第7話

「起きろ~」

 という声とともに毛布をはぎ取られて私は目覚めた。夏だというのに肌寒いので、軽く身震いする。

「今何時~?」

「七時」

「……あ、そっか。私いま四国にいるのか」

「そこからかい――八時の電車に乗りたいから、それまでに身支度整えたり荷物まとめたりしといてくれ」

「はいよ~」

 起き上がり、如月から毛布を奪い返しながら返事をすると、彼は自分のスペースへと戻っていった……と思いきや、ドリンクバーへと向かってゆく。ホットコーヒーと漫画雑誌を手にして、今度こそ自分のスペースへと戻った。

「……?」

 その一連の動作を眺めるうちにいよいよ頭が覚醒して、私はようやく状況を把握できるようになった。

「(うわあああああ寝顔見られたあああああ)」

 ここまで警戒心ないとは思わなかったぞ茜っ!



 お手洗いで手早く洗顔や着替えを済ませ、コインロッカーから貴重品を取り出す。念のため財布の中身も軽く確認してみたが、何も問題はなさそうだった。

「朝ご飯はどうするの、如月」

「やっべ全然考えてなかった。食べないとマズい?」

「ううん、別におなか減ってないし大丈夫」

 言って、眠気覚ましにアイスコーヒーを口の中に流し込む。うげ、砂糖を入れ忘れた。無理やり嚥下。

「アレ、コーヒー飲めないんじゃなかったっけ」

「カフェインに弱いだけ。裏を返せば、朝に飲んでおけば夜までスッキリ覚醒状態」

「そらまた便利なことで」

 それぞれ会計を済ませ、外に出る。ネットカフェのあった建物にはあまり窓も設置されていなかったので、太陽がやけに眩しく感じる。

 高松駅はここから歩いて一分ほどの距離にあった。まだ時間に余裕はあったのでコンビニや売店で朝食を確保できるとも思っていたのだが、駅構内に肝心のコンビニや売店はなかった。

 駅舎は大きくて清潔だった。さすがは四国一といったところか。駅員に十八きっぷを見せ、ハンコをもらい、改札を抜ける。

 高松駅はすべての路線で起点、もしくは終点の終着駅構造になっているらしい。高徳線という「あー、高松の高と徳島の徳から高徳ね」と一瞬で由来の分かる路線のホームへ向かう。

「それで、今日はどこに行くの?」

 行き当たりばったりの旅という私の当初の予定に気を遣ってくれているのか、如月は旅程を訊いても渋ってなかなか教えてくれなかった。それでもこれから向かう場所くらいは教えてくれてもいいだろう。

「ここから二、三駅先の栗林公園北口駅でひとまず降りて、一、二時間ほど栗林公園を散策」

「リツリン公園?」

「日本三名園よりも美しいとかなんとか言われてる、日本最大の庭園だってさ」



 くだんの栗林公園北口駅までは、二両編成の小さな電車に乗ってわずか数分で着いた。制服姿の女の子が先頭車両までやってきて、運転席から出てきた運転手兼車掌に定期券を見せ、電車から降りる。私たちも彼女に倣って十八きっぷを見せつけた。

「ワンマン運行、無人駅、ICカード使用不可……まるで俺たちの地元みたいだ」

とは如月の言。

「いや、さすがにJRの駅ではそんなことも……ないぞ多分」

 零細の私鉄にはすべて当てはまってしまうのが悲しいところだが。

 看板の案内に従って歩くこと数分、大きく栗林公園と文字の刻まれた石柱を発見する。それを通り過ぎた数十メートル先にチケット売り場のような建物があったので、四百円を払って、パンフレットと記念の小さな写真を受け取る。

「ずいぶん早く開園するんだね」

「日の出とともに開園して、日の入りとともに閉園するらしい。俺らが起きた頃にはもう営業してたんじゃない?」

「おお、何というか……意識のお高いことで」

「そんなことより、めっちゃ広いらしいからとっとと回るぞ!」

 やや急ぎ足で如月は一番右側の通路へと向かった。時刻は午前八時十五分。

 私たち以外には誰もいない。



 天気は昨日に引き続いて快晴だった。早朝ということもあってまだ比較的涼しく、そのためか空気が澄み、庭園の隅々まで見渡せ、遠くまで見通すことができた。

 数えきれないほどの池に、それらを繋ぐ山なりの木橋。一面に茂り、きれいに切り揃えられた芝は、緑色のはずなのに、青々としているという言葉がこれ以上なく似合うほど鮮やかだった。松林ではこれでもかと捻じ曲がっている松の枝に、一体何があったのかとこちらが困惑するほどだ。

 道を進むごとに景色が様々に移り変わっていって、それはさながら千葉県にあるネズミ王国のような、巨大テーマパークの様相を呈していた。この道を曲がった先には何があるのか、橋を渡った先にはどんな植物が生えているのか、松林を抜けた先には何が待っているのか、期待に心が弾む。

「やっぱり明るいと写真もきれいに撮れるな」

 岩肌から滑り落ちる水――まあつまりは滝――をスマートフォン越しに眺めながら如月は呟く。

「なんでだろね」

 思いつきで滝を撮る如月の姿を写真に収めながら、私は気のない返事を送る。

 部屋の中に夕日が差し込むと宙を舞う埃が確認できるし、夜、雨中の往来に目をやると自動車のライトに照らされた部分にだけ雨の軌跡を見出すことができる。暗い中でものを見ようとするときは言わずもがな、細かいものを見ようとするときにもライトは使われる。

