第3話
転校生がやってきて初日は、騒がしい日となった。特に、転校生が以前いた学校が、文京区にある名門女子大学の付属高校だと知れ渡ってからは、学年中が転校生の話題で持ちきりになった。
その波は留まることを知らず、他クラスから多数の生徒が見物に押し寄せた。
律の後ろの席にいた俺はまるで落ち着くこともできず、昼休みには英単語帳を持ちつい屋上へと逃げてしまった。
その屋上にいた下級生にも転校生の噂は広まっていたらしく、彼らは飯も早々に見物に行ったようだ。
五限の体育では選択科目のバトミントンで、いいところを見せようと張り切った山田がケガをしたらしく、男子には揶揄われ、女子には嘲笑されで泣きそうな顔になっていた。
山田、お前はそういう星のもとに生まれた運命なんだよ。諦めろ。
六限の古典は担当教員が出張のため自習となり、案の定秩序を失った女子どもは授業時間内にも関わらず立ち上がり、律の周りに群がった。
文庫本に目を落としていた静は心底嫌そうな表情を繕おうともせず、じりじりと机を後ろにずらしては、授業終了時には俺のほぼ隣にまで下がってきた。
静は口を一文字に結び、こちらへ何かを訴えているようであったが、俺にそんな目を向けたところで、何も解決しないことくらいわかるだろうに。
授業が終わると同時に掃除場所の玄関へと向かい、班の男子と少しばかり会話をしつつ掃除を早々に終わらせて教室に戻った。まだ、律の周りには数人が集まっている。
こんな騒がしい場所にいてたまるか。帰ろうと鞄を掴んだところで、今朝凛に念を押されたことを思い出す。約束を破ったらどやされてしまうだろう。
仕方なく席に着き、課題として出された数学のワークを開いた。学校の課題などにほとんど価値はない。どうせ集中できない環境でやるのなら、やる価値のないものから先に消化すべきだろうと思い、ノートを開く。
二年生の段階から教室に残って自学するなど、この高校の人間からすれば「異常」なことであり、周りから奇異の視線を向けられることさえある。だが、坂本龍馬もこのようなことを言っていた。世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知ると。
とはいえ、さすがに今日からテスト週間というだけあり、俺以外にも数人、残って勉強に励むの者も見受けられる。
「じゃあさ、学校帰りに渋谷とか、表参道とか行けるの?」
「行こうと思えば行けるよ。でも、私はあんまり行ったことはないけど」
「いいなあ~」
「そういえばお茶の水って、大学たくさんあったよね。イケメンの大学生と付き合ったりしてる子とかいないの?」
「う~ん、私の高校、文京区だったから。あんまり……。もしかしたら、いたのかもしれないけど……」
質問攻めに遭う律は辟易しているようにも見えた。女子どもの後ろには山田含む男子数人が話を盗み聞くかのように待機していて、さながら芸能人のような扱いだ。
「ねえりっちゃん、楽器とか興味ない? 私軽音部なんだけどさ、いまからでも遅くないと思うんだ」
「あっ、抜け駆けずるい~。ね、箏ってわかる? 私、筝曲部っての入ってんの。着物着るんだけどさ、絶対似合うと思う。よかったら、今度見学にこない?」
「いや待って、軽音部も、ぜひ! 今日から一週間部活休みだけどさ、私たち個人的に練習してるんだ。だから、ちょっと見てくだけでも!」
その、筝曲部員と軽音部員の顔に見覚えはあるものの、誠に残念なことに、俺は名前を知らなかった。もうクラス替えから三か月ほど過ぎたというのに。
「あのっ、せっかく誘ってくれたのに、申し訳ないんだけど……今日は用事があるの。まだ引っ越したばっかりだから、手続きとか、色々」
律は努めて明るくそう言ったが、その裏には困惑と、この状況から早く脱したいという意志が読み取れないでもない。
作り笑いなのだが、それでも十分、清涼飲料水の広告に使えそうなほどには美しい笑顔を教室に残して、大量の視線に見送られながら律は教室から出ていった。
最後、律は俺の方を見ていた気がするのだが、きっと気のせいだろう。
律が出て行ったあと、教室内は途端に解散の様相となり、あるものは塾へ、あるものは家路へと散っていった。
すると、少しして
「こーうっ」
「っ!」
右耳に吐息のような音声が浴びせられ、思わず体が跳ねた。
