第9話 成功

「タンッ、タンッ、タンッ、タンッ!」

 水しぶきが上がり、次々とプールの端にタッチする。

 ここだけ見れば、まるでオリンピックの水泳競技だ。

「プハーッ! カオリ今度はどうだ?」

 ジュンがプールから上を見上げ尋ねた。

「何度やっても一緒。カズさん、リョウさん、ヒロさん、ジュンさん。何時もこの順番。もう止めようよ。健康にいいかも知れないけど過労で倒れるわよ」

 ジュンはどうしても、結果を受け入れられない。

「そうか、もう一回だけ勝負だ」

 ヒロも参ったという表情でカオリに同調した。

「ジュンさん、もう意地はるのよそうよ。『泳げたい焼き』じゃあるまいし、浸かりっぱなしでふやけるわ。ワシャもう出る。泳ぎたければ一人でどうぞ」

 その声に同調する様にリョウとカズもプールから上がった。

 ジュンも仕方なさそうに渋々プールから這い上がると5人は更衣室に消えて行った。

 吉祥寺から五日市街道を三鷹方面に向かい、成蹊学園を過ぎると武蔵野市の市営プールがある。周りには公園やグラウンドがあり、市民のスポーツや憩いの場となっている。

 8月18日火曜日。5人は夏の甲子園大会で歴史通り高知高校が優勝するのを確認すると暑気払いに市民プールにやって来たのである。

 空を見上げると、刷毛で「スゥーッ」と引かれたように筋雲が描かれている。

 暑さの中でも秋を感じ始める。

 5人は着替えが済むとタオルで頭を拭きながら外に出て来た。


 「チリリン!」と言う音がし、振り向くと荷台にアイスキャンデーと書いた木箱を載せた自転車が近づいて来た。麦わら帽子を被ったオヤジがタオルで汗を拭き拭き、押して来る。近くに来たのでカオリが声を掛けるとオヤジが自転車のスタンドを立て箱の蓋を開けた。すると白い煙が箱に沿って流れ落ちる。煙が落ち着くとアイスキャンデーが見えて来た。赤や黄色、青や緑の人工的で鮮やかな色が夏の日射しに映えてまるで氷の宝石箱だ。

 5人は思い思いにキャンディーを選び始めた。

 カオリとジュンがいち早くキャンデーを舐め始めた。溶けて崩れない様に時々眺めては確認する。

カオリの舌が真っ赤だ。

「強烈だな。カオリの舌、赤頭巾の狼並みに真っ赤だぜ」

「ジュンさんはカメレオン並みの緑よ。味はどう?」

「見た目は青汁だけどメロンとも言える。そっちはイチゴの味する?」

「微妙ね、イチゴだって思い込む。ジュンさんこう言う食べ物どう思う?」

「身体にいいんじゃない。」

「ウソッ! こんなジャンキーなもの」

「それじゃ聞くけど添加物の入ってない肉と、入ってる肉。どっちが先にダメになる」

「そりゃ、入ってない方よ」

「そうだろ、だから入っている方が身体にいいに決まってる」

「すごい、理屈ね」

 いずれにしてもこうした食べ物は、夏期限定で食べる方が無難なようだ。


「ウオーイ!」

 道路を挟んで向い側の歩道で手を振っている男がいた。

 マサだ。

 よれよれの薄汚れた開襟シャツにベルトの切れたショートパンツ。麦藁帽子はつばがほつれ、サンダルは左右で色が違う。

 カオリが顔をしかめた。

「凄いドレスコードね。ホームレスの方がよっぽど紳士だわ」

 マサは小走りにカオリたちに近づくと、ヒロのアイスキャンディ-を取り上げて話し始めた。

「仕事だ。今度は公務員。安定感、抜群」

 カオリは、ウンザリだ。

「オオカミ中年」

「黙って聞け。場所は高級リゾートの厨子海岸だ。仕事は海の家での簡単な販売とバンドの演奏。公営なんで勿論残業なし。宿、食事つき。日中は水着の女の子見放題。カオリは花火を見に行けば金持ちの男を捕まえる事も出来るかもしれないぞ。ヨットなんかに誘われたりして」

 ジュンたちが呟く。

「水着かぁ。須崎は漁港でハズしたからなぁ」

 カオリも呟く。

「ヨットかぁ。水着は豊島園のがあるし、シャンパンなんかゴチになって、迫られたりして。アラフォ-だし、この際金ありゃいいか」

 5人は、声を揃えた。

「行きましょう。是非行きましょう」

 好印象な反応にマサは満足そうに頷いた。

「それは良かった。俺みたいな名マネジャーがいて、お前ら本当にラッキーだな」

 行くと決まれば早いほうがいい。空を見れば秋の気配、夏も終盤を迎えている。

 出発は何時にするのか、荷造りもある。楽器も積み込まなければならない。

 ジュンがスケジュールを尋ねた。

「マサさん、出発はどうする」

「急だけど、出発は明日」

「エー、急すぎない?」

「バカ言ってるなよ。仕事は即が原則。第一お前ら、何か用あるのかよ。南風荘でブラブラしているだけだろ」

「そりゃ、そうだけど」

「俺はちょっと用事があるから、朝早く車で先に出る。お前らは昼飯食って夕方までに来ればいい。楽器や着替えは積んで行ってやるから手ぶらで来い」

「じゃあ、お言葉に甘えて電車で行くか。交通費は出してよ」

「交通費は出してやるよ。荷物は今日中に車に積んどけよ」

 マサは、そう言うとヒロのアイスキャンディーをくわえたまま道路を渡って行った。


 翌、8月19日水曜日の朝ジュンたち5人は東京駅の12番・13番線に立っていた。横須賀線と東海道線のプラットホームである。新幹線が使用する17番線以降のプラットホームは仕上げが終わり7月から試運転が始まっている。10月1日の開通まで一月半しかないので全てが急ピッチだ。

 ジュンが弁当屋に並んでいる。

 弁当を購入すると嬉しそうにカオリたちのもとに戻って来た。

 皆が覗き込む。赤いパッケージが目を引く。チキン弁当だ。

 中身はグリーンピースと玉子のそぼろがのったケチャップ味のチキンライスに濃厚な味付けの鳥の唐揚がつく。

 高校生みたいに早弁をしたくなる。

「どうだ、知ってるか東京駅の名物チキン弁当。他の幕の内は150円だけど、これは200円。高いよな、2020年の価格にすると2000円位だぜ。領収書もらって来た。マサさんに頼んで経費で落とさせよう」

「さすが、ジュンさん」

 カオリも嬉しそうだ。

 リョウが首を傾げている。

「発売は新幹線と同時って言うから10月からだと思ったら、もう売ってるんだね」

「実は、去年から売ってんだってよ」

  場内にアナウンスが流れると「ガタン、タタン」と言う音がして湘南電車が入線してきた。

 東海道線を走り続けた80系だ。フクロウが嘴をつぐんだ様な顔が可愛らしい。 グリーンのボディーに窓を挟んで走るオレンジ色のラインが強烈だ。

 平日なので空いている。5人は乗り込むとボックスシート二つに落ち着いた。背もたれが垂直に立っているので少し座り心地が悪い。どうにも落ち着かない。かつて経験はしているが、2020年のシートに慣れてしまい受け入れられなくなっている。

 カズが窓下の両脇にある洗濯バサミの様なロックを親指で解除すると窓ガラスを押し上げた。弁当売りが通りかかったので5人はジュースを購入した。それぞれがジュースを受け取ると発車のベルが鳴り出した。お釣りも渡さなければならない。 弁当売りは焦った、栓を開ける暇がない。

「ガッタン、ゴットン!」

 とうとう、列車が動き始めてしまった。

 慌てた弁当売りは栓抜きをカズに渡した。

「ポン、ポン、ポン、ポン、ポン」

 続けざまに5本の栓を抜くとカズが窓から少し身体を乗り出して、小走りで追いかける弁当売りに栓抜きをトスした。栓抜きは綺麗な放物線を描き、「ストッ」と弁当売りの右手に納まった。弁当売りは栓抜きを確認すると、ホームの端から笑顔で帽子を振ってくれた。

 車内では、「ナイスキャッチ!」

 カオリが手を叩いて喜んだ。

 5人は小さなショーを笑いあった。


 列車は、東京を出ると品川まで第一京浜国道と並走する。2週間ほど前の深夜、伊豆須崎へ向かったのが随分昔に思える。浜松町では9月に開通するモノレールに別れを告げ、横浜へと向かう。

 横浜を過ぎチキン弁当を開いていると車窓は田園風景となり、やがて巨大な大船観音が見えて来た。大船では東海道線に別れを告げ、横須賀線に入れば間もなく鎌倉だ。

 鎌倉の駅前は人種が雑多だ。鶴丘八幡宮に向かう観光客もいれば、いかにも海水浴に来ましたと言う水着姿も混ざっている。そうかと思えばハイソな鎌倉婦人や紳士もいて、地元の中学生や子供たちが当たり前の様に釣竿や虫かごを下げている。

 駅前の井上蒲鉾店で紅白の梅花はんぺんを買い、食べながら鶴岡八幡宮をお参りした後、小町通りにあるイワタコーヒ-店で巨大なホットケーキを食べ終わるとバイト先に向かった。


