第14話
九
長野から戻って五日が経った午後四時前に、凛が訪ねてきた。三日前に、真白と一緒に夕食を食べた時以来だった。白に紺のコントラストが綺麗な、落ち着いた浴衣姿だった。
「光、紺色好きだから。これにした」
玄関先で開口一番、凛はそう恥じらった。
「よく覚えてるな。紺と白は良く映える。似合ってるよ」
「ありがと」
ここ最近、凛のキャラクターはブレブレだ。俺を振り回すお転婆幼馴染の姿はない。口調も以前と少し違う。
「真白ちゃんは?」
「学校の友達と行くって」
「そっか」
「茶でも飲んでくか? まだ電車の時間にはちょっと早いし」
「うん」
真白が家に入ってくる様子も前とは違う感じがする。どこかぎこちない。
「宿題の進捗はどうだ?」
「もう、ほとんど終わったよ。……数学以外」
緑茶を注いで凛に出す。そのタイミングで真白がリビングへとやってきた。
「凜ちゃん、浴衣かわい~。今日お兄ちゃんとデートだもんね。頑張ってね! ましろ応援してるから」
本人がいる前で言うか普通? あ、本人がいる前だからあえて言ったのか。凛に残念な思いをさせるなと。真白は公平な立場にいると言っていたが、心の底では凛に傾いているのだろう。姉妹とは言わずとも、従姉妹くらいの間柄で育ってきたのだから、今更中立な立場に立てと言う方が無理がある。
「真白、友達とはぐれるなよ。それと、あまり人通りがない路地には近づくな。騒ぎに乗じて禄でもないことを考える連中がいるかもしれないからな。なんかあったらすぐに連絡してくれ」
「お兄ちゃん、それ昨日も聞いたよ。今日は私のことは考えなくていいから、凛ちゃんと二人きりで楽しんできて」
真白はよくできた妹だ。財布から千円札を三枚抜き出して、真白に渡す。
「え、昨日も貰ったけど」
「今日は多少無駄遣いしてもいい。サービスだ」
「ご機嫌だね、お兄ちゃん」
「そうか?」
「ありがと、大事に使うね」
機嫌よく見えるのか、真白には。俺はいつもと変わらない気がしているのに。
「ねえ、凛ちゃん」
真白は凛の方へと近づき、耳元で何か話した。すると凛は顔を紅潮させて、
「もう! 真白ちゃん!」と顔を赤くした。
「何の話だ?」
「なんでもないよ、こっちの話」
真白は意味ありげにウインクすると、自室へと戻っていった。
部屋に二人きりになって、俺は言葉を探した。
「学園祭、凛のクラスは何やるんだ?」
「お化け屋敷って言ってたかなあ」
「お化け屋敷と言えば、去年、どっかのクラスが保護者からクレームが来てたな。お化け屋敷が怖すぎるって。怖くないお化け屋敷に何の意味があるんだか」
「光、ちゃんと来てよね。精一杯怖がらせるから」
凜は手を前に出してお化けのポーズをした。こんなに可愛いお化けがいてたまるか。自然と笑いが零れる。
壁にかかるアナログ時計の秒針の音が、何か喋れと俺に急かしているようだった。麦茶に入れた氷が半分ほど溶けていた。
「凛」
「うん」
凛は精一杯顔を取り繕った。
「そろそろ行くか」
一旦自室に戻って肩に下げる鞄をとって戻ると、凛は玄関先で待っていた。
下駄を履く姿はどうもぎこちない。オーソドックスなジーンズに無地のTシャツの俺は、いつもと変わらないスニーカーを選んだ。
せっかくのデートなら、甲府駅に集合でもすればよかったかな。だが、俺にも凛にも、雰囲気を考えていられるほどの余裕はきっとない。凛にとって、これは律との勝負の大一番で、俺にとっても、答えを出さなければいけない日だ。
究極の二択。人生において、これ以上に迷う選択肢が存在するか? どちらも選ばないという選択肢はおそらく認められないだろう。
きっとどちらに転んでも後悔する。律を選べば、これまで十数年間も一緒にいた凛のことを考える度に苦悩を抱くだろうし、凛を選べば、あれほど美人で、俺のことを理解しようとしてくれている律を拒絶することになる。
楽しかったのだ。たった数日間であれども、律と一緒にいた時間は。律が俺のことを好きだと言ってくれたのも、考えられないほど幸せなことだ。
階段を下りて少し歩くと、通りに出た。バス停には誰も並んでいなかった。
「新人戦は勝てそうなのか?」
なんとか話題を持ち出してみたが、こんなクソどうでもいいことしか思い浮かばなかった。前まではどうやって凛と話していたっけ。
「どうだろ、微妙かな。みんな上手くはなっているんだけど、エースになれるような人がいないし」
