第10話
「おはよう、光。早いね」
八月二日、朝七時半だった。部屋のふすまを開けると、ちょうど律と鉢合わせた。
「おはよう。律も、早いな。昨晩は真白と神山さんと話し込んでたみたいじゃないか。どこにそんな体力が潜んでいるんだか」
「むしろ、あんなに遅くまで勉強してたくせに、きちんと起きる光の方が体力バカだと思うけど」
律の服装は、少し目に毒だった。肩が大きく開いた薄いキャミソール一枚で男の前に出てくるとか、一体どういう思考をしているのか。まともに顔を見れやしない。
「真白は、大丈夫そうか。昨日は律たちの部屋で寝てたみたいだけど」
「うん、もう馴染んだみたい。あんまりふさぎ込む性格でもないみたいだし」
「そうか、ならよかったよ」
律の言った通り、確かに広い家だった。昔ながらの木造住宅ではあるが、最近リフォームしたと言った通り内装は綺麗で、とにかく客間の数が多い。俺たちどころか、団体客を呼んでも十分寝床が確保できそうなくらいには、だだっ広い家だった。
「顔洗ったら、居間においでよ。もう朝ご飯できてるから」
「ああ、そうする」
洗面所で顔を洗ってトイレを済ませ、居間に向かうと、すでに食卓には朝食が並んでいた。
「お兄ちゃん、おはよう」
真白は見たことのないシャツを着ていた。静か律に借りたりでもしたのだろうか。
「お兄さん、おはようございます」
「いつまでその呼び方を続ける気だ」
少し眠そうな真白に対して、静はシャキッとしていた。服装も寝間着ではなく、ブラウスに着替えている。
静と真白が隣同士となり、その対面に俺と律が座った。それでもまだスペースが余るほどには、木製の机は大きかった。
「昨日はよく眠れた? 暑くなかったかい?」
皿を運んできた律の父方の祖母である老婦人は、気の良さそうな笑顔をしていた。
「ええ、エアコンがなくてもこれほど快適に眠れるとは思っていませんでした。甲府だとこうはいきません」
極めて、好青年を装う。まあ、一日にいくらか会話を交わす程度では、ボロが出ることもないだろう。
鮭の塩焼き、野沢菜、卵焼き、みそ汁、白米と、純和風の朝食を目の前にして、皆で手を合わせた。昨日の夕食ですでに、婦人の料理が美味いことは理解していたが、一口みそ汁を口に含むだけで、その腕前を再認識させられた。
「ましろちゃん、今日は川に遊びに行こうか。少し行ったところに、ちょうどいい場所があるんだ」
「ぜひ行きたいです! おさかなさんとか釣れるかな?」
「魚はどうだろう? もしかしたらいるのかな」
律の言ったとおり、真白は遠慮することもなく馴染んでいるらしい。従兄弟もいない俺たちであるから、年上の友達というのは新鮮に感じられることだろう。
「静も行くよね?」
「もちろん、ついていきますよ」
「光は、どうする?」
「少しの時間なら構わない。午後にしてくれるとありがたいけど」
律は箸を置いて少し考えた後、
「じゃあ、お昼ご飯食べたら行こう。私たちも、光を見習って午前中は宿題しよっか」
「それがいいと思います。もしかすると、お兄さんはもう宿題は終わったり?」
「やる価値がありそうなやつは終わせた。そうじゃないやつはそもそもやる気がない。提出しない」
それにしても、真白はカロリーの高い食事ばかり作るから、このようにヘルシーな食事は新鮮だ。特に、野沢菜がこれほど美味しいものだとは思わなかった。俺が野沢菜を速攻で平らげていると、婦人はおかわりをくれた。
「お兄さんは本当に、とことん効率主義ですね」
「それがお兄ちゃんのいいところで、悪いところでもあるんだけどね……」
真白が呆れたように言う。効率主義のどの点に悪いところがあるのか、まるでわからない。
朝食を終えて、与えられた部屋に戻り、勉強道具を広げる。とても静かな空間だった。甲府の家は道路に面しているため、車の排気音が少なからず聞こえ続ける。その環境に慣れたいたから、家にいてこれほどの静寂を感じることがあるのだと知らなかった。
一瞬の休憩をとることもなく、四時間超が経過した。真白が呼びに部屋にやってくるまで、今が何時なのか考えすらしなかった。
「お兄ちゃん、お昼ご飯できたって。って、ずっと勉強してたの?」
「ああ、すごいなここ。エアコンなんかより、自然の涼しさの方が百倍集中できるな」
窓の外の簾と、そこから流れ込んでくる風が、正午を過ぎてもいまだに心地よい。
昼食を済ませて食器を片付けると、律が言い出す。
「じゃあ、濡れても大丈夫な格好に着替えて、玄関集合ね」
そもそも、近くのショッピングモールの限られた店の中でも安い服しか買わない俺には、服などどれも等しく価値がない。結果、そのままズボンだけ短いものに着替えて玄関に向かった。
家を出てすぐの県道沿いには、田んぼが無数にあった。空には雲一つなく、さすがに直射日光の下では暑い。
ひたすらに山の中だった。幼き頃であったのなら、カブトムシでも探しては、はしゃいでいたのだろうか。いや、そもそも俺に無邪気にはしゃいでいたような時期があった記憶はない。思えば、小学校のころから、無理に達観して、大人ぶっていたような気がする。