 目的地の厨子海岸まではバスで行く。鎌倉駅前で乗車するとバスは鶴岡八幡宮とは逆に若宮大路を真っ直ぐ海へと向かう、行く途中に女学院があり鎌倉らしく少しよそ行きの雰囲気を醸し出している。バスは程なくして海に突き当たり、左折すると材木座の海岸を右に見ながら走る。

 しばらくして幽霊が出るなどと、つまらない噂を立てられている飯島トンネルを抜け、厨子市に入ると右側に厨子海岸がひろがって来た。浜の中程でバスは止まり、車掌がドアを開けてくれた。それぞれ一礼をして切符を渡しながらステップを降りて行く。

 夕方とは言え、まだまだ浜には人がいる。道路の左には「なぎさホテル」が見えて来た。瀟洒な造りで如何にもハイソな厨子湘南と言う雰囲気を醸し出している。 時計塔があり、見ると時間は5時を少し過ぎていた。道路を挟んで反対側を見ると浜に向かってコンクリートむき出しの2階建てが見えて来た。如何にも庶民的、且つ無骨な造りだ。

 脚立に「海の家」と、何の工夫もない看板がくくりつけられている。

 いかにも夏だけの臨時営業。その場稼ぎといった風情だ。

 看板の後ろには、マサのミニバンが停まっていた。

『やっぱり、こっちか』なぎさホテルと比較したのが間違いだったとは言え、その落差にやっぱりため息が出る。

 気乗りのしないままゾロゾロと歩いて行くと、マサが海の家からノソッと出て来た。

 口にアイスキャンデーをくわえて近づいて来る。

「よー、来たか。俺も用事を終えて着いた所よ。中に入れ、案内するわ」

 マサについて浜に下りると、建物は2階建てと思ったら3階建てだった。

 1階は浜に面し、2階が道路と同じ高さでその上にもう1フロアある。

 中は1階が海の家になっており。テーブルや椅子が置かれ休憩するスペースがある。シャワーや水洗のトイレも設置されている。

 奥には厨房があり簡単な食事を提供している。店頭ではゴムサンダル等の物販があり、少し離れた小屋ではゴムボートや浮き輪の貸し出しもしている。

 道路に面した2階は倉庫になっており沢山のダンボール箱が山積みになっていた。運動会で使用するのかテントや旗まであり何故か古いピアノまである。海側には広いベランダがあり、そこがバンドのステージだ。

 3階は臨時の宿泊施設みたいになっている。「みたいに」と言うのは、板の間を簡単な間仕切りで仕切っているだけだからだ。端に布団が山積みにされているのでいやでも自分たちの仮住まいと分かる。

 荷物を整理し終わると1階の海の家に集合となった。丸テーブルを2つ程持ち寄り椅子を配置する。

 思い思いに腰掛けるとマサが50代半ばのオバさんを紹介してくれた。

「アキさんだ、よろしく。厨房関係を取り仕切って、俺たちの食事も作ってくれる。それから責任者としては、佐島さんがいる。彼は、町の職員さんだ。年齢は君らと同じで20歳。今日は5時を過ぎたので、帰ったから明日紹介する」

 紹介されるとアキさんは、「取り仕切るだなんて」と照れながらお辞儀をした。

 皆は、アキさんに自己紹介と挨拶をした。

 アキさんは丁寧に挨拶を返すと夕食の用意が厨房の鍋と冷蔵庫にしてある事を告げ、帰って行った。

 6時も近くなって来た。長い日射しが海の家の奥まで届いている。

 明日からの打ち合わせをしなければならない。

 ジュンが両掌を頭の後ろに回してながら尋ねた。

「マサさん明日から、何すんの俺ら」

 マサは、大事なことを伝えるように人差し指を立てた。

「じゃあ、今から中身を伝えるな」

 海の家の建物は、町の倉庫兼集会所だ。普段は町のイベント用の器具を保管したり、お祭りや文化活動、それに町内会の集会に使ったりしている。2階に置いてあるピアノは子供達の集会でも使える様、地元の旧家から寄贈されたものだと言う。 倉庫兼集会所は夏の期間だけ海の家に転用し、町民や海水浴客に安く開放して若干の収入も得ている。この収入は年間の維持費を稼ぐ上でもバカにならない。

 町からは、若手の職員と調理の出来る臨時職員を数名派遣しているが8月は夏休みを一斉に取るので人手が不足する。今夏は職員の家庭の事情も重なって突然の人手不足となり、バイトを緊急入札募集することになった。その情報を知ったマサがバンドつきで競り落としたのだ。

 バンドの演奏は、1日適当な回数。後は厨房でラーメンや焼きソバを作ったり、売店でビーチサンダルや釣り道具を売ったり、外の小さな小屋に積まれている浮き輪やゴムボートの貸し出しをしたりする。営業時間は9時から5時まで。残業はナシ。条件としては悪くない。

 カオリが頬杖をつき、訝し気な表情になった。

「マサさん、ソレってバイトがメインでバンドは付属と言うか、どうでも良いんじゃない?」

 もう見透かされた。ここは、踏ん張り所だ。

「そうとは言えない。バイトとバンドの境界線はない。全てをひっくるめての仕事である」

「良く言うわよ。私たちは、まがりなりにもバンドの仕事でやって来たのよ。アーティストとしての誇りがあるわ」

「何だ、アーティストって? 芸術家か?」

「バンドや歌手の事よ」

「だったらそう言え。バンドが主になるのも、ならないのもお前ら次第。バンドがウケて出番が増えればバンドのウェートが大きくなる。ウケなくて出番が減ればバイトが主体となる。実力次第だ。どうだ分かり易いだろ」

 苦笑いするしかない。又、やられた。でも仕事を取ってくるのも大変なことはジュンにも良く解る。

「マサさん。感謝してるよ。がんばりましょ」

 ジュンの言葉にマサも嬉しくなった。

「サンキュー、頼むぞ。そうそう、お前らエレキに繋ぐ弁当箱みたいなペダル持ってるだろ。ありゃ凄いな。この間米軍基地近くにある輸入品中心の楽器屋にも行って見たけど置いてないし、店主も聞いた事がないって言ってたぞ。ありゃどうやって手に入れたんだ」

 5人は、その言葉に一瞬凍りついた。

『しまった!迂闊だった』

 効果音を入れるエフェクターが音楽シーンに登場するのは1970年代に入ってからだ。この時代、ギターはエフェクターを介さずアンプに直結している。普段当たり前の様に使っていたので気がつかなかった。

 ヒロは咄嗟の言い訳を思いついた。

「マサさん。あれは、リョウが作ったんだよ。リョウは電気関係専攻しているから得意分野なんだ。それでワシらがバンドで試用している訳」

 周りも大きく頷いた。

「そうか、じゃあ売り出そう。ありゃ売れるぞ」

 当たり前だ。もう直ぐバンドはエフェクター無しでは演奏出来なくなる。だが今は早い。歴史を狂わしてしまう。

「それからバンドエイドかぁ? あれも便利だな。基地の中のドラッグストア探したけど無かったわ」

 4人の目がカオリに注がれた。

「あ、あれは前にも言ったけど父が貿易関係の仕事してるんで、外国の人から貰ってきたのよ。試作品」

「試作品? 絆創膏の試作品なんて聞いた事ないわ」

 早く話題を変えたほうがいい。

 リョウが急に立ち上がった。

「メシ食おう、腹減ったわ」

 その声でカオリが厨房へ走ると、わざとらしい声を上げた。

「凄い! メバルの煮付けに焼きおにぎり、冷蔵庫には鯵のたたきと枝豆。海見ながら、これでビール飲もうよ」

 これも悪くない選択だとマサは思った。話は納得出来ないが、続きは又尋ねればいい。こいつら、何か怪しい理由がありそうだが今日はこれまでにしておこう。

 6人は手分けして、今日の惣菜をテーブルに持ち寄るとビールで乾杯をした。

 カオリが枝豆をつまみながらヒロの側で囁いた。

「さっきのバンドエイドだけどさ、厨子に持っていこうと思ったんだけど小箱が見当たらないんだよね。この時代の人が見つけて変なことになるのイヤなんだけどなぁ」

 ヒロは、少し驚いた顔になった。

「ワシも須崎から帰って気づいたんだけど予備のエフェクターが見当たらないんだよ」

 次々と小物が消えているようだ。カオリには嫌な予感に思える。

「カズさんは、チューナーが消えたと言うし、リョウさんは、シールド。夏の怪談話ね」

 二人は小さく乾杯をして周りを見回した。


 翌、8月20日木曜日の朝。マサと5人は、6時に目を覚ました。目を覚ましたと言うよりは、寝てられない。もとが倉庫なので建物はコンクリート打ちっぱなし、夜の熱気が冷めないうちに明けた太陽の追い討ちだ。暑さで寝てられない。5人とマサは1階に降り、テーブルの上に頬杖をついたり、リラックスチェアに座ったり、思い思いの姿勢でボンヤリとしていると7時過ぎにアキさんが来て朝食を作り始めた。まな板を叩く包丁の音と焼魚の匂いがする。

「出来ましたよ」

 程なくアキさんの声が厨房から響いた。

 皆でテーブルまで運ぶ。地元産の鯵の開きとアサリの味噌汁に三浦大根のなた割りだ。大根のピリッとした食感が目を覚まさせる。

 思わず「旨い」と声が出る。

 朝食を食べ終わり、何をするともなく海を見ていると8時30分頃バイクの音がした。

「プロッ、ポッ、ポッ、ポッ。シュン、シュン、シュン」

 小型バイク特有の音だ。

 身長180センチ位で上半身のがっちりした若者がヌゥーっと海の家に入って来た。マサは挨拶をし、5人に立ち上がる様促した。お互いに向かい合うと若者は軽く礼をして「佐島泰三です」とぶっきらぼうに自己紹介した。

 5人も挨拶と自己紹介を返したが、とりつくしまもない。自己紹介が終わると泰三は面倒くさそうに役割を割り当て、奥の事務所に引っ込んでしまった。カオリとマサはアキさんと厨房。ジュンたち4人は売店とボートや浮き輪のレンタルに割り当てられた。

 佐島泰三、20歳。

 役所の職員だ。普段は道路や水道関係の業務についているが夏だけは海の家に派遣されている。海の家はとにかく暑いし体力もいる。若くないと務まらないので役場に入って2・3年の若い職員が勤める事となっている。体力のいる仕事だが責任を与えられ、自由に裁量出来るので将来に向けて良い勉強の場ともなっている。 今回は泰三の同期や後輩、アキさんやパートの7人で回していたが夏休みや急な家の事情で20日から泰三とアキさんの2人になってしまった。そこで1週間ほど5人の出番となったのだ。

 売店とレンタル担当のジュン達4人は、先ず店頭の整理から始めた。

 それにしても商売に慣れない役人の仕事とは言え、いかにも乱雑の度が過ぎる。

 商品をただ雑然と棚や台に並べているだけで値書きすらない。

 これでは在庫が何処にあるのか分からないし、価格も分からない。

 ゴムサンダルを纏めながらジュンが呟いた。

「こりゃヒデェーな」

 カズがTシャツをたたみながら、『まだあるよ』と言う顔をした。

「ジュンさん、2階の倉庫見てみます? お宝があるらしいですよ」

「お宝? あんまり見たくねェーな。いい予感がしない」

「泰三、元気ないでしょ」

「元気ないったって、知らねェーよ。さっき会ったばっかりだし」

「さっきアキさんから聞いたんですけど、泰三が2階の売れ残りで困ってるらしいですよ」

「何か秘密っぽいな」

「なんでも、去年責任者をした先輩が勝手に仕入れちゃって全然売れないんですって。役所も困ってて、泰三に『この夏中になんとかしろ』と言ってるらしいですよ」

「フーン、それじゃ暇つぶしに見てみるか」

 4人は、2階の倉庫に上がると部屋の奥に積まれたダンボールを開け始めた。

 比較的大きめの箱でおよそ50以上はあるだろう。

 中身は衣料品やサンダル、雑貨類だ。

 ジュンがダンボールの横をポンポンと叩きながらため息をついた。

「これだもんね。役人の仕事は。どうやって仕入れたのか知らないけど季節ものだから早く整理しないと又夏越えちゃうぞ」

 ヒロが隣からダンボールを覗いた。するとリョウとカズもダンボールを覗いた。

 まるで鶏小屋の鶏が餌場に首を突っ込む様だ。

「お前ら、好奇心だけで生きてるのか」

 カズがTシャツを広げてかざしている。

「ジュンさんどうします、これ。しまっといても仕方ない。そう悪くないから値付け次第じゃ売れますよ」

 デパート屋の本能が疼くが、かと言って面倒なことに巻き込まれたくない。

「やめとけ。後始末は自分達でやれって。少し痛い目にあった方がいいんだ。サァー1階に戻るぞ」

 そう言うとダンボールを慣れた手つきで閉め、サッサと階段を降りていってしまった。

 ヒロ達も肩をすくめて後を追うだけだ。


 バイトは、順調だった。

 厨房の料理は合宿の自炊や豊島園のバイトで鍛えられているし、店頭の販売や接客は本業だ。

 なによりもバンドが大ウケだった。「サーフィンUSA」や「ビキニスタイルのお嬢さん」など夏らしいアメリカンポップスを中心に組み立てた。なによりもカオリのビキニ姿は客寄せになる。この時代、ビキニの水着はあっても大胆すぎて浜で着る奴なんていない。男の目が注がれる。カオリは歌の方でも回数を重ねてきたので、どうすれば客が喜ぶか分かってる。ワザとらしくお色気ポーズもつけたりして大ウケだ。なんとかバンドも続けられそうだ。

 昼も過ぎ、4時ごろになると泰三が水着姿になって事務所から出て来た。

 広い肩が太陽に照らされ赤銅色に輝いている。

 ジュン達はその姿に息を飲んだ。

 ブロンズの像。

 いや、そんな無機質なものではない。

 力強く、無駄がない筋肉。

 肉体の美は、これを言うのだろう。

 泰三が浜に向かうと4人の子供達が駆け寄って来た。

 泰三は、4人を持ち上げては海に落としたり、放り投げたりする。子供達の笑い声が浜中に響く。

 暫くすると泰三と子供達は浅瀬に立ち、水泳教室の練習を始めた。

 泰三は、身振りを交えながら丁寧に教えている。

 クロール、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ、と一人ひとりが波に抱きついていくが余り上手とは言えない。でもひたむきさが伝わって来て自然と笑顔になってしまう。

 少し傾いて来た日射し照らされ、子供達の上げる水しぶきがキラキラと輝いている。

 ジュンやマサ達も海の家から眩しそうに見つめている。

 カオリが羨ましそうに呟いた

「泰三さん、人が変わったみたい。活き活きとして、子供達も嬉しそう」

 海の家の前に並んで見ているジュン達を見つけてアキさんが厨房から出てきた。

 エプロンで手を拭きながら泰三を見つめている。

「あれが泰三の本当の姿、泳ぐのがあの子の命。去年の夏までの姿だよ。気持ちは分かるけど、もう諦めなくちゃ。若いんだし、まだ人生は色々ある」

 諭すような言い方がカオリには気になった。

「泰三さんに何かあったの? アキさん」

「そう、今年になってね……」


 泰三は、水泳の選手だった。

 水泳の選手と言っても半端ではない、オリンピックの代表候補だったのだ。

 泰三は中学の時から、クロールからバタフライまで何でもこなす期待の星で高校になるといよいよ頭角を現し始めた。県の記録は勿論のこと、種目によっては日本記録までもう少しの所まで来ていた。東京オリンピックの代表の座も見えて来た。そして迎えた全日本選手権、400メーター個人メドレーで見事1着に入った。

 間違えなくオリンピックに出場だ。地元の期待も高まり、泰三もその気になった。まだ決まってもいないのにお祝いの会まで開かれた。そして今年に入り、出た結果は『落選』期待とは裏腹だった。

 日本水泳界は、メダルの可能性のある800メーター自由型のリレーに掛けそこに選手を厚くしたのだ。泰三の400メーター個人メドレーは、出場してもメダルはおろか入賞も望めない。それがオリンピック選考委員会の結論だった。結論が出ると周りの期待は瞬く間に失われ、扱いもすっかり変わってしまった。あまりな世間の変化に、若い泰三は傷ついた。それ以来仕事にも力が入らず、投げやりな態度が目立つ様になってしまったのである。


「そう、可哀そうに。ショックだよね、そこまでたどり着けば。先を期待しちゃうよ、ムリないわ。でもそこから先の世間の反応は超理解出来るわ。当たり前、こんなのしょっちゅうよ。悩んでたら命幾らあっても足らないわ。恋愛と一緒、この辺受け入れられないのよねぇ。若いからなぁー、仕方ないかぁ。でもオリンピックの選考委員会の選択は正しいわ。東京オリンピックの水泳は、800メーターリレーの銅メダルだけだから」

 アキさんがびっくりした顔でカオリを見つめている。

 又、余計な事を言ってしまった。まずいムードだ。こう言う所から正体がバレる。

 微妙な沈黙が流れた。カオリに注がれるジュン達の視線が痛い。

 仕方ない、ジュンが助け舟を出した。

「こいつ、占いが好きで最近凝っちゃってさ。トランプで東京オリンピックのメダル予想してるんですよ。なっ!」

「そ、そう。水泳は難しいわ。体操はカタイけどね」

 アキさんが手を叩いた。

「そうなの、メダルはどうでも良いわ。それより、あんた面白いわねぇ。とても20歳には思えないわ。そんな、人生経験どこでつんだの? 大学で教えてもらったの? もっとお話しましょ、聞かせて」

