第13話
四時を過ぎて、扉が叩かれた。
「光、開けるよ?」
「ああ」
今日はここまでか。七時間ほどしか勉強できていないが、これも仕方ないだろう。たまには、羽を伸ばして祭りにでも興じるとするか。
「どう、どう?」
浴衣であった。深紅に白い花柄。すらっとしたシルエットがより強調されていて、いかに律がスタイルに恵まれているか痛感させられる。普段は降ろしている髪は後頭部でまとめられていて、うなじがちょっとエロい。
「い、いいんじゃないか」
「ねえ、それだけ? 本当にそれだけ? このこの」
律はこっちに近づいてきて、俺の頬をつねった。
正直、めちゃくちゃ可愛い。今まで見てきたどんな女性よりも美しい。漫画雑誌の表紙グラビアなど、勝負になっていない。浴衣というものは律が着るために作られたのではないか。
だが、そんなことを口にするわけにもいかなかった。俺の甲斐性がないことはもちろんだが、律の後ろに立っている真白がこちらを注視しているのでは、迂闊な言動はできない。
「ど、どうしたんだその浴衣」
「おばあさんのお友達が呉服店を営んでいるらしいです。本来はお金がかかるところを、無料でレンタルさせてもらいました」
律と反対に、紫紺に青が入った浴衣の静は少し恥ずかしそうにしていた。
「神山さんも、その、似合ってる」
「ありがとうございます」
静は丁寧に頭を下げた。隣に立つ真白はそわそわとしていた。
「真白は、着慣れていない感がちょっとあるけど、可愛いな。うん、可愛い」
白い地に水色の金魚の絵。いつもより少しだけ大人びて見える。
「まさに名前に相応しいな。良かったな真白、甲府にいたら浴衣なんて着れなかった」
真白の頭をポンポンとしてやると、真白は満足そうに頷いた。
「シスコン」
「今まで言わないようにしていましたが、藤原君はかなりのシスコンですよね。それが悪いことだとは思わないですけど」
律と真白が立て続けに言う。シスコンで何が悪い、ほっとけ。
「じゃあ、行こうか。お祭り。おじいちゃんが乗せてってくれるって。光も、準備して」
準備と言われても、財布とスマホを持つこと以外になにもない。
華やかな三人の服装と比べてあまりに適当が過ぎる服装であることが若干恥ずかしいが、これ以外に服など持っていない。
律は助手席で、俺と真白、静は後部座席。律の祖父の車に乗せられて、十分ほど走った。鬱蒼と茂る森の中をひたすらに、山へ山へと入っていく。
祖父は祭りの何かしらの当番らしく、着くと同時にどこかへ行ってしまった。
神社があった。朽ちかけの鳥居の周囲にはすでに露店が構えている。まだ五時を回っていないが、浴衣姿の女性や、子連れの姿があった。
「お祭り、にぎわっていますね」
「結構広いな」
鳥居を抜けて境内へ。綿あめを作っていたヤンキーみたいなおっさんが大きな声を上げた。三十段ほどの階段があり、それを上がるとやたらと大きい杉の木があり、その根元にも出店が並んでいる。
律が先陣を切り、真白はそれについていく。俺は最後尾だった。
「ねえ、みんなで射的やろうよ」
律が指差す。一回五百円と手書きででかでかと書かれた射的屋の景品は、タダでもいらないものばかりだった。
「お兄ちゃん、どうする?」
「いいんじゃないか。今日くらい、金ケチらなくても。はい、真白」
財布から五千円を取り出して真白の手に握らせる。
仕送りされた金を管理しているのは俺だ。正直、真白は無駄遣いするほど馬鹿ではないし、通帳を預けてもいいとは思っているのだが、タイミングを逃しては今に至る。
「本当にいいの? お兄ちゃん」
「気にするな」
真白の頭をポンと叩く。
「じゃあ勝負ね! 光、なんか賭けとく? 倒した景品の数で」
「律は本当に勝負事が好きだな。じゃあ負けたらかき氷おごりで」
「よしきた」
銃を構えて覗き込む。発射された弾はキャラメルの箱に当たったが、ギリギリで倒れず。
すると横の律は、俺の弾で少し後ずさりしたキャラメルを狙っては、見事に撃ち落とした。
「狡猾だな。そういう姿勢、嫌いじゃないけど」
八発撃った結果、俺は謎のキャラクターの小さいフィギュアのみ、律はキャラメル、ラムネにチョコレートと、明らかに落としやすいものを獲得していた。
「なあ、都会ではずる賢くないと立ち回れないのか?」
「まあまあ、他人は出し抜いてナンボでしょ」
勝利のブイサインを突き付ける律は、心の底から笑顔だった。いい笑顔だ。俺にはその顔はできない。
真白と静の射的を観戦していると、静は思いの外上手く、合計五個を獲得していた。大物のぬいぐるみに四発を無駄に消費した真白は、結局何も得ず。しょんぼりしている真白に俺が獲ったフィギュアをやると、律と静も一つずつ分けてくれた。
気温が徐々に下がっていき、太陽は西に大きく傾いた。さらに階段を上がると、狛犬に出迎えられ、屋台がさらに多くなった。右手に舞台がセッティングされ、並べられた長椅子にはたくさん人が座っていた。「のど自慢大会」とボードが掲げられている。
「どこかに座って、夕飯にしよう。二手に別れて買ってこようよ」
律が席を見つけて、そこに鞄を置いた。
「私はましろちゃんと行きます。焼きそばとたこ焼きを買ってきますね。ましろちゃん、お兄さんもいいですけど、たまには私と行きましょう?」
静が言い出すと、真白の手を引いていった。真白も特に抵抗する様子もなく、笑顔で応じると、静に連れられて行った。
どういう風の吹き回しだ?
