第9話


「真白、準備できたか? 宿題は持ったか?」

「うん、できたよお兄ちゃん。宿題もちゃんと持った」


 真白はリュックサックに、中型のスーツケースを引いた格好で、部屋から出てきた。


「本当に良かったの? スーツケース借りちゃって」

「気にするな。俺はボストンバッグでいい」


 中学校の修学旅行の際に買った安物のスーツケースが働くのは、その時以来の気がする。旅行など、まるで行く機会もなかったのだ。


「じゃあ、行くか」

「うん、行こう、お兄ちゃん!」


 過去にないほど、真白は張り切っている。

 玄関を開けると、これでもかというほど強烈な日差しに襲われた。


「バカだな……甲府盆地は、バカだ」


 先導を切って歩いてく真白の後を追い、甲府駅の方面へと向かった。蝉の声が耳をつんざくようだった。


「なあ真白、バスを使わないか? 駅に着く前に息絶えそうなんだが」

「何言ってるのお兄ちゃん。若者でしょー、歩きなさいっ!」


 涼しげなショートカットに麦藁帽を被った真白は、まるでダメージを受けていないといったように、元気にスーツケースを引いていた。


「真白は律と神山さんとは会ったことないだろう。はじめて会うやつらばっかで、気疲れしないか」

「大丈夫だよ。お兄ちゃんと仲良くしてくれる女の人なんて、いい人たちに決まってるもん」


 正論すぎて何も言い返せない。

 歩道の広い小学校前の道を左折して、平和通りに。街路樹が等間隔に植えられてはいるが、熱さを軽減できているかは極めて微妙だった。もう営業していない布団屋、高級カレー店、焼き肉屋、ビジネスホテル、高級寿司屋……。家からすぐの距離にあるものの、そのほとんどは訪れたことがない。

 信号待ちのたびに膝に手をつき、駅の構内に着いた頃には、もう体力はほとんど削られていた。約束の時間までは、あと五分ほどあった。


「藤原君、おはようございます」


 突如後ろから話しかけられて振り向くと、紺のロングスカートに白いTシャツを着た静の姿があった。いつもかけているはずの眼鏡がなく、まるで別人のように見えた。


「神山さん、もう来てたんだ。あ、こっちが妹の……」

「お兄ちゃんの妹の藤原ましろといいます! 今日は、いえ今日からよろしくお願いします!」


 そう言って真白は頭を下げた。お兄ちゃんの妹、というのは少し哲学的だ。


「初めまして。神山静と言います。藤原君……いえお兄さんとは、クラスで仲良くさせてもらっています」


 お兄さん、だと? なにか、心の底からもぞもぞするような感覚が這い上がってきた。同級生にお兄さん呼ばわりされるのは、首筋にふっと息を吹きかけられるような感覚だという新たな見分を得た。

 俺とは対照的に、言った本人である静は全く動揺していないようだった。この女、実は臆病者なんかじゃないだろう。


「だーれだっ?」


 突如、視界がブラックアウトした。正確には、肌色で覆いつくされた。

 聞き覚えのある声。聞いているだけで、すーっと体から生気が抜けていくような、特徴的な美声——


「律」

「正解! おはよう、光、静。そして、光の妹さん?」


 思えば、私服は初めて見た。青いスカートに白のブラウス。髪は結っておらず、しなやかな黒髪が明と暗のコントラストを醸していて、とても美しい。なるほど確かに、少なくとも一万に一人レベルの美少女であることは間違いない気がする。

 静も顔は、悪くないのだ。眼鏡がない今日は一段と表情が明るく見え、美少女と言っても差し支えはない。それでも、律と並んでしまったら、どうしても見劣りしてしまう。

 身長が百五十後半はあるであろう律は、百五十ちょうどしかない真白に視線を合わせるように少しかがんで、優しく問いかけた。たったその仕草だけで、周囲の視線がこちらに集まる。改札から出てきたばかりの男子高校生が、律のことをじろじろと見ている。


「い、妹の藤原ましろです! きょ、今日からお世話になります!」


 静相手の時には平然としていた真白が、少し緊張しているようだった。


「よろしくね、ましろちゃん。私は四条院律。りっちゃんとか、律お姉ちゃんでも、呼び方はなんでもいいよ。じゃあ、行こうか。電車、もうすぐ来ると思うし」

「はい、そうしましょう」


 律が先導して改札へ向かう途中、真白がTシャツの裾を引っ張ってくる。


「ね、ねえお兄ちゃん。あの人が本当に噂の転校生って人?」

「ああ、そうだ」

「ふ、ふうん」

「どうかしたか?」

「ううん、なんでもない。でも、すっごい美人だったから、ちょっとびっくりしただけ。あんな人がお兄ちゃんと仲良くしてるだなんて信じられない」

「俺もそう思う」


 俺は真白の手を引いて、改札へ向かった。交通系ICで改札を抜け、中央本線のホームへと向かう。時刻は九時半を回ったところで、列車の発車までにはあと七分ほどあった。


「随分と急な誘いだったはずなのに、神山さん、部活とかなかったの?」

「文芸部はしょせん、個人活動メインですから。行かなくても、大きな支障が出るわけではないです。それよりも、藤原君の方こそ用事などなかったのですか」

「残念ながら、全くない。真白も同様に」

「そうはいっても、藤原君がこの手の提案に乗るとは意外ですね。友人関係などくそくらえというスタンスだと思っていました」


 エスカレーターが終わりを迎え、プラットホームに出た。


「勉強がはかどる環境というのは魅力的だし。図書館にも飽きてきたころだ」

「本当にそれだけですか?」

「真白にも思い出になると思って」


 静は何か疑っている様子だった。それ以外にいったい何があると言うのか。


「ましろちゃんはなにがいい?」


 キオスクの飲料コーナーを覗きながら律が言った。真白はびっくりしたようで、


「えっ、いいんですか?」

「いいよ、お姉さんがおごってあげる。ほら、光と静も、選んでいいよ」

「じゃあ、お言葉に甘えて……」

「せっかくなので、私もいただきます」


 律はコーラ、静は緑茶、真白がサイダーに俺がコーヒーを選ぶと、律が支払いをした。


「悪いな」

「気にしないでって。今回は私が誘ったんだし。みんなも、わがまま言ってよね」


 列車がホームへと入ってきた。東京に出る時もひたすらに鈍行を使っていたため、特急列車に乗るのはかなり久しい。

 列車の中はよく空調が効いていた。乗車率は五割ないほどだった。俺と真白が並んで座ると、その前に席をとっていた律と静は、椅子を回してこちら向きになった。


「ましろちゃんは今、中学二年生だっけ?」


 切り出したのは律だった。


「そうです。お兄ちゃんと三つ違いです」

「光は、家だといいお兄ちゃんやってるの?」

「勉強ばかりしていますけど、いいお兄ちゃんですよ。優しいですし」


 おい、俺の話題はやめろ、と言いたいところだが、真白と律たちの共通の話題など俺のことしかないのだから、唯一の話のタネを奪ってしまうのもかわいそうではある。


「ましろちゃんは、お兄さんとよりも元気ではきはきとしていますし、よくできた妹さんですね。お兄さんも見習ったらいいのに」

「余計なお世話だ」


 俺は徐々に瞼が落ちかけていることを自覚していた。昨晩は数学に憑りつかれて、深夜まで問題集とにらみ合っていたのだ。それに加えて、炎天下を一キロも歩いてきたのでは、睡眠を求めるには十分すぎるほど疲労が蓄積している。

 女三人であれば、むしろ俺はいない方が気楽だろうと思い、俺は睡魔に身をゆだねた。

 

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