと熱いはずの空気が気化熱で涼しく感じられて気持ちいい。こんなにも素晴らしいものだったのかと、私はすっかり電動自転車の虜になってしまった。

「ちょ……ちょっと待ってくれ、茜……」

 赤信号の前でブレーキをかけて止まる。後ろを振り返ると、そこにはゼエゼエと息を切らしながらギーコギーコとペダルをこぐ如月の姿があった。

「何だなんだ、だらしがないぞ男子ー」

「電力に頼っておいて……よく言えるなこの野郎……」

「そりゃあ体力には明確な男女差がありますから。如月、中学時代は陸上部だったんでしょ? これくらいでバテるほどの選手だったの?」

「短距離やってたやつが……そのまま長距離も速いと……思うなよ」

 高知駅の南口から始まって南北に延びる道路を途中まで路面電車と共に進み、そこから左回りで大きく迂回するように港を撫でてゆく。最初は桂浜まで一二キロとあった道路標識も、ペダルを漕ぐほどに徐々にその数字を小さくしていった。

「はあ……はあ」

 さすがに五キロを過ぎたあたりで疲れてきた。道路はガタガタと段差ばかりでスピードが出ないし、所々で待ち受ける上り坂が私の呼吸を荒げさせてくる。それに何といっても、暑いのだ。いくら風が気持ちいいといってもやはり限界はあるようで、背中から腰にかけてが汗でぐっしょりと濡れていた。

「……少し休憩しよっか」

 三分の二ほど進んだだろうか、道路わきにコンビニを見つけた私は如月にそう声をかけてスピードを緩めた。

「おお、すげえ涼しい」

 店へ入って一声、如月はアツアツの温泉に入った人がそうするような間延びした声で言った。タオルで体をふきながら軽く店内を回った後、紙パック入りの一リットル麦茶を購入した。いい加減水分を摂らないと本当に危険なことになりそうだったので、ちょうどいいタイミングでコンビニを見つけられてよかった。

「あ~生き返るー……はい」

「サンキュー」

 私ののどを潤してくれた紙パック入りの麦茶は、一度如月のもとへ旅立ったのち、私の自転車かごの中へと納まった。それは別にいいのだが、悪路で自転車が揺れるたびに飲みかけの麦茶が零れだしてくるではないか! 腕が濡れるのはまだしも、たまに服にも茶色の毒牙が飛んでくる!

いらぬ苦闘を強いられながらも、私たちは一途桂浜を目指す。



 開けた道に出た。と思ったらそこは海だった。土佐湾、太平洋へと広がる広大な海がそこにあった。

「海だあああ」

「海だあああ」

 海を持たない内陸県出身の私たちは、悲しくも海を見るとこう叫ばずにはいられない人種なのだった。

 あとはこの海岸線に沿って左に二キロ進むだけだ。やたら南国の雰囲気を醸し出そうとしている道路わきの装飾を無視して突き進む。最後に坂道をくねくねと昇ると駐車場が見えた。そこに自転車を止め、鍵をかけ、案内の看板が指す先を行くと――

「――龍馬だ」

「坂本龍馬ぜよ……」

――待っていたのは超巨大な坂本龍馬像だった。額に手をやって庇を作って見上げねば分からないほどの大きさをこれでもかと誇っている――ように見える。実際には高知駅の三体の像とほとんど同じ大きさなのかもしれなかったが、何といっても台座がとてつもなく巨大なのだ。ただでさえ巨大な台座の上に巨大な坂本龍馬が立っているのだから、全体の大きさは窺いしれない。

「イエーイ!」

 二本の人差し指で頭上の坂本さんを指し示しながら笑顔を作る。傍から見ればそれはさながら鬼のようなポーズに見えるかもしれない。長い道程を超えた感動がやたらと私のテンションを高くしていた。単に疲れて理性が働かなくなっているだけかもしれないが。

「イエーイ! カッチョイイー!」

 まあそれはスマートフォンを構える如月にも同じことが言えそうで、私たちは今まさに旅の恥は掻き捨てという言葉を体現していた。



 坂本龍馬がこよなく愛したと言われる(龍馬像の横にそんな解説があった)桂浜は、その名の通り浜である。しかしそれはあくまで日本語としての浜であり、主に英訳として使われるビーチとは一線を画すものだということを私は学んだ。

