第8話 挫折

「ドスン!」

 赤い浴衣のカオリと青い浴衣のヒロがぶつかった。

 これで3回目だ。

「ヒロさん。何回も言ってるじゃない。2回手を叩いたら、くるっと回って後ろに3歩でしょ」

 カオリがヒロの少しはだけた浴衣の胸をつつきながら文句を言っている。

 ヒロは仕方なさそうだ。

「だから、ワシは『踊らないで、見てる』って言ったじゃない。行きたくもない嫌いなゴルフに無理やりつき合わされて『下手くそ』って言われてる気分」

 カオリは、ヒロを見ながら腕組みして首を傾げている。

「ヒロさん。ギターあんなに綺麗に弾くのになんで踊りはダメなのかしら不思議ねぇ」

「しょうがないだろ、ハンバーグの絵は描けてもハンバーグは作れない。ギターを弾けても踊れない。種目が違うの」

 ヒロと同じ青い浴衣を着たジュンが後ろから大きな声を出した。

「おい、止まるなよ。こんな所で、もめるな。後ろ見ろ、渋滞だ」

 振り返ると踊りの列が止まり、迷惑そうな眼が一斉に2人に注がれている。ジュンの後ろでは、同じ浴衣を着たリョウとカズがお面を頭に笑っている。

 8月7日金曜日の夜、西荻商店街の中程にある小さな公園は人で一杯だ。

 櫓の上に据え付けられたスピーカーからは少し雑音の混じった民謡が流れ、上を見上げると電線にぶら下がった提灯が蛸足の様に公園の四方八方繋げられ、辺に広がる縁日の屋台を照らしている。

 西荻商店街恒例の夏の盆踊り大会だ。

 たいぶ踊ったので少し疲れたのか、カオリが手ぬぐいで額の汗を押さえている。 汗をかいた襟足に髪が少し絡んでちょっと色っぽい。

「ヒロさん。少し休もうか。喉が乾いたわ」

 皆も賛成だ。

 丁度良い提案に5人とも「お休み処」と言う、看板の掛かったテント張りの屋台にそそくさと吸い込まれていった。

 南風荘と旅館の名前が入った浴衣を着た5人が入り口近くの席に着くのが見える。青い浴衣と赤い浴衣が吊り下げられた裸電球に照らされている。

 5人は、テントの脇に貼られた品書きの中から心太を注文した。

「シャッ、シャッ、シャッ」と言うかき氷の音をBGMに心太が運ばれてきた。

 心太は酢醤油にカラシを混ぜてサッパリといただく。

 ヒロが少しむせた。

「ヒロさん。誰も取らないわよ。ゆっくり食べて」

 カオリがからかった。

「イヤ、そうじゃなくて。ワシ心太、酢醤油で食うの初めてだから」

「じゃあ、普段何かけて食べてるの」

「黒蜜や砂糖」

 他の4人が声を揃えた。

「エーッ! 信じられない」

 カオリが寒そうに腕をさすっている。

「変な食べ合わせ。ウー、気持ち悪! 夏なのに鳥肌立つわ」

 ヒロは少し意地になった。

「じゃあ、カオリは餡蜜食わないのかよ。餡蜜の寒天は心太と同じ天草から出来てるんだぜ。今度餡蜜に酢醤油ぶっ掛けてやる」

「いいです。遠慮します。まったく子どもっぽいんだから」

 そう言っているカオリの眼に縁日のライトに照らされ、キョロキョロと誰かを探している中年男の姿が映った。

 マサだ。

 マサは屋台の入り口付近にいる5人を見つけると嬉しそうに手を振り、タオルで汗を拭きながら近づいて来た。

「やあ、やあ。バンド青年団の諸君」

 そう言うとカオリの隣に座りヒロの心太を取り上げ食べ始めた。

 少し酒臭い。

 カオリは迷惑そうに縁台の席を移りながらマサをにらんだ。

「やめてよ。そのダサい言い方」

 マサは心太の酢醤油にむせながら答えた。

「俺は仕事の話に来たの」

 ヒロが心太を奪い返しながら聞いた。

「今度はなによ。ワシら屋台の仕事付きは、勘弁なんだけど」

「お前ら疑い深いな。まっ、気持ちは分かるけど。今度はすごいぞ。リゾートで温泉つき、別荘住まいで仕事は夕方から」

 カオリは疑い深そうだ。

「夕方からって、又ウォータービジネスじゃないの」

 マサがヒロから又、心太を取り上げた。

「水商売? 英語で言うなよ、そこまでいかない。ウォーターフロント、水商売寸前。場所は伊豆の下田だ。ホテルのビアガーデンで演奏。温泉は入り放題。食事つき。泊まりの別荘は200坪南向き、海近、パーキングつき、近くに漁港あり、獲りたて魚つき。これでどうだ」

 そう言うと、残りの心太をかき込んだ。

 カオリが箸を器に置き目を輝かせた。

「不動産屋みたいね。でも、温泉かぁ。いいわね、汗をかいた後の温泉。仕事の後にも先にも新鮮なお魚とビール。日中はプライベートビーチ。この間のビキニ着よう。20歳のナイスバディに注がれる男達の熱い視線、たまらんわ。行こう、今行こう、直ぐ行こう」

 残りのメンバーもカオリと同意見だ。力強く頷いている。

 マサは、右手で少し制した。

「まあ、そう焦るな。明日の夜中出発する。その方が涼しいし、下田までは6時間位かかるからな」

 ヒロが団扇をやけくそ気味に「バタバタ」させながら訊いてきた。

「6時間位って、ワシら何に乗ってくのよ」

「車に決まってんじゃん。一番安いし楽器も運べる。お前ら何しに行くの? バンドしに行くんでしょ」

「えー! あのブリキの玩具みたいなミニバンで行くの。JRで行くんじゃないんだ」

「何だ、ジェイアールって。飛行機か?」

「エアコンなしのミニバンに6時間も揺られていくのかぁ」

「何だ、エアコンとかジェイアールとか鹿屋の方言使うな。とにかく夜出れば涼しいからな。それまでに仕度しておけよ。それから言っておくけど旅館の名前が入った浴衣で出歩くのはやめとけ。『南風荘』が連れ込み旅館って、この辺の奴皆知ってるから男4人と女1人で良からぬ事想像されてるぞ。外を通る人の目を見てみろ」

 言われて屋台の前を通り過ぎる人達を見ると、テントの中の5人を見ては顔をしかめては小声で話している。

 カオリがバツの悪そうな顔で腰を浮かした。

「早く、南風荘に戻ろうかぁ」


「ブウォン!」

 ボンネットタイプのダンプが追い越していく。

 抜かれる度にミニバンが左右に揺れる。

 昼間に見るとスヌーピーの様にのんびり顔のボンネンットタイプのダンプだが夜の国道を突っ走る姿は狂犬そのものだ。

 8月8日土曜日の深夜、善福寺を出発したミニバンは、高円寺から環状7号線を南下し松原橋で国道1号線(第2京浜)と合流した。夜中の国道1号線を行くのは、ほとんどがトラックだ。乗用車は少なく、たまにタクシーが混ざる程度だ。多摩川大橋を渡ると神奈川県だ。幹線道路とは言え国道の両側には平屋の家並みと小さな工場が延々と続いているだけである。街路灯の数が少なくネオンサインもないので町並みが暗く、どことなく光が重く感じられる。それでも所どころで光の塊に出会う。オリンピックを間近に控えたせいだろう道路工事の現場だ。そこだけ多くのライトに照らされ、暗い宇宙に点在する銀河の様だ。

 リョウが前かがみになりフロントグラスに顔をつける様に運転している。

「ブウォン!」又、トラックに追い抜かれた。

「カンッ!」

 トラックが小さな石を跳ね上げ、それがミニバンのボディーに当たり金属的な音をたてた。

 リョウはその音にビクッとした。

「おっかねぇー。こんなブリキで作った様なミニバン。追突されたら、ひとたまりもないぜ」

 隣に座ったヒロが呆れている。

「これだけ遅けりゃ仕方がないさ。こいつが追い抜けるのは自転車とリアカー位。ワシらが下田に着いた頃には、夜どころか年が明けてるよ」

 リョウもあきらめ顔だ。

「しょうがねぇよ、OHV1500CCで40馬力位しかないのに俺たち6人に加えて荷物を屋根にまで乗っけてる。過積載もいいところ、走ってる事自体が奇跡なんだから」

 窓を全開に開いた中で風きり音に混ざり「グゥ」と言う大きな鼾が車内に響いた。

 2列目にいるカオリ達が振り向くとマサが一番後ろの席で荷物に埋もれながら寝ている。

 カオリがヒロの肩を後ろからツンツンとつついた。

「マサさん完全に寝ちゃったよ」

「そりゃそうだよ。夜中に出るからって自分で言っておいて、西荻の駅前で飲んだくれてるんだから」

「少しつついてみようか」

「やめとけよ。『俺はタヌキやキツネじゃねぇんだ』って言われるぞ。寝かしておけよ。起きるとうるせぇし。保土ヶ谷から横浜新道だ。第3京浜や東名もないから久々の高速道路だからもう少し距離稼ごう」

「高速ねぇ。これって高速出るの」

「安全な範囲の高速が出る」

 

 茅ヶ崎を過ぎ、大磯からは海岸線沿いを走る。そして小田原からは国道1号線に別れを告げ135号線に入る。真鶴からは勾配のついたカーブが多く、海岸線に沿って上がったり下がったを繰り返す。熱海から30分ほどで伊東に着き、後は伊豆半島を海岸線に沿ってひたすら南下する。

 ここで運転はリョウからヒロに代わった。

 川名、熱川を過ぎ河津に近づくと夜が明けて来た。そして第一・第二小湊遂道と言う手掘りで造った様なトンネルを抜けると尾ヶ崎に着き、そこからは伊豆の海を一望に見る事が出来る。

 重そうに腰を落としたミニバンは、海水浴で有名な白浜を左手に見ながら走り続ける。白浜を過ぎると道は岬に入り小さなカーブが連続する登り道となる。

 ワインディングロードをしばらく登り続けると須崎との分かれ道、柿崎が見えてきた。パワー不足のミニバンにとって登りはきつい。息を切らす様にトロトロと走り続ける。

 ヒロがサイドミラー越しに後ろを見ると黄色いベレG(いすゞベレットGT)がセンターラインから出ては引っ込んだりしているのが見える。明らかに抜きたがっている。小さなカーブを曲がりきった登りの直線で車を左に寄せると、ラリー用に足回りを固めたベレGがチューンアップされたエンジン音を強烈に響かせながら抜き去って行った。

 ウィンドウ越しにドライバーの濃紺のジャケットと白いシャツが見える。ミニバンをパスしたベレGは次のカーブで急減速すると一気に切り込み、軽くカウンターを当てドリフトさせながら駆け抜けていった。半端なドライビングテクニックではない。ヒロは思わず「スゲェーな」と呟いた。

 ベレGを見送りながら車内のバックミラーに眼を移すとマサが荷物の中でゴソゴソと動いているのが見えた。カオリが気付き、振り返ってマサに「おはよう」と挨拶をするとマサは眠そうに「オー」と答え、小さな笑いが車内に漏れた。

 柿崎からは下りとなりトマト畑を両脇に見ながら走ると下田の町並みが見えて来た。駅から少し離れた山には観光用のロープウェーがあり、町並みの中にあるホテルや土産物屋が観光地に来た事を実感させる。左手に下田湾を見ながら車は、湾に面したホテルに滑り込んだ。


 車を玄関に止めるとボーイがドアを開けてくれた。

 5人とマサは車を降り、マサがボーイに尋ねた。

「東京から来た小田原プロダクションだけどよ」と言ったとたん。

「お待ちしてました!」

 元気な女性の声が飛んできた。

 マサと5人が「ビクッ」として振り向くと濃紺のスーツに白いブラウスを着た20歳くらいの女性が笑顔で近づいてきた。潮風に肩より伸ばした髪が揺れ、目は涼やかだがツンとした鼻筋と尖らせた口がいかにも気が強そうだ。

 カオリがヒロの脇をつついた。

「ヒロさん見てよあいつ、いっかにも生意気そうじゃない」

 ヒロも同感だ。

「ワシ、なんかヤナ予感するなぁ。振り回されそう。こういう予感当たるんだよね」

 女性はマサに名刺を差し出し、事務的に話し始めた。

「先ずは、ようこそ下田へ。バンドの皆さん。私は、川名麻希(かわな まき)このホテルのイベント部門の責任者です」

 5人はマサが手渡された名刺を覗き込んだ。

 名刺には、「伊豆下田ワールドホテルハワイアンズ、営業部長代理・心得・見習い。川名麻希」とあった。

 カオリとヒロが名刺を見ながら首を傾げている。

「肩書き長くない? バイトじゃなさそうだし、管理職にしちゃ若すぎるし、何だろねあの娘」

「でも、言う事は聞いておいた方が良さそうだぜ。見ろよ、あの周りの気の使い方」

 いつの間にかボーイやフロントが麻希の周りに集まって来た。

 麻希は、この圧力を背景にマサに話しかけた。

「皆さん、ようこそ下田へ。東京から遠かったでしょ。業務用の駐車場まで私がご案内するわ。このミニバン珍しい車だから私も一度乗ってみたかったんだ」

 そう言うと麻希はさっさとミニバンに乗り込んだ。

 5人とマサはその様子を見ると慌てて乗りこみ、ミニバンはゆっくりと駐車場まで移動し始めた。

 駐車場には、業者の車が集まり食材やタオルをホテルに運び込んでいる。

 駐車場に停め改めて見回すとトラックや自動三輪の間に黄色いベレGが駐車していた。

 ヒロが見つけた。

「さっきのベレGじゃん。誰のだろう」

 ベレGは主人を待つ精悍な動物の様に静かに佇んでいた。

 かくれんぼで見つけられた子供の様に麻希が答えた。

「見つかっちゃった。あれ、私の車。時間に遅れそうで、須崎からかっ飛ばして来たの。途中でワーゲンのミニバン抜いたけど皆さんのだったのね」 

 ベレGは、一見普通のクーペに見えるが足回りとCIBIEのフォグランプを見れば半端ではない事が分かる。

 ヒロがエンジンルームを覗き込んだ。

「すげぇーな。補強バーにウエーバーのキャブレターか。まるでラリーカーじゃないか」

 羊の皮を被った狼とは良く言ったものだ。

『分かってもらえて嬉しい』

 気持ちが麻希の表情に表れている。

「こうした方が早く走れるから。自然にこうなっちゃった」

「テクも凄いじゃん。あのカウンターステアどこで習ったの」

「ああ、あれね。私、大学では自動車部なの。自動車部の車は古いから、腕磨くには自分のがないとね。お稽古事と一緒よ」

 車を自慢する訳ではない、道具として見ている。生意気な所もあれば天真爛漫な所もあり、育ちの良さを感じさせる。

 仕事の為にはミニバンからアンプやギターを降ろし、屋上のビアガーデン近くの倉庫まで運び込まなければならない。早朝なので昼間よりはマシだがとにかく暑い。徹夜で走ってきた身にはこたえる。幸い麻生が一緒にいるおかげでホテルの従業員が手伝ってくれた。全ての機材を運び込んだ後、車の中をリョウが覗き込み首を傾げている。カオリも心配そうに覗き込んだ。

「リョウさんどうしたの。探し物?」

「予備のシールドが見当たらないんだよ。この間豊島園の駐車場でライブやっただろ。あれから見当たらないだよ。『もしかしたら車の中に落としたのかな』と思って探したけど、やっぱりないや」

「ああ、東大と智子のライブね。私も百均で買った電卓がないのよ。そう言えばカズさんもこの間『チューナーがなくなった』って言ってたわ」

「カズもかぁ」

その時後ろでマサの声がした。

「オイ、仕事に入るぞ。降ろした楽器を調整するチームと宿へ行くチームに分かれる。ヒロとカオリは宿組だ。さっきのお嬢さんが案内してくれるから先に行ってろ」


 麻希は簡単な地図をジュンに渡すとヒロとカオリを促した。

「それじゃ、私がご案内するわ。私の車はバネが硬くてお客様用じゃないからタクシーでご案内します」

 ホテルの入り口でヒロたちはジュンたちと別れ、麻希とタクシーに乗った。

 乗車するとすぐ麻希が行き先を告げた。

「須崎の家まで行って」

 ヒロはたまげた。

「それで行けちゃうの?」

「タクシーはうちの会社のだから、運転手さんは皆、私の家知っているの」

「ハァー、ゴメンこんな言い方で失礼だけど川名さんはいったい何者なのよ?」

「私は、ホテルの社長の娘。父はホテルやタクシー会社の他に不動産や小売店も経営してるわ。須崎まで時間があるから自己紹介するわね。それから私の事、麻希って呼んでもらっていいわ。普通は、そんな気分にならないけど、あなた達ならいいわ。不思議ね」

 麻希は伊豆下田で手広く商売している家に生まれた一人娘で20歳になる。東京の有名私立大学に通っており、休みの時だけ下田に帰って来る。幼くして母を亡くしたので父親は麻希を溺愛しており、後を継がせたがっているが本人は下田が窮屈で仕方がない。しかしスポンサーである父親の命令には従わざるを得ず、春休みや夏休みにはホテルで仕事をする事になったのだ。

 仕事の内容はホテルのイベント企画。下田は嫌いだが、仕事の中身は面白そうでいろいろと考えた。行き着いたのがバンド。自分も音楽が好きなので、東京で行きつけのジャズ喫茶のマスターにマサの事務所を紹介してもらったのだ。

 タクシーは、麻希がヒロたちを抜き去ったカーブを過ぎると柿崎に近づいた。柿崎を右に折れると須崎の海岸が見えて来る。トマト畑に挟まれた急な坂を降りきると漁港がある。朝のせりも終わり、ゆったりとした空気が漂っている。小さな入り江の近くに植え込みで囲まれた屋敷が見えて来た。


 敷地はおよそ200坪以上はあるだろう。石で土台を築いた大きな平屋がのびのびと建ち、庭には年代ものと思われる松が植えてある。

 麻希が先に立ち木戸開け、玄関に上がると2人にスリッパを勧めた。

 家は、テレビや雑誌などで見る田舎のお屋敷だ。庭に面してぐるりと縁側があり8畳から10畳くらいの部屋が続いている。仕切りとなっている襖をはずせば大広間になる仕組みだ。台所は広くガス台がずらりと並んでいる。相当大きな宴会でもこなせそうだ。台所の外にはプロパンガスのボンベがズラリと並んでいる。

「じゃあ、近所を紹介するわ。お店や港とか知っておいた方がいいでしょ」

 そう言うと、麻希はヒロとカオリを促して魚港に向かって行った。


 漁港と近くには小さな店が数店舗あり、麻希は先ず漁港に向かった。水揚げも競りも終わった漁港の市場はカランとした静けさに包まれており、麻希たちが近づいて行くと中から真っ黒に日焼けした50歳半ばくらいの男が出て来た。

 麻希はその姿を見つけた途端、走り寄って行った。嬉しさが背中から伝わってくる。

「ゲンさーん。久しぶりぃ!」

 ゲンさんと呼ばれた男も嬉しそうに近づき麻希を優しく抱きしめた。麻希もニコニコしながら身体を預けている。

「マキぼう、いつ帰ってきたんだい。東京では達者に暮らしているのか? 須崎にも顔出さないといかんぞ」

「ウン、分かった。ゲンさんも元気そうね。もう若くないんだからムリしないでよ。東京でも心配してるんだから」

「俺は海の男だ。心配いらない。ところで今日はなんだい」

 麻希は、バンドのメンバーがしばらく屋敷に住む事を伝え日常の世話を頼んだ。

 ゲンさんは承知したと言う様に帽子をとって挨拶した。

 ヒロとカオリも自己紹介を済ませるとゲンさんが麻希に少し待つように言い残し、市場の奥に向かって行った。

 暫く待つとバケツに一杯のサザエや鮑を持って来た。

 カオリ達が期待していたのはこれだ。いきなりのサプライズだ。

 お礼を言って分かれたがバケツの重さは感じず足取りは軽い。


 帰り道は、少し遠回りになるがトマト畑を通って帰る事にした。

 時間は正午に近づいて来た。夏の強い日射しは人を無口にさせる。黙々と坂道を登ると「ジーッ」と言うセミの声に混ざり自分達の足音が聞こえるだけである。坂を登り切るとトマト畑が広がっていた。

 風も止まり、むせ返る程の草いきれを感じる。

「麻希ちゃーん」

 畑の中から女性の声がし、トマトの枝を掻き分け20歳くらいの女性が出てきた。

 麻希の顔が喜びで溢れた。

「朝子! 久しぶり」

 2人は手を取り合い、抱き合って再会を喜んだ。

「いつ東京から帰ってきたの? 本当、久しぶり。今どこにいるの?」

「先週帰ったんだよ。今は下田にいる。朝子は元気?」

「見ての通り元気よ。いつまでいるの?」

「当分いるわ、家のホテルで仕事。今月一杯はいると思う」

「私は今、お盆休みなんだ。こちらにいるなら須崎祭りの企画一緒にやらない。お祭りは16日、来週の日曜日よ。20歳になった者が須崎祭り企画をするのは知ってるでしょ。今年は私達の番よ」

「でも私、須崎に余りいなくて東京がほとんどだし。ホテルの仕事もあるから」

「麻希ちゃんは、子どもの時から勉強出来たしね。ホテルの仕事もしてるんだ。すごいね」

「そんな事ないよ。無理やり意地を張ってるだけ。いつもそう」

「ふ―ん、じゃあ気晴らしに一緒にやろうよ。せっかく帰ってきてるんだし、仲間にも会いたいでしょ。松崎さんも手伝ってくれているんだよ」

「松崎さんって?」

「1年上でバスケットボール部の松崎さんだよ。今、市役所に勤めているけど私たちが困ってるの見て、手伝ってくれてるんだ」

 麻希はドキッとした。

 高校時代、密かに憧れていた先輩だ。麻希は水泳部だったがプールからグランド越しに体育館を見ては松崎先輩のユニフォーム姿を追ったものだ。

「明日お昼のランチタイムに下田の邪宗門でお祭りの相談するんだ。須崎の仲間が皆集まるよ、麻希ちゃんもおいでよ」

 邪宗門は、下田でも有名な喫茶店だ。サービスのランチも美味しい。麻希はアンティークな内装とコーヒーの香りを思い出した。

「私、お祭りの手伝いは出来ないけど、コーヒーなら飲みに行こうかな」

 あくまでもコーヒーが目的、松崎さんではない。そう心に言い聞かせた。

 そんな事情を知らない朝子は喜んだ。来てくれるだけでも嬉しい。

「そうそう、それでいいわよ。ちょっと待ってて」

 そう言うと湧き水で冷やしたトマトを持ってきた。

 小さな籠に入っている。

「採りたてよ。歩きながら食べなよ。冷たくて美味しいよ」

 冷えたトマトは、夏の空気に触れて少し汗をかいていた。

「ありがとう、そうするわ。じゃあ明日ね」

 軽く手を振り、麻希たちはトマト畑を後にした。

 ヒロとカオリはトマトが気になって仕方がない。

 2人の視線に気付いたのか麻希がトマトを手渡してくれた。

 トマトにかぶりつくと冷たいトマトの果汁が口一杯に広がる。夏の日射しが冷たい美味しさを倍にしてくれた。

 麻希は、一口齧るとトマトを握ったまま考え込み、無口になってしまった。

 カオリは、麻希のそんな様子が気になった。

「麻希さん。どうしたの、お友達と久しぶりに会えて嬉しくないの? それともお祭りが嫌いなの?」

「ううん、朝子と会えたのは嬉しいわよ。朝子は、須崎で心を許せる幼馴染。ゲンさんは、朝子のお父さん。私は幼い頃母を亡くしたので一人でいる事が多かったから何時もゲンさんと朝子に遊んでもらっていたの。海で遊びながら色々なことを教わった。今の私があるのは、海とゲンさんと朝子のお陰」

「海が保育園だったり、公園だったり、遊び場だったのね」

「そう、高校を卒業してから私は東京へ行ったけど、朝子は地元の農協に勤めてる。ゲンさんは漁師だけど自宅用の小さな畑も持ってて、今日は朝子がトマトを採りに来てるんだわ」

「親友なのね」

「信頼できる唯一無二の友。でも須崎祭りのお手伝いだけは気が乗らないの」

「いいじゃない、お友達が皆集まって企画するなんて楽しそう」

「私、須崎あまり好きじゃないから。須崎は、私には重くて」

「じゃあ、理由つけて明日行くのやめれば」

「でも、久々に邪宗門のコーヒーも飲みたいし。コーヒー飲みに行くわ」

「ふーん」

 カオリには、なんとなく違う気配を感じる。

 この辺だけは勘が鋭い。

 額の汗を拭いながら前を見ると、先を歩くヒロがゆるい登り坂の頂上から海に向かって手を振っていた。ヒロに追いつくとその先は急な下り階段が入り江まで続き、入り江に面した屋敷の側に停めたミニバンの横でマサたちが手を振っていた。


 夕方マサと5人はミニバンをホテルの業務用駐車場に停め、ビアガーデンに向かった。

 エレベーターで屋上に着くとお馴染みのハワイアン音楽が流れ、歓声が聞こえて来た。

 ホテルの屋上は賑わい、あちこちでジョッキやグラスを重ね合わせる音がする。会場周りのテーブルには様々な料理が盛られ、料理テーブルの上には「下田初! 食べ放題、バイキングコーナー」と言う横断幕が誇らしげに掲げられていた。

 その下では麻希が料理の皿をお客に配ったり、調理人やウェイターに指示を出したりしている。料理を並べたテーブルの前には、幾つもの列が出来ていた。

 ヒロが麻希を見つけて軽く手を振ると麻希も手を振り返して来た。2人は、料理を並べたテーブルの前で会った。

「やあ。忙しそうじゃないか」

「そうよ、まだ日が暮れてないのに見てこの入り。バンドが出る頃はすごい事になってるわよ」

「バイキングは誰のアイデア?」

「私よ。東京じゃ最近見るけど、下田にはないわ。思った通りの評判よ。お客様はお部屋での料理とバイキングのどちらかを選べるの。特にお子様連れにバイキングは好評ね。それに、宿泊以外のお客様も入り口で入場料をお支払い頂ければ入れるわ。でもここまで入るとは思わなかった」

「そうかぁ。でもバイキングは1957年に帝国ホテルで始まったから、時代的にはいいかもな」

「時代じゃなくて場所でしょ。田舎の人には初めて、特に戦後の食糧難の時代知ってるから食べ放題は殺し文句よ。ところで、何故昭和じゃなくて何故西暦で言うの? 不思議ね」

「いや、令和になってから年号が分かりづらくて。じゃなくて癖って言うか。そうだ! バイキング美味しそうじゃない」

「食べる? ハムやソーセージ美味しいわよ」

 見るとステンレスの大きな皿に皮を食紅で真っ赤に染めたハムやソーセージが盛られている。確かに憶えているが2020年では、もはや伝説だ。手を伸ばすのはためらう。

「ありがたいけど、これから出番だからワシャやめとくわ。忙しいところゴメン」

 ヒロは、そう言うとステージに向かって行った。

 日が暮れたところでファーストステージとなった。新宿や豊島園で演奏したのとお馴染みの曲だ、慣れてきたので盛り上げが上手くなって来た。客層に合わせ、お子様には鉄人28号等のアニメ、若い両親にはローハイドを始めとするテレビのテーマソングを混ぜた。これは大好評で客席から歌声と共に歓声が溢れた。

 セカンドステージでは、浴衣のはだけた親父に合わせてカオリが「銀座の恋の物語」を一緒に歌ってやると仲間から歓声があがった。新宿のキャバレーで鍛えられたせいか余り苦でもなくなり、セクハラ寸前も上手くかわせる様になったのは自分でも驚く。

 スリーステージではアルコールもまわったのか、若い人たちも乗ってきたのでプリティーウーマンなどのダンスメロディーを中心に組み立てたると会場全体が踊り始めた。

 全てのステージが終了すると麻希がバンドに近づいて来た。

 顔が紅潮している。

「皆さん素晴らしいわ。この盛り上がり。まるで銀座のビアホールがそのまま下田に来たみたいだわ。大成功よ」

 盛り上がったのは嬉しいが、夜とは言え盛夏だ。野外での3ステージはさすがに応える。

 その様子を麻希が察して用意した旅館の賄いと温泉は最高だった。

 賄いとは言え材料は新鮮、味付けはプロの料理人。

 風呂は天然温泉だ。

 一気に生き返る。

 皆、バイトを手配したマサを誉めまくった。


 翌、8月10日の午後ヒロとカオリは麻希に呼び出された。

 須崎の仲間と邪宗門でランチを摂りながらミーティングをするので一緒に来て欲しいと言うのだ。

 麻希とヒロたちが邪宗門に着くともう数人集まっていた。松崎先輩はまだ来ていなかった。挨拶も程ほどに早速ミーティングが始まった。

 邪宗門は下田でも老舗の喫茶店だ。シルクロードを感じさせるインテリアの中シャンソンが流れ、独特な世界を作り上げている。

 麻希たちは入口近くに座ったが奥から品のない大声が聞こえて来た。

 髪をリーゼントで固めた若い男たちが集まり、その中でもひときわ身体の大きな男が何か言う度に品のない笑い声が上がっている。

 朝子が眉をひそめて言った。

「毅たちだよ。高校卒業してから家の建設業、継いでるんだ。高校時代から暴れん坊だったけど最近はもっとひどくなってる。係わり合いにならない方がいいよ。この店も困ってるんだって。出ようか?」

 麻希は慌てた。

「朝子何言ってんだよ。松崎さんこの店に来るんでしょ。場所移ったら分かんなくなっちゃうじゃない」

 そう言ってるうちにだんだん腹が立ってきた。喫茶店とは言え、公共の場だ。店にとって迷惑な客は他のお客にとっても迷惑だ。ホテルだって同じ。麻希は顎を上げ立ち上がった。止める間もない。ツカツカと毅たちに近づいていった。

 毅も麻希に気付くと鋭い眼を飛ばして来た。

 麻希がテーブルまで来ると毅が口を開いた。下からにらめつけるように凄みをきかせる。

「何だ、宗右衛門か、久しぶりだな。東京の大学へ行って須崎には帰りたがらない。地元を捨てて東京の男に毎日抱かれてるのか? こっちに戻って来るなら俺がしてやってもいいぜ。あれは、偏差値関係ねぇーからな」

 ゲラゲラと品のない笑い声が起きた。

 麻希も負けてない。上から押さえ込むようににらみ返す。

「源蔵、相変わらずその程度の事しか言えないのか。トンビは鷹を産まない。トンビの子はトンビのままだ。品のない話題はそっちの世界でやりな。ここはそう言う話をする場所じゃないんだ。野暮と言う言葉知ってっか。もっとも、お前の学力じゃ分からないだろ」

 仲間の一人が席を蹴って立ち上がろうとした。

「ヤメとけ!」毅の声が店の中に響いた。客の目が一斉に注がれた。

 麻希が腕を組んで男たちを見下ろしている。

「皆さんに迷惑だ。分かったんだったら店変えな」

 毅が立ち上がった。大きい、180センチは軽く超えている。麻希は、その肩位しかない。今度は、毅が上からにらみつけた。麻希も負けてない。上から下から、二人の視線がぶつかり合う。

「宗右衛門、須崎の祭り無事に済むと思うなよ。お前を這いつくばらせてやるから覚悟しておけ」

 そう言うと仲間をつれ邪宗門から出て行った。いなくなると周りから拍手がおき、すれ違うように松崎先輩が入って来た。

 麻希は、松崎先輩を見たとたんに自分の席に戻り膝を揃え、朝子が今の事件を話そうとするのを目で制した。ミーティングでは麻希は殆ど発言せず。ヒロやカオリが提案したビンゴやクイズ大会が採用された。ただ一度だけ発言したのは、朝子がヒロたちのバンドの応援を頼んだ時だった。その時だけは、取り付く島もない程キッパリと断った。


 8月11日から須崎では祭りの準備が佳境に入っていった。松崎先輩と朝子たちは漁協内に置いた事務所に集まり企画を詰め始め。麻希も無理やり呼び出され、ヒロとカオリも手伝わされた。

 翌8月12日の午後屋敷の前に太いエンジンの音がした。ベレGの黄色いボディーが生垣の間からチラっと見える。車のドアを閉める音がすると木戸を開けて麻希が入って来た。肩から業務用の保冷ボックスを提げている。庭に面した縁側に腰掛けているヒロを見つけると手を振り、ヒロは隣を勧めた。麻希はヒロの隣に座ると傍らに保冷ボックスを「よっこいしょ」と置き挨拶をした。何か嬉しそうだ。

「ヒロさん元気」

 きっと漁協で朝子を理由に松崎先輩と会って来たのだろう。弾んでいる様子から何となく分かって来た。

「おかげ様で、今日はどうしたの? 漁協で打ち合わせの帰りかい、松崎さん元気だった」

 少しわざとらしく訊いてやった。

「ええ、寄って来たわ。松崎さんもいたけど朝子に呼ばれて、親友だから断れないの。全く自分で企画考えればいいのに。仕方ないからホテルの仕事早引きして来たわ」

 やっぱりそうだ。いじらしくなる。知らