第5話
テスト終わりの本日は午後の授業はなく、部活が長い時間できるため、野球部などの体育会系は落胆し、好きで部活をやっている文化部などは楽しそうに教室から散っていった。
俺としては、午後を丸々勉強に費やすことができるため、ありがたい限りである。
意気揚々と掃除場所から戻って鞄を掴んだ際、
「藤原君、もう帰っちゃうの?」
自席で鞄に教科書を詰めていた律が聞いてくる。
「もうやることないし。帰るよ」
「この後は何するの」
「図書館に籠って勉強」
「図書館って、あの駅の北口の?」
「そう」
律が呼び止めてくれたおかげで、古文単語長を机の中に置き忘れていたことを思い出した。
「ねえ、私も……私もついていっていい?」
その声は思いの外大きかった。その証拠に、最前列に座っていた名も知らぬ女子もこちらを向いていた。
まさか律の口からそんな言葉が発せられるとは思っていなかったため、思わず古文単語長を落としてしまった。
「え、部活見学とかはいいの?」
「う、うん。それもそうなんだけどね……今日のテストでわからなかったとことか、教えてほしいし……」
少し俯いて、恥ずかしそうにする律。これはいったいどういう状況か?
額から一滴、汗が垂れているのがわかる。俺は試されているのだろうか。残念ながら、頭をどう扱おうと、その申し出を断ることのできる論理的な理由が見つからなかった。自分の勉強時間を確保したいなどというのは、定期テストを終えた日の午後の活動予定を聞かれている高校二年生に許される言葉ではなかった。
「別に構わないけど」
「本当に⁉ やった、嬉しい!」
教室の入口に立った山田は、まるでコペルニクス的転回に対面したかのような愕然とした表情をしていた。クラスのだれもが時が止まったかのように、俺たちのことを見つめていた。
「お昼ご飯はどうするの?」
「今日は、どっかで食べてくつもりだった」
「ふーん。じゃあさ、駅前のパスタ屋さんとかはどう? 私おごるからさ」
「えっと……別に構わない」
もはや、猪突猛進する律相手に、無力な小人である俺は何もなす術がなかった。操り人形のように、消極的な肯定運動を続けるだけの単純機構であった。その言動の意味は何一つ理解できなかったのだが、理解しようという努力すら放棄するほど、俺の頭は勉強以外に容量を使いことを嫌がっていた。
「じゃあ行こうよ」
律はそう言って俺の背を押して教室から出た。まるでライブの舞台に立つアーティストのように、クラスのだれもが俺たちに注目していたが、誰一人として話しかけてくる者はいなかった。
校門を出ると、人の姿は少なくなり、注目の的としての役割にサヨナラを告げることができた。
「なあ、何の目的でこんなことをしたんだ?」
「だって、藤原君学年一勉強ができるって、静が言っていたし」
「田舎の雑魚高校で一位だろうと、たかが知れている。現に、英語において、俺は四条院さんより下かもしれない」
高校の最寄り駅までの道のり、俺は自転車を引き、律と並んで歩いていた。誰がどう見てもカップルだと勘違いするくらいには、この道を男女が二人で行くことは決定的な行動である。
この女の行動の裏には何かあると、俺の勘が叫んでいた。しかし、俺に取り入ることのメリットなど、一切考えつかない。
「本当に、一緒に図書館に行くのか?」
「本当だよ? もしかして、藤原君逃げるつもりじゃないよね?」
「そんなつもりは全くないけど……」
「けど?」
律はこちらに顔を近づけて、いたずらする子供のように口角を釣り上げた。凛も似たような表情をよくする。
「四条院さん、イメージと全く違う。もっとお嬢様かと思ってた」
「そうそう、その四条院さんってのやめない? 私のことは律、もしくはニックネームで呼んでよ。藤原君は、光か光くん、どっちがいい?」
「どっちでもいいけど。どうしても名前で呼ばなきゃだめ?」
「りっちゃん、でもいいよ」
そういうことが言いたいのではないのだけど。おかしい。律に対して抱いていたイメージが一気に崩れていく。こんな風に、足を振り上げて歩く女子を想定していたはずではなかった。
「で、何の話してたっけ。あ、お嬢様がどうとかいう話ね」
歩道がないにもかかわらず交通量は多く、かつ駅に行くまでに避けては通れない道のため、生徒からは不評である道に入った。大手家電量販店の横を通り過ぎるくらいで律は結っていた髪をほどいて、その綺麗なストレートヘアを露わにした。
「私、そんなにお嬢様じゃないし、普通の人だよ。みんな私のこと一目置いてみてるみたいだけど。光も私のことそう思ってたの、ちょっとショックだなー」
律は「普通の人」という部分を強調しているように感じた。
「この前、ゲーセンに一人でいたことと何か関係がある? 今日、部活再開日で間違いなく熱烈な勧誘がなされるだろうということと」
思ったことをつい口に出してしまった。律ははっとしたようにして、それから諦めたように、
「やっぱり、わかるよね……。私、本当は部活なんて入りたくないもの。人間関係は面倒くさそうだし。女子だけでも面倒くさそうなのに、軽音部なんて、色恋沙汰にしか目がない男子生徒も溢れているでしょ。あーもう、考えるだけでも虫唾が走る」
なるほど。律はきらびやかな見た目とは裏腹に、本質的なところで俺と近いのかもしれない。
それで、同じ性質を持っていそうな俺を標的にして、部活の勧誘から逃げるための盾としようとしている。俺と同じ係りになったのが、ひょっとしたらその契機か。
「俺は友達もいなさそうだし、部活にも属していないし、勉強以外の万物に興味がなさそうだから、利用するにはちょうど良かったってところか。まんまとひっかかったよ」
「ん‼ そこまでは思ってないよ。藤原君なら、私がこんなことしても、許してくれそうだなって思ったの。でも、これじゃあ悪いから、パスタは本当に奢るし、何ならアイスもつけていいよ」
だんだんと律が、顔がいいだけの一般人に思えてきた。考え方は実に俗物じみているし、話し方に気品も何もない。あの転校初日の、一瞬で空気を変容させた圧倒的なオーラなどは、今は感じられない。
「ねえ、光は勉強できるんだよね」
「この学校の中では、な。多分、律が言っていた高校を母体にすれば、俺はただの有象無象にすぎない」
「期末テストの出来は?」
「普通」
「じゃあさ、私と勝負しよ!」
もう、駅が近づいていた。駅のホームには同学校の生徒が多数並んでいた。
「……何を賭けるんだ」
「私が勝ったら、光は私の言うことを何か一つ聞く。そしてその逆も」
「総合点、だよな? 英語表現なら俺は負ける気がするんだが」
「もちろん、全科目の総合点だよ」
律は満面の笑みを絶やさなかった。俺の唯一のアイデンティティ、それが勉強だ。そのほかのことはすべて負けていい。運動部のエースにスポーツでマウントを取られたところで、もはや何の感情も湧かない。だが、勉強だけは違う。
「受けて立つよ」
「じゃあ、約束ね」
律は小指を出してくる。え? 指切り? 古くね、それに恥ずかしいんだけど。
「早く! こっちが恥ずかしいよ」
「す、すまん」
指を切って、律は駅のホームへへと駆けていった。甲府駅南口で集合ね! という声が聞こえた時には、すでに電車のドアは閉じていた。
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