身長百五十丁度の真白とほぼ同じ背丈の頭に手を乗せてみる。なんというか、これ以上ないくらい、ジャストなサイズ感と言える。バスケットボールで活躍するには物足りないだろうけれど。
「むっ」
「このくらいの方が可愛いと思う」
すると凛はこちらに向けていた顔を隠すようにして、
「そ、そういうこと急に言わないで……」と。
なんか、こっちもやりづらい。今まではこんな調子じゃなかった。冗談を言えば、冗談で返ってきたはずなのに。
バスに乗って工事されたばかりの甲府駅南口のロータリーで降り、建物の三階にあたる改札へとエスカレーターで上る。数人浴衣姿の人が見えた。
交通系ICが使えない路線であるため切符を購入し、改札を抜ける。下駄である凛の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いた。
発車の時刻までには十分ほどあった。エスカレーターでホームまで降り、松本行きの特急の横を通り過ぎて身延線の乗り場まで歩いた。
「そういえばその浴衣、初めて見るよな。去年までは普通の恰好だったし」
「今日のために借りたの。私、今まで浴衣着たいなんて言ったことなかったから、お母さんもびっくりしてた」
真白が凛に、祭りで浴衣を着たことを言ったのだろう。あの五日間の話は、凛には一切していない。ただ凛と連絡を取っている真白によって、祭りの日、俺と律の間に何かあったと、知っていても不思議ではない。
「浴衣は胸ないほうが似合うってよく言われるの、あれ本当なんだな」
失言だった。
「こ、光の変態っ、バカ、デリカシーなし男!」
みるみるうちに凛は顔を真っ赤にさせると、俺の背中に回って肩のあたりをポカポカと叩いてくる。真白といい、その動作好きだな。しばらくしてそれが止むと、何やら小声で囁いている。
「ん?」
「こ……こうは、そ、そのむ、ね……大きいほうがす、好きなの……?」
凛が背中側に回ったのは、顔を見られたくないからだったと今わかった。
というかその質問、周りに人がいるところでするか普通?
「特に気にしない。小さくても、その、いい……んじゃないか」
そのタイミングで列車のドアが開いた。凛が何か言う前に、俺は電車に乗り込んだ。
各駅停車のJR線で三十分かかるはずだった。車内の女性の多くは浴衣を着ていて、花火大会に行くことは明らかであった。男子同士、女子同士のグループも見受けられたが、やはり男女ペアが大半であり、それは俺たちも同様に映っているだろう。
「あっ、藤原君」
声の聞こえる先を向くと、浴衣姿の同じクラスの女子がこちらを向いて手を振っていた。残念ながら、名前が思い出せない。俺と向かい合って立つ凛のことを見やって、何かを察したように微笑んだ。俺は一応頭を軽く下げて会釈する。ああ、噂になるんだろうな。
一部始終を見ていた凛は、慌てるどころか嬉しそうな顔をして、俺に身を寄せてくる。
揺れる満員電車の中で、凛が俺のTシャツの裾をきゅっと握った。ドクンと心臓が一度撥ねた。
こいつ、あの女子に見せつけるつもりだ。噂になるならなれとでも思っていやがる。
だが、凛に離れろと言うことはできなかった。凛の立ち位置と身長ではつり革に手が届かないし、慣れない満員電車ではバランスを保つのは難しかった。
「ふふ、なんか、こういうの。いいね」
「そうか」
「うん、そうだよ」
凜が顔を上げた。中学生と言われても不思議はない童顔、それでいて将来美人になるだろうと確信させられるくらいには整った小顔が目の前にあった。
「その髪留め……」
「光が小学校六年生の誕生日にくれたやつ。大事な日には、いつもつけてる」
ピンク色の髪留めを手で触りながら凛が言った。なんか見覚えがあると思ったら、そういうことだったのか。
凛の顔を直視することが恥ずかしくなってきたころ、列車は駅に着いた。乗客の九割が、一斉に一つしかないホームに流れ出した。
「しかし人多いな。まだ始まるまで一時間半もあるのに」
せいぜい一日数百人程度が利用することしか想定されていない駅では、処理が間に合っていなかった。無人駅であるはずが、今日だけは警備員のおっさんが誘導をしていた。
「ねえ光、手、繋ご?」
「手、ここで?」
「うん、いいじゃん。だって、今日一日は私の言うこと聞いてくれる約束だもんね」