「あ、びっくりしてる」
「お前は子供か。突然耳に息を吹きかけられてびっくりしない人間はいない」
「あっなにそれ! まだ高校生だし~。子供ですよーだ。光だって、同い年のくせに」
広げていた数学のワークを鞄に詰め、席を立った。数問しか進んでいないが、続きは図書館に持ち越すこととしよう。
「ほら行くぞ。凛と一緒にいると目立ってしょうがない」
現に、クラスに残っていた男子の「残党」がこちらを見ていた。
山田は俺に心底恨めしそうな視線を向けてくる。お前は女子なら何でも良さそうだな。
駐輪場で自転車に跨り、昨日と同じ道に出た。
「光、図書館に行く前に、どこか寄っていかない?」
「どこかって、どこに」
高校前の通りを過ぎ、寄り道をする高校生でにぎわうファストフード店に差し掛かったところで凛は切り出す。そこで信号に引っかかり、鞄から水筒を出して茶を飲んだ。氷こそ溶けてはいるが、まだひんやりとしていて美味い。
「本屋、とか?」
言い出しっぺの癖に、凛の語尾には疑問符がついている。
「今から本だらけの場所に行くのに、か?」
「別に本屋じゃなくてもいいけど。じゃあゲーセンとか?」
「別にいいけど。あんまり長居はしないぞ」
スマホで時間を確認した。四時を回ったばかりだった。
「ゲーセンって言ったら、県庁前のところか? ちょうど行く途中だし」
「うん、いいよそこで」
信号が変わると同時に、ペダルをこぎだす。一人で帰るときは時速二十キロほど出しているだろうが、今は十キロも出ていない。勉強時間をより長く確保するという意味合いでは、凛と共に図書館へ行くという提案を受け入れたのは合理的でない。
合理的ではないのだが、悪くはないのだ。こういう時間もたまには必要だと、そう思えるだけの余裕は、まだ持ち合わせている。
「そういえばさ、転校生どんな人だった?」
凛の、肩ほどで切りそろえられた、日本人にしては少し色素が薄い茶色がかった髪は、風でよくなびいた。
「普通の人じゃないか。まだ一日だし、どんな人かなんてよくわからない。というより、凛は見に来なかったのか? 今日、うちのクラスは見物人が押しかけてきて大変だったぞ」
「ううん、見てない。なんか、あんまりこぞって押しかけるのもどうかなぁって思ったから。でさ、超絶美少女ってのは本当なの? うちのクラスでも話題になってた」
「本当、だな。顔のつくりだけなら、間違いなく、超絶美人だ」
「び、び美人っ……て。光、、まるで女なんかに興味なさそうなくせに、美人だなんて思ったりすることあるんだ」
驚いたような、怒ったような凛はそっぽを向いた。
「美人かどうかなんて、ただの客観的事実だしな。あの転校生のことを美人でないと言うやつがいたとしたら、そいつは人生でよっぽど美人に多く出会ってきたか、嫉妬で認めたくないかのどっちかだろう」
「その人と、何か話したりした?」
「特に話してない。向こうは黙って立って人が寄ってくる人気者。俺なんかと話すこともないだろ」
「ふうん、そっか」
凛は少し嬉しそうなトーンで話す。凛の機嫌はわかりやすい。が、その機嫌の原因が何であるのかは、十数年付き合ってきてもいまだにわからないことがある。
新興宗教の集会所の横を通り過ぎ、西に傾きかけた太陽がつくる影を縫うようにして、図書館方面を目指した。小学校のグラウンドではスポーツ少年団が野球の練習をしていた。
歩行者信号が青になった際のこの音楽の名前がなんだったのか、思い出せない。
「凛、テストは大丈夫なのか。もう一週間前なのに、まったく話題にしようともしてないけど」
「うぅ……その話は、ちょっとやめてほしい……。課題をこなすだけで精一杯になっちゃいそうだよ……」
「少しの時間でいいなら、教えてやらんこともない。九時に図書館閉まるから、八時半から三十分は、テスト対策の時間にしよう」
「ほんとに! 学年一位様が私の勉強見てくれるの? 頼りになるなぁ~やっぱり。持つべきは勉強のできる幼馴染だよね」
凛は自転車から身を乗り出して、俺の提案がいかに喜ばしいものであるかを全身で伝えてくる。
「凛のためだけってわけでもない。人に説明することは、自分の理解度を試すいい練習にもなるしな」
だからあくまで、凛、お前は俺に恩を感じる必要はない。俺が高校に入ってから、新たな人間関係を構築する努力を割かずとも、周りからそこまで浮かずに生きていられるのは、凛のおかげという部分もある。