「フォーカスする、焦点を当てるってのも光を当てるって言葉に置き換えられるし――光は秘密を暴く役目でも負ってるのかね」

「お天道様は見逃してくれないってこった」

「なぜに江戸口調……」

 しょうもない軽口を交わしながら、園内を反時計回りに散策してゆく。あと少しで一周というところで、今までで一番大きな池に出会った。五十メートルプールを丸々池の中に設置できそうなほど広い。一ヶ所狭まっているところがあって、そこに昔を思わせるような木造の橋が架かっていた。橋から少し離れたところに小さな山があって、そこから池、ひいては園の全景を見渡せそうだ。

「よし、俺ちょっとあそこの山みたいなの登ってくるから、茜は橋の上行ってくれ」

「え、ちょっと!」

 こちらの呼びかけにも応えずに如月はとっとと走っていってしまった。

 仕方がないので、おとなしく橋の中央まで向かう。見た目よりもずっと傾斜がきついと気づくころにはすでに橋の中央、一番高いところまでやってきていた。

「いえーい」

 とりあえず脚を広げ、両手を横に伸ばし、ちょうど漢字の「大」の字のようなポーズをとる。どうせ如月は栗林公園全体を俯瞰するような写真をご所望だろうけど、私もいるんだぞとせめてものアピールだ。すでに夏休みも終わり、今は平日の午前。周囲にはまだ私たち以外に観光客はいないので、恥ずかしさはない。

 眩しい。

 如月によれば秘密を暴くところの光が、私を含む園内すべてに降り注いでいた。



 東口から栗林公園を後にして、栗林駅を目指す。十分ほどで着くそうだ。

「あ、すいません。この近くにうどん屋ってあります?」

「……たぶんないと思います」

「あ、そうですか。ありがとうございます」

 如月は登校中だと思われる制服姿の女子学生にいきなり話しかけたと思ったら、うどん店の所在を尋ねていた。営業スマイルとでもいうのか、人懐こそうな笑顔と態度と、普段よりいくぶん高い声音への突然の変わりように、私は正直引いていた。

「はあ~? ないわけねえだろ香川県だろてめえ」

 そして如月は別れた女子学生が姿を消した瞬間に再び態度を急変させて毒づく。私はドン引きした。

「あったとしてもまだ営業してないんじゃない、うどん屋」

「あーそっか、その可能性もあるのか」

 如月は頭をかきながら応えた。そこまでうどんが食べたいのか。昨日食べたではないか。……そりゃまあ私も食べたいけれど。

「仕方ない、朝食はコンビニで済ますか」

と、諦めたのか、如月は進行方向の高架下にあるコンビニを指さした。その高架に目を移すと、そこには目的の栗林駅の文字があった。



「なぜにお酒……」

「鉄道旅行の醍醐味じゃないか」

 如月の持つレジ袋の中には、五〇〇ミリリットル入りペットボトルよりかは少し小ぶりなくらいの瓶が入っていた。日本酒だった。

「飲む?」

「飲まない」

 電車は栗林駅を後にして十分ほどで市街地を抜けると、そのまま緑が生い茂る山や畑を風景にして走るようになっていた。大学に通うようになってからはしばらく見てこなかった、懐かしい景色だ。

「茜はなにか、旅のお供とか持ってきた?」

「一応は……」

 バッグから数冊文庫本を取り出す。中国の古典と、日本の古典と、それからロシアの古典がそれぞれ二、三冊。

「まあ、まだ一回も開いてないけど」

「え、なんで」

「本なんかいつでも読めるし、それに、車窓の風景のほうがずっと面白い」

 別に絶景や名所をファインダーに収めることだけが旅行の醍醐味ではないし、シャッターで瞬間を切り取るだけが旅の思い出づくりではない。

こんな名前もないようなただの風景、地元の人から何の意識も向けられていないようなただの景色、それらの美しさを異邦人である私たちが発見して、そしてそれを「キレイだった」と、そんな感じに思い出として記憶の中にしまうことだって立派な旅の思い出づくりになるのだ。

「そんなものかね」

「そんなものさ」

 そんなものらしい。

 如月は日本酒を瓶から直に飲もうとそれを傾ける。

 五、六駅進んだところで、夫婦らしき二人組がやってきた。見た目からして欧米の人だろうか、とにかく外国人であることは確かだった。男性の小脇にはスーツケースが確認できる。

四人掛けの席を二人で占領していた私たちはそそくさと場所を空ける。如月が私の隣に座り、向かいに外国人の夫婦が並ぶ。一般的な日本人よりも大柄な彼らはいたく窮屈そうだったが、二人とも笑顔で何事か話している。

電車内は涼しく(二両編成だから冷房がよく効くね!)、規則的で穏やかな振動が心地よい。ああ、平和だ。コーヒーを飲んでいなければ間違いなく眠りに落ちていただろう。これ以上如月に寝顔を見せるのは我慢ならなかったので、カフェイン様様である。

しばらくすると目の前の外国人夫婦は二人とも眠ってしまった。お互いがお互いにもたれかかるように……ええい幸せそうだなおい!

「如月、日本酒貸して」

「返してくれるのか?」

「変態め」

 瓶を如月から受け取り、一気にあおる。かなり辛口のものだったようで、まあそれでも、ジワジワと胸が熱くなるのは、どんなお酒でも同じなようだった。

 だからこれはきっと、お酒のせい。

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