最終話(エピローグ)
「そういえばなんで、東大受けなかったんだ?」
ゴールデンウィークが明けて一週間が経過した大手中華チェーンの東京商科大学前店は、サラリーマンと学生、主婦が五対三対二、といった具合で賑わっていた。俺はランチセットを食べ終えたところで、律は食後のデザートに手を付けていた。
「聞くまでもないでしょ」
律はコップの炭酸飲料を半分ほど飲み干して、いたずらっぽく言う。
「俺と、同じ大学が良かったから?」
「正解!」
「あのなあ、こんな男のために将来を棒に振るんじゃない。最後まで東大A判定だったくせに。あーもう」
コーヒーを一気飲みした。自分を振った男に粘着するためだけに志望校を下げる女、どう考えてもまともな神経をしていない。律は俺の反応を見て楽しんでいるようだった。
「ここだって、日本で二、三番目の大学でしょ? 十分、十分」
「それは、結局東大D判定で受験を断念した俺へのあてつけか?」
「あ、今日四限で終わりだよね? そのあと空いてる? 静もちょうど暇らしいし、一緒にお出かけでもしようよ。静も久しぶりに話したいって言ってたよ」
こいつ、完全にスルーしやがった。
高校二年の夏に律が転校してきてから卒業するまで、俺は一度として律に勝つことはできなかった。俺は自身の才能の限界にぶつかった。東大に合格する人間はやはり凡人ではありえない。俺は受験を通して、自身が完全に凡人の範疇に収まる程度の器であると痛感した。
「って、聞いてる? おーい」
律は俺の目の前で手を振る。
「聞いてる。なんでもいいよ。どうせ凛は今日バイトだし、真白も部活だしな」
「じゃあ決定。四限終わったら国立駅の改札前で待ち合わせね」
店を出て、社会学部棟の前で律と別れた。四限の講義を終えて、言われるがままに国立駅に向かう。再度合流して中央線に乗った。
「真白ちゃんの高校は、中野だっけ?」
「そう。中三の時は真白も結構勉強頑張ってたからな。悪くない高校だと思う。学園祭も盛大みたいだし」
「光ってさ、実は学園祭のこと好きだよね」
「ないな。性格的に楽しめそうにない」
「中野なら、高校終わった後、静も入れて四人で夕飯とかどう?」
「いいんじゃないか。真白には連絡しとくよ」
途中で人が降りて、一席だけ空いた。
「どうぞ」
「優しいね、光」
律はこちらに笑いかける。
「にしても、あの静が誰かと一緒に住むだなんて、意外だったよ。よっぽど律とはウマが合ったのか」
律と静がシェアハウスをしているという話は聞いていた。高田馬場と立川の中継地点ということで、荻窪を選んだということも。
「静ほど一緒にいて気持ちがいい女子はいないからね」
律はさらっと言う。
「良ければこんどうちに招待するけど」
「いや、遠慮しとくよ。さすがに、女子二人の部屋に男が入っていくのは気まずいだろ。しかも彼女いる男が」
律はぷくっと頬を膨らませた。大人びた美しい顔に年齢不相応なその可愛らしい表情は反則だ。
「いーなー、凛ちゃん。こんなに大切にしてくれる彼氏がいて。ずるいずるい」
幼児退行する律を適当にやり過ごしているうちに、中央線快速東京行は新宿に到着した。
新宿駅東南口の階段下に、静の姿はあった。イメージ通り寒色系で全身を包んでは、このスマホ全盛の時代にも関わらず視線は文庫本に向いている。静はこちらに気が付くと、恭しく頭を下げた。
「光くん、お久しぶりです」
「三月の合格祝い以来か」
「おかげさまで、大学でも楽しくやらせてもらっています」
静の話によると、卒業生に有名作家も存在するという文芸サークルに入っているようだった。話の合う友人も数人できたらしく、それなりに充実した日々を送っているらしい。
「なら、俺なんかと一緒にいて時間を無駄にしてる律よりはよっぽど有意義みたいだな」
「時間の使い方は人それぞれですから。律がいいなら、それでいいんだと思います」
