第15話
屋台が並んでいる多目的グラウンドまでは五百メートル以上あった。
おおよそ百から二百といったところだろうか、多種多様な出店が立ち並ぶグラウンドには、見知った顔がいくらかあった。俺と凛が幼馴染の関係であることは彼らの大半にも知られていたが、中学校の同級生で他校に進学した男子生徒には、とうとう付き合うようになったかお前ら、まあ遅いくらいだな、などと茶化されたりもした。
凛も同級生の女子たちと再会を果たし、なにやら話し込んでいるようだった。そのうち一人が俺の方を見てにやっとした。そしてこちらへやってきて、
「藤原~、凛を悲しませるんじゃないよ~。ちゃんと、幸せにしてやりな」
などと俺の肩を叩きながら言う。正直言うと俺はその女子の名前を正確には憶えていなかったが、確か凛と同じ部活の生徒だったような気がする。
凜はその連中と別れると、フランクフルトの列に並んでいた俺の方へと戻ってきた。
「私たち、カップルに見えたって」
凛は心底嬉しそうにそう言った。そりゃ見えるだろうな。
「二高だっけ? あいつら」
「そうだよ。二高のバスケ部は今年強いだろうな~。県大会制覇したチームのレギュラーが四人もいるんだよ?」
凛の代の女子バスケ部が、体育館で表彰されていたのを思い出す。
「じゃあ、凛も二高行けばよかったじゃん」
「わかってるくせに。いじわる」
部活よりも俺を優先した。二高よりも、うちの高校の方がわずかに偏差値は高い。当時の凛の学力を考えたら、安全に二高を受験するのがセオリーだったはずだ。俺が原因で、わざわざ危ない橋を渡らせることになってしまったのか。
フランクフルトと焼きそば、イカ焼きにたこ焼きを両手に持つ。凛はかき氷を頬張っていた。
「ほんとに要らないの? かき氷」
「いいよ。それに、両手塞がってるから食べられないし」
「じゃあ、あーん」
木の陰に隠れるような恰好で、凛は俺にかき氷を差し出す。周りの目が気になって仕方がない。
「ほら早く、溶けちゃうから」
シャリ。ブルーハワイにしっかりと浸かった氷が熱くなった喉元を過ぎ去っていった。
「うん、美味い」
蝉の声がうるさく感じた。凛の笑う顔がすぐ側にあった。
「そろそろ戻るか。道も混んでくるだろうし」
日が西の山脈に差し掛かっていた。地平線が存在しない山梨では、日は必ず山に沈んでいく。
「中学の修学旅行のこと、覚えてる?」
「覚えてるよ。忘れられるわけない」
今日の凛は昔話にやけにこだわる。まるで、俺たちが歩んできた道のりを確認するかのようだ。
この日の為に土手の草は綺麗に刈り取られて通りやすくなってこそいるものの、あまりの人で会話をするには若干苦労した。
「本当にうれしかったんだよ。あの時、光が助けてくれて。かっこよかった」
横に並んで歩くことはできず、俺の後ろを歩く凛の顔を見ることもできない。
俺にとっては嫌な思い出だ。修学旅行の異様な空気にあてられた不良連中が、深夜に凛のいた女子部屋に侵入した。午前四時を過ぎていて、頑張って夜更かしをしていた人間も大半が落ちていた中、枕が合わずに俺はずっと寝れずにいたのが奏功した。部屋から一人が出ていくのに気が付いて、そいつが長いこと部屋に戻らないが気になって探しに出たのだ。
「あの時かな、光のこと、ほんとに意識するようになったの」
不幸中の幸いか、まだ不良連中は忍び込んだだけで、具体的に手出しはしていなかった。それを見た俺は連中を力で引きはがそうとはせず、廊下の非常用ボタンを押すと、けたたましい音でフロアの全員が起きた。そのあとは教師に事情を話しただけ。
つまり、俺は本当に大したことはしていない。やつらを片っ端から背負い投げしたというのであればまだ格好もついたのだろうが、その中の一人ですら勝てるか微妙だった俺は、真っ先に非常用ボタンを探した。
「でも、あれはただのきっかけ。あれがなくても、私は光のこと、好きになってたと思う」
あの時俺は、自分でもびっくりするくらい冷静で、その反面、底知れない怒りに震えていた。学校はこの件をもみ消そうとしたが、連中を社会的に抹殺しようと、市役所の入口に本名を書き連ねて「こいつらは性犯罪者」と書いた模造紙を張り付けたのが俺の仕業ということを知っているのは、当時仲の良かった男子生徒一人だけだ。
「気づかなかっただけなんだ。多分ずーっと前から、出会ったときから、光が好き」
無数の人の声が飛び交う中、凛の声だけは、まるで鼓膜に直接届いてるかのように感じた。そして同時に、心臓の音も、まるで自分のものじゃないみたいに。
ビニールシートを敷いた場所に戻るころには、すっかり日は沈んでいた。グラウンドから戻るのに優に三十分はかかったような気がする。夜が始まる。花火が打ちあがるまで十分を切った。
トイレに立った。仮設トイレにはありえないくらいの行列ができていて、俺が戻るとすぐ、一発目の二尺玉が打ちあがって、観客から歓声が起こった。
「始まったね」
「ああ」
音は二秒から三秒ほど遅れてやってきた。凛の綺麗な頬に赤い光が反射する。
次々と打ち上げられる花火は、闇夜に消えていく。凛は熱心にそれを見ていた。