諦めて右手を差し出すと、凛はおそるおそる俺の手を握った。俺よりも一度ほど体温が高いんじゃないかと思うくらい、温かい手だった。周りに注目されてやしないかと気にしたが、おそらく県内で一番カップルが集まっているだろうこの場においては、手をつないでいる男女が一組いたところで、それは道に転がる石ころと同程度には注目に値しない光景だった。
駅前の通りから少しずれて土手に向かう道は一般乗用車進入禁止となっていて、まだ花火大会の会場には五百メートルほどあるにもかかわらず、屋台が立ち並んでいた。きっとここは深夜まで騒がしくなる。近くに住んでいる人は気の毒だ。
「去年ここきたの、覚えてる?」
「もちろん。真白と三人でな。夕方まで曇ってたけど、始まるころには見事に晴れたな」
「じゃあ、一昨年は?」
「覚えてるよ。穴場があるって凛が言うからついていったら、蚊に刺されまくって大変だった」
「じゃあ、その前は?」
凜は俺の体の前に身を乗り出して、ずいと迫ってきた。
「その前って言うと、中二か。えーっと・・・・・・」
「正解は、雨天中止で、私の家で真白ちゃんと光と三人で遊んだ、でした。夜遅い時間になって雨が上がったから、コンビニで買った花火を庭でやったんだもんね」
凜はいたずらっぽく笑う。言われてみればそうだった。翌週が予備日だったが、その日も天候が優れず、結局開催自体がなくなったのだ。
「よく覚えてるな」
「覚えてるよ。だって、全部光との思い出だもん。忘れられないよ」
その笑顔は、俺の心臓にダイレクトに届いた。凜は言い終わると前を向いて、俺を引っ張るように歩いた。風が伸びきった前髪を撫でた。俺との思い出、か。
何か口から出かかったが、言葉は空気となって消えていった。俺は一体何を言おうとしたんだ。
一グループ毎に簡易的なロープで区画が分けられた花火会場は、すでに場所取り用のビニールシートがたくさん敷かれていた。花火は大きな川を挟んだ対岸にて打ち上げられる。きっと昨日の夜のうちから場所取りをしていた輩もいるだろう。河川敷に等間隔で設置された簡易スピーカーから、流行遅れの邦楽が流れている。
「どうする? 場所」
「通路から離れたところがいいな。なるべく人通りが少ないところ」
「光ならやっぱりそう言うと思った」
人の流れに逆らって、土手を川下の方へと歩いた。大量の人に押し流されぬよう凜がこじ開けていく道を、俺はただついていくだけだった。俺たちは物語の主人公とヒロインの関係とは少し違う。いつだって、俺を引っ張るのは凜の方だったし、俺は結局ただ凜に導かれるがまま生きてきたのだ。凜は間違いなく俺の光だった。
土手から少し離れた、川に近いところに陣取った。屋台が多く構える多目的グラウンドからも遠く、人気はない。開始直前になればあぶれた人でもう少しは増えるだろうけれど。
凜が持ってきた柄入りのシートを敷いて、脇を転がっていた石で固定した。
日は少し傾いてきているが、それでも夏の日差しは強く照り付けた。
「暑くないのか? 浴衣って」
「結構風通すんだよ。ほら」
凛は浴衣の裾をもってひらひらと仰いで、その隙間からしなやかな脚が見えた。俺の反応をうかがっているようだった。
「はしたないからやめなさい。食い物、買いに行くか? 混雑する前に」
「あっ、スルーしたよね今? ねえ光、待ってよ!」
歩き出すと、凛は慌てて俺の後をついてきた。下駄がコンクリートとぶつかりあって大きく響いた。凛のゆっくりとした徒歩のペースにも段々合わせられるようになってきた。
「ねえ、光は将来何になるつもりなの?」
凜は俺に追いつくと、俺の顔を覗き込んで言う。
「考えてないよ、全く。別にやりたいことがあって勉強してるわけでもないしな。まあでも、せっかくだったら世の中の為になる仕事がいいよな」
「ふうん。光、そんなこと考えてたんだ、意外」
「凛は?」
「私? 私はね、光の隣にいられたら、それだけで幸せ、かな。他のことは、どっちでもいいや」
凜はこちらを向いてはいなかった。でもそれは、俺としても好都合だった。どんな表情をつくればいいかよくわからなくなって、うまく言葉も出てこなかった。
お互い、沈黙が流れた。夏休みの期間を経て、凛の中で何かが吹っ切れたのだろうか。俺は凛にいまだに何も言えずにいる。
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