無題

題名なんて決めてない

 右を見ると森が広がっていた。

 左を見ると遠くに街らしきものが見えた。

 地面は適度な固さを保った草原で、空は夢の中みたいに青い。

 絵に描いた天国のような場所で、背後を見れば苔の生えたログハウスがあり、表と裏で明らかに材質が違う扉の先には水洗トイレが一つ、鎮座している。

「……」

 そうであることを確認して、私はトイレに戻る。

 ゆっくりと扉を閉め、鍵をかける。

 扉を押したり引いたりして、きちんと閉まっていることを確認する。

 閉まっている。

 誰がどう見ても、どんなに捻くれた人間が見ても「その扉は閉まっている」という方に賛成するだろう。それくらい、完璧に閉まっている。

「……」

 私はしばらくして、また鍵を開けた。ガチャンという大きな音が出るくらい、勢いよく開けた。トイレ特有の微かな反響音が聞こえるのを確かめてから、ゆっくり扉を開ける。

 草原と、青い空が広がっている。

 右を見れば森があり、左を見れば遠くに街が見える。

「……」

 何度首を振っても、景色は変わらなかった。

 背後を見ればやっぱりログハウスがあって、扉の向こうにはトイレが鎮座している。

 もう一度戻ってみよう——と思ったところで「姫様!」という声がした。

 当然だが、私は姫ではない。姫ではないので無視してもよかったのだが、そう呼ばれたのがどういう人なのか見てみたくなった。

 振り返る。

 すると、五人の人間がこちらをじっと見つめていた。

 それだけでだいぶ不気味なのだが、彼らの服装がまたすごい。

 着込んでいるはずなのに返って目のやり場に困る破廉恥な赤い鎧を身につけた女性に、ゆったりしたローブをきているのに胸の膨らみがはっきりとわかる女性。そうかと思えば申し訳程度に布を巻いただけの、不機嫌そうな表情の少女もいるし、彼女の背中からは丸メガネをかけた幼女が不安そうに顔をのぞかせている。

 そして、極め付けの五人目はメイドだ。

 バラエティ番組なんかでたまにでてくるメイドカフェとか、ライトノベルや漫画やゲームなんかでよくでてくる、いわゆるメイド服を着ている。オプションとして箒を持たせても絵になるし、食器を持たせても絵になる。だが今彼女は何も持っていなかった。

 代わりに泣きそうな笑顔を浮かべていた。不気味だ。

 いや、不気味というより、不吉だ。嫌な予感がする。

「姫様! お探ししました!」

 果たして、メイドがそんなことを叫んだ。こちらをじっと見つめながら。

 一応、辺りを見回してみたがどうも彼らと私以外には誰もいないようだった。

「……」

 ここらで一度、状況を整理してみよう。

 トイレから出たら、まったく見覚えのない場所にいた。

 そこでどう見ても漫画やゲームから飛び出してきたとしか思えないファンタジックな格好をした女性五人と出会い、どうやら彼女たちは私をどこぞの姫だと勘違いしているらしい。

「……うん、よし。そういうことか」

 納得して深く頷く。

 次の瞬間、私は自分の頬を両手で思い切りぶっ叩いた。

「ひ、姫様っ?」

 メイドの悲鳴があがった。

 結論から言うと、めちゃくちゃ痛いだけだった。

 勢いが良すぎて多少ふらついた他には、まったく変わりがない。

 見覚えのない景色もそのままだし、どう考えてもエセ中世ヨーロッパな女性たちもそのまま。

 いや、一発じゃ足りないだけかもしれない。

 そう思って、もう一度頬をぶっ叩く。

「姫様ぁぁぁっ!」

 メイドは、今度は人生で聞いたこともないほど高い声で叫んだ。

 これだけのことをやったのに、まだ目は覚めてくれないらしい。

 いやいや、二発じゃ足りない、そんなこともあるだろう。慣用句にも三度目の正直というものがある。

 そう思ってもう一度叩こうと手をあげる。

 ふと、二度あることは三度ある、ということわざを思い出す。

「姫様! もうお止めくださいませ!」

 だが三度目はなかった。

 いよいよ本気で泣き始めたメイドに止められたのだ。

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