 ヤバイ、話をどこかで切らないとボロが出そうだ。そう思った時、丁度良く時計台の鐘が鳴った。

 なぎさホテルの時計台が傾いた日射しを受け5時を告げている。

 それが合図の様に泰三は海から上って来た。波打ち際で子供達に手を振ると海の家に入り、ジュン達に軽く頭を下げるとさっさと着替え、バイクで帰ってしまった。

 全く、愛想のカケラもない。

 海の家も閉店の時間だ。お客も少なかったので片付けも直ぐ終わり、アキさんは厨房でジュン達の夕食を作り始めた。

 今日は炒め物らしい、パチパチと油のはねる音がする。

 傾いた日射しや涼やかな風が不思議に波の音を柔らかくする。昼間には力強く感じる音なのに時間の変化でこんなに変わるものなのか。

 パイプテーブルに腰掛けているカオリの横にヒロがアコースティックを抱えてきた。

 ギターをチューニングする柔らかな音が浜に響く。

 音に惹かれて子供達が近寄ってきた。

 ヒロがボディーを叩きカウントを軽く入れるとカオリが歌い始めた。

「♪あなたの瞳 海が揺れてます 私は抱かれて 潮騒聞いた あふれる 涙も 拭って欲しい ああ 誰にも 胸の中に 海がある♪」

 カズもギターを持って加わった。

「♪いつか皆 小船を漕ぎ出して 星のむこうに 旅立つ SANCTUARY♪」

 リョウやカズも海の家から出て流木やパイプを見つけると叩き、パーカッションにした。

「♪島は光につつまれて 海はすべてを抱く だから その時まで 私を離さないで♪」

 品のいいグルーヴが生まれた。

 歌に惹かれて水泳教室の子供たちが集まり、小さな拍手が起こった。

 女の子が桜色の貝殻をカオリに渡した。

「お姉ちゃんキレイね、歌も上手」

「素敵なプレゼント、ありがとう。皆さん、お名前聞かせて。それから水泳は何を練習しているの?」

 坊主頭の男の子が手を挙げた。

「俺は、勝。水泳はクロールを練習してるんだ。一番早いからな」

 女の子がさえぎった。

「勝、私が先よ。千夏って言うの。背泳、習ってるの。顔を水につけるの恐いから」

 少し恥ずかしそうだ。ジュン達から微笑みが漏れる。

 次に髪を分けた利口そうな子供が話し始めた。

「僕は俊介、平泳ぎさ。一番長く泳げるからね。上手になって江ノ島まで行くんだ。祐次も話せよ」

 一番背の高い子だ。

「オレ、祐次。バタフライが好き。一番格好いいじゃん」

 それぞれ、つつきあいながら嬉しそうに話す。

「皆、仲がいいのね。チームの名前とかあるの」

 勝が胸を張って答えた。

「逗子海洋少年団さ。いい名前だろ。僕が考えたんだ。僕たちは皆、泰三兄ちゃんに水泳教わってるんだ。だから浮き輪は持たない。それが少年団の決まり」

「泰三さんは、教えるの上手?」

「凄いよ、上手さ。兄ちゃん、オリンピックに出るかも知れなかったんだぜ。俺たち、夏休みになるまで全然泳げなかったんだ。でも今は泳げる。長い距離はまだだけどさ。皆そうだぜ」

 カオリが貝殻を両手の中で振りながら尋ねた

「そうね泳ぎは、もう今一歩みたいね。海の近くに住んでるのに不思議ね」

 勝は、少しふくれた。カオリの一言でプライドを傷つけられたようだ。

「しょうがないよ。山に住んでいたって皆スキーが出来る訳じゃないだろ」

 それはそうだ。一理ある。

 気分を害しているのが伝わって来た。カオリは少し慌てた。

「そ、それはそうね。でも練習すればきっと上手くなるわよ」

 勝はふくれたものの、成果がもう少しなのにガックリきている。

「何か、上手くなる方法はないかなぁ。ドラムのお兄さん。お兄さんは何であんなに手足バラバラに打てるの。上手くなるのに何かコツがあるの?」

 ジュンは、他人事の様にカオリと子供達の話を楽しんでいたので、突然のご指名に少し慌てた。

「エッ! 俺」

どうしよう、そうだ少しからかってやれ。そんな気になった。

「イメージだよ、イメージ。なりきるのさ。俺はドラムを叩いている時、蛸をイメージしている。だから叩けるのよ。お前らもそうしろ。きっと上手くなる。間違いない」

 無責任なホラ話だ。しかも子供相手に。カオリ達は呆れている。

 そうとも知らず子供達は目を輝かし、言われるがままそれぞれにイメージをふくらませた。

「俺はクロールだから一番早いマグロだ」

「私は背泳ぎ。肌が白く優雅に泳ぐヒラメよ」

「平泳ぎの僕は、力強く何処までも泳ぐ海亀だ」

「バタフライのオレは、海原を飛び跳ねる飛魚さ」

 すっかりその気になってしまった。

 ここまで純粋になられると気がとがめる。ジュンは子供達を早く帰す事にした。

「そら、もう時間だろ。お家が心配してるから帰りな。そこまでイメージ出来れば明日はきっと上手になるよ」

 いい加減なもんだ。

 でも、子供達には勇気が湧いてきた様だ。

 何度も振り返っては元気に手を振り帰って行く。

 ジュンたちも姿が見えなくなるまで手を振った。

 子供達が視界から消えるとカオリが両手を組んでジュンの側にやって来た。

 言いたい事は大体分かってる。

 数多い自分の不注意を棚に上げて、何か言うのだろう。

 ジュンの正面に来ると少し生意気そうに見上げて口を開いた。

「ジュンさん、久々の『White Lie』ね。直訳すれば白いウソ。新宿の由喜ちゃん以来だわ。良いんじゃない、あれで自信がつけば」

 物分りが良くなって来たもんだ。1964年に来たかいがあったのかも知れない。

 ジュン達4人は顔を見合わせた。


 夕食は、実に旨かった。

 炒めものと思ったのは、天麩羅だった。地元で採れた小海老の掻き揚げにアナゴやメゴチ、それに地元野菜の天麩羅が大皿いっぱいに盛り付けられている。つけ汁なんて要らない。生醤油や塩が一番だ。その横ではアサリの酒蒸しが山のように盛られている。そしてつけ合わせには、地元で採れた里芋や人参、大根の煮付だ。今朝、大好評だった三浦大根のなた割りも添えられている。マサが七輪を運んで来て、お握りを焼き始めた。醤油の焼ける匂いが穏やかな海風に漂う。

 海の幸や自然に囲まれ、幸せ。

 ずっとここにいたい。

 しかし、夢と現実は表裏一体だ。

 なかなか、ただでは暮らせない。

 見入りがあっての人生だ。

 食事が終わると突然マサの提案が始まった。

「上にある売れ残りだけどよ。販売会、開催して売り切り処分しないか。利益の半分くれるそうだ」

 ジュンが目を丸くしている。

「マサさんそんな話、いったい何時、何処で見つけてきたのよ」

「さっき泰三が帰る時バイクの後ろに乗って役所に行って来た。助役も処分出来て利益が少しでも出るならやってくれってよ。町のスピーカー放送使って宣伝してもいいそうだ。利益は役所と俺たちで半分づつ。役所の取り分の使い道は泰三に任せるそうだ。だからチーフは泰三だ」

 チーフが泰三と言うのは気に入らないが乗らない手はない。地方自治体丸抱えの販売会、親方自治体。宣伝費もかからずリスクは殆どゼロだ。こんな商売一度やってみたかった。デパート屋の血が騒ぐ。以前は幾ら儲けても給料は上がらなかったが、今度は半分とは言え儲けた分が自分たちの取り分だ。

 全員が大きく頷き賛意を表明した。


 ジュンたちのやる気を受けてマサが尋ねた。

「お前らところで、販売会はいつにする?」

 販売推進上がりのリョウが答えた。

「今晩と明日で商品準備して、22日の土曜日に前宣伝、そして23日の日曜日に開催ですね。会場は2階の倉庫。道路からそのまま入れるからね。商品や人の移動もないし、商品の追加や販売も順番で当たれる。店内の造作はダンボールを什器代わりに積んでディスカウンター感覚にしよう。会場には景気のいい音楽流してお買い得ムードを演出だ。これは1階で流している音楽を2階のアンプに直結して持って来る。そうだ、少しゲーム感覚入れようか。タイムサービスに真夏の福袋だな、これでサイズや色の半端ものを一気に処分する。これは始める時、町の放送使っちゃう」

 ジュンが後を繋げた。

「企画が決まれば、役割分担だな。俺とリョウは会場設営に演出や宣伝ビラ作り。ヒロとカズはバイヤー上がりだから商品の値付けやれ。カオリは女物のサイズ分けと当日の正レジだ」

 今度はマサが目を丸くしている。

「ヤ、ヤケに手回しいいじゃないか。こう言う時だよ、俺が疑問感じるの。何かお前ら変なんだよなぁ。学生のわりには妙に社会ずれしていて」

 カオリが、席を立った。

「マサさん、ゴメン。テーマの決まらない話に付き合う時間ナシ。皆、上いこう。今晩から忙しくなるから食器はマサさん洗ってね」

 そう言うとぶつぶつ言いながら食器を洗い始めたマサを残して、5人は早速2階に上がり、ダンボールを空けたり閉めたり、移動したり、倉庫の中を引っかきまわし始めた。

 それから2日が経ち22日、土曜日の午前中には会場や商品の準備がもう少しの所までたどり着いた。

 この間5人は、海の家に販売会の準備と懸命に動いたが泰三は殆ど無関心だった。しかも、12時には大忙しのジュンたちを横目に『土曜日は半ドンだから』と、帰り支度を始めてしまった。

 これには、さすがにジュンも切れた。

 バイクのエンジンをかけ、乗りかけた泰三の右腕を掴んだ。

「オイ、ちょっと待てよ。俺たちが何やってるか、分かってんのか?」

 泰三はジュンの手を払いのけた。

「俺には、関係ねェーよ」

 振り払われた手がジュンの心を熱くした。

「ふざけるな、お前が責任者だろ。しかも売れ残りの処分で困っていたんだろ」

「処分に困っていたのは事実だ。だが仕入れたのは俺じゃない。それに全部処分出来た所で俺には何の見返りもない。次の奴がやればいいんだ」

「そんな事はないだろ。不良在庫を先送りしてどうする。こういったものは、どこかでケリをつけるしかないんだ。それに貸し出している浮き輪やボートだけど大分傷んでるぞ。利益が出れば新しい物に替えられるじゃないか。海の家には、働き方含めて変える所が沢山ある。金があれば出来るじゃないか」

「あんなダンボールの中身なんて売れる訳がない。俺は最初から反対だった。学生バイトだか何だか知らないが、お前らのマネジャーが余計にしゃしゃり出て来やがって、迷惑しているんだ。だから役所の助役には俺は協力しないと言ってある。もし、売り切れたら海の家をお前らの言う通りにするよ。時間がない、葉山の街に行く用事があるんだ。どいてくれ」

 そう言うと泰三はジュンの肩を軽く押しスタンドを蹴り上げバイクに跨った。

た。思ったより力が強い。

 50代のジュンは思わずよろめきながら啖呵をきった。

「お前良く言った! 今言った事は本当だな。絶対売り切ってみせるぞ!」

 ジュンが叫ぶと泰三はキックをしてエンジンを吹かし答えた。

「ああ、俺の言った事は本当だ」

 そう答えると乱暴にギアを入れ走り出した。

 バイクは乾いたエンジン音と共に海に面したカーブに向かい視界から消えていった。

 すると側で聞いていたのか、マサとカオリがニコニコしながら近づいて来た。

 カオリは顔を紅潮させている。

「ジュンさん格好良かったわ。私スッキリしちゃった」

 ジュンは、不機嫌だ。

「お前は単純でいいよ。いいか、『売り切る』って言ちゃたんだぞ。つくづく自分がイヤ。何故能力以上の仕事をするか、お前知ってっか?」

「知んない」

「能力以上の事言うからだ。お前は特に良く覚えておけ。つくづく口は災いの元だ」

 マサは嬉しそうだ。

「その、やる気大切。目標のバーを上げるから成功の達成感があるのよ。俺、儲かる。準備の仕上げには宣伝が大事、お前らアーティストだろ。倉庫から見つけて来た。これ着て、町の中流して来い」

 そう言うと袋に入った衣装を投げ出した。

 5人は声を揃えた。

「ここまで、やるぅ-!」


 チンドン屋の衣装だった……。

 スネアドラムやギターを肩から下げ、髷をつけカオリの持つのぼりを先頭に葉山の町を練り歩く事となった。曲は、三波春夫だ。つくづくお客さまは神様と思い知る。

 葉山の町並みは2020年のようにお洒落なリゾートではない。浮き輪にビーチボールやサンダル、土産の干物を扱う店が至る所にありいかにも海水浴の町だ。5人は、狭い道を時々すれ違うバスを町並みにへばり付きながらやり過ごし、流して回った。

 しかし、評判は上々。手応えは十分だ。チラシは直ぐなくなり注目度はバツグンだ。カオリの白粉が汗で流れ斑になっているのもご愛嬌と言うものだ。

 途中、同じ年位の仲間数人と連れ立って歩く泰三とすれ違った。泰三は、ジュンたちの姿を見ると目を伏せた。

 販売会当日は、開店早々凄い入りだった。時々、町のスピーカーからタイムサービスを告げるので何事かと人が集まる。人に引かれて又、人が集まる。その繰り返しだ。マサと5人は食事も摂らず働き続けた。午後3時を回った頃には、全てのダンボールの中身がほぼ売り切れていた。最後に残ったビーチサンダルが10円で売れたのは4時だった。

 完売だ。

 サンダルが最後のお客に手渡されるとマサと5人はハイタッチし合った。

 その姿を黙って見ていた泰三はプイと目をそらすとバイクで帰宅してしまった。


 翌日、泰三はややふて腐ったような態度で海の家にやって来た。

 こう言う時はプライドを傷つけてはいけない。

 長年培ってきたマネージメントの経験を活かす時だ。

 ジュン達は、何気ない様子で開店の準備にいそしんだ。

 泰三が店頭を整理するジュンの脇を通り事務所に入って行った。

 ドアが閉まるとマサと5人は、顔を見合わせながら集まって来た。

 カオリが不満そうにドアを見つめている。

「チョッと、何か言う事あるんじゃないの!」

 リョウが側で肩をすくめている。

「そう言うなよ。あいつだってプライドがある。少し待ってやれよ」

 カオリは、納得できない。腕を組んで唇を尖らせている。

「そうかしら、男でしょ。負けは負け。潔く認めるべきだわ」

 ジュンが割って入った。

「追い詰めるなよ。出口は残しておかなきゃ。時間をやるべきだよ。お前がボーカルでドジ踏んでも責めないだろ。本人が気付くまで放っておくもんさ」

 これは効いた。

「そ、それはそうね。ジュンさん朝から上手いわ」

 舌を出して笑うので、ジュン達もつられた。

 マサもそんなやりとりを笑って見ている。

『こいつらって、不思議な奴だ。子供の様で大人。意地っ張りなのに妙な優しさを持ち合わせている。お互いを主張しながらも受け入れ、一緒に道を拓いている。こいつらって一体何者なんだ、本当に学生か? それにしては……』

 そう思った時、事務所のドアが開いた。

 マサと5人は、慌てて持ち場に散った。

 すると泰三がジュンの前にやって来た。

 お互いに、にらみ合っている。

 嫌な雰囲気だ。

 泰三の方から口を開いた。

「俺の負けだ。約束は約束だ、お前らの言う通りにする。何でも言ってくれ」

 開き直った様な言い方だ。

 攻撃的な言い方にマサやメンバーの視線が注がれる。

 ジュンは、にっこり笑うと手にしたビーチボールを泰三に渡した。

「そんなに肩張るなよ、同じ職場の仲間だ。君はいつも事務所にいる事が多いから、たまには外から海の家を見てごらん。離れにゴムボートや浮き輪の貸出小屋があるだろ、そこから海の家を見てごらん。色々見えてくるぜ。今日からはそっちを頼む。海の家を一緒に良くしよう」

 そう言うと握手を求めた。

 泰三は、その手を握り返す事もなく肩を怒らせながら小屋に向かって行ってしまった。

 白けたムードが漂った。

 見つめる5人にジュンが仕方なさそうに指示した。

「さあ、皆さんとりあえず仕事しましょ。ヒロ、お前泰三に貸出の要領教えてこい」

「エーッ、ワシが行くの! この気まずいムードの中」

「そう、お前。俺は当事者だし、リョウは自分だけ分かって説明にならない、カズじゃ押し切られちゃうし、カオリじゃケンカになって話にならない。こう言う時は人当たりのいいお前が適任なの。マネージメントも苦労する。賛成の人」

 全員が挙手で答えた。

 皆の視線を浴びながらトボトボとヒロが泰三の後を追いかけた。

 砂が少し熱いのか時々片足を上げながら歩く後ろ姿が情けない。

 ヒロが追いつくと泰三が小屋の扉を開けた所だった。

 中はゴムボートや浮き輪がサイズ別にきれいに整理されていた。

 入り口には今までなかった貸出表があり、住所や氏名、返却予定時間まで記入されている。

 たかが海の家に併設された貸出小屋なのに、全てが整然とされているのは驚きだ。

「どう、分かりやすいでしょ」

 ヒロの声に少し驚いて振り向いた。

 ヒロは、会話をしたくないので勝手に話し始めた。

「ノートは、貸出台帳。今までなかったのが不思議。住所や名前を貰うのは常識、それに返却時間に戻らなければ海難事故が防げる。だから台帳チェックは1時間毎にする。浮き輪がサイズ別なのは子供の体に合わせて選びやすくする為。それから一番大切な事は毎日点検をする事。毎日が検品デーさ。穴でも空いてて空気漏れしたら大変だからね。そうそう、奥に網を被せた浮き輪があるけど、あれははダメだよ。小さな穴が空いているから、直してからレンタルしないとね。じゃあよろしく」

