第6話
言われた通り、俺は自転車で甲府駅へと向かった。奢ってくれるというのであれば、それに従わない理由はない。弁当を作ってくれている真白も、同時に期末テスト期間を迎えていたため、今日まで一週間弁当はない。ここまで四日は自分の金から捻出していたわけであるが、正直、苦しいというのが本音だ。
南口のどこで待っているとは聞いていなかったが、地下駐輪場に止めて地上に出ると、荘厳な武田信玄像の前に、律が立っているのが確認できた。
「あ、光来た。じゃあ行こうか」
「まだ二週間なのに、よくそんなところ知ってるな」
「うん、色々調べたもん。ほら、こっち」
律に連れられ、少し南側へと歩き、飲み屋が立ち並ぶ中を進んでいくと、確かに見たことのないパスタ屋がある。
「パスタ、嫌いじゃないよね」
「うん。普通に好きだけど」
「じゃあ、よし」
時刻は一時半を回ったところであるが、そこそこ席は埋まっていた。店内流れるクラシック音楽の曲名はわからず、制服を着た俺たちはずいぶんと場違いのようにも感じられた。店頭に置いてあったメニューの値段を見ても、学生向けに作られた店でないことは確かであった。
ウエイターに案内され、奥のテーブルに対面するように座った。凛と、真白以外の異性と二人きりで外食することなど、初めてかもしれない。
「私さ、色々聞きたいことがあるの」
「俺に?」
「うん、光に。まずさ……光は、私に興味ないの?」
なんだ、そのダイレクトな質問は。口に含んだ水が大きな音を立てて食道を流れていった。
「それは、どういう意味」
「そのままの意味だよ。突然やってきた転校生に、クラス中興味津々だったでしょ。最近は落ち着いてきたけど、それでもまだ」
自分に対する関心が多いということ。決して自意識過剰でもなく、現に事実だ。まるでアイドルのように、これまでの律は注目を集めてきた。
「俺みたいなやつだって、他にもいるだろ。全員が全員、律に執心してるわけじゃない。俺はその、少数の外野の一人ってだけだよ」
「そうは言うけどさ、光は後ろの席だし、初日に机を運んでくれたし。それなのに、全然私に話しかけてこないなーって。静とは結構仲良さげなのに」
「そうだとして、それは珍しいことでもないだろう。新しい人間関係は苦手なんだよ。今日だって、奢ってくれると言われてなければ断っていたかも」
こいつは、俺に興味を持たれないことを不満とでも言いたいのか。あれだけ多くの注目を集めておきながら、末端のごく少量分子でしかない俺をも自身に取りつかせないと満足がいかないほど、ワールド・イズ・マインの精神を具現化したような人間なのか。そうだとすれば、部活の勧誘を避けたがる理由がよくわからないことになる。所属している部活は、その人間に色を付けるものだ。
「ふーん、そうなんだぁ」
「そうなんだよ。今の俺には、勉強以外のことを見ている余裕はない」
ウエイターが注文を取りに来て、俺はおすすめと書かれていたパスタを適当に選んだ。
すると、律は
「あ、こっちは大盛りで」と、俺の方だけ大盛りを頼んだ。
「何も言うな。食べ盛りの男の子なんだから、たくさん食べなさーい」
律はにやっと笑った。だめだ、俺にはこいつがわからない。授業終了時からのほんの一時間で、妙に疲れた気がする。凛と二人でいるときは、こうはならない。次に何を言うか、大抵想像がつくから。表情を見ればすぐ感情は察せるし、逆に察してくれる。
「聞きたいことって、それだけか?」
「ううん、まだある。光はさ、本当に彼女いないの?」
ふごっ! 今度は本当に水を吐きかけた。この女は一体何を聞いている。
「まあ、いないけど。そんなこと聞いてどうすんの」
「どうもしないけど。その情報自体を知りたかったんだもん。その、九重さんだっけ? 可愛いと評判の幼馴染とは、どうして付き合わないの?」
律の口から「可愛い」という言葉が出たことが、ひどく意外なことのように思えた。こいつに、自分が可愛いという自覚がないわけがない。凛のことを見たことがあるかはわからないが、見ればおそらく、私の方が可愛い——と、そう思うに違いない。
「どうしてと言われても、別に向こうだって俺をそういう目で見てるわけじゃあないだろ。ずっと昔から一緒にいるし、俺だってそんな目で見たことはない」
「え、光ってもしかして彼女いない歴=年齢の人?」
「そうだよ、悪いか」
すると律は心底嬉しそうな表情になった後、
「ま、私もそうなんだけどね」
とふざけたように。
なんだこいつは。元都会のJKである律をライオンだとしたら、世間知らずの田舎の男子高校生である俺は、さながら生まれたばかりの鹿であり、権力関係としては圧倒的な差がある。
そのライオン様が鹿を追いかけまわして遊ぶなど、もはや趣味の悪い遊び以外の何物でもない。どうせ虐めるなら、山田あたりを標的にしてやればいいものを。奴なら、否奴でなくても大半の男子なら、喜んで鹿役を受け入れるに違いない。
ああ、追いかけまわされて疲れた。ひ弱な小鹿である俺はウエイターを呼んで水のお替りを貰うと、律から距離をとって座席に深く座った。
「私が質問してばっかりだから、光も私に何か聞いていいよ」
律は頼んだメロンソーダを飲みながらそう言った。
「じゃあ、英語の文法書、おすすめがあったら教えてほしい」
「え⁉ そんなの、今聞くこと?」
質問をしろと言ったのはそっちだろうに。
「うーん、英語は勉強したことないからなあ……」
「勉強したことないって、一度も?」
「うん、一度も」
律は、さも当然と言った風に。
「カルボナーラのスペルは?」
「シー、エー、アール……」
「どこに何年間留学を?」
「私、留学してたわけじゃないんだ。親の仕事についてっただけ。小四から中三まで、六年間、ロンドンに」
あー、終わった。これは英語で勝てるわけがない。マジモンの上級国民、勝ち組、エリート、貴族、英才教育。
愚民、貧民、賤民、負け組、田舎者、片親の俺がはなから勝負していい相手じゃない。
生きる世界が違うんだ、こいつと俺は。律の母親が、娘がこんなどこの馬の骨とも知らぬ底辺と一緒に昼食をとっていたなどと聞いたら卒倒するに違いない。
「いや、悪い、俺が悪かったから許してくれ。俺と君では住む世界が違う」
「待って待って、話の流れが読めないんだけど」
そこでパスタが運ばれてきた。俺がいつも行くファミレスとは皿の質からして違いそうだ。
口に運ぶと——美味い。さすが、二千円するだけはある。正直、家で作ればパスタなど百円で作れるのに、どうしてこんなに高いのかと思っていたが、確かにこれはうなずける。
「どう、味は?」
「美味いな。こんなに美味いパスタを食ったのは初めてかもしれない」
「大げさだねえ……」
そりゃあ、ヨーロッパに長く住んでたやつにはわからんだろうが。
「で、さっきの住む世界が違うっていうのは」
パスタを咀嚼し終えて、律が言った。フォークの使い方は、ずいぶん慣れているように見える。
「そのままの意味。俺みたいな低級民族とかかわっても禄なことがないよということ」
「ねえ、光」
「ん?」
「そういうところだよ、静も言ってた。卑屈すぎるんだって。もっと自分に自信もっていいじゃん! 現に勉強できるんだし」
「たかが高校生が勉強できたところで何の自慢になる。せめて、大学受験が終わってからだろう。今の俺は、ただの下級国民だよ。その連鎖から抜け出そうと必死にあがいてる哀れな蟻」
「面白い表現するんだね、光は」
「お褒めに預かり光栄」
パスタを平らげて、水を飲んだ。時刻は二時半近くなっていた。本来であれば途中のスーパーで安い弁当を買うはずだったので、それと比べたら勉強時間はだいぶ削られてしまっている。
「図書館は、行くの?」
「一応、行こうかな。光の言う通り、部活の勧誘から逃げたいのが本音だから、ひとまず目的は達成できたんだけどさ。せっかくだし」
「そうか。奢ってもらってありがとう。美味しかったし。誘いに乗ってよかったよ」
テストでわからないとこを教えてもらう、というのは完全に方便だろう。どの程度かわからないが、俺の実力を知ったうえで勝負などと言っているのだから、それなりに勉強に自信はあるはずだ。そうとなれば、あの程度の定期テストでわからない問題などあるはずもない。ケアレスミスと、知識の抜け落ち程度であろう。
図書館の二階で別れて、俺たちは少し離れた席に座った。
五時を回ったところで、律は先に帰ると言った。俺はきっちり八時まで籠った後、やはり最後に図書館を出た。
自宅に帰れば、真白が飯を作って待っていることだろう。急がないと。
帰ったら、まずシャワーを浴びたい。汗が染みこんだポロシャツのにおいをかぐ。制汗剤の臭いと汗のにおいが混じって、何とも言えない不快な感じがした。
玄関を開けて、何かがおかしいことに気が付く。いつも真白が履いているスニーカーの隣に、もう一足、これは確か……
「光、おそい」
聞きなれた声。
「なんで凛がいるんだ」
「お兄ちゃん、これはね……」
リビングの机の前に、正座をした凛が鬼の形相で座っていた。
「光、ちょっときて」
怒っている、それだけは確かなことなのだが、どうして怒っているのかが、まるで見当もつかない。今日の昼、あの状況で凛の頭を撫でなかったことを、それほど引きずっているとは思えない。
「座りなさい」
じっとこちらを睨む凛と裏腹に、その後ろに立つ真白は穏やかな顔をしていた。
「どこ行ってたの」
「図書館」
「誰と?」
「一人——」
ああ、そういうことか。もう知っていたのか。
「じゃなくて、転校生と」
「もう! 光のバカーーーーっ!」
聞いたことないくらい、大きな声。思わず俺の肩も震えた。隣近所に迷惑になったりしていないだろうか。
「バカバカバカバカバカ! なんで! 私に何も言わないで!」
「おい凛、いったん落ち着けって。あれはだな」
「落ち着いていられないよ! だって光が、光が女の子と一緒にって! そんなこと今まで一度もなかったのに! あの勉強バカで鈍感で真面目でモテない光が!」
その声は涙交じりだった。真白が凛のそばによって肩をさすっていた。俺が近づいたら、間違いなく跳ね除けられるという想像はいとも容易くできた。
「待て凛、確かに今日、俺は律と一緒に図書館に行った。だが、それが何の問題だ?」
すると、凛はゆっくり顔を上げて、絶望したような表情になって、
「もう、光なんて知らない! だいっきらい! 顔も見たくない!」
凛は置いていた自分の鞄も持たず、一目散に玄関へと逃げていき、バタバタと階段を駆け下りておく音がここまで聞こえてきた。
一体、何が起こったのか。まるで理解ができなかった。凛は何に怒って、俺はなぜ怒られたのだろう。俺に落ち度はあったか? テスト期間中は一緒に帰宅しようと言われて、俺もそれに了承していたから、昨日何も声をかけずに一人で帰ってしまったというのなら、俺も悪いとは思う。だが、それも昨日で終わりのはず。凛の部活は今日から再開している。
「お兄ちゃん、気づいてなかったんだね」
立ち尽くす俺に、真白が背中から声をかけた。
「凜ちゃん、ずっと、お兄ちゃんのこと好きだったんだよ」
「す……き?」
凛が、俺を? 異性として?
「いつから?」
「もう、何年も前から。ましろには、すぐわかったけど。お兄ちゃんも、気づいていて、それでいて今の関係を続けてるのかと思ってた」
全く、気が付かなかった。俺は、幼馴染失格だ。そんなことにも気が付いてやれないなんて。
「手遅れにならないうちに、なんとかした方がいいよ」
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