静がそう言い、律は俺の脇腹を小突いてきた。
「西武新宿駅の方に、新しくテーマパークができたんです。せっかくだし、そこに行きませんか」
静の提案を上回れるほどのプランを持っているはずもなく、俺たちはそのミステリーをテーマとした娯楽施設に入り、待ち時間の少なかった脱出ゲームに興じた。
「ほとんど静が解いちゃった……」
「この手のトリックなんかは推理小説で慣らされてますから」
静は澄まして見せたが、珍しく得意気になっているのが透けて見えた。
時刻は十七時を回ったところであった。真白から連絡があり、十九時に中野駅で落ち合おうという話になった。それまで何をしようかというところで、律の提案で喫茶店に入った。
「で、凛ちゃんとはどこまで進んだの?」
声を潜めて顔を近づけてきた律の顔は興味津々といった風だった。喫茶店内の一番奥の席を選んだのはこのためだったのか。
「いや、何も。大したことはしてないよ」
「え⁉ もしかして、まだヤッてないの……?」
律の目はこれでもかというほど輝いていた。「何を」やるのか言及していないが、自明であった。静は興味なさそうなふりをして、しっかりと聞き耳を立てている。そこでコーヒーが運ばれてきた。一口含んで、息をつく。
「やってない」
「うわ……!」
「光くん、私が言うのもなんですが、奥手が過ぎます」
静は軽蔑するような視線を向けてくる。律は口に手を当てて本気で引いているようだった。なんだこいつら。
「凜ちゃんかわいそう……」
「あのなあ、そんなに急ぐ必要もないだろ。先は長いんだし。それより、二人の方こそどうなんだ。律に関しては全く浮いた話なんて聞かないけど」
「私は静さえいればいいかなー」
律は隣の静の腕をつかむ。
「男性との恋愛というものにあまり興味がわきません。小説を書くうえではできれば経験しておくべきなのでしょうが。でも、定期的に光くんと九重さんの話を聞くくらいで私は十分です。律と一緒なので、寂しいこともないですし」
そう言う静と律の間には、阿吽の呼吸、熟年夫婦とでもいうべき空気感が漂っていた。もしかして、律と静で「できている」のか……?
多様性の時代だ。たとえそうであったとして、俺は顔色一つ変えずに受け入れるつもりではあるが……。
「そういうわけで、光くんの論点すり替え作戦は失敗に終わったわけです。さあ、九重さんと進展しない理由を解き明かして、一緒に解決しましょう」
静はいつになくやる気でそう言った。俺はどうやら勘違いしていた。女子というものは誰であれ、こういった話題には目がない生き物だったようだ。
それから散々二人から口撃を受け、十八時を過ぎたころにカフェを出た。通勤ラッシュで異常な乗車率になった中央線に揺られて中野駅で降りる。駅前で待つこと数分で真白はやってきた。まだ新しいブレザーの制服は、真白によく似合っていた。
「りっちゃん、静さん、お久しぶりです」
「真白ちゃん、可愛いー。やっぱり私の妹にならない?」
律が真白に抱き着くと、真白も満更でもなさそうな顔をした。
それから、事前に律が予約していたしゃぶしゃぶ店に入った。会話は真白の高校生活のことがメインであった。中学ではおよそまともに活動のなかった文芸部に所属していた真白は、高校では合唱部に入部して、忙しい日々を送っていた。料理以外の家事は全部お兄ちゃんがやってくれているので、困ることはないですと真白が言うと、二人は笑った。
女三対男一の状況というのは、男にしてみればあまりに窮屈な場面であるということを、高校二年の長野以来思い出していた。今頃凛は立川の中学生向け学習塾でバイトをしている。週末は二人でどこかへ行こうと誘ってみよう。
青春を捨てたはずの俺の青春は、意外にも、それなりに満足するものへと変化していた。
FIN
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