 そう言うとサッサッと海の家に戻ってしまった。

 泰三は片足を上げながら戻って行くヒロを見送りながらその先にある海の家を見た。

 なるほど、海の家全体が少し痛んできている。

『看板は塗り替えが必要だな。椅子やテーブルもガタついている。張り出した日よけも所々切れているしどちらも直さなくちゃ』

 中にいると分からない事ばかりだった。賭けに負けたのはしゃくだが、こうして見れば納得する部分もある。

 暫く続ける事にした。


 事件は翌日の26日、水曜日の夕方に起きた。

 その日は、風もなく比較的凪いでいた。しかし台風が近づいているので波のうねりは結構強かった。

 そんな中、勝は弟の真二と波に揉まれながら定置網の先端にしがみついていた。

 時々強めの波が来ては沈みそうになる。その度2人は声を掛け合い必死に耐えていた。


 丁度1時間ほど前だった。

 水泳教室で泳ぎを覚えた勝は早く海に出たくてしょうがなかった。でも弟の真二はまだ泳げない。そこで勝は泰三に頼み浮き輪を借りることにした。

 貸出小屋に行くと外で泰三が新聞を顔に乗せビーチチェアに寝そべっていた。

「兄ちゃん、浮き輪貸して」

 勝がそう言うと泰三は寝そべったまま。

「勝か、浮き輪使うのか」

「俺じゃないよ。慎二さ」

「そうか。じゃあ、好きなの使っていいぞ」

 そう答えると、そのまま寝てしまった。

 勝は、少し遠慮して小屋の奥にある網の下から古い浮き輪を一つ取り出し、自転車のポンプで空気を入れると真二と海に出た。

 砂が熱いので時々片足を上げながら走る。

 波打ち際まで行けば波が冷やしてくれる。

 2人が海に出ると合わせる様に少し風が強まり、うねりが出始めた。

うねりはまるで小さな山。

 登ったり降りたり。

 2人はそんなうねりに乗るのが楽しくてついつい沖まで出てしまった。

 しかし沖まで出ると潮の流れが変わり、どんどん流される。

 気が付いた時は、浜から400メートル程沖合いにある定置網の先端まで流されてしまった。

 事態に気付き何とか浜に戻ろうとするが、幾ら泳いでも潮の抵抗で戻れない。

 そして間の悪い事に真二の足が定置網に絡み動けなくなってしまったのである。

 挙句の果てに浮き輪からは、空気が漏れ始めている。

 浮き輪がへこみ始め、時々うねりに沈みそうになる。

 回りを見渡すと100メートル位離れた所に、タイアの上に12畳ほどの板を敷いた浮き筏が見えた。

 浮き筏へは、船が1時間毎に釣り客や海水浴客の送り迎えをしている。

 船は、浮き筏を出たばかりで遥かに彼方に見える。

 筏で一人の女の子が釣りをしているのが見えた。

 千夏だ。

 2人は手を振り大きな声で名前を呼んだ。しかし、2人の姿はうねりで遮られ、 声は波と風の音でかき消され、気がつかない。

「兄ちゃん……」

 真二の声が震えている。

 どうする。

 勝は決心した。

「真二、心配するな。兄ちゃん絶対助けてやる」

 浮き筏まで100メートル、初めての距離だ。

 しかし泳ぐしかない。

『俺は、マグロになる』

 心に誓った。

「真二、待ってろ。泰三兄ちゃん連れてくるから。いいな!」

 言うが早いか、一気に波を蹴った。

 力強いクロールだ。

『心にイメージを描け、俺は太平洋を突っ走るマグロだ。我に追いつくものはなし』

 腕は力強くストロークを掻き、足はビートを刻む。

 矢の様に波を突きぬけ真っ直ぐに進んで行く。

 少し息が上がって来た。顔を前に向けると、もうそこには浮き筏が迫っていた。

「タッチ!」

 勝は浮き筏に掴まり息を切らせながら千夏を呼んだ。

 筏の向こう側で釣りをしていた千夏は突然、自分の名前を呼ばれたので驚いた。

 そして声の主が勝だと分かると嬉しそうに近づいて来た。

 しかし、何時もと違う。

 直ぐに異常を察知した。

「どうしたの勝」

「千夏、真二が定置網に絡んで動けない。浮き輪の空気も抜けそうなんだ。俺、もうこれ以上泳げない。千夏、泰三兄ちゃん呼んできてくれ」

 定置網の先に小さな頭が波に見え隠れしているのが見える。

 事態だけは、即座に飲み込めた。

「でも、そんな事言われても」

 浜までは遠すぎる。どうすれば良いだろう。

 千夏は、自分の筏から、100メーター程離れた浜よりに小さな浮き灯台があるのを思い出した。俊介お気に入りの場所だ。灯台の仕組みが面白くて仕方がない。浮き筏や浮き灯台を循環バスの様に廻る船で毎日来ては観察している。

 案の定、今日も来ていた。

 千夏が手を振ると俊介も気がつき手を振ってくれたが海風で声が届かない。

 伝えるには、やはり行くしかない。

 残された方法は、泳ぐだけだ。

 その先をどうしよう。

 浮き灯台から100メートル程浜寄りに櫓がある。

 そこには、陣取り合戦の好きな祐次が仲間といるはずだ。

 俊介の次は、祐次に任せよう。

『そうだ、メドレーリレーだ』

 千夏は、勝に誓った。

「勝、心配しないで。私が俊介に伝えて来るわ。そして俊介から祐次にリレーする。待ってて」

 千夏は静かに海に入ると、ゆっくりと泳ぎ始めた。

 背泳だ。

 浮き筏が遠ざかり、少し不安になる。

 浮き筏の向こう側にある岬の上に一本杉が見える。浮き筏と一本杉、二つの点をつなぐと浮き灯台へのコースとなる。

『浮き筏と一本杉をしっかり見つめて泳ぐ事』

 自分に言い聞かせた。

 そして泳ぎを心にイメージした。

『私は、白く優雅なヒラメ。どんな波だってスルリとやり過ごして見せるわ』

 しっかりと肩から上へと腕を振り上げる。足はしなやかに波を蹴る。

 しかし波をかぶった、鼻から海水が入り思わずむせる。

 以前の千夏だったらそこで泳ぐのををやめた。今は違う、リレーを繋がなければならない。

 使命感が泳ぎを逞しくした。

 遠い沖に外国の貨物船が見える。

 その時手ごたえがあった。

 浮き灯台だ。

 思わず声が出る。

「もう、着いちゃった」

 俊介がびっくりした顔で上から覗き込んでいる。

「千夏。すごい泳ぎだったぞ。勇気あるな。いったい何処で秘密練習したんだ」

 俊介は千夏に手を差し伸べると浮き灯台に引き上げた。

 千夏は、ハアハアと息を吐きながら定置網の先を示した。

「見て、俊ちゃん。真二が定置網に絡んで動けないの、浮き輪の空気も抜けてる。勝から伝言受けて来た。泰三兄ちゃんに知らせなきゃ。今度は、俊ちゃんお願い。櫓にいる祐次に繋いで」

 俊介は目を丸くして定置網の慎二と浮き筏から手を合わせている勝を見た。

 振り返れば櫓で陣取りをしている祐次が見える。

 急がなきゃ。

 即座に決断した。

「千夏、任せろ」

 俊介は泣きそうな千夏の肩に手を置き、言い残すと勢い良く海に飛びこんだ。

「ヨッシャーッ!」

 水しぶきが上がり、暫くすると10メーターほど先の波間で俊介の頭が上がった。

 平泳ぎだ。

 頭と肩が時々出ては息を繋ぐのが分かる。

 腕と足は大きく広がりそして引き付けられ、又広がる。

 水を掴む様にリズミカルにグイグイと進む。

 その泳ぎのひと掻き、ひと掻きが力強く頼もしい。

 俊介は心にイメージした。

『僕は、海亀。広い太洋を何処までも泳いで行く。果てに着いた時が次の果てを目指す旅の始まり』

 波を上り、そして下る。

 ひとつひとつの動作を繰り返す度にゴールが近づいて来る。

 勉強と一緒だ。

 櫓はもうすぐ。

 しっかりと前を見つめ櫓との距離を縮める。

 ゴール!

 両手で櫓の足組みを掴んだ。

 さすがに息は目一杯だ。

「祐次!」

 上に声を張り上げた。

 声に気づいた仲間が覗き込み、祐次を呼び出した。

 祐次が櫓の上から顔を出した。

「俊ちゃん、どうしたんだよ。一緒に陣取りするか」

 時間がない。

 俊介は、黙って定置網の先を指差した。

「祐次。定置網の先に小さな頭が見えるか。慎二だ。定置網に足が絡んで動けない。浮き輪の空気も抜けそうだ。泳いで浜へ行き、泰三兄ちゃんに知らせてくれ。勝、千夏と繋いできた。僕は、もう息が一杯だ。祐次、頼む」

 祐次は額に手をかざし、沖を見つめた。小さな頭が時々波に隠れるのが見える。

 強烈な使命感が体を突き抜けた。

 助けなければならない。

 今度は、オレの番だ。

 体が熱くなり勝手に動く。

「おりゃー!」

 そう叫ぶと櫓から一気にダイブした。

 一旦沈み、浮き上がる。祐次は俊介に力強くタッチすると脇目も振らず泳ぎ出した。

 手を伸ばし腕から足までうねる様に反動をつけキックをする。1回手で掻いたら 2度キックする。海面を跳ねる様に進んで行く。

 バタフライだ。

 祐次は心にイメージした。

『オレは、大海原を飛び回る飛魚。空を知る唯一の魚。三次元の魚』

 浜を見れば、泰三が立っているのが見える。もう暫くすると水泳教室なのでビート板などを整えている。海の家では、カオリ達が料理を作りジュンが表で椅子の修理をしている。

 緊急事態を知らない日常がある。

 それが余計祐次の心を急がせる。

 祐次は、力の限り泳いだ。

 焼きソバを作っているカオリにも見えて来た。

 隣で味見をしているヒロの脇をつついた。

「ヒロさん見て。ヤケに真剣泳ぎしてるけど。祐次じゃない?」

「泳ぎは、多分バタフライかなぁ。オレには溺れかかっている様にしか見えないけど」

 祐次は、腰までの深さまで来ると走り始めた。

「泰三兄ちゃん。大変だ。助けて!」

 ただならぬ気配にカオリは焼きソバを作っているヘラを投げ出した。

 それがヒロの甲にあたった。

「ずわっちっちっち!」

 ガス栓を止め、ヒロも後を追いかける。

 ジュンとカズは、海の家の脇で椅子の背もたれをカッターナイフで修理していた。

 祐次の声に思わずその手を止めると、カオリ達が海の家から飛び出していくのが見えた。

 ジュンとカズも修理中の椅子を脇に置きその後を追った。

 祐次は、波と砂を跳ね上げながら泰三に走り寄って行く。

 4人も泰三を中心に集まって来た。

 祐次が泰三の眼を見つめ息を切らせている。

『真剣に伝えたい』

 気持ちが伝わって来る。

「兄ちゃん、慎二が大変なんだ。勝と浮き輪で沖に出たんだけど、定置網に足を絡ませて動けないでいる。しかも浮き輪の空気も漏れて沈みそうなんだ。兄ちゃん慎二を早く助けて。オレ達、勝、千夏、俊介とリレーで繋いで知らせに来たんだ」

 定置網の方向を指し、そう言い終えると膝をついた。

 カオリが肩を抱き、落ち着かせている。

 ジュン達が定置網の彼方を見渡すと遠くに小さな黒い点が見えた。

 ショックで一瞬固まる。

 ジュンがつぶやいた。

「勝君は、浮き輪持ってないはずだろ。慎二君のか、それとも何処かで借りたのか」

 泰三は立ちすくみ答えた。

「俺が貸した」

 カズが貸し出し小屋に走った。

 中から驚きの声がした。

「網の下の浮き輪がない!」

 ジュンが厳しい顔で叫んだ。

「ヒロぉ、お前伝えてないのか!」

 ヒロも貸し出し小屋から顔を出し叫んだ。

「ワシャ伝えたよ。真っ先に伝えてる」

 ジュンは、ヒロの言葉を確認すると泰三に迫った。

「お前、あの浮き輪を貸したのか」

 泰三が、黙って頷いた。

 ジュンに怒りがこみ上げてきた。初めての感情だ。

 今まで感情のままに身をゆだねた事はない。仕事上怒ったふりもする。

それも計算ずくだ。

『少しはやっておくか、その方が今後の事を考えると良いだろう』そう思いながら適当な落とし所を考えていた。

 だが、今は違う。

 初めて人を殴りたいと思った。

 憎しみではない。

 純粋な怒りを感じた。

 知らずに涙がこみ上げて来る。

 怒りの背中合わせには、悲しみがあったのか。

 泰三の胸ぐらを掴んだ。

 声がかすれる。

「お前、自分に拗ねやがって。何時まで敗け犬でいれば気が済むんだ。こいつらのやった命のリレーを見ろ! ここまで育てたのはお前なんだぞ。それなのにお前のやった事は何だ。空気の漏れた浮き輪を渡しただけじゃないか。あの浮き輪は、お前自身なんだよ!」

 右手を握り締めた。

 涙をぬぎ拭う様に右手のストレートが泰三に伸びる。

 泰三は目を瞑った。

 だが頬に届く瞬間、肘が途中で止まった。

「ガシッ!」

 ジュンの右肘とリョウの右肘が十文字に絡んでいる。

 2人の目が交差した。

「ジュンさん、やめろ」

 眼鏡越しにリョウの目がジュンを見つめている。

 悲しみに溢れた目だった。

 その瞬間。

「パッシーン!」

 いきなりカオリがジュンの横っ面を張った。

「何すんだ。痛ぇーじゃねえか!」

「叩いたこっちの手だって痛いのよ!」

 理屈は合ってる。

「そりゃ、そうだけど……」

「ジュンさん、泰三。何やってるのよ、二人とも。あの沖を見て!」

 カオリの指差す沖を見ると、小さな頭が波に出たり隠れたりしている。

「良く見て。あれは、ビーチボールじゃないのよ。2人とも、この砂の熱さを感じてるの! あの子の足は今、海の中で冷たさと恐怖に震えているのよ!」

 ジュンと泰三は我に帰った。

 カオリの言う通りだ。

 しかし、この現実にどう対処すればいいのか。

 その時。

「ピッー!」

 心を縦に貫く様な、鋭いホイッスルの音がした。

 マサだ。

 ボートを押している。

「押せ、行くぞ」

 ジュン、ヒロ、リョウ、カズは急いで駆け寄り、ボートを押した。

 ボートを押し出す足の裏の白さと跳ね上げる砂がスローモーションの様に映る。

 ボートは海に乗り出すと波に激しく上下した。

 ジュンが揺れる舷側から乗り出し泰三に叫んだ。

「泰三、何やってんだ。早く乗れ!」

 泰三は砂浜を走り、海に飛び込むと波を切りボートの先端に乗り込んだ。

 乗り込むのを確認すると4本のオールがすかさず水を切った。

「バンッ!」

 ボートは波にぶつかり、音をたて、水しぶきを上げながら乗り出した。

 砂浜にはボートが押し進んだ航跡と無数の足跡が残されていた。

 ボートは、波を越えズンズンと「進んで行く」はずだった。

 しかし、上手く前に進まない。

 右に左に、酔っ払いの様に進んで行く。

 それはそうだ、ジュン達は池で小さな手漕ぎボートを漕いだ事はあるが、右舷と左舷に分かれて漕ぐボートは初めてだ。

 ジュンとリョウが進行方向左、ヒロとカズが右に座っている。いかんせん初めてなので呼吸が合わない。

 そこへ持ってきてマサが怒鳴る。

「トォーリ舵、違う。じゃあこのまま、ヨォーソロー」

 カズが大声を上げた。

「何、言ってんだかワカンネェーよ」

 マサもテンパッテいる。

「取り舵は左って事。もっとしっかり漕げ、まるでオヤジじゃねぇか」

 ヒロが呟いた。

「だってオヤジだもん」

 このままでは、救出どころか遭難だ。

 ジュンが提案した。

「このままの時は、真っ直ぐと言ってくれ。右に曲がりたい時はジュン側強く、左はヒロ側強くだ。これで行ってくれ」

 マサが了承した。

「OK、じゃあ行くぞ真っ直ぐ」

 ジュンが声かける。

「スピード60、ワン・トゥー・スリー・フォー」

 ドラムのカウントだ。

 全員が声を揃える。

「ワン・トゥー・スリー・フォー」

 ボートは順調に進み始めた。

 大きくなり始めたうねりに揉まれながらも定置網の先に向かって進んで行く。

 櫓にいる俊介、浮き灯台の千夏、浮き筏の勝から「ガンバレーッ!」の声がかかる。

 マサの掛け声とオールが波を叩く音だけが聞こえ、張り詰めた空気が漲っている。

 定置網の先端が近づいて来た。慎二は無事だ。しかし浮き輪はすっかりへこみ、空気が殆ど残っていないのが分かる。

 後50メートル。頭が波に飲み込まれそうだ。

 マサが声をかけた。

「ジュン側、強く」

 ジュンが復唱する。

「ジュン側、スピード80」

ボートは右に舵を切った。

「ドォーン、バッサッーン!」

 左舷から波が当たり、海水を頭からかぶる。

 マサが指示をする。

「ヨーシそのまま真っ直ぐ。発進用意」

 再び直進に戻ったボートを今度は波が正面から襲う。

 まるで、遊園地のウォーターシュートだ。

 船首で泰三が身構えた。

 もう直ぐだ。

 ジュンは自分のポケットに固い物があるのに気付いた。

 カッターナイフだ。

「泰三!」

 ジュンは、泰三に声をかけるとポケットからカッターナイフを取り出した。

「役に立つかもしれない。これ持って行け、使い方知ってるな」

「キリキリ、カチン!」

 カッターナイフの刃が出てロックされ、又引っ込んだ。

「ありがとう」

 泰三は、そう言うとカッターナイフを口にくわえた。

 慎二まで20メートル。

 マサが声をかけた。

「発進!」

 泰三が船首から飛び込んだ。

 体を「く」の字に曲げ波に飛び込んで行く。

 日射しを跳ね返し、体が赤銅色に輝いた。

 口に咥えたカッターナイフが「キラッ」と光を反射した。

 泰三は波に飛び込むと、あっという間に慎二のもとに泳ぎついた。

 慎二はやはり足が定置網に絡んでいる様子だ。

 動かす事が出来ない。

 泰三は笑顔で慎二の頭を撫で落ち着かせると一気に潜り、カッターナイフで定置網を切り裂いた。

 慎二の体が浮く。

 同時にボートが慎二に近づき舷側から身を乗り出したマサが抱き上げた。

 ボートの中で喚声が上がった。

 泰三は、海からホッとした顔でその様子を見つめていた。


 砂が熱い。

 でも、地面があると言うのはこんなに有難いものなのか。

 熱さが生きている事を実感させる。

 慎二は泰三に背負われ、すっかり落ち着いている。

 子供達も泰三の周りに集まり、泰三に尊敬の眼差しを向けている。

 浜に沢山の足跡を残しながら、マサと5人、泰三と子供達は海の家に戻って来た。

 アキさんが熱いお汁粉を持ってきてくれた。

 お汁粉の熱さと甘さが緊張と恐怖で震えた心を落ち着かせてくれる。

 泰三はお汁粉を少し口に含むと箸を置いた。

 両手を膝に置き。真剣な顔つきになった。

「皆、聞いてくれ。兄ちゃんはな!」

 ジュンが眼で制した。

 そして笑って続けた。

「泰三兄ちゃんは、凄かったろ。俺たちが浮き輪を間違えたのに気付いて、助けに行ったんだぜ」

 カオリが引き継いだ。

「やっぱ、泰三兄ちゃんは浜の英雄さ」

 ヒロとリョウ、カズも加わった。

「そうだ、間違いない!」

 アキさんが涙ぐんでいる。

 マサは、皆に背中を向け黙って汁粉を口に運んでいる。

 でも汁粉は少しも減っていない、ただ肩が時々震えている。

 皆、子供達のメドレーリレーに心が動かされたのだ。

 子供達をここまで育てたのは泰三。

 泳ぎの技術だけではなくチームとしての纏まりや勇気と言う、大切なものまで教えていたのだ。心身共に立派なアスリートを育てていた。その泰三に子供達は尊敬の念を持っている。

