第2話
翌、月曜日の朝。八時前にチャイムが鳴った。鏡に映った気の抜けた顔を見つめているうちに、真白が玄関を開けて、凛が入ってくる。
「凛ちゃん、おはよ~」
「おはよう真白ちゃん、光起きてる?」
「起きてるよ。まだ寝ぼけてるけど」
鏡越しに、目の覚め切った凛の顔が覗き込んだ。
「光、眠そうだねぇ。シャキッとしなさいシャキッと!」
背中を叩かれた。エンジンがかかり切っていない体には、割と重い一撃だった。
「月曜の朝からそんなに目を輝かせている人間の方が少数派なんだよ。それと、毎朝うちに来なくていいといつも言っている」
「うわっ、ひどい~。ねえ真白ちゃん! 光がいじわるだよ~!」
準備を済ませて自室から出てきた真白に凛は泣きつく。
「大丈夫だよ凛ちゃん。あれはお兄ちゃんなりの照れ隠しだから。お兄ちゃん、知らない人の前ではとことん無愛想だから、凛ちゃんが同じ高校じゃなかったら、きっと大変だったでしょ」
真白はそう言って凜をなだめて、
「はいお兄ちゃん、お弁当」
俺に手製の弁当を渡すと、先に家を出ていった。
「ほえ~真白ちゃん、本当によくできた子だねえ~」
「感心していなで、凛も見習ったらどうだ。もうちょっと落ち着きのある生活をだな……」
「あーもうわかったから、早く行くよ!」
ポロシャツの裾を掴まれ洗面所から出されると、廊下に置いてあった鞄を押し付けられる。
「わかった、わかったから。腕を引っ張るな」
自転車に跨り、凛の後についた。
「進路希望調査、書いた?」
「書いたよ」
「やっぱり、東大?」
「一応。受かるかどうかは別として、希望はそうだ」
甲府駅に向かう上り方面の車はかなり混雑していた。その逆方面へ向かう歩道には、同じ高校の制服姿がちらほらと見える。朝にもかかわらず強い光がコンクリートにたたきつけられていた。
「私は行けても甲斐大が限界かなあ……。それですら、行けるかわからないし。でも、そうしたら光とは離れ離れになっちゃうんだよね?」
「俺が県内に残ることはないだろうな。医学部志望ならともかく、文系だし」
「やーだなー。大学も、光と一緒のところがいいなあ。一緒じゃなくとも、せめて近くだったらいいのに」
信号に引っかかった。仲睦まじく登校するカップルの姿があった。俺たちの間に彼らのような初々しいものはなく、あるのは腐れ縁ゆえの微妙な距離感のみであった。
二十分ほど、他愛もない話をしているうちに、高校へと着く。
「今日、図書館行くんでしょ? 私もついてくから」
「ああ、わかったよ。俺は教室にいるから、迎えに来てくれ」
手を振って廊下を歩いていく凛と別れて教室に入ると、いつもより少し騒がしいように感じた。一組の窓際最後列、特等席。
「何かあったの?」
隣の席に座る女子は、数少ない、俺が話せる異性であった。神山静、カバーを付けた文庫本から一切目を逸らさないおさげの女子生徒は眉一つ動かすことなく、
「転校生が来るらしいですよ」
「ああ、転校生」
土曜日、凛が言っていたような。
「うちのクラスに?」
「そうみたいです」
「ふうん」
予鈴が鳴った。が、大半の生徒は依然座るでもなく、まるで生産性のない話題に終始していた。
「興味、なさそうですね」
「いや、まあ。コミュ力皆無の俺には関係ないことだし」
「そうやって、俺はコミュ障だからとか言って言い訳してますけど、ただ面倒くさがりなだけですよね、藤原君。現に私とは普通に話していますし、三組の、九重(ここのえ)さんでしたっけ、とはすごく仲良さげに話しています」
九重、と聞いて一瞬誰のことかわからなかった。凛のことを名字で呼ぶ人は珍しい。
「まあ、そりゃあ」
「言いたいことはわかりますよ。九重さんとは、幼いころから仲がいいからと言いたいんですよね。でもじゃあ、私とはどうして普通に話せるんです?」
初めて本から視線を上げて、俺の目を見てきた。だが、そこに攻め立てようなどという気概は感じられない。
神山さんは、ほかの人と違ってキラキラしていないから——などと言えるはずもなかった。キラキラしている人間は苦手だ。それらの類の人から滲む充実感だとか、自信に満ちたオーラがどうも、生理的に受け付けられないのだ。
「神山さん、いい人だから、かな。言葉遣いも丁寧だし」
「そうですか。——普段は、もっと普通に話せと言われることの方が多いのですが……藤原君は変わってますね」
「そういう意味じゃ、神山さんも変わってるだろうし。お互いさまでしょ」
「ねぇ、藤原君は……」
そこで、前のドアから担任が入ってきた。
「はーい座れ座れ。はい、朝礼。委員長」
二十代後半、体育会系女教員の無駄に響く声を合図に教室はすぐ静まった。
挨拶が終わると同時に、机の中に忍ばせておいた英単語帳を手にした。眼鏡越しに静が軽く侮蔑するような視線を向けてくるが、苦笑いして返してやると、まったく仕方のない人だとでも言いたげな表情をしながら前を向きなおした。
学校指定の、センター試験突破がおそらく限界であろう単語帳には早々に見切りをつけ、難関大志望者が多く愛用する、単語数も語義数も例文の充実度も高いこの単語帳に変えたのは正解だった。
今回の模試において、語彙で苦労することはなかったのだから、少なくとも現時点ではそう言って差し支えないはずだ。夏明けまでにこの単語帳を完成させることができれば、十分、ペースとしては悪くない。
「もうお前ら知ってるかもしれんけどな、転校生を紹介する。入っていいぞ」
この担任、無駄に声ばかりでかいんだよな、いつも。
右耳を手でふさいだ。
miserable―惨めな、不幸な——なんだ、こんな単語、今更大学受験用の単語帳に載せるまでもないだろうに。
と、次の瞬間、教室の空気が変わった。
物理的な意味では、一瞬で大気の構成分子の比率が変わることなどありえない。
だが、確かに変わったのだ。そう、変えたのは——間違いなく、今この場に入ってきた人間で。
教壇に立った少女が、仮にmiserableの対義語として辞書で説明されていたとしても、何ら違和感なく受け入れられてしまいそうなほど。
教室内の男子たちの顔がほころび、女子の大半も驚きを隠せていない。あの、万物に等しく興味がなさそうな静でさえ、いつもより二割増しで目を見開いていた。
「東京から来ました、四条院(しじょういん)律(りつ)といいます。皆さん、よろしくお願いします」
透き通った声。整った眉目。背筋はまっすぐで、少し長めの前髪は、少女の神秘性を増幅させる役割を果たしていた。
「ま、見ての通り美少女なわけだけど、男子、あんまり困らせるなよ」
と、おそらく学生時代美少女扱いを受けたことは少ないであろう独身教員が言うと、哀愁に似たものが漂ってしまうのは仕方がない。
いつになく、教室内が騒然としていた。皆口々に、可愛いだとか、美人すぎるだとか、転校生に対する感想を言い合っている。
「先生! そ、その席はどうなるんですか?」
前方に座っていた、いかにも俗物感に溢れているモブ男子が声を上げた。確か名前は、山田とかその辺だったような気がする。仮に山田の名字が山田でなかったとしても、はたまた実は下の名前が山田であったとしても、俺の人生に億分の一の影響さえ与えることはないだろう。
「そうだな、今ちょうど六×(かける)六で埋まってるもんな。でも転校生にはみ出ろと言うのもあれだし——おい藤原、お前一個下がれ。律にはお前の一個前に入ってもらう」
「えー」
山田が不満そうな声を上げる。複数の視線が俺の方へ集まった。
担任は手で払うような動作をしつつ俺の方を見る。
こいつ、横暴にもほどがあるだろう。これだから教員という人種は嫌いなんだ。人生で挫折した経験も、大した失敗経験もなく生きて来ただろうから、自分の言うことがなんでも聞き入れられると勘違いしていやがる。
そもそも、転校生が来るとわかっているのだったら、最初から席くらい準備しておけばいいものを。
「あの、待ってください。もうちょっと平等に——」