「藤原君は、川遊びとかしたことあるんですか?」
律が真白の手を引いて前を行き、その後ろについた静が、最後尾にいた俺に話しかけてきた。
「あんまりないな。甲府の市街地じゃ川もないし。神山さんこそ、あるの?」
「私もあんまり……。昔から、本ばかり読んでいるような子だったので」
まあ、いともたやすく想像がつくけれど。静の国語の成績だけは、学年でもかなり上位であると聞いた気がする。
「本を読めるのはいいことでしょ。俺にはその習慣がなかったから、羨ましいくらい。読解力って、短期じゃ上がらないものだし」
「藤原君は、本当に勉強の話が好きですね。三度の飯より勉強の方が好きとでも言いそうです」
静は、穏やかに笑った。学校にいるときはこんな表情はしない。
「どうせ俺は勉強バカだよ。悪かったな、ほかに面白い話ができなくて」
不貞腐れたふりをしてみた。すると静は、俺の前に来て立ち止って、
「そんなことは言ってません。ましろちゃんも言っていた通り、ひたすらに勉強できるのは藤原君のいいところでもあるんです。私の方こそ、藤原君が羨ましいです。私は、好きな教科はいいですが、嫌いな教科を藤原君のように突き詰めることはできません」
やけに真剣な顔をされた。すまん、そんなつもりはなかったんだが。
「たいしたことじゃない。勉強以外にすることがないからやっているだけだ」
「それは、前に言っていたアイデンティティがどうこうという話ですか?」
そんな話をしたことがあったろうか? 確かに俺は、俺のアイデンティティが明確でないことを気にしている。勉強ができるということはその人の個性と言えなくもないかもしれないが、高校の勉強など、今やほとんどの人間は経験していることだ。そんなものが、果たして俺の存在証明になるのかと、考えたこともある。
「痛いとこを突かないでくれよ。こう見えて、俺はメンタル弱いんだ」
「そうは見えないですけど」
道はだんだんと、軽自動車同士ですらすれ違えないだろうとという細さになった。ガードレールもなく、夜運転するのは危険そうだ。さっきから水流の音は聞こえていたのだが、ようやっと川が見える場所に着いた。
律がこちらを向いて、
「着いたよ! って、何二人でいい雰囲気になろうとしてんの⁉」
「なってない」
「なってないです」
静は少し語気を強めた。
静が俺のことを異性として見るなんてありえないだろう。文学の話で盛り上がれる男が好きに決まっている。と、少し前までなら簡単に否定していたはず。ふと、凛の顔がよぎった。恋愛感情というものに理屈を持ち込もうとすると、どうも失敗する。
真白は「?」と言った表情で立ち尽くしていた。
「真白、あんまり遠くに行くなよ。溺れたら助けられる保証はないからな」
「ましろ、泳ぎは苦手だけど、さすがにこんなとこじゃ溺れないよお兄ちゃん。私のこと何歳だと思ってるの!」
「十四歳だ。けど、俺の中じゃまだ十歳くらいの感覚だな」
「お兄ちゃんのばか」
真白はぷくりと頬を膨らませると、一人で川の方へと行ってしまった。真白の後を追うと、後ろから静と律もついてくる。
川幅は五メートルほどで、水深は四十センチもないほどであった。たしかに、溺れる心配はなさそうだ。
「お兄ちゃん、これでもくらえ!」
先に川に入った真白が、水をかけてくる。
「やったな? 覚悟はできてるんだろうな」
サンダルを脱ぎ川に踏み入る。鳥の鳴き声が連続して聞こえた。周囲には誰もいない。俺たちだけの空間だった。
掌を合わせて空間を作り、それをつぶして水を出す。ごく少量かかっただけだったが、真白はぐはっと、大げさにやられたふりをした。
「りっちゃんと静さんも、こっちおいでよ!」
後ろを振り返ると、二人がなぜか満足そうな表情で立っていた。保護者にでもなったつもりか。
「魚、泳いでますね。食べられそうなほど大きいのはいないですけど」
静がスカートをたくし上げながら川へと入ってくる。どうもその仕草は扇情的で、直視することは躊躇われた。思えば、凛の気持ちを知ってからというもの、俺にはまるで縁のないものだと思っていた恋愛というものが、どうも強く意識させられる。
前までであれば、静や律が体を寄せてこようと、何ら感情など抱かなかったろうに。
「ね、誰が一番早く魚捕まえられるか、競争しようよ」
こちらへやってきた律が、髪を後ろで縛りながら言った。
「素手でか?」
「もちろん」
「野生児だな。真白も参加するか?」
「うん、やる!」
「私はここで審査員をします」
静は少し離れたところで澄ましていた。
「じゃあ、スタートね!」
太ももの半分ほどまでしか丈がないパンツに身を包んだ律は、バシャバシャと音を立てながら魚を追い始めた。真白も水面を見つめて、魚を探し始める。
「あっ、逃げた。待て~っ」
律は無邪気に川上の方へと駆けていく。なにをどうすれば、あれが学年一位のお嬢様だ?