 それを壊してはいけない。

 泰三は、子供達の掛け替えのない先生であり英雄。

 ジュンは、自分の過ごしてきた「今」を恥じた。

 慎二を助ける為の命のメドレーリレー、これを指導したのは泰三だ。立派な成果を残している。これはきっと子供達を次のステージへ誘うだろう。

 成功とは次のステップへのスタートだったんだ。

 自分は、今まで何を拗ねていたのか。

 周りに幾つもの成功があったかも知れないのに気付かず、管理職のステージを上がる事ばかりを考えていた。そして結果が出ない事にふてくされ、投げやりになっていた。

 今日始めて『成功』の意味と『勇気』に気づかされた。安っぽい怒りや諦めはやめよう。

 自分の周りの大切さに気付くべきなんだ。

 やがて、渚ホテルの時計台が5時を知らせた。

 それを、合図に英雄とアスリート達は帰り支度に入った。


 線香花火の小さな火がバケツにポトンと落ち「ジュ」と小さな音をたてた。

 夕食も終わり、海の家ではマサと5人、アキさんで小さな花火大会が開催されていた。

 波が月光に照らされ静かな音をたてている。

 それはまるで今日の出来事を海の記憶フォルダに落とし込むセレモニーの様だ。

 波はこうして幾つもの時代を見てきたのだろう。

 カオリがジュン達を振り返り。

「線香花火もう1本」と言った時。

 泰三が海の家に現れた。

 入って来るなりいきなり頭を下げた。

「皆さん、本当に申し訳ない。俺の不注意なのに、俺を責めず。本当に、恥ずかしい。今までの自分を許してくれとは言わない。ただお詫びしたいだけで来ました。この気持ちだけは受け取って下さい」

 急な登場に少し驚いたが皆笑って受け止めた。

 気持ちが理解出来れば終わった様なもんだ。

 ジュンが笑って答えた。

「もういいよ、君は子供達の英雄。あこがれでいなきゃ。だから命のメドレーリレーが出来たのさ」

 カオリも同感だ。

「勝君に俊介君、祐次君や千夏ちゃん達、一所懸命で凄くいじらしかったわ」

 泰三は、少し恥ずかしそうだ。

「あれは、偶然の出来事さ。どうして皆があんな気持ちになったのか分からない。オレは、ただ体でぶつかり、水泳の楽しさを教えただけ。説教染みた事は一言も言ってないのに」

 目の前の事を積み重ねただけなんだ。

 それがジュンには新鮮だった。

「俺も勉強になった。大変な成功さ、彼らはきっと次のステージへ行くよ。成功は次のステージへのスタート。成功は身の周りにある。見方次第だ。それを思い知らされたよ」

 泰三の言いたい事を言ってくれた。

「ジュンさん。そうなんだ、俺もやっと気付かされた。海の家で拗ねていた自分が恥ずかしい。君らが来てくれなかったら、あのままの自分から抜け出せなかったと思う。ありがとう、握手してくれるか」

 ジュンと泰三が手を握り合った。アキさんも笑って見ている。

 泰三が少し遠慮がちに話し始めた。

「厚かましいお願いがあるんだ。聞いてくれるか」

 言い出しづらそうだ。カオリが少し焦れた。

「さあ、言っちゃいなさいよ。ここまで来たんだから」

 おかげで切っ掛けが出来た。

「じゃあ、言うな。子ども達は、君らのバンドのファンなんだ。明日でバイトも終わりだろ。そこで東京に帰る明後日の朝、子供達だけにライブをやって欲しいんだ。どうだろう?」

 ファンと言われて悪い気はしない。OKに決まってる。

「それは、良いけど。でもオーナーが」

 こう言う時だけは、マサが出てくる。

「俺たちは、プロだ。商売よ。条件次第だが1000円でどうだ。場所は、2階のテラスで夜明けと同時だ」

 話は決まった。

「よろしくお願いします」

 そう言うと泰三はマサに1000円を差し出した。

 マサはポケットに入れるとジュン達に言った。

「明日の午前中、俺はいないぞ。この金で厨子にライブの小道具買いに行って来る」

 カオリが掌を拡声器にして声をかけた。

「マサさん、今日も格好いい!」

 笑みが生まれる、そして拍手だ。

 泰三がポケットからカッターナイフを取り出した。

「そうそう、これ返さなきゃ。どうもありがとう。良く切れるね。こんなカッターナイフ初めて見た。ボディーは綺麗なプラスティックだし、握りもいい」

 マサも一緒に見ている。

「これだよ、コレ。こう言う時よ。いつも不思議に思うの。何か変なんだよなぁ。お前ら。持ってる物とかさぁ、話し方とか。ナッそう思うだろ」

 泰三も頷き、アキさんも加わってる。

 こんな時は、曖昧な笑いで逃げるだけである。


 27日木曜日の朝が明けて来た。

 海の家の2階テラスには、4人の子供達と泰三の姿があった。

 ライブの始まりを今か今かと待ちかねている。

 テラスには、アンプが置かれドラムがセットされている。そして倉庫の奥にあったピアノも運び出されている。

 カオリが始まりを告げた。

「厨子海洋少年団の皆さんと佐島先生。前へお進み下さい」

 泰三と子供達は急に今までと違う名前で呼ばれ、何が起きるのかと驚いた。

 促されるまま前へ進む。

「これより、表彰式を行います。一同礼!」

 マサ、バンドメンバー、泰三と子供達が一斉に礼をした。

「概ね400メートルメドレーリレー優勝。厨子海洋少年団と佐島先生。貴方達は、友人の危機に際し全員の英知を集め勇気を出し合い救助いたしました。これは真のアスリートの姿であり手本とするべきものであります。よってその英知と勇気を讃え、表彰いたします」

 カオリが一際大きな声を上げた。

「メダル授与!」

 マサが一人ひとりの首に手作りの金メダルをかけた。

 これはバンドメンバー全員で昨夜手作りしたものである。

 カオリが再び発声した。

「全員ポールに向かって下さい。讃歌の斉唱と団旗の掲揚を行います」

「ワン・トゥー・スリー・フォー」ジュンのカウントが入った。

 今日のため特訓をしたカオリのピアノから入る。

「♪陽炎揺れる 喚声は 既に遠く 苦しい時も やがて彼方に過ぎ去り この手に掴む事 今はまだ 出来はしないけれども あとどれだけの壁越え 辿り着くのか♪」

「ダ・ダ・ダ・ダン」ジュンのドラムが小気味良く入る。

「♪あなた背中を いつも見ていた いつか先に行ける日が来る 信じてる その日を♪」 

 明日を信じる。そんな気持ちが湧いてくる。

「♪力よ届け 栄えある光浴び 高く耀かに この身を讃える 炎 燃え♪」

 マサの声がした。

「団旗揚げます!」

 スルスルとポールに青い旗が揚がり始めた。昨日マサが作ったものだ。

「♪沸き立つ風に 大気は震え 鼓動強く 凱歌を歌う 諸手に仰ぐ 天つみ空よ 今私を 抱きしめて♪」

 旗は潮風に大きく翻った。

「♪あなた背中を いつも見ていた いつか先に行ける日が来る 信じてる その日を♪」 

 昇る朝日が力を増し、胸に手をあて団旗を仰ぎ見る泰三と子供たちを赤銅色に照らした。

「♪力よ届け 栄えある光浴び 高く耀かに この身を讃える 炎 燃え♪」

 ジュンがしっかりとクラッシュを入れ、夏の表彰式は終了した。


 ミニバンが横須賀方面に向かっている。

 ジュンが不思議そうな顔をしている。

「マサさん。方向違うんじゃないの。東京は逆だよ」

「いいんだよ。アキさん、秋谷に住んでるんだけど、帰りに寄れってさ」

 カオリには、いいただき物の匂いがする。この辺の嗅覚は実に鋭い。

「何かしらねぇ?」

「とりたての魚と貝をくれるってよ。南風荘戻ったら物干し台でバーベキューやらないか」

 最高だ。

 ミニバンの中が喚声で溢れた。

 フォルクスワーゲンのミニバンのお尻が嬉しそうに揺れていたのは、未舗装の道路のせいではなかった。

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