多分、俺と凛の相性は、そこまでよくない。趣味も被っていないし、外に出ることが好きな凛と比較して、俺は家で過ごすことを好む。男女の相性を正確に診断してくれるシステムが考案されたら、きっと俺と凛は、芳しくない結果を出す。すべて、偶然の連続でしかなかった。たまたま家が近く、学区が同じで、たまたま話すようになった。真白が凛を姉のように慕って育ったのも、偶然に拍車をかけた。父親の転勤がなければ俺はこの街に来ていないし、そうすれば凛とは出会ってすらいない。仮にどこかで出会ったとしても、話すこともなかったろう。
そういう意味では、律の方が多分好相性だ。不思議と、律の考えていることはわかる気がするのだ。勉強の話で盛り上がることもできる。案外内向的な部分があるのも、俺と似ている。律に嫉妬しないで、律の側にいられる人間は多くない。でも俺はその少ないうちの一人になれる自信がある。他人に頓着しない、独りよがりな俺の気質は、律とうまくかみ合わさる。律もきっと、それをわかっている。私は、負けを知らない都会のエリート男子とはきっとうまくいかなくなる。きっといつか傷をつけて、崩壊する。その点、どこか自虐的で、負けを潔く認めて、敵わないと諦められる光となら、のらりくらりやっていけそう。二人の間が対等でなくとも。そんな風に律は思っているんじゃないか。だから、俺に恋愛感情なんて抱いてしまった。己の完全さゆえに、不完全な人間を求めてしまっていた。
だから、俺が律を選ぶのは極めて合理的だし、きっと論理的にも最善の選択だ。
でも合理的だとか、メリットがどうとか、そんなことを考えていては、多分俺は、最悪の最善を選び続ける羽目になる。俺は最善を選んだ。あらゆるリスクを考慮して、最も好ましい選択をしたんだと自分に言い聞かせることになる。
きっとそれは、違う。客観的なだけでは何も手に入れられない。俺が本当に欲しいものは、逃げていってしまう。
「凛」
「うん?」
「凛は、俺のどんなところが好き?」
体育座りで、食べ終わったフランクフルトの竹棒を持った凜はきょとんとしていた。それから真剣な顔になって、
「全部」
「全部?」
「うん。具体的に言うとね。まず声が好き。私の名前を呼んでくれる声が好き。真剣な目と、たまに見せる優しい目が好き。勉強中に首をかしげる仕草が好き。真白ちゃん想いなとこも好き。見栄を張らないところが好き。お願いされたら、面倒なことでも結局やってくれるところが好き。ケンカ売られたら真っ先に謝っちゃいそうなとこも好き。料理が全くできないとこも好き。でも部屋は綺麗なとこも好き。朝弱いとこも好き。約束を絶対守るとこも好き。もちろん顔も好きだし、時間かかっちゃうはずなのに、私と一緒に帰ってくれるとこも好き」
凜はほぼ息継ぎなしで一気にまくし立てて、息を切らした。
闇夜でそのまっすぐな瞳は、一段と輝いて見える。百カラットのダイヤモンドよりも。
俺の十七年間はきっとこの日のためにあったのだ。あの日、小学一年の四月に凛が初めて俺に話しかけてくれた時から、きっと決まっていた。俺はずっと前から知っていた。凛が俺のことを好きと思うずっと前から。
「俺も、凛のこと、好きだよ」
まるでその言葉は、自分が発したものだとは思えなかった。今日一番大きい花火の音が背後で鳴った。その音で俺の声は掻き消えそうだったが、凛の耳にはしっかり届いていたようだった。
「ほん、とに?」
「ああ。凛のことが、一番好き」
凛の目を見て言った。息継ぎの仕方がわからなくなった。たったこれだけのことを言うのに、俺は何を何週間も悩んでいたのか。実に簡単だった。悩むまでもなく、最初からこうすることは決まっていたはずだった。俺が凛から受け取ったものは数えきれない。それは多分、これからも。
次の瞬間、凛の両眼から涙が零れ始めた。
「凛、待って、何で泣く⁉」
周囲にいた数人がこちらを見ていた。おいやめろ、その「あー泣かせたよこの男」みたいな表情を。凛は浴衣で目を抑えつけた。慌てて凛に近づいて、必死になだめる。
「俺が何か気に障ることをしたなら悪かった、謝るから」
「違う、違うよ」
凜は泣きじゃくりながら必死に首を振る。
「嬉しかったの。もう、ダメなんじゃな……かって思ってた…から。振られると思ってた。今日が、光と、二人きりでいられ……最後の日だって思ってたからっ……」
凜の言葉は途切れ途切れで要領を得なかった。凛の肩をさすって落ち着かせる。
しばらくして凛は泣き止んだ。でもその顔は晴れやかだった。凛の隣に座って空を見た。
「愛だとか恋だとかよくわかんないけどさ、そういうことを考えた時に、凛以外の誰かとそうなるイメージが湧かなかったんだ。でも、凛となら、いいかなって思えた。凛がいない生活はどうにも味気ない。多分、俺は自分でも気が付かないうちに凛に救われてた」
結局義理だって、愛だ恋だのうちに含めてしまって、問題ないのではないか。すべては当人の主観だ。凛と律とを比べて凛を選ぶ人間はきっとそう多くはない。でもこれでいいんだ。俺は俺の意志で凜を選んだのだから。そこに理由なんて求める必要もない。
俺は、凛が好き。
その事実以外、何も必要ない。
その花火大会の日のことを、俺は生涯忘れることはないだろう。凛の泣き顔も、手を繋いで帰ったことも、家に帰ると、真白が何かを察したように笑顔で抱き着いてきたことも。
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