 人を飲み込まんばかりに荒れ狂う波。ザラザラと粒の大きな茶色い砂。波によって削られ、または盛り上げられてボコボコの海岸線。

――とてもではないが泳げない……というか当たり前のように遊泳禁止だった。あまつさえ海面から五〇m以上手前に進入禁止のロープまで張られている始末。

 ではここに集う観光客たちはいったい何を見に来ているのか、まさか坂本さんが目的だとかそんなことが……と思って周囲を見回すと、西側に数十人の人だかりを発見した。すべてが鋭角で構成されているかのようなトゲトゲの白い岩々、それらが寄り集まって岬を形成していた。注視すると岬まで登ることのできる階段が設置されているようで、登り口へと観光客が次々に吸い寄せられていくのが見えた。

「おっととと」

「危ねえ……いくら電動自転車が楽だからって、そりゃ一二キロも走れば疲れてるんだから、気をつけろよ」

「あはは……面目ねえ」

「だからなぜに江戸っ子口調」

 実際に登ってみる段になって、想像以上にこの階段の傾斜がきついことに気づいた。太ももとお尻のあたりに上手く力が入らない。

「ほら」

「あ、うん……」

 最終的には私を見かねた如月に手を引かれる形での――引っ張ってもらう形での登頂となってしまった。如月の腕は力強かった。私はよろけないようにただ足を前に出してゆくだけでよかったのだから。その安心感に全体重を委ねてしまいたくなる。全身を預けたくなる。

 途中の水たまりに無数のコインが投げ入れられているのを横目に登った岬の先には、大海が広がっていた。より高いところから眺めれば必然視界も広がるというもので、栗林公園のそれには及ばないまでも、グネグネと折れ曲がった松の枝の隙間から覗く太平洋は叫びだしたくなるほどの絶景だった。



 社に祈ったのち、私たちは龍馬像の奥にある土産物屋が何棟も建ち並ぶゾーンへ向かった。その少し奥には動物園でもあるのだろうか、変な動物の鳴き声が耳に届くが、その鳴き声がどのような動物のものなのかは分からない。

「あったあああ定食屋あああ」

 十二キロの道程を経てエネルギーのほとんどをすっかりと消失してしまった私は、土産物屋の一角にあった定食屋の文字を見逃さなかった。

 メニューに軽く目を通せば、簡単にカツオのたたき定食という言葉は見つけることができた。

「桂浜まで我慢してよかった……」

 お腹に手を当てながら感動的に言葉を漏らす如月の姿勢をOKサインだと受け取り、私は店のドアを叩いた。

 注文を済ませて十分ほどでやってきたカツオのたたきは、薄切りのニンニクやネギの薬味と、ポン酢とともに私たちの前に現れた。生魚にあまり触れる機会のない地方出身の私たちは、舌が肥えていないので味の良しあしは判断できなかったが――いや、触れる機会が少ないからこそ新鮮なものには美味しさの感動が増すのか?――それでもカツオのたたきが美味しいことに変わりはなかった。本場の有名なものはとにかく褒めておけば間違いないのだ。

「美味い~」

「美味い~」



 ゆっくりとお茶をすすりながら定食屋で休憩を済ませ、軽く土産物屋を物色する。それが終われば、いよいよ高知駅までの帰路である。行きは良い良い帰りは恐い、山では登山よりも下山の方が危険というのはまた別の話かもしれないが、とにかく、桂浜まで来るのに力の大半を費やした私たちにとって、高知駅までの道のりは絶望を思わせるには十分すぎるものだった。

 挙句、

「アレこっちの道の方が近いんじゃね?」

「え、ホント? じゃあこっちにしようよ!」

などと疲労によって正常な判断力を失った私たちは、当然のように道に迷った。

「ねえまだ着かないの~?」

「もうすぐだよ、この道をまっすぐ行けば大通りに出るから……」

「やだ、もう疲れたよ……」

 往路と違って、いつの間にか前を行くのは如月の役目になっていた。何度もスマートフォンのマップを覗きこみながらの復路である。当然十分な速度が出ようはずもなく、時間は瞬く間に過ぎてゆく。

 暑さで人を殺しそうなほど雲一つない天気とは裏腹に、私たちの間には暗雲が立ち込めていた。今にも雷とともに水滴が濁流のように落ちてきそうなのを、理性が必死に抑えようとしている。果たして疲労によって壊れかけの理性がどこまで保つのだろうか。

 結論からいうと、理性が壊れたのは午後四時――往路の二倍ほどの時間をかけて高知駅まで帰った、その直後である。

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