「お前、授業なんて聞かんでも勉強できんだろ。それに、どうせ内職するんだから、黒板見えなくてもいいだろ」
おいおい、言葉に棘がありすぎんだろ担任様よ。それが生徒にかける言葉かい? いくら立場が上だからって、なにしても許されると思うなよ——などと言えるはずもなく。
「数学演習室に机余ってるから。藤原、取りにいってやってくれ。あ、職員室でカギ借りてな」
担任は一切悪びれるでもなく、俺をこき使うことに快感すら覚えていそうであった。
反抗する気力もへし折られ、仕方なく教室を出ようとすると
「私もついていった方がいいですよね」
「別に藤原一人に任せてもいいけど。まあ、席ないとこで立ってるのもあれだし、ついていったらどう」
担任の一言で、転校生は俺の後ろへと付いた。教室中の視線が俺へ、もとい転校生へとむけられていることをひしひしと感じる。
山田ァ、なぜそんなに俺を批判するような視線を向ける必要がある? 席が遠かろうと、同じクラスなのだから、お近づきになれないこともないだろうに。幸い、お前は俺とは違って「そういう方面」のバイタリティには恵まれているだろう。
教室を出、三階から一階まで下りる。転校生は二段ほど間を空けて後ろをついてきていた。
わからないことがあったら何でも聞いてね。などと気の利いたことを言ってやる必要もない。むしろ、気の利かない冷徹な人間であるという評価を下してもらって結構だ。
その方が楽だから。
職員室でカギを借り、西館四階にある数学演習室へと向かう途中、転校生の方から口を開いた。
「藤原君、下の名前は何というんですか」
「ひかりと書いて光」
「藤原光君、ですか。覚えました」
俺の名前を覚えるくらいなら、英単語のひとつでも覚えたほうが有意義だがな。
「藤原君は、何か部活に入っているのですか」
「帰宅部」
「そうなんですか。運動、できそうなのに」
転校生がどんな表情でそう言ったのか、俺は見ることができなかった。
数学演習室には、おおよそ八十ほど机が並べられていた。この教室が使われているのはほとんど見たことがない。そもそも、数学「演習」などという大仰な名前を付けたところで、基礎すらままならない生徒で溢れているこの高校には無用の長物だろう。
ここの掃除に割り当てられた班が、さぼれると喜ぶ時だけ、この教室は話題に上がる。
その中では比較的新しそうな机を探し、椅子を逆さにして机に乗せる。
「私、どちらか持ちますよ?」
「じゃあ椅子を頼む」
「机と椅子、木製なんですね」
それがさぞ珍しいことかのように、転校生は言った。
「田舎の貧乏公立高校だから。備品はたいていボロボロだし、そもそも校舎がボロい。東京じゃもっといい環境だったとしたら、それは残念だったな」
「いえ、そんなことは思っていないですけど」
教室に戻ると、すでにホームルームは解散されていた。皆、各々に散らばっていたと思ったら、俺たちが教室に入った途端、まるで熱湯に沸騰石を入れたかのように一気に静まった。
かと思えば次の瞬間、転校生の周りには人だかりができた。学期途中の転校生、それも東京から来た超絶美少女ときたら、むしろ注目されない方がおかしい。
転校生から椅子を引き取り、机と合わせて俺の全席に配置した。
六列ある中で、俺だけがはみ出て七列目になってしまった。
これで、コミュニケーション英語での隣と話し合う、などというクソイベントに参加しない大義名分を得たのであるが、静と隣になってからはそれも嫌ではなくなっていたので、どうも複雑だ。
もはや俺の隣席でもなくなった静は、人だかりには入らず、一人文庫本を読んでいた顔を上げ、
「藤原君、その席になりたいって望んでたんですよね? よかったじゃないですか。願いが叶って」
皮肉を言って少し微笑んだ。
君と隣になってからは、そうも思わなくなったよ。残念だ。などという「クソ寒い」セリフを言うのは理性によって阻止された。
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