屋台と少し離れた場所に用意されたテーブルと椅子には、家族連れが多くいた。一部、高校生同士のような集団もある。
「俺はここで待っていようか? 鞄盗まれるかもしれないし」
律の鞄を差すと、律は呆れたように、
「だーめっ! 光は私と行くの!」
無理やり腕を掴まれる。律は俺の腕を自分の体に押し付けては、そのまま歩き出した。
近い近い。明らかに恋人同士の距離感だこれは。だが律は気にする様子もなく、俺から離れようとしない。すぐ近くにその美しい顔がある。よく見れば、本当に今更だが、薄く化粧をしているようだ。
「今日は妙に張り切ってるな。いつも張り切ってるけど、特に」
「だって、せっかくのお祭りだし。明日には帰っちゃうし。楽しまないともったいないでしょ」
律はこちらを向いて、にやっと笑った。
律と肩を並べて、よくわかった。視線が——多い。
通りがかる人は皆、こちらを向く。大半の視線はまず律に、そして横を歩く俺に。この美しい女に見合った男かどうか、見定めるように。店の前を通りかかるだけで、他の客とは違う、熱烈な客引きに遭う。
多分、それは学校でも同じだ。本人の意志とは無関係に、誰もが律に注目している。律は、学校では派手な髪形もしないし、ましてや化粧など全くしない。おそらく、視線を集めることがあまり好きではないのだろう。だが今日はとことん、それこそ積極的に周囲の気を惹くように、華美な格好で。
フランクフルトの列に並んで、律は俺の腕を少し緩めて、
「ねえ、ご飯食べ終わったさ、テストで勝ったときの権利、使ってもいい?」
そう、甘えるような声で。やめろ、なんか今日は刺激が強い。思わず視線をそらしてしまう。
「いいけど。何するんだ?」
「お祭り終わるまで、二人っきりで。真白ちゃんは静に見ててもらおう? だめ?」
「駄目——ではない……けど」
真白は静にも十分懐いているし、真白を任せることに不安はない。
むしろ不安は、なぜか積極的な律と二人きりになって、俺が平静を保てるかどうか。それと、俺はそもそも真白に監視されている。
「けど?」
「わかったよ。俺に拒否する権利はないからな」
「よかった」
律はもう一度俺の腕をつかんで、胸に押し付けるようにした。むにゅっとした感覚が。思わず体がこわばる。律はすました顔で、何ともないように。
何を考えているこの女は? 色仕掛けで俺をおびき寄せて暗殺でもするつもりか? この色仕掛けに引っかからないでいられる奴がいったいどこにいるのか。わからん、こいつのことが。真白の言葉が頭をよぎる。何とも思ってない男子を、わざわざ連れてきたりしない——まさか、まさか、ね。
フランクフルトを四本、ポテトに豚玉焼きを買って席に戻ると、二人は仲睦ましそうに談笑していた。真白も、俺よりは本を読む方だ。静が好むような純文学を読んでいるとも思えないが、静は大衆小説含めあらゆるジャンルを網羅しているとも言っていたし、話を合わせることくらい容易いのだろう。
「あ、お帰りなさい」
そういう静が、律に向かってウインクするのを俺は見逃さなかった。この二人、何やらよからぬことを考えているな。
焼きそばもポテトも人数分あり、明らかに過食だった。そもそも平均的高校生程度しか食べない俺では多くを引き受けることもできず、余った焼きそば二つを隣に座っていた中学生グループにあげると大変喜ばれた。
「この後なんだけど、私は光と二人で行くから、ましろちゃんは静と二人でお願いね!」
律はそう言って、真白が何か言う前に、対面に座った俺の手を引っ張り歩き出す。
振り向くと、真白が「あーあ、いわんこっちゃない」とでも言いたげな呆れた顔をしていた。
カラオケ大会が始まってから少し経ち、二十歳くらいの女の歌声が響き渡っていた。
「どこに行くんだ?」
「まだ上があるから、行ってみようよ」
律の言う通り、確かに石段があり、さらに上には、祭りの本部らしいテントと、物資が置かれている空間があった。電灯は一つしかなく、あたりは暗かった。
「ここ、もう祭りをやってる感じじゃあないな。引き返すか?」
