第7話


「お兄ちゃん、まだ凛ちゃんと仲直りしてないの?」

「いやそれが……口もきいてもらえないんだよ」


 七月二十七日金曜日、終業式の朝。食卓には、真白の手作りの料理が並ぶ。


「今日を逃したら、夏休みになっちゃうんだよ。わかってる? 今日は、必ず凛ちゃんと話をしてくること。それまで、家に入れないんだから」

「はい。ごめんなさい」


 真白が俺に対してこれほど怒っているのも珍しい。この一週間、俺にベタベタとすることもなく、凛と話せとばかり言ってくる。


「その、真白は凛と連絡とってないのか?」

「とってるよ。それがどうして?」

「いや、良かったよ。少なくとも真白がそこでつながってくれてるなら、ちょっとは安心できるだろ」

「そりゃあ凛ちゃんからしたって、ましろは好きな人の妹だもの。あんまり関係を悪化させたくもないでしょ。ましろは凛ちゃんのこと好きだし、当然、これからも仲良くさせてもらうつもりだけどね」


 好きな人、か。人生十七年、一度もそんなことを考えたことはない。特に高校に入ってからは、誰が気になるだとか、そんなことさえない。


「凛は、俺と一緒にいて、苦しかったのかな。これまで、何もしてあげられなかったのを思うと、凛がかわいそうで仕方がないよ」


 すると真白は茶碗を乱雑に置いて、半目になった。


「お兄ちゃん、勉強以外のことはほんとにからっきしだね。凛ちゃんはそんなこと思ってないよ。お兄ちゃんと一緒にいて、楽しかったに決まってんじゃん」

「そうか。それなら良かったんだが——」


 家を出る時間になっても、凛はやってこない。真白と一緒に家を出て、徒歩で中学に通う真白と別れて、自転車を飛ばした。

 七月も終盤に差し掛かり、太陽は日に日に勢いを増していた。肩にかけたタオルで汗を拭きながら平和通りを駆け抜ける。凛が家に来なくなってからも、家を出る時間は変わっていないので、いつもより五分早く学校に到着した。


 終業式の今日は、時間的には三限で終わる。そこからバスケ部は部活が始まるはずだが、その時を狙おう。必ず凛を捕まえて、話をする。

 この一週間、よくよく考えたのだが、結局凛に何を言えばいいのかはわからずじまいだった。俺も凛のことが異性として好きだよ、だから付き合ってくれ、と言えればそれが正解なのはわかっている。だが、その正解を踏むことが本当に正解なのかどうか、俺にはわからない。

 

 凛のことは好きだ。だがそれが、異性としての好きであるかどうかを考えた時、俺はノータイムで頷くことはできない。凛は見た目も可愛いし、性格的にもよくできた女性だと思う。だからこそ、俺なんかじゃなく、もっといい男と出会えるんじゃないかと思えてならない。だが、それでも凛は俺を選んだということならば、それを俺は受け止めて、凛に何かしら返す必要がある。

 律との出来事は、本当にただの誤解であると散々弁明した。メールも何通も送った。全く返信はないけれど。


「なーに、思い悩んだ顔してんの?」


 あの日以来、律はやけにフレンドリーに俺に話しかけてくる。勉強中に無理やり割り込んでくるというわけではないし、別にそれが嫌ということもないのだが、周囲の視線が痛々しいことを俺は気にかけていた。