社交的な凛が俺にかかわることは、俺がまともな人間ですよということを周囲にアピールすることに繋がる。だから、せめてもの感謝だ。
などと、口に出して言えるはずもなかった。
やがて、数年前に改築されたばかりの新県庁の裏を通り過ぎ、目当ての複合施設に着いた。
地下には食品売り場、一階には本屋に宝石店。そこからエスカレーターで二階に上 がると、規模はしょぼいものの、一応ゲームセンターの体を成す一角がある。
「なんか、懐かしいなここ。最後に凛と来たのは去年か?」
「うん、そう。去年の秋。体育祭が終わったあとくらい」
「英単語は覚えないくせに、そんなことばっかりよく覚えているな」
「ああもう! 光はすぐそういうこと言う。学校帰りのゲーセンだって、大事な思い出なんだから」
凛はそう、しみじみと噛み締めるように。
大事な思い出、ね。
「私は、一人で結構来てるけどね」
凛の視線の先には、某有名アニメショップがあった。確か山梨県では唯一、ここ甲府の店舗しかなかったはず。
「凛、オタクだもんな。つくづく、見た目とはかけ離れてる」
「何、その言い方~。光は、オタクの女子は、その、嫌いなの……?」
「いや、まったく。人の趣味が何であろうと、他人に迷惑をかけない限り何も思わないよ。それに、凛に薦められて見たアニメ、案外好き」
凛はアニメショップへと入っていき、少年向け漫画の特設コーナーで立ち止まった。
「これ、私の好きな漫画。今アニメやってるんだ。ねえ、今度一緒に見ない? 私の家で。ちゃんと録画してあるからさ!」
凛の目は輝いている。でも不思議と、苦手じゃない。好きなものをストレートに好きと言えるこいつの性格が、たまに羨ましくなる。
俺は勉強なんか好きではない。英語がペラペラになって外国人とコミュニケーションをとりたいわけでもないし、文学を研究したいわけでもなければ、弁護士にも、資本家になりたいわけでもない。それでも、自分を騙す。俺は勉強が好きなんだと。そう自己暗示しなければ、こんな苦行、一日に十時間もやれるわけがなかろう。
そうやって正直に生きられたなら、どんなに楽だろうか。
「夏休み中、少しだけなら。息抜きがてらお邪魔しようかな」
「やった、やった!」
はしゃぐ凛を、レジに立つ女店員が遠目に見ていた。俺はバツが悪くなって、店員から視線を逸らした。
アニメショップを出て、ゲームセンターに足を踏み入れた。学校帰りの他校の高校生カップルがクレーンゲームを前に仲睦まじそうにしているのを見た凛は、なぜか恥ずかしそうに俺と距離を空けた。
「凛、あれやるか」
周囲の筐体はほとんどが最新鋭であるのに、その中心にポツンと一つだけ、時代を感じさせるエアホッケーの台があった。
「ふうん、現役バスケ部レギュラーの私に勝負を挑むんだ?」
「俺だって、元運動部として女子には負けられないからな。大口叩いていられるのも今のうちだぞ?」
「ぷっ、なにそれ。いつもの光じゃないみたい」
凛は口に手を当てて笑った。
「たまにはこういうノリも悪くないだろ」
鞄を横に立てかけ、ポケットから財布を取り出す。
「せっかくだし、なんか賭けようよ」
百円玉を取り出そうとする俺の腕をつかみ、凛は悪ガキのようにはにかんだ。
「いいよ。何にする」
「うーん。夏休み中、勝った方が、負けた方を一日好きにできる権利を得る、でどう?」
「待て、一日⁉ その日全く勉強ができなくなってしまう」
「あれ光、びびってるの? 女子には負けないんじゃなかった?」
約二十センチ下方から、凛が挑戦的な目を向けてくる。実に楽しそうで、こっちまで口角が上がってしまいそうだ。
「いいだろう。受けて立つ。要は負けなきゃいいんだろう。簡単な話だ」
凛も鞄を置き、マレットといったはずの「アレ」を手にした。
試合はお互い一歩も引かないシーソーゲームとなった。凛は、さすが言うだけあって、中々の動体視力を見せてきた。スマッシュの威力では俺が上回っているが、文字とばかり向き合っていたのもあって、だいぶ目は鈍っていた。
そして、二分ほど打ち合った挙句、
「あれっ、止まった? ちょうどいいとこなのに!」
頭上の液晶には、七対七と表示されている。まさか、決着をつけることもなく、時間切れでゲームを終了させることが許されるのか?