おかしい。転校してきたばかりはお高くまとまった女だったのが、学期の終わりには俗物じみた女に変わって、今ではただの無邪気な子供に見える。と思えば、時より見せる無防備な姿にはドキリとさせられる。少なくとも、教室では決してこんな姿は見せない。
「捕まえた」
川下に向かって泳いでくる魚を待ち伏せしてさっと掴むと、案外簡単に捕まえられた。
「光、早っ! 負けた~」
律が川の中を走ってこちらにやってくる。
「藤原君の勝ちですね。ヤマメですか? その魚」
「まったくわからん。魚とか興味ないし」
「へぇ~なんか気持ち悪い……お兄ちゃんよく掴めるね」
真白は手を伸ばそうとしてやめた。
「かわいそうだし、逃がすか。持って帰るにも水槽もないし」
俺の手の中で魚生最後の力を振り絞って体を揺らす魚を水に入れたやった。魚は川下の方へと逃げていった。
「勝てるんならなんか賭けておけば良かったな」
「ふっふー、後の祭りだね光。じゃあ水きりで勝負する? 今度は、負けた方は罰ゲームでもしよっか」
律は挑戦的な瞳を向けてくる。こういうのは嫌いじゃない。
「乗った。じゃあ負けた方は真白を背負って家まで帰る、な」
「なにそれお兄ちゃん、ましろまた子ども扱い?」
「真白、俺に背負われるの好きなくせに。たまには、俺以外の人にも甘やかしてもらえよ」
真白はぶーぶー言っているが、律はその提案にすぐ便乗した。
俺と律が石を投げるのに夢中になっている間、真白と静は河原に座って何やら話していた。
水切りは結果的に律の勝利に終わった。三十投ほどしたところで、俺が降参した。八回ジャンプさせるのはもはや職人芸だ。
「はい、私の勝ちね。そういえば、賭けと言えば……覚えてるよね?」
「覚えてるけど……」
期末テストに負けた方がなにか一つ言うことを聞く、と。一体何をさせる気だ。
「まぁ、まだ使わないけどね~」
律は水から上がってタオルで足を拭き始めた。たったそれだけの動作でも絵になる。真っ白で傷一つない美しい肌色に、どうも視線が吸い寄せられる。
川から上がって、罰ゲームとして真白を背負った。相変わらず体は細く、ほとんど負担にもならない。
「光とましろちゃん、ほんとに仲いいよね。いいな、私もましろちゃんみたいな妹にお姉ちゃんって呼ばれたかったなぁ~。ねぇ、今からでもうちに来ない? 私なら、勉強ばっかしてる光と違って、いつでもかまってあげられるよ?」
律は俺の肩から顔を出した真白に向かって言った。
「あげねぇよ。つか、真白がいなくなったら料理ができない俺が死ぬ」
「え⁉ ましろちゃん、いつも料理してるの?」
「してますよ。お兄ちゃん、放っておいたら何も食べないで勉強してますし。ましろがいなかったら、そのうち倒れちゃそうです」
「藤原君、案外生活力ないんですね。完璧主義っぽいのに」
「いや、俺は相当ズボラだ。そのせいで結構苦労してんだ。完璧主義ってのは、意識的にそうなろうとしてるだけだな」
両脇を杉の木に囲まれた道を歩いた。青々と茂った雑草は伸び切ったまま、誰にも手入れはされていない。たまに路上駐車されている車の大半は軽トラックだった。
いくら真白が軽いとはいえ、上り坂を背負っていくのは少しばかり苦労だった。
家に戻った時、時刻は三時だった。交代でシャワーを浴びて、勉強に戻った。
夕飯後、四人でトランプゲームに一時間ほど興じた後、また勉強をして十一時に布団に入った。
二日目はこうして過ぎ去っていった。
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