第11話
七
『光、おはよう』
初期設定から変えていない着信音で起こされた。電話口から聞こえるのは、ここ数日聞いていない声。
「凛、まだ六時半だけど。どうした?」
『声、聞きたくなった。悪い?』
あまりご機嫌ではないようだ。
「悪くはないけど。今日も部活か?」
『うん、今日練習試合。ってか、もう学校ついてる』
「そりゃご苦労。頑張れよ。新人戦、見に行くから」
『うん、ありがと。ね、今一人?』
「一人だよ。こっちに来てから、真白は他の二人と一緒に寝てる」
布団から起き上がってベランダに出た。鶯とカッコウの声が交互に響き渡った。通話口からは、他の部員らしき女の声が聞こえた。
『六日にはこっちに帰ってくるんだよね? なら、十一日は空いてる?』
「空いてる」
『じゃあ、この前ホッケーで勝ったときの権利、その日使う。一日、私と一緒にいて? いいよね?』
「いいよ、約束だしな。何時に集合とかはまた連絡くれ」
『やった! ねえ、光』
「うん?」
『私、もう隠さないから。覚悟しといてよね!』
そこで通話は切れた。何を隠さないんだ?
もう一寝入りしようにも、どうも目は冴え切っていた。洗面所に向かって顔を洗っている間、凛のことを考えていた。
あんな形とはいえ、俺は一応凛から告白を受けた。それから数日しか経っていないのに、凛は俺が律たちと一緒に出掛けることに反対しなかった。真白から凛に連絡したとはいえ、こうして容易く行かせてもらえるとは思っていなかった。
何か、凛なりの考えがあるのだろうか?
十一日、何かのイベントか? スマホで調べてみると、あった。明神花火大会。
これか。これに二人きりで行こうと、そういう意味だったのだろう。凛が権利を行使したのは、俺が真白を連れていくことを恐れでもしたからだろうか。
一時間ほど勉強していると、引き戸を叩く音がする。
「藤原君、おはようございます。開けてもいいですか?」
「いいよ」
静の目は完全に覚めているようだった。静は英単語帳を開いている俺を見て、
「藤原君、昨日、私がトイレに行った十二時過ぎにはまだ部屋の電気がついていたみたいですけど……一体いつ寝てるんですか」
「六時間睡眠をすでに習慣づけた。ポイントは、朝起きてすぐに陽の光を浴びること」
「もはや、尊敬を通り越して呆れます……」
「俺は地頭が悪いからこれでも足りないくらいだよ。朝飯でしょ? 今行く」
参考書を机の隅に片づけて部屋を出た。
朝食の際、まだ寝間着のままだった律が声を上げた。
「ねえ、今日あたり、肝試しやろうよ。ここらへんかなり暗いし、ただ歩くだけでも十分怖そうだし」
蕎麦、美味い。縁側の椅子に座って新聞を広げている祖父が打った蕎麦らしい。朝飯に蕎麦とは此れ如何にとは思ったのだが、一瞬で考えは変わった。さすが蕎麦の名産地だけはある。
「ねえ、いいよね? って光、聞いてる?」
蕎麦に対する認識を、俺はどうやら改めなければならない。簡単、安いという部分だけが蕎麦のストロングポイントだと思っていた過去の俺は、愚鈍であったと認めざるを得ない。自己評価能力に関しては高いものがあると俺は思っているが、個々の商品に対する評価、特に味覚に関しては、俺は——
「お兄ちゃん、ありえないくらい蕎麦食べてる……」
真白の声ではっとなった。
「いや、すまん。独り占めしすぎた」
「全然いいけど……肝試し、する?」
律は少し引いていた。肝試し、か。実に夏らしい、かつ田舎に相応しいイベントだ。
「俺はやってもいい。だけど、女子がそんなに遅くに出歩いて危なくないか」
「そこは二人一組で行くから。ね、いいでしょ?」
「まあ、みんながいいなら、いいんじゃないか」
「よし、決定!」
「それと、午前には私たちは蕎麦打ち体験に連れて行ってもらえるらしいですが、藤原君はどうしますか? おじいさんの知り合いの方がやっているらしいです」
静が蕎麦を箸で掴みながら言った。蕎麦打ち、気になる。でも、時間が取られそうだ。
というか、三人はこっちへ来てから遊んでばかりじゃないか。真白は別にそれでいい。遊ぶことがむしろ本来の目的と言っていい。だが、律は真白たちと一緒に夏休みの課題を消化する時間をこそ取っているものの、それ以外に勉強しているのを知らない。一日に二時間も勉強しないやつに、俺は負けたのか。何とも気に食わない。律の頭の中はどうなっていやがる。
「悪い、今日中に読書感想文を沈めたい。やらないつもりだったけど、あれは担任提出だったことを思い出した。やつにどやされるのは面倒だ」
「お兄ちゃん、本なんて持ってきてたっけ?」
真白はズズズと音を立てながら蕎麦をすする。正直、蕎麦の食べ方という点では、あどけなさの残る真白が一番可愛らしい。
「ないけど。日本史の教科書で感想文を書く。ありゃあ書物として完成しているし、なんなら課題図書よりもよっぽど読み応えもある。もう二周してあるから改めて読む必要もない」
「光って、実はバカ?」
「うん、バカ」
「バカですね」
三人が口々に言った。お前らは日本史の教科書をちゃんと読んだことがあるのか? 読んでもいないのに批判するとはいい度胸だ。よく知りもしないで、憶測だけで語る最近の低能連中と一緒でいいのか? などと言ったところで、さらにバカと言われるのがオチだろう。
「バカなお兄さんは置いて、三人で行きましょうか」
「うん、そうだね。じゃあ光、夜は肝試しだから、それまでに勉強終わらせておいてよね」
朝食を終えて部屋に戻ると、しばらくして車の音が聞こえてきた。祖父の運転で蕎麦打ち体験に向かうらしい。
その日は、非常に充実した一日だった。午前に少し雨が降り、玄関の水銀式温度計が示す気温は二十五度にも満たず、小気味よい雨音とほどよい涼しさに包まれて、圧倒的に集中できた。
正午過ぎに帰ってきた三人は、体験で作った蕎麦を持ち帰ってきたため、それをまた食べた。
昼食後に人生ゲームに巻き込まれたが、高卒フリーター、家無し車なし、嫁子供なし貯金なしの転落人生に叩き落され、真白に慰められたところで逃げ出した。
七時の夕食の時までで、勉強時間は十時間を超えていた。悪くない。土日に図書館に籠っても、八時間を超えたあたりから集中力は切れかけるのだが、ここに来てからは驚くように集中が持続する。
「はい、じゃあ肝試し。やるよーっ!」
夕食後、歯みがきをしながら廊下でスマホをいじっていると、律たちが部屋から出てくる。律は懐中電灯を二つ両手に持っていた。
うがいをして律について外に出ると、雨は綺麗に上がって、星がちらほら見える。
「二人ずつに分かれて、駐在所を回ってくること! 蕎麦打ち体験の時に通ったから、光以外はわかるよね?」
「わかります。分かれ道も二回だけですし。万が一迷っても、スマホで地図見れば大丈夫です」
「俺は方向音痴じゃないし大丈夫だ。なんなら、今地図見れば覚えられる」
「ましろは怖いのは苦手なので……お兄ちゃんと一緒がいいです」
真白がここへきて俺のそばにすり寄ってきた。朝、律が肝試の話をしていた時、真白が少し驚いていたのを俺は見抜いていた。
「真白、まだ当分兄離れできそうにないな。仕方ない、俺は真白と一緒に行くよ」
「じゃんけんで決めようと思ってたけど、そんなら私は静と行く。光たちから先に行って? 少ししたら私たちも出発するから」
「わかった。じゃあ、またあとで。行くか、真白」
歩き出そうとすると、真白が裾を引っ張ってくる。少し震えていた。
「手」
「手?」
「手、繋ご」
随分とか細い声だ。表情は不安でいっぱいだった。幼いころはよく見た表情。
そんなそぶりは見せなかったが、朝からずっとおびえていたのだろうか。
「ね、ねえ、ごめんね。私、ましろちゃんが怖いの苦手って気づかなかった。そんなに怖いなら、やめてもいいよ?」
律が慌てて寄ってくる。
「だ、大丈夫です! お兄ちゃんと一緒なので」
「可愛いなぁ真白は。一応、俺が大学卒業するまでは待ってやる。それまでには兄離れしてくれよ。俺もちょっとは料理覚えるから」
真白の手を掴んで道へ出た。確かに、街灯一つない。所々民家はあるのだが、車も走っていない。
「なんか、随分久しぶりな気がするな、真白と二人っきりなの」
「うん」
「俺以外の人と一緒に寝るなんて、小学校の修学旅行の時以来か。よく寝れてるか?」
「うん、寝れてるよ。二人が私を囲んで寝てるから、いつもより安心できるし」
「そりゃよかった」
律から懐中電灯を受け取ってくるのを忘れた。スマホを見ると、メッセージアプリに『ごめん! 渡し忘れた! 戻ってこれる?』と連絡が来ていたが、せっかくなので、全くの暗闇というのも面白いかもしれない。
「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんはさ、お父さんのこと、まだ恨んでるの?」
急にそんな話か。家に帰ってこない父親のことなど、もはや考えることすらほとんどない。
「今は、何とも思ってない。よく考えたら、親父よりクソな毒親なんて、世の中にごまんといる。生活費を送ってくれてるだけ、まだマシだと思えるようになったよ。それに、未来は変えられる。あの親父の遺伝子を継いでるだけあって頭の出来は悪いが、しょせん高校程度の勉強なら努力で埋めれられないこともない。それが唯一の救いだ」
どこかの電子機器製造会社のCMみたいなことを言ってしまった。
親という存在を、俺たち兄弟はまともに知らずに育ってきた。真白が物心つく前に母親は他界して、俺が高校に上がるのと同時に父親は四国に単身赴任に飛ばされた。片親家庭で単身赴任するなど、もはや意味が分からない。なぜ拒否しなかった。お前は俺たち兄妹のことを、大事に思っていないのか。俺はまだしも、真白をないがしろにするのはやめてくれと、一年前の俺は父親に激昂した。
だが、あんな父親であるなら、いなくてよかったと今では思う。この静かでつつましやかな暮らしが、かけがえのないものに思えてきた。俺たち兄妹は、喧嘩なんてしてる暇もなかった。兄妹仲が良いのは必然だった。
「ねえお兄ちゃん。お兄ちゃんが大学に行って、私が高校生になって、東京に引っ越したらさ、たくさん遊べるよね?」
「もちろん。いくらでも遊んでやる。でも、真白が都会の彼氏を作って俺のことなんて放っておいてしまうかもな」
「ましろ、彼氏なんて作らないもん! お兄ちゃんが結婚して、ましろのこと置いて出て行っちゃったら、少し考えるかも」
真白はつないだ手を大きく振って語気を強めた。一体、それはいつになると言うのだ。ひょっとすると、永遠に訪れない可能性もあるだろうに。凛は例外として、俺は女に好かれる性格もしていないし、容姿もぱっとせず、その他もろもろのスペックも低い。そもそも結婚に適正がないだろう。
県道に出て、墓地の隣を通った。真白は強がっているが、体は密着させているし、手はやたらと強く握ってくる。数分に一台ほど車は通るし、正直全く怖い要素などないのだが。肝試しというより、ただの散歩だ。
「ここか、駐在所」
スタートして一キロくらいだろうか、確かにパトカーが止まっている。
「お兄ちゃん、せっかくだし、もうちょっと遠くまで行こうよ」
しばらく前から掴む場所を俺の腕へとシフトした真白が、楽しそうなのかおびえているのか微妙な声色を出した。
「震えてるけど」
「大丈夫! お兄ちゃんと一緒だもん。妖怪が出てきても、守ってくれるよね」
「真白がいいなら、もうちょっと行くか」