すると律は、また俺の手を握る。さっきまでは俺を強引に連れていくためという大義名分があっての握りだったが、今回は違う。俺に逃げる意志がないということなどわかっているだろうに。
「もっと、上行くの」
「上行っても何にもないんじゃ……」
「命令。私の権利だもん」
律は手を離さず、草履で砂利を踏み鳴らしながら俺を引っ張る。
「ねえ光、こっちに来てから、私が光にあまり話しかけなかった理由、わかる?」
律は少し真面目な顔になって、声のトーンは抑え気味だった。極めてどうでもいいことだが、律の手は柔らかく、なんとも握られ心地がよい。真白の手より少し大きく、指は細い。
「わからん。結構話しかけられた気さえする」
「光。鈍感すぎるのもよくないと思う」
「いや、本当にわからないから教えてくれ。人の気持ちには疎いんだ」
律は立ち止ると、はぁと一度息をついた。そんな仕草でさえ、浴衣を着た姿はいちいち絵になる。
「この五日間、引いてみようって思ったの。一緒にお昼食べたり話しかけたりして押してみたけどダメ、なら引いてやろうって。私もどうしたらいいかよくわかんないから、よく言われてることを参考にしてみたの」
「あれか、恋愛における鉄則的なやつか。押してダメなら引いてみろ。聞いたことくらいはある」
ん、待て。「恋愛」だと?
「私、焦ってたんだ。終業式の日、光は凛ちゃんと何かしらあった。多分、凛ちゃんの思いを聞いたとかでしょ? 本当は、もっとゆっくり進めようと思ったんだけど、それじゃ手遅れになるかもしれないから、急遽今回の計画を立てた。本当は、あの時点だと、まだおじいちゃんたちに連絡さえしてなかったんだよ。当然、静にも」
律はつないだ手を少し強めた。そして、また歩き出す。俺に拒否権はないため、それに倣って隣を歩いた。
「五日間もあれば、さすがに私に何かしてくるでしょって思ってた。服装だって、ちょっと刺激的にしてみたり。なのに、光ときたら本当に勉強ばっかしてる。可愛いって言われるのはましろちゃん。私、女として魅力ないのかな?」
「そういう意味じゃない。ただ……人をほめることに慣れていない。それだけだ」
社の裏手に出た。月の光を頼りに歩き、座れそうな木に律は腰かけた。
「ちゃんと言葉にする。私、光が好き。出会って一か月しか経ってないのに、変だよね。一目惚れじゃあなかったんだ。でも、なぜだか、光が好き」
心臓をストレートで貫いてくる。その「好き」の二文字が、耳の中で反響した。
暗くてよく見えないが、律は恥じらってすらいないようだ。好きなかき氷の味を答える時と、何ら変わらないように感じた。
だが、一つ仮設が浮かび上がる。これまでの行為を考えると、どうもその恋心には、打算的感情が隠れているような気がする。
律の横に腰かけた。凛に告白された経験があるからか、動揺を悟られまいとするスキルが身に着いた気がする。
「間違ってたら悪いんだが」
「うん?」
「律にとっての俺は、安全策なんじゃないか。律は案外注目されるのは苦手で、特に異性からアピールを受けることは望んでいない。そこで彼氏ができたとなれば、大半の男は諦めることになる。見ての通り俺は甲斐性なしで、俺から律に迫るなんてことはない。仮に俺と付き合わずとも、勉強ができる人が好き、というイメージさえ定着すれば、煩わしい男どもからのアプローチも減る。つまり、俺は律にとって、最も都合がいい男というわけだ」
言い終えた瞬間、両頬を思いっ切りつねられた。
「いあい」
「それ、本気で言ってる?」
律の声は本気で怒っていた。だんだん暗闇に目が慣れて表情が見えるようになったが、まるで一切不純物が入っていない澄み切った氷のように、その表情は美しく、恐ろしい。
「悪い。鎌をかけただけだ。まさか、律が本気で俺を好きだなんて言うと思ってなかったから」
律は頬から手を離してくれた。
「こんなに顔がいい同級生が告白してるのに、どうしてそんなに平気でいられるの? もしかして光って、本当は女たらしなの?」
顔がいいって、自分でいうかそれ。自己評価が適切である人間は嫌いじゃないけども。
「めちゃくちゃ緊張してるよ。平気を装ってるだけ」