 俺は周囲に無関心でいられたいというだけであって、決して嫌われたいわけではない。


「ちょっと、人間関係で」

「えっ、光も人間関係で悩むなんてことあるんだ」

「どういう意味だ」

「お二人とも、おはようございます。それと、何やら楽しそうな話をしていますね。私も混ぜてください」


 すでに着席していた静がこちらを向いた。


「楽しい要素は全く、どこにもない。それに、俺はこの話を誰かにする気はない」

「え、そこまで匂わせといて、生殺しですか藤原君」

「やめろ、近づくな。期待した顔をするな」

「うーん、気になるなあ、光を悩ませるほどの人間が、一体どんな人物なのか」


 馬鹿かこいつらは。人の悩みなど気にしている暇があったら、勉強でもしたらどうだ。


「そういえば、律さんはいつの間にか光、と呼び捨てですね。もしかして、お二人の間にも何かあったのですか?」

「いや、全くない」

「二人で、放課後デートしたの」

「は?」


 その声は、教室の後ろ側で談笑していた男子だった。俺たちの会話を盗み聞いていたらしい。


「それはそれは……。詳しく聞かせてほしいですねえ」


こちらに顔を近づける静。


「おい藤原、お前殺されてえのか?」


 騒ぎを聞きつけた山田が修羅の形相で歩み寄ってきた。

 その時、チャイムが鳴ったのは幸いだった。同時に担任が入ってきては、着席していない山田を締め上げていた。


「なあ、周りを刺激するのだけはやめてくれ……」

「ごめんごめん、ついみんなに自慢したくって」


 こいつ、どこまで本気だ? 揶揄っているようで、目の奥が笑っていない気がするんだよな。


「じゃあ成績表返すからなー。出席番号中に取りに来い」


 同時に、ええー、いらねえーなどと皆が付き口に言い出す。

 そうとは言っても成績とはいずれ帰ってくるもの。今日が学期の最終日なのだから、成績表が返却されることは皆わかっていたはずだ。

 成績表が返されるまではお互い公表しないということで、俺は律の点数を全く知らない。だから、ここですべてが判明する。俺は、各教科の答案が返却された時点で、全教科の平均点は九十七点を超えていた。まさか、負けることはないだろうと思っている。


「藤原―。残念だったな、点数はいいのにな」


 成績表を渡す際、担任がそう言った。点数はいいのに、何なのだ。点数がいい以上に、テストに何か求められるとでもいうのか。

 見て——数字に違和感がある。現代文、九十八、一位。古典、百、一位。ここまではいい。数学Ⅱ九十二、二位。仕方がない、これは苦手科目だと割り切っている。日本史B、百、一位。現代社会、百、一位。理科基礎、九十八、二位。英語、九十四、二位。英語表現、九十七、二位。やけに二位が目立つ。そして総合、二位。


 目を疑った。総合二位? 俺が? この圧倒的な、他の追随を許さない点数を取り続けてきた俺が負ける?

 椅子に座ってしばらく、その成績表から目が離せなかった。確かに俺は、このテストに際して特別な準備はしていない。いつもと同じく、受験を見据えて範囲など無視して勉強していただけ。

 だが、それでも俺はこの範囲の勉強量で、テスト一週間前からしか勉強しない連中に負けるとは思っていない。

 誰だ、一位は。まさか……


「光、私の勝ち」


 律が掲げたその、無慈悲な成績表。俺が勝ったのは現代文と、現代社会のみ。

 敗北を知りたいなどと、中間テストの時に言っていた俺はいずこへ。敗北の苦渋を俺は味わされることになるとは。

 次の瞬間、ガリ勉のディフェンディングチャンピオンを、やってきて二週間とそこらしか経っていない転校生が打ちのめしたという事実に、教室中が沸き上がった。


「すごい! りっちゃんすごい! 一位⁉ さっすが、名門校出身は違うね!」

「すげえ! 律さんすげえ! あの藤原に勝つってマジか! あの一生勉強しかしてない藤原に!」


 その周囲の大騒ぎのせいで、俺はむしろ冷静になっていた。東大に毎年二桁を送り込む名門高校出身。確かにうちの高校は偏差値も低いし、難関大学に受かる人間など本当に一握りだけれど、それでも教師の癖を見抜いて、初回のテストで満点をとるのがどれだけ大変なことか、俺が一番よく知っている。律は本当に、東大に受かるのではないか。

 加えて、英語においては帰国子女という圧倒的なアドバンテージを有している。それは、俺があと一年英語をいかに勉強したところで、決して追いつけないほどの絶対的な差だろう。適わない。


「俺の負けだ。完敗だよ。正直、律のことを見くびっていた。うちの数学教師は意地が悪いから、最後の大問には国立大学の入試問題を持ってくる。それさえ完答して満点を取られてしまうのでは、もう俺は君には叶わない」


「おいお前らあ! 他人の成績なんて気にしてないで自分の成績見つめたらどうだあ? クラス平均点はそこの二人が底上げしてるのにこの有様だ。二組にも三組にも負けて恥ずかしくないのか? なー、しっかり勉強しなろよなー」


 と、学生時代まともに勉強してきたようには見えない教員が言った。爆発的な盛り上がりを見せた教室もすぐに静まって、成績表を凝視する者、投げ捨てる者、ゴミ箱に放る者さえいた。


「一教科でも赤点取ったやつは補習だからなー、覚悟しとけよー。じゃあ、大掃除に行け! 解散!」


 担任が教室を出ていくと、律の周りには転校初日のような人だかりができた。

 反対に俺の周りには誰一人として人は寄ってこない。勝者と敗者。そもそも、前回もその前も一位だったが、誰一人として寄ってきたことはないのだが。

 だが、ただ一人、

「まさか、藤原君より勉強ができる人が現れるんですね」


 静は人だかりを避けるように、俺の後ろにやってきた。


「ああ、俺も正直驚いている。都会の名門校出身は、地が違うな。たった一年間の付け焼刃じゃあ、到底太刀打ちできないよ」

「藤原君、あまり悔しそうじゃないですね。普段、あんなに勉強に賭けているようなのに」

「あれはホンモノだからな。絶対に敵わないと察した時、人は悔しさより、憧れを感じるんだろうな。むしろ、俄然やる気が出てきた、あと一年半で、俺はあれにどれだけ近づけるんだろうな」 


 掃除場所である階段へと向かう途中、妙に清々しさを感じていた。この、雑魚しかいない高校に、俺を超える奴が突然やってきた。燃えるじゃねえか。あれを超える。そのために、俺は今以上に自分を殺してやる。

 三組の前を通る際、教室掃除にいそしむ凛の姿が目に入って、急に現実に引き戻された。

 自分を殺す前に、俺にはなさねばならないことがあった。凛は、いつもより暗いように見えた。さすがにここで呼び止めるのは良くないと思い、通り過ぎて掃除場所へと向かった。


 それからクソ暑い体育館に全校生徒が呼び集められ、寸分の価値さえない校長の長ったらしい話を聞き流すこと数十分、ようやっと終業式は終わりを告げられた。

 教室に戻ると、夏休みの注意事項が告げられた。やれ髪を染めるなだの、夜遊びはするなだの、火には気をつけろだの、まるで底辺校のような程度の低い注意喚起の紙を貰い、消防署、警察署からの知らせを聞き流すと、ホームルームは解散となった。


 晴れてわが校は、夏休みを迎えた。早速、至福の時間の到来に狂喜乱舞した男子生徒が掃除用のロッカーにタックルを仕掛け、廊下を通りがかった男性教師に説教を食らっていた。


「光は、この後どうするの」


 もう律を部活に勧誘する者もいなくなったようだ。


「少し、校内で用事がある」


「ねえ、その用事が終わったらでいいんだけど」

「うん」

「学園祭のクラス企画、少し相談したいなって。先生が、夏休みの序盤には一度企画書を見せに来いって」


 ああ、そのことか。


「わかった。俺の用事がいつまでかかるかわからないから、どこかで待っていてくれ。図書館でも構わない。連絡くれればどこへでも行く」

「ええ、ちょ、ちょっと待ってよ光!」

「悪い、急ぎなんだ」


 鞄は置いたまま、俺は教室を出た。律をないがしろにしたのは申し訳ないが、そもそもこの面倒ごとの発端は律にあるのだから、このくらいの無礼は許してもらいたい。

 三組の教室では、凛が数人の女子と集まって昼食をとっていた。俺に気が付くと、バツが悪そうに視線を逸らしたが、それに気が付いた女子生徒が凛の背中を押し、渋々といった感じで凜はこちらへやってきた。


「凛。話がある」

「ん」


 凛は俯いたままで俺と視線を合わせようとはしなかったが、一週間前と比べたら冷静さを取り戻しているようだ。


「ここじゃあなんだし、場所を移さないか」

「ん」


 凛は一度昼食の輪の中に戻ると、何か話し、やがてこちらへやってきた。まだ廊下には生徒がたむろしていて、彼らの視線をかいくぐるように、俺は西校舎を目指した。

 数学演習室には、予想通り誰一人としていなかった。だだっ広い空間に、机がひたすらに並べられていた。


「悪かった。俺は何も気づけなかったよ。まさか、凛がそんな風に思っていただなんて、考えたこともなかったんだ。真白に言われて初めて知った」

「うん」

「だから、凛が怒った理由もわからなかった」

「……」

「今ならわかるよ。俺は恋だとか愛だとかまるで知らないけど、想像することくらいはできる」

「嘘」

「え?」


 凛は相変わらずこちらの目を見ないが、そう確かに言った。


「嘘。光にわかるわけない」

「どうして?」


 凛は机に座ると、ミュージカルで一人語りを始める演者のように、

「光はさ、誰かを好きになったこと、ある?」

「……ない、な」


 正直に言うほかなかった。


「私もさ、知らなかった。人を好きになることが、こんなにつらいことだなんて」


 つらい、か。


「私、いつも光のこと考えてる。今何してるかなあって。どうせ勉強してるんだろうけど、もしかしたら私のことを考えてくれてるんじゃないかなって、どっかで期待したり」


 エアコンがかかっていないため、徐々に暑さが浸透してきた。教室の端に置いてあった扇風機が目に入ったが、それをつける行為はどうも躊躇われた。


「光は私に優しくしてくれてる。大事にしてくれてるって伝わるんだ。でも、それは幼馴染として。友達としての行動だってのも、わかっちゃうんだよ」

「……」

「だから、怖かった。こんな気持ちを伝えたら、きっと今のままじゃいられなくなる。光が私を拒絶したら、私は私でいられなくなる。だから、このままでよかった。このままでも、私は十分幸せ」


 相槌以外の発言は許されないようだ。というより、ほかに何を言えばいいのかまるでわからない。凛は机をぎゅっと握って、声はほとんど絞り出すように細くなっていった。


「光が、転校生とふたりきりでいたって聞いた時、もうパニックだったんだ。光が取られちゃう。もう私に優しくしてくれない。私が光のそばにいる権利もなくなっちゃうって」

「そんなことはない。別に、今まで通り接してくれていい」


 凛は涙ぐんでいた。が、泣かせた当人である俺が、一体どう慰めろと言うのか。


「でも……ばれちゃったよね。私の気持ち」

「……ああ」

「私、光の足枷になりたくなかった。光が勉強をする邪魔になんかなりたくない。光は優しいから、私が迫れば付き合ってくれるかもしれない。でも、そんなのは嫌! わがままかもしれないけど、光が私を好きになって、それでから……それでからがいいって……。私、バカだよね。こんなこと言って、光は困るに決まってるのに」


 凛は、俺が渡したハンカチをもうほとんど濡らしきっていた。


「別に困りはしないよ。ちょっとびっくりしただけだ」


 凛の隣の机に腰かけた。廊下を男子数人組が通り過ぎていき、そのあとで再び静寂が訪れた。


「私、光に女として見てもらいたい。一人の異性として意識してほしい。だから、頑張るよ。見た目で転校生に勝てる気はしないけど、光とかかわってきた時間だけは絶対に負けないもん。だから、転校生にだって負けない。勝って、光に選んでもらう」


 何を言い出すかと思ったら。

 泣きはらした目は真赤になっているが、もう涙は止まっていた。


「そもそも、律は俺のことなんてどうとも思っていないはずだけど」

「り、りり律って! 呼び捨てした! 光が私以外の女を呼び捨てにするなんて聞いたことない! たとえ転校生が何も思ってなくても、光が思ってたら意味ないじゃん! あーもう最悪! 最悪、最悪最悪!」

「おいおい、落ち着けって」

「落ち着いていられるわけないじゃん! いい? 光は自分が思ってるより、ずっと魅力的な人なんだよ。私のためにだったらすぐ自分を犠牲にするし、わがままだって聞いてくれる。実の妹があんなに慕っているのが、何よりの証拠でしょ!」


 魅力的? 俺が? 恋は盲目とはよく言ったもので、凛には俺がどうやら別生物のように映っているのかもしれない。


「光、こっち向いて」


 そう言われて律の方を向くと、すぐ目の前に上気した律の顔があって、次の瞬間には、頬になにやら柔らかい感触が。


「わ、私は光の彼女じゃない。だから、光は何も気にしないでいいよ。好きにしていい。転校生と仲良くしたってかまわない。でも、言わせてみせる。私が好きだって。だから、待ってて」


 顔は赤くしたまま、凛は足早に教室から出ていった。何が何だか、まるでわからなかった。

 どうやら、ただひたすらに勉強するという俺の夏休みのプランは、開幕から脅かされているらしいということだけが、確かなことであった。


 その後数分間、凛が言ったことの意味を考えていた。どうやら、俺はいますぐに答えを出す必要はなく、自分の気持ちに正直に行動すればよいということらしかった。それと、凛はなぜか律を恋敵と想定しているようだ。恋敵などになるわけがないだろう。方や、両家のお嬢様。方や、田舎の青臭いガキ。一体どの世界線で、俺と律が恋仲になるなどという妄想が通用するというのだ。

 ただ、思った以上に、凛は俺に執心しているらしい。夜も眠れぬくらいに、俺のことを好いていると。そんな風に思ってくれる人間がいるということが、どれだけ幸せなことか俺は理解していない。当分理解できない気もする。凛が知ったらしい「恋心」というものが、俺にはいまだにわからない。その相手のことを考えずにいられないなどということは、本当に一度も経験したことがないのだ。

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