妖怪なんていない、とは言わない。いないことの証明は難しい。背理法の証明問題でいまだに躓く俺が、ここででしゃばる権利はない。
「そういえば、凛にはなんて言ったんだ? いくら真白から言ったとはいえ、こんに簡単に許しをもらえるとは思っていなかったんだけど」
「ましろが監視するって言った」
「監視?」
「お兄ちゃんが、りっちゃんに変なことしないか、ましろがちゃんと見とくからって言ったの」
真白は下から俺を見上げては、ぴょんぴょんと跳ねた。なんだその可愛い行動は。
「俺がそんなことするわけないだろ。俺はリスク・マネジメントの達人。あんな美少女かつお嬢様に変なことなんてしたら、俺の人生終わるかもしれん」
「お兄ちゃん、ほんとにそう思ってるの?」
「本当だけど。どういう意味?」
「りっちゃんが、お兄ちゃんのこと何とも思ってないと思う?」
何とも、とは。私よりはるか勉強しているくせに、慣れた定期テストで敗北する低能、と思われている可能性は否定できないし、思われていたからといって、それは事実だから受け止めるしかない。
「まあ、バカくらいは思ってるかもしれんけど……」
「本当に、本当の本当にそれだけ?」
「それだけ」
「はぁ。お兄ちゃん、やっぱりバカだよね」
なんだと。真白にバカと言われたところでマシュマロを投げつけられたほどのダメージしかないが、真白に嫌われるのは金属バットで頭をかち割られるほどの致命傷を負うことになる。
「そ、それはどういう意味だ?」
「何とも思ってない男子のことを、わざわざ誘ってこんなところまで来ないでしょ」
真白はつないでいない方の手で俺の脇腹を突き刺してくる。真白の言っていることが正しければ、律は俺に何らかの、少なくともポジティブな印象を抱いているということか。あり得るか? そんなことが。律ほどの容姿ともなれば、男なんて選り取り見取りだろうに。その気になれば、イケメン医大生を捕まえることだって容易いはず。金もない俺を惚れさせたところで、何のメリットもないはずなのに。
「ましろ、お兄ちゃんが何考えてるかわかるよ。りっちゃんにはそんなことするメリットがないって思ってるんでしょ? お兄ちゃん、メリットがあるから人を好きになるとかじゃないんだよ。凛ちゃんが、お兄ちゃんと付き合うメリットを考えていると思う?」
なんだ、我が妹は読心術でも備えているのか。
凛は損得勘定が苦手だ。そもそも損得で物事を判断している姿を見たことがない。常に、効用最大化を達成するために時間と金の使い方を考える俺とは違う。
「ましろはさ、凛ちゃんのこともお兄ちゃんのことも好きだし、りっちゃんのことも好き。だから、お兄ちゃんが誰を選んでも何も言わない。でも、ちゃんと考えてあげてほしい。凛ちゃんのこと」
ちゃんと考えろ、耳に痛い。五日間ここに来れると聞いて、勉強がはかどると言うのももちろんあったが、凛と会わなくて済むという気持ちがなかったと言えば、それは嘘になる。
「わかったよ。山梨に帰ったら、凛と出かける。その日になんらか言えると思う」
とりあえずは、凛のことだけを考えておけばよいだろう。真白は律が俺に気があるとでも言いたいようだが、そっちはまだ何も起きていない。まだ出会って一か月に経たない俺のことを好いているかなんて、どうしても考えられない。それこそ、天変地異でも起きるくらいには、ありえない事だと思う。
「お兄ちゃん、おんぶして」
真白は急に立ち止った。なんだ、今日はそういう日か。本当に中学二年生か、やっぱり怪しい。
「ずいぶん甘えん坊だな」
かがんで背中を差し出してやると、首に腕が回された。
俺は甘えてくれる真白に、だいぶ救われているのだと実感した。
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