青春捨象賛歌
夏坂
第1話
「光。光、聞いてる?」
七月初頭。全国模試で登校日となった土曜日を憂う幼馴染、凛の声を、俺は話半分に聞いていた。
「ああ、聞いてるよ」
「嘘。じゃあ、さっき私、数学の第一問のカッコ三、なんて書いたって言った?」
「五とかじゃないか」
「ちーがーう! ほら、これっぽっちも話なんて聞いちゃいない。私が書いたのは、十七!」
「どうやったらそれが十七になる。お前はまず中学校数学からやり直した方がいい。俺が教えてやる時間はないが、適当な参考書を見繕ってやってもいい」
すると、凛は大仰に腰に手を当てる動作をし、諭すように
「あの、ねぇ。お言葉だけど、光がモテないのはそういうところが原因。上から目線すぎるの! もっと、周りの人とレベルを合わせようとは思わないの?」
「現に、こと勉強において俺はお前より上だ。何故俺が低い方に合わせなければならない。合わせて欲しいなら、お前の方から上がってくることだな。ま、無理だと思うけど」
昼休憩の時に自販機で購入した緑茶を一口含んだ。もう随分温くなっていて、二時間に及んだ数学の試験での乾きを癒すには至らなかった。
「じゃあさぁもし、光より勉強ができる人が現れたら、どうするわけ?」
前席の主は帰宅したようで、その席に凛は腰掛けると、俺の机に手を置いた。
「別に、どうもしない」
「どうもしないって、その人の言うことには従うわけ?」
「そもそも、人間の上下の関係は勉強と関係ないだろ。その人の言ってることが正しいなら従うし、そうじゃないなら従わない」
既に半数ほどが教室から出ていて、グラウンドにはちらほら運動部の姿が見えた。
「凛も、部活いかなくていいのか」
「まだ大丈夫。ねえそれより、転校生が来るって話、知ってる?」
「いや、全く知らない」
鞄に数学の教科書とチャート式参考書、英単語帳、文法書に読解力養成のための新書が入っていることを確認する。今ここを出れば、三時には図書館に着く。五時間は勉強時間が稼げるはずだ。
「それがね、すっごい美少女なんだって。校長室で面談してたところを、私の部の子がたまたま通りかかって見たって」
好きそうだな、こいつらは。こういう話題。田舎の高校生の話題など、その周囲の人間関係のことが八割を占める。
残念ながら、俺はこれっぽっちも興味がない。その美少女がクラスに入ってきたところで、俺の学力が向上するとでもいうのなら、少しは耳を傾けてやらないこともないが。
「そりゃ良かったな。口の上手いお前のことだから、その転校生とやらともすぐ仲良くなれるだろう。仲良くなったら、また話してくれ」
鞄を持って席を立った。サッカー部の準備運動の掛け声が聞こえてきた。
「光、どこいくの? まだ話したいことあるのに」
「図書館だよ。勉強しなきゃならないからな。凛も、秋からはキャプテンになるんだろ。早く練習行った方がいいんじゃないか」
「待って待って待って」
鞄を掴まれた。もう見慣れて何も思うこともないが、よく見れば、否よく見るまでもなく、整った童顔に変に真面目な雰囲気をまとわせて、
「来週の月曜日からテスト週間で部活休み。だから、月曜日は、私も図書館ついてく。いいよね」
「好きにしろ」
教室を後にした。
凛には少し冷たくしすぎただろうか。いや、あれでいい。あいつもいい加減、付き合ってもいない、甲斐性もない幼馴染の男にいつまでもくっついていては、せっかくの青春を浪費してしまう。
俺はもう、青春を浪費することを受け入れた。俺のような人間には文武両道どころか、文と学校生活を両立させることすら難しい。友人関係に頭を悩ませている時間など、一秒たりともないのだ。
勉強に時間を充てることを、現段階ではあえて「浪費」と言ってやる。十年後俺、それが浪費ではなく「投資」であったと回想することができたのなら、俺の勝ちだ。
二万円で買った安物のスポーツバイクに跨って、平和通りを北へ。西に傾きかけた太陽は首筋をジリジリと焦がしていく。紫紺のポロシャツは汗で徐々に湿っていった。狭い歩道は避け、車道に出た。相変わらずコンクリートはぼこぼこであり、インフラの整備すらままならないこの地を出たいという意志はより強固なものとなった。
高校から約五キロに立地する県立図書館に籠って、ただひたすらに勉強をした。期末テストの時期が近いこともあり、百数席ほどある学習スペースは七割ほどが埋まっていた。だがそれも、夜八時の閉館時間にはほとんどがいなくなった。
閉館時間ギリギリに図書館を出、少し温いものの、心地よいと言えなくもない夜風を浴びながら岐路に着いた。
「お兄ちゃん、おそい!」
玄関を開けた途端、聞こえてきたのは妹の声だった。
「悪い。図書館にいた」
「ああもうお兄ちゃんは。今日はテストだったんでしょ! それなのにそのあとに勉強? そんなにやったら頭おかしくなっちゃうよ」
廊下を歩く俺の背中をポカポカと叩きながら妹、真白は後ろを付いてくる。
「いいか真白、人間はいくら勉強しても頭がおかしくなることはない。現に、東大に受かった人の話を聞いてみろ。みんな、ありえないぐらい勉強してる。でも奴らは、それを特別なことなどと思っていない。それも、東大に受ける連中の大半は小学生のころから勉強しているんだ。それにたった三年で追いつこうとしているんだからな。これくらいやって当然だろう」
「あーもー知ーらない。お兄ちゃんなんて勉強星人になっちゃえばいいんだ。彼女もできないし遊びにも行けない、勉強バカ」
「まあ、そう僻むなって。真白が勉強できなくても、お兄ちゃん怒ったりしないし、否定もしない。将来、真白がお金に困ったら助けてやる。勉強だけが人生じゃないからな。面倒見がいいし、共感力が高い。真白のいいところはお兄ちゃんたくさん知ってるからな」
はい、勝ち。
真白は頬を膨らませつつ綻んだようなよくわからない表情になって、
「お兄ちゃん、なんかむかつく! むかつくけど、やっぱりお兄ちゃんが好き」
背中にゴッと真白の頭が刺さった。
こいつは簡単でいい。少し甘い言葉をかけておけば、お兄ちゃん好き好きモードになって終いだ。
「先にご飯にする~? それともお風呂?」
「シャワー浴びてくるよ。汗かいたしな」
「じゃあ、ご飯準備して待ってる」
夕飯を食し、真白の話に二十分ほど付き合うと、一日が終わった。
何の変哲もない、特筆事項ゼロの一日が。
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