「やだ、まだ終わらないもん! 光、これ入れたほうの勝ちね」
すでに台からは空気が出ておらず、滑らかな動きは期待できない。となれば、そう。泥仕合だ。
「望むところだ」
凛の弾いたパックを受け、右側の壁を反射させてゴールを狙う。しかし、それもたやすく阻まれ、カウンターがやってくる。しかし先ほどよりずいぶん威力は弱く、いとも簡単に受けることができた。そして数回ラリーが続く。
熱戦の決着は、思いの外あっけなかったかりする。
何でもないと思われた凛のスマッシュは、俺のマレットを弾いて、こっちのゴールへと吸い込まれていき、
「あ」
回収されては二度と出てこないパックが、終戦をコールしていた。
「はい、私の勝ちっ! やったやったやった!」
まさか、負け? 俺が、凛に?
「一日私の言うことを聞くの、約束だからね」
ここぞとばかりに得意気になりやがって。さっきよりも少し高いトーンの凛の声が俺に敗北を痛感させた。
鞄を再び持ち、頭を掻いてみるが、敗北という事実が覆るわけはなく。
「わかった、約束な。ただあんまり金かかるのはナシな」
スマホを開くと、五時が近づいていた。
「そろそろ行くか。もう結構楽しんだろ」
「うん、行く。私もたまには勉強しないと」
さっきのカップルがプリクラの機械に入っていくのを横目に、俺たちはエスカレーターの方へと向かおうとして、
「あ」
「あっ」
いた。見覚えのある顔が。見覚えどころか、今朝から洗脳のごとくその存在を印象付けられた人物。痛烈に、そのシルエットは、俺の脳の奥深いところに焼き付けられているかのようで。
クレーンゲームの景品のクマのぬいぐるみを凝視していたその少女は、
「あのっ、これは……」
「誰にも言わないから。大丈夫、気にしないで」
教室を出るとき、俺がまだその場に残っていたことを律は覚えているだろう。いくら俺の存在感が薄いとはいえ、さすがに後ろの席だ。
「ね、ねえ、も、ももしかして、あれが、転校生?」
凛が耳打ちしてくる。小さくうなずいて返すと、凛は感嘆したように口を少し開けて
「すごい……天使だ、天使がいる……」
「オタクらしいな」
律の方を向き、まったく気にしていないという様子を醸す努力をして、
「俺は何も見ていない。ここ、甲府駅から近いし、割とうちの生徒も来ることあるから、気を付けたほうがいいかもな」
「うん、ありがとう。藤原君。この恩はまたどこかで」
そう言って頭を下げた律に会釈して下りのエスカレーターに入った。
凛は終始困惑した様子で俺の後を追い、肩を掴んでは揺らしてくる。
「ねえ! なにあれ。知り合いっぽかったじゃん! 話したことないんじゃなかったの⁉ 光の名前まで覚えてるし!」
「大したことじゃないから。ただ、ホームルームの時に机を運ぶのを手伝っただけだ」
「あーあーあー、光が嘘つきだー! 知らないって言ったのに!」
「だから落ち着けって」
そのあとも、図書館に着くまで凛はぶつくさと文句を言い続けた。俺としては、本当にそれ以上何もないのだから、弁明のしようがなかった。
どうして律は嘘をついて帰ったのか、その理由を一瞬考えたりもしたが、そんなことに脳を使うのは無駄なような気がして、図書館で席を確保してからは、律のことなど、一切頭から消えていた。
八時半に一階に再集合した時には、凛もそのことを話題に出すこともなく、数学がまったくわからないと泣きつく凛に、基礎の基礎から教えてやった。
正直言うと、俺も数学は得意ではなく、むしろ一番苦手な教科ですらあるのだが、その俺でも十分指導役が務まるほどには、凛の学力は壊滅的だったということを俺は再認識した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます