第5話

 近鉄奈良線の不遜な部分を過ぎて数十分、存外早く大阪の終点駅へと到着した。そこから再び十八きっぷの効力をかさに着て、大阪環状線――まあ東京でいう山手線のようなものだ、と説明すると大阪の人間からは怒られるかもしれないが、生憎これが一番わかりやすい例えだと思うので仕方ない――へと乗り換える。ここからその環状線を半周ほどして、一途大阪駅を目指す。

「うわ、ホントにエスカレーター右側に立ってる……なんかウケる」

「バカ、声が大きいぞ茜」

「おっと」

 慌てて手で口をふさぐ。時すでに遅しの感が否めないが、察して口をつぐんだというポーズにはなるだろう。

 というよりも、私たちの出身は首都圏の一角といえどなかなかの田舎に分類されるので、別に私たちは関西の人を笑える立場にはなかった。そもそもあまり地元にはエスカレーターが存在せず、あったとしても人がおらずエスカレーターが混むようなこともないので、左や右に整列する必要性も慣習もないのだった。

「ここからは神戸線で姫路駅……そこから山陽本線で岡山駅、と」

 如月はあらかじめ路線名や時刻表を調べ、それを紙に書き込んでいたらしい。文字と数字の踊る紙片を見つめながら二、三言呟いていた。

 如月は岡山駅から瀬戸大橋を伝って四国に上陸するらしい。順調にいけば彼とはそこでお別れだろう。

「私も四国まわろっかなー」

 その言葉が無意識なのか、それとも意識的に紡ぎだされたものなのか、それは言った本人の私にも分からなかった。ただ明確に言えることは、その言葉が意味するところを理解するまでに、私は十数秒もの時間を要したということだった。

「え、マジ?」

 と、如月は平静なトーンで返した後に、

「うおおおマジか! よっしゃよろしく!!」

と喜色満面、邪気のない笑顔と喜び方でその両手にガッツポーズを作った。のも束の間、すぐにそれを解くとその手で私の両手を取り、握り、上下に振る。

「うん、よろし――って痛い痛い痛い痛い!」

「おいおい、さっき見た四日市市の公害はぜんそくだろ? イタイイタイ病は富山県だ」

「うまいこと言ってやった的なドヤ顔がむかつく! そもそも上手くねえ!!」

 これはアレだろうか、如月は私が彼のたびについて回ることを認めてくれたのだろうか? というかちょっと待て。何で私はそんなことを言った? え、私は如月と一緒に旅がしたいの? 私の目的は自分を探すことなんじゃなかったのか? うおおおマジか、私は私が分からない! 自分探しが錯綜するうう!!

 私は数年前と比べてずいぶんと感情豊かになった、いま私の手を嬉しそうに握る男を前にして、困惑していた。



 電車は神戸を過ぎ、姫路城を横切り、岡山駅へと到着した。あとは快速マリンライナーという、岡山と四国をつなぐ、快速の中でも特に速く走るのがウリだという電車で、四国は高松駅まで行くのだという。

 途中に相生駅という、駅名を名前順に並べると間違いなく一番にやってきそうな名前の駅を通過したのだが、如月はその写真を撮って満足そうにしていた。彼の出身は関東地方の「相生」なので、不思議な親近感でもあるのだろう。そんな彼の最寄り駅が「相生駅」ではなく「相老駅」なのは、同名の駅をもつ兵庫県に遠慮したためなのだが、まあその辺りの事実は伏せておこう。

「なんも見えねえ……」

 瀬戸大橋を走るマリンライナーから瀬戸内海の荒々しい風景を望むことは叶わなかった。如月は恨めしそうに窓へと額を押し付けんばかりに近づいて目を凝らしているが、徒労に終わりそうだった。また帰りにでも時間が上手く合えば、青い海に白い端に緑の島々、それらの織りなす絶景が私たちを待っていることだろう。晴れていれば。

「結構早いね、もう次が高松駅だって」

 丸亀といったうどんの美味しそうな駅を通り過ぎ、私たち一行は四国最大(JR限定で)の駅、高松駅を目指す。

「今夜はここでうどんを食べて、どっかのビジネスホテルに泊まるか、野宿になるけど、どうする?」

「え?」

「問題はビジネスホテルがどのくらいの値段なのかなんだよな~。まさかビジネスホテルがないなんてことはないだろうけど、軽く見た限り、やっぱり東京や大阪の都市部のほうが、やっぱ需要あるのか安いんだよね」

「……え?」

「なんだよさっきから。まさか俺がホテルや旅館を予約するような男だと思った?」

「いや。そうじゃなくて、如月野宿するの?」

「お手頃のビジネスホテルがないなら。夏だし」

「いやいや。夏は虫、特に蚊がすごいよ?」

「そこは……まあ何とかするしかないでしょ」

「いやいやいや。財布は? スマホは? 盗まれるよ?」

「そこは……まあ何とかするしかないでしょ」

「いやいやいやいや! 計画性! ここに来るまでの電車の時刻とかいちいち調べてメモしていたそのマメさはどこに行ったこの野郎!」

「ええー」

「めんどくさそうな顔をするなあ!」

 偉そうなことを言っているが、実のところ私も宿の心配をこれまで一切していなかったのである。行き当たりばったりの自由な旅という言葉に憧れて浮かれて、やはり私も宿の確保については「まあ何とかなるだろう」くらいにしか考えていなかったのだが、なるほど人の振り見て我が振り直せ、他人を見ると自分の欠点まで浮き彫りになるものだ。

 いや、感心している場合じゃない。

 頼む高松。私は君のことをビジネスホテルのある立派な都市だって信じたい。どうか私を落胆させないでおくれ。

 そして電車は止まる。

終点、高松駅だ。



「嘘だろ高松……」

 如月はうつろな表情でそんな言葉を漏らした。別にビジネスホテルがないことに対してのものではない。

「まだ八時三十分だぜ……?」

ただ、意気揚々と探したうどん店が軒並み閉店していたというだけの話だ。

うどん県と呼ばれるほどうどんの消費量が高いことで知られる香川県。コシのあるもっちりとしたうどんは格別で、全国に展開するうどんチェーン店は香川発の会社でもないくせに香川県の地名を店名に据えるほどだとか。ちなみにこの話、そのチェーン店は肝心の香川県では元からあるうどん店に質、値段ともに敗北し、泣く泣く香川県から撤退したというオチがつく。

いつしか読んだ小説では、感情のない少年という設定だった主人公でさえ、香川県のうどんにだけは設定を忘れたかのように美味しい美味しいと感動していたのを思い出す。

 と、そんなことを考えながら如月の隣を歩いていると、彼はようやく営業中のうどん店を発見したらしい、「あったあった」と指をさしながら道を曲がっていった。慌ててついてゆく。

 チェーン店のようなそうでないような、微妙に小ぎれいな店だった。ドアを開けてすぐ横にお盆が置かれてある。細い通路を歩きながらトッピングを適宜選び取り、最後にうどんを注文する方式のようだ。

「かけうどん、並盛で」

「……それは一玉ってこと?」

「? ……ええ、お願いします」

 先をゆく如月は、噛み合っているのかいないのかよく分からない会話に若干表情を困惑の色に染めているように思われた。

「かけうどん一玉お願いします」

 私も何のことかよく分からなかったので、とりあえず並盛という言葉を避けて注文をした。

 後から知ったことだが、香川県では普通盛が一・五玉で、一玉は小盛なのだそうだ。そこは普通盛が一玉でいいじゃないか。なぜそこでいちいち面倒な単位を使おうとするのか。アレか、意地か。頑なにメートル法を受け入れないアメリカか貴様。

 ともあれ、

「安いな」

「うん、お財布にやさしい」

トッピングを含めて三百円ほどで外食できてしまうなんて、なるほど香川県民はうどんをよく食べるわけである。しかもこのお値段、午後八時を過ぎていたために少々割増料金なのだ。

「まあ特別うまいわけじゃないけど」

「バカ声が大きいって如月!」



 うどん店を出てビジネスホテルを探そうという頃にはすでに午後九時を回っていた。三、四ほどそれらしきホテルは見つけられたものの、いずれも野口英世が最低四人は吹き飛んでしまう。せめて私のもとを去る英世は二人ぐらいに抑えてほしいものだが、さて。

 高松駅周辺を一周して、一度高松駅へと戻る。

メインストリートと思しき道路の両端には緑色の電球を体中に巻きつけられた街路樹が立ち並んでいる。

如月は何げない調子で呟いた。

「ワカメみたいだな」

「いい加減忘れてください……」

 懐かしい言葉だった。よく覚えていたなと感心するとともに、昔を思い出して恥ずかしくなる。

すると、私の目に面白そうな言葉が飛び込んできた。

「ねえ、ネットカフェなんてどう? 一晩一五〇〇円だって」

「その手があったか!」

 雨風虫を防ぐ壁と天井、暑さを忘れさせてくれる空調、スマートフォンを充電させてくれる電源、通信制限を気にせず使えるWiFi環境、パソコン、マンガ、雑誌、汗を流せるシャワー設備(有料オプション)、トイレ、貴重品を保管できるコインロッカー(有料)、ソフトドリンク……これらが英世一・五人で手に入るのだ! ああなんということか、どうして今までその可能性に気づかなかったのか! ごめんね四国、てっきりネットカフェの存在を無意識に除外していたよ! だって(以下略)!

 二人とも即決だった。ここの店舗はもう二度と使うことはないだろうが会員登録を済ませてさらにお安くし、そしておやすみの言葉とともにそれぞれ割り当てられたルームへ向かう。

 シャワーを浴び(三百円ってひょっとして海の家よりも高いのでは? 海なし県なので詳しくないが)、備え付けの、全身を覆うには少し小さめの毛布を羽織ってパソコンを起動させる。通信量を気にしてあまりスマートフォンを使わないようにしてきたからか、それとも単純に心細かったのか、普段は何とも思わないはずのニュースがどれも新鮮で、何だか温かみのあるもののように感じる。ユーチューブで何か音楽でも聴こうとして流した音楽ですら新鮮に感じるのだから、相当重症かもしれない。

 ドリンクバーからカルピスソーダを手に入れ、それを飲みながら如月から聞いた明日の予定を確認する。見慣れない観光スポットは雑誌コーナーにある四国の観光雑誌やインターネットで確認しつつ……

 そんなことをする間に、いつしか私は眠りに落ちていた。

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