「あ、ほんとだ」
律は俺の心臓に耳を近づけてきた。やめろ、毎分百二十はあるぞ、恥ずかしいだろうが。
「俺のことを好きになる理由がわからん。それこそ、俺より運動できるやつは無数にいるし、顔がいいやつだっている。医大生なら、それこそ俺より勉強できるし社会的地位も高いし、金もあるだろうに」
言い終えて、はっとした。恋愛はロジックではないと、教訓を得たはずなのに、俺は同じ轍を踏んでいる。これが受験なら不合格だ。
「はい、光、不正解。どうして光が好きか、教えてあげようか?」
律は俺の肩に手をかけると、正対するように向きを整えた。目を逸らすなとでも言いたいのか。こいつ、ドSだ。
「光はさ、他の人とは違うんだよ。何もかも。まず、人に媚びない。他人にどう思われようとも、気にしない。でも、周りに迷惑は決してかけない分別は持ってる。それと、目標に向かって真っすぐ。そのためなら、他の犠牲はいとわないほどに。体育の時間、本当は運動できるくせに手抜きしてるのは、疲れて体力を失うのを防ぐため。ほかの女子にいいように見られようだなんて、これっぽっちも思っちゃいない。
光は自我が強いくせに自尊心は低い。一人が好きなくせして、実は面倒見もいい。九重さん見てると嫉妬しちゃう。普段、休み時間すら勉強してるのに、九重さんのためならすぐ貴重な時間を使っちゃうんだ。
光は、本当は人と話すことも苦手じゃない。ただ、疲れるからって遠ざけてるだけ。周りの人からは真面目に見えるけど、本当は、自分は真面目なんかじゃないってわかってる。
私はさ、そんな光の全部が好き。何もかもが、愛おしいんだよ。光は言ったよね、俺といるのは安全策だって。最初はそう思った。光は、私が何をしても拒絶もしないし、執着もしない。ほかの男子とは違う。
でもね、今は安全なんかじゃないよ。だって私、光と二人でいるのに、何もしないでいる自信、ないもん」
次の瞬間、唇が柔らかいものでふさがれる。この感覚は知っている。
「ねえ、光。私なら、光のことわかってあげられるよ。勉強だって一緒にしてあげるし、英語も数学も教えてあげる。私に負けて光のプライドがへし折られて、光が堕落しちゃっても、私は光を受け入れるよ。私が養ってあげる。ましろちゃんのことも任せていいよ?
だからさ、私と付き合って?」
律は、俺に覆いかぶさりながら、耳元でささやき続けた。体が骨抜きにされる。脳が溶けていく。こいつは悪魔だ。俺を殺しに来てる。いいにおいがする。香水か?
「私、こんなに人のこと好きになったの初めて。だから、どうするのが正解なのかわからないの。私、二番目でもいいよ? ちょっと私に構ってくれるだけでもいい。その代わり、私は光を愛し続けるけど」
もう一度、唇が重ねられた。律は俺の首に腕を回して、完全に俺に乗る体勢になった。
楽になりたい。律のなすがままになれば、もう何も考えないでよくなる。
でも、だめだ。最後の理性が俺に語り掛ける。まだ、凛に返事をしていないだろう。
「十日。十日以内に答えを出すから。今は少しだけ待ってくれないか」
「わかった。待つよ。よく考えて、悩んでほしい」
律は俺から腕を離して、座りなおした。
「もう少ししたら、二人のところに戻ろう? なんでもなかったような顔して。ましろちゃんに問い詰められないようにね」
律は余裕ぶっている。だがそれが、フリであると俺はわかっている。キスされたとき、脈拍は俺と同等かそれ以上に早かったし、手だって震えていたのだ。
きっと律は、人の上に立ちたいという本能が、俺なんかよりはるかに強い。プライドは高いし、自己愛も強い。
だがそれが、何とも心地よい。律という完璧超人から透けて見えるエゴが、むしろ、律の魅力を増幅させているのだ。良くも悪くも、こいつは「人間」くさい。
祭りの喧騒に戻った時、俺は極めて平素を装ったが、真白には通用しなかったようだ。それどころか、静でさえも、俺と律の間に何かあったのだろうと察していたことは間違いがない。
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