第4話
七月二十日、金曜日、三限。
定期テストの全科目を消化し、教室内に張っていた若干の緊張の糸も途切れ、非進学校特有の温い雰囲気を取り戻しつつあった。
最終科目、英語表現の問題用紙をもう一度眺めた。迷った問題は一問のみ。九十八点は固いだろう。比較的得意科目である英語科目で、文法さえ完璧であれば間違えるはずがないテスト構成となっていたにもかかわらず、一問でも迷う余地を作ってしまったことは不覚だ。が、あれは問題を制作した教員による意地の悪い満点阻止問題だろう。きっと正解率は異様に低いに違いない。
廊下に出てトイレの方に向かうと、三組から出てきた凛がこちらを見ては、一目散に駆け寄ってきた。
「光ー。できた! 英表、結構できたよ! 光のおかげ。やることさえ間違えなければ一時間で十分って、本当だったんだね!」
「俺が嘘をつくわけなかろう。それと、俺のおかげじゃなくて、たとえ一時間だろうと凛が頑張ったからだ」
すると凛は、頭をこちらに差し出して、まるで撫でられる直前の犬のような恰好をした。
「こんなところでできるわけないだろ。恥ずかしすぎる」
三組の教室から出てきた他の生徒がこちらに注目していた。凛とよく一緒にいるところを見る女子生徒は、口に手を当てて「まあ」と大げさに言った。
凛をなだめて教室に戻ると、担任が委員長の女子と話をしていた。チャイムの時にはすでに静は着席していて、隣の律と楽しそうに談笑していた。律と静はずいぶん気が合うようだ。
こんな風に、静が誰かと楽しそうに話しているのは珍しい。
転校してから二週間が経つ律の周りに人だかりができるということもなくなっていた。
「はい、四限は学園祭の係り決めするぞー。委員長に話はしてあるから、あとはお前ら自分たちで決めて。揉めたりすんなよ。もう高校生なんだから。じゃあ授業終わるときに帰ってくるから」
そう声を張った担任はホームルームの職務を放棄してどこかは去っていった。
教壇上では栗なんとかといった名前の委員長が何やら話し始めた。
どうやら、自習の時間が与えられたようだ。さっきの英語表現のテストで曖昧だった一問を、文法書で探した。が、見つからない。テスト範囲など関係なしにこの文法書はすでに三周している俺が見つけられないのでは、一体どこから出題されたというのか。
随分となめたことをしてくれる英語教師だ。今度授業をボイコットしてやろうかなどと考えているうちに、
「藤原君。ふーじーわーらくん」
「ん?」
囁き声の方を見れば、律がこちらを向いている。こうやってまじまじと顔を見たのは、凛とゲーセンに行ったとき以来だ。
教室内は統制を失い、すでにうるさくなり始めていて、律が後ろを向いていることを咎める者などいるはずもない。
「それ、amassed だよ。蓄積する、amassの過去分詞」
律の声はできない生徒を諭すような優しさに満ちていた。
「もしかして、英語得意? 俺、そんな単語聞いたことない」
「ちょっとだけね、ほんとにちょっとだけ」
なんたる余裕だ。これが名門国立高校のお嬢様がなせる空気感というものなのか?
言われた単語を単語帳で確認してみるが、それらしきものは見当たらない。なぜ、二千五百語収録の難関大学用単語帳に載っていない単語を知っている?
「んー、多分、受験には出ないかな……あんまり使わない単語だし。間違えても仕方ないと思う」
「もしかして、四条院さんって帰国子女?」
「うん……まあ、そうだよ」
その少しすぼめた声が、他人に聞かれていることはおそらくなかった。静だけが、少し興味を持ったようにこちらを向いた。
「律さん、そうだったんですか。確かにそういわれても、全く不思議ではないですけどね」
「静も、藤原君も、このことあんまりみんなに話さないでね」
「ああ、大丈夫だ」
「それと、この前のことも、誰にも言わないでくれてありがと」
今度は耳元に近づいて、囁くように言われた。静は顎に手を当てて、意味ありげにうなずき、少しにやついた。
その笑みが不気味で、静から視線を逸らした。
「そういえば、二人はずいぶん仲良くなったね」
「ふふ、藤原君、羨ましいですか? 律さんはこんなに美人なのに面白くて、よくできた人なので、藤原君にはもったいないくらいですね」
こいつ、案外毒を吐くじゃないか。敬語は使うくせに。
「安心しろ。最初から釣り合うわけないだろう」
「そういう二人こそ、随分と仲睦ましいじゃん」
律は微笑む。その仕草一つ一つが気品高くて、田舎の世間知らずである自分が心底嫌になる。
「藤原君は勉強バカですからね。それに、私と同じ根暗ですし。話しやすいです」
「藤原君は、勉強バカで根暗なんだ……ひどい言われよう」
「根暗で悪かったな」
静が笑うと、つられて律も笑った。
「はいじゃあ次、クラス企画やってくれる人ー」
全く話を聞いていなかったが、どうやら話し合いは進んでいたようだ。すでに黒板の「クイズ企画」の欄には二人名前が書かれていた。
「そういえば、文化祭はどんな感じなの?」
「律さんは初めてですもんね」
「しょぼい。以上。さすが田舎といったやる気のなさだ。都会の楽しい学園祭を去年経験したのなら、残念だったな。クソほど盛り上がらない雑魚イベントだから、期待しない方がいい」
「はぁ……。律さん、藤原君がモテない理由は、どうやらこういうところらしいのです。他の女子曰く、顔は悪くないのに表情が暗すぎる。どうやらクラスメイトの名前と顔が一致しないらしい。時々参考書を見ながらぶつぶつとつぶやいている。学校行事への参加姿勢があまりに悪い。そして案外言葉遣いも汚い。極めつけに、勉強ができることを自慢するならまだかわいいものだが、勉強ができない人に対して、憐れむような扱いをする、それがむしろムカつく、と」
グサグサグサ。言の葉ナイフは時にとんでもない殺傷能力を持つと、本好きの静が知らないわけがない。いや、むしろ知っているからこんな仕打ちをするのか。
その言葉、すべてをクラスの女子が放ったということも考えづらいのだが。少なからず、静の主観が入ってはいないだろうか?
「あの……俺神山さんになんかしたっけ?」
仮にも授業時間中に静がこんなに話をするなど、今まででは考えられなかった。
「クラス企画やってくれる人いないのー? じゃあ後回しにしちゃうねー」
栗なんとかが投げやりに次の役職「ゴミ清掃委員」を殴り書く。
「二人は、何の役をやるの?」
律が聞く。
「俺は何もやらない。確か、去年も数人は何もやらないでいい人がいたはずだから、その枠に収まれるよう最大限努力するのみだ」
「努力って……藤原君はそれでいいの?」
「いい。学園祭などに現を抜かしてる暇はない」
はぁ、となぜか静がため息をついた。
「私は図書委員だから、古本市を持ち回りで担当します。だから、クラスの役決めには、最初から頭数として入れられていないんです。律ちゃん、藤原君は放っておいて、何か役をやりますか?」
「う、うんそうだね」
その後も着々と役は埋まっていったようで、黒板に名前が書かれていない人数の方が少なくなった。
大体、受験も佳境を迎える秋という時期に学園祭などというイベントをやること自体、言語道断だ。今年は百歩譲って当日クラスの手伝いを少しするくらいならいいが、来年は当日参加さえもボイコットしてやろうかと思う。
「えーじゃあ、あと残ってるのがクラス企画だけなんだけど……まだ役が決まってないのは——りっちゃんと藤原君だけ——だよね」
ん? なにか今、不穏な空気が。
「二人がやってくれるとちょうどぴったり埋まるんだけど、りっちゃんは、初めてなのにいきなりはきついかな?」
「え! りっちゃんクラス企画⁉ じゃあ私もそうすればよかったー!」
名前は知らないが軽音部の女子生徒がそう声を上げ、
「りっちゃん大丈夫! 私たちが全力でサポートするから!」
別の女子生徒が机から身を乗り出してそう言った。
「まあ、そうだよね。役とは言っても、クラス企画は結局数人でどうこうなるものじゃないし。クラスみんなでやるものだから、大丈夫だよね」
栗なんとかはそう言って話を終わらせようとして、
「あ、藤原君もいよね?」
と、あくまで事後確認のように。
俺が英単語帳とにらみ合っていたこの十分間ほどの間にいったい何があったのか、知るすべはないが、
「藤原君、どうやら二年生は去年よりも役職が増えて余る人は出ないみたいですよ」
と、静が言う通りなのだろう。
俺はまんまと面倒を押し付けられている、ということらしい。クラスのほとんどの視線がこちらへと向いていた。誰か、俺と代わってくれないかなどと言い出せば、たちまちのうちに批判を浴びせられるに違いない。ただでさえ、俺は帰宅部でかつ授業をまともに受けない人間であるというレッテルを貼られている。
「おい、よりによって藤原が四条院さんと一緒かよ! 俺清掃委員じゃなくていいからさ! なあ交換しようぜ藤原! な?」
山田が手をすり合わせながらこちらへと寄ってきた。「よりによって」俺というその言い草には一言申したいが、清掃委員は学園祭当日忙しいだけのはずだし、夏休み中から学校に来て準備をしなければならないクラス企画なんかよりもずっといい。
だとすれば、下心満載の山田と代わってやらんこともない。
「ああ、山田、お前が望むなら俺は全然——」
「おい、山田」
前の方から男の声がする。
「山田やめておけ、みっともないぞ」
「そうだよ山田、あんまりがっついてるぞきらわれっぞ~」
今度は女子の声。一瞬のうちに、クラス中に山田を煽る雰囲気が形成されて、山田は委縮してしまった。
山田、諦めるな、お前ならできる。
「なあ山田、交代しても——」
「じゃあ藤原君とりっちゃんでいいよね。はい、これですべてけってーい。時間通りに終わってよかった」
栗なんとかは勝手に議題を終了させては黒板に名前を書き始めた。山田がいじけながら席に戻っていくのを、クラス中が嘲笑した。
「ということらしいので、藤原君、よろしくね」
律がそう言うのを、羨ましそうに見てくる有象無象の男子どもの目を睨んだ。
俺は貧乏くじをひいただけじゃないか。そんなに律と一緒がいいのなら、最初からきちんと狙っておけよ愚民ども。お前らが楽な役へと逃げていったのが悪い。
その後担任がやってきては、決まった配役に満足そうにうなずき、ホームルームは解散となった。
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