第8話
ゆっくりとした足取りで教室に戻ると、律はなにやらファイルを覗き込んでいた。
「まだ残ってたのか」
「鞄が置きっぱなしだったから。いずれ帰ってくるだろうと思って……。ねえ、何かあった?」
「何かって?」
「なんか、晴れ晴れとした顔してる。その、人間関係のこじらせってのが、解決したりした?」
「そんなとこ」
席に着くと、律はこちらに体を向けて、顔を近づけてきた。
「これ、生徒会室にあった去年のクラス企画の企画書全クラス分。委員長に頼んで借りてきてもらったの。校外に持ち出すことはできないけど、参考にはできるかなって」
「悪いな。何も考えてなかった」
「ううん、全然大丈夫。それでさ、何をやるって話なんだけど」
渡された企画書をめくっていくと、去年の我がクラスの企画書が見つかった。某人気バラエティ番組を真似て、客にアトラクションを楽しんでもらうという企画であったが、正直クオリティは低いと言わざるを得ないレベルであった。
「これ、光のクラス? どうだったの」
「ひどいもんだったよ。シフトの時間になっても来ない連中ばかりで、俺は一日中客の相手をさせられた。それに小道具のクオリティも低いし、すぐ壊れては修理ばかりしてた。嫌な記憶だ」
「やっぱり、光はお人よしだね。この役押し付けられた時だって、本当は山田君と変わってもよかったはずなのに」
「圧力にすぐ屈するだけだ。強く出れないから、お人よしに見えるだけ」
「まあ私は、山田君じゃなくて、光でよかったけどね」
律は不敵に笑った。私の方が一枚上手だと、そう俺に植え付けるかのように。
慌てて周囲を見回したが、男子はもう誰も残っておらず、前の方でオタク女子が数人談笑しているだけであった。
「あんまり山田を虐めてやるなよ。ああやって欲望に忠実な人間は案外、人生成功することが多い……気がする」
「ほんとはそんなこと、思ってないでしょ」
「よくわかったな」
律が笑い、つられて俺も笑った。
「じゃあさ、逆にこの中で楽しかったのはある?」
律が企画書をめくりながら聞く。
「俺は他クラスのなんて回っていないからな。凛のクラス、ええと、一年六組だったか、それだけは回ったけど」
「凜ちゃんってのは、その例の幼馴染?」
「ああ、そうだ」
あんなことがあった手前、思わず声が上ずった。
「ふうん」
律は意味ありげにそう言って、
「で、どうだったの? この一年六組、魚釣り屋ってのは」
「最悪だ。子供だましの骨頂と言ってもいい。うちの学園祭は土日開催で、土曜日は一般公開もある。だから土曜に子供を騙すためだけならいいが、高校生が入ったら、バカにしてるんじゃないかと思っても仕方がないだろうな」
「ねえ、実は光って、結構言葉に棘あるよね」
「気のせいだ」
律はなぜだか少し楽しそうにしている。
「回ってはないが、三年一組のこれ、謎解き? は結構好評だったらしい。確か、顧客満足度一位に選ばれていた気がする」
「ふーん、謎解きね」
「あとは定番のお化け屋敷。マジックをやっていたクラスも結構人気だった。そんな感じ」
とは言っても、俺自身は一切経験していないのだけど
。
「あんまり挑戦的になるのは、やめておいた方がいい気がする」
「その心は?」
「面倒だから」
「だと思った」
律は椅子を反対向きに座って、俺の机に肘をついた。
「謎解き、いいかもね」
「いいんじゃないか。二日間同じ謎を解かせ続けるってのもあれだから、時間ごとに入れ替える必要はありそうだけれど。ネタ自体はネットにいくらでも転がっているだろうし。なんなら、推理小説とか探偵漫画を参考にしたっていい」
時刻は十二時を回っていた。今日の午後、何を勉強しようかということが頭を駆け巡った。
「面倒面倒言う割には、結構やる気あるみたいだけど」
「早く終わらせたいだけだ。こんなことに時間を使ってられない。企画書、書くなら今書いてしまってもいい」
机の中に、今朝の成績表があるのを思い出した。一瞥して、鞄に放り込む。
「負けたからな。次回は勝つと言いたいところだけど、正直、勝てる気はしない。でも、夏休みを丸々使えば、近づくことくらいはできるだろう」
「ふふん、恐れ入った?」
「恐れ入りまくったよ。俺はこんな連中と戦わなきゃいけないのかと思うと、眩暈がする。何しろ俺には勉強のセンスがないからな。暗記も遅いし、理解力も低い。それに加えて、中学までは一切勉強なんてしたことがない。必死にトレーニングしてる最中だけど、それでも間に合うかどうか」
「どうしてそこまで、本気で勉強するの? なにが光をそこまで駆り立てるの?」
ふっと、胸をすかされる感覚だった。思えば、至極当然の疑問のはずだ。真白にも何度も聞かれた。だがその度に、いい大学に行くためだと答えた。だが、いざ俺よりできる人間にそう聞かれると、何と答えればよいのかわからなくなる。どうしていい大学に行きたいか、考えさせられてしまう。
「俺なりの欲望、なのかな……」
「えっ何、欲望ってどういう意味? 高学歴になって女を食いたいとか、そんなこと考える人だったの?」
律の目はこれでもかというほどにキラッキラとしていた。うわあこいつ、こういうタイプの話に目を輝かせる奴だったのか。なんかショックだ。
「そういうんじゃないよ。俺にそんな行動力がないのはわかるだろ。そうじゃなくて、なんというか、勝ち組になりたい、とでも言えばいいのかな……。田舎でお山の大将をやってる人間を見ると嫌気がさしてくるんだよ。あいつらは、狭い地域のことしか知らない。俺も現状じゃやつらと大差なくて、ただの世間知らずにすぎない。だから、もっと上で、やつらのことはもう視界に入らないくらいには高いところから、眺めたいというのかな……。本当にそんな、不純な理由だ。人を救いたいとも思わないから医学部は目指さないし、理系は大変そうだから文系に逃げた。数学が苦手ってのもあるんだけれど」
なぜ俺は、こんな話をしているのだろうか。こんなこと、誰にも言ったことないのに。欲望を実現させたいという点において、本質的に俺は山田と変わらない。違うのは、それを表にさらけ出すか、うちに秘めているかだけ。だが、その微差はやがて大差になると、俺は信じて疑わない。疑うことは許されない。疑ってしまったら、俺が努力する大義名分は失われてしまう。
「悪い、なんか俺おかしいな。出会って間もない人間に、こんな話するもんじゃなかった」
「ううん、全然。むしろ、嬉しかった。光のこと、少しわかった気がするから」
律は優しい声でそう言った。エアコンは節電のため切られていて、空いている窓の隙間から流れ込んだ風が律の髪を優しくなでた。その姿が、なぜかとてもいとおしく、かけがえのないもののように感じられた。思わず、心臓がドキンと跳ねた。
「夏休みはさ、ひたすらに勉強するんでしょ?」
「ああ、そのつもりだ」
「どこでするの?」
「基本的には図書館だな。閉館後は仕方がないから家でやるしかない」
「塾はいってないの?」
「行く金がない。悲しいことに」
何しろ、俺が大学に進学する際、奨学金を受給することはほぼ確定している。塾に行く金があったら、貯めて大学での家賃に回した方が建設的だ。
「でも、ずっとその生活だったら飽きるでしょ」
「そりゃ、すでに飽きているけれど。無料で使わせてくれる施設なんて図書館くらいしかないからな。都会と違って、有料自習室なんてのもない」
こんな話をして、律は俺をいったいどうしたいのか。金持ちのお嬢様が、貧困家庭の男を虐めて楽しむだなんて、さすがに意地が悪すぎる。さすがの俺も怒りたくなってきた。
「ね、そこで提案なんだけど」
「うん?」
「私さ、夏休みの間、五日間くらいだけど、長野の親戚の家に行くの。長野の結構山奥でさ、涼しいところ。多分勉強もはかどると思う。で、一緒に行かない? という話。もう静には聞いてるんだけど、多分来ると思う」
急展開、とは小説などでよく聞く話だが、これほどにまで急なことが許されていいのか。
クラスに残っていたオタク女子も姿を消し、いよいよこの空間には俺と律の二人だけだった。はたから見たら、俺たちが恋仲であると勘違いされても文句は言えない。
「いや、待ってくれ。確かに涼しく勉強に適した環境というのは魅力的だが、その前に問題が山ほどある。まず、どこの馬骨とも知れない俺が突然律の親戚の家に行くというのは、話が飛躍しすぎじゃないか」
律はニヤニヤとして、体をよりこちらへと寄せてくる。一体どういう了見で俺を誘惑しているのか。俺にたかったところで金は出ないし、何も得るものはないと、頭のいい律ならわからないわけがなかろうに。
「それは大丈夫だよ。親戚といっても私のおじいちゃん、おばあちゃんの家だし。私が連れてきた人って言えば、私と同じように、下手したらそれよりも丁寧に扱ってくれるから。家は広いから、寝る場所だってしっかり確保できる」
「だとしても、俺には妹がいる。俺の家庭状況は複雑で、親が家にいないことがほとんどだ。だから、妹を家に置いたまま長い間遠出するわけにはいかない」
なにしろ真白ときたら、帰宅が深夜になっただけですら、寂しかったとくっついてくるほどだ。それを置いて五日間も出かけるなどしたら、家に帰った時には真白は寂しさで死んでいるか、ぐれて非行に走っていそうだ。
「じゃあ、妹ちゃんも、一緒に連れてく。なんなら、私が妹ちゃんと遊ぶ」
「……正気か?」
「正気だよ」
まっすぐ瞳を見つめ返される。他人と長く目を合わせることは苦手だ。それに、律の顔は特段整っていて美しいのだから、尚更だ。
「そんなことをして、律に何のメリットがある」
「だって、周りに何もないところで五日だよ? おじいちゃんたちのことは好きだけど、さすがに暇すぎて死んじゃう。だから、ちょっとは相手になってくれる人がいたほうがいいの」
「俺は勉強ばかりしているぞ」
「でも、一日中勉強だけしているわけじゃないでしょ。その空いた時間で、遊ぼうよ」
確かに、どれだけ突き詰めたところで、八、九時間勉強するのが関の山ではあるけれど。
そこまで言われると、確かに問題は解消されてはいる。律は悪いやつではないし、むしろ人間的にはよくできているうえに容姿も整っているから、真白だってすぐ懐くだろう。
夏休みの間、俺は真白になにもしてやれないことを少し気にしていた。地域の夏祭りだけが思い出でも、俺は別に構わないのだが、真白は寂しい思いをするんじゃないかと思っていた。
それが、何もない山奥とはいえ、五日間も外で寝泊まりできるというのは、真白のことを考えると、実に魅力的に聞こえて仕方がない。
だがそれよりも、大きすぎる問題がある。凛という、大きな問題が。
ついさっき、なんとか和解したばかりなのに、その矢先で律と五日もお出かけしますなどと言い出したら、凛は怒るどころでは済まない気がする。凛は、夏休み中も週四回のペースで部活があると言っていた。当然、一緒に行くことは不可能だ。
「一度考えさせてくれ。妹と相談しなければならない。返事をするのは後日でもいいか?」
「わかった。連絡待ってる」
その後俺たちは、企画書の下書きを進めて、職員室の担任の机に提出して帰宅した。
例のごとく駅まで自転車を引いていったわけであるが、凛の知り合いに見られてはしないかと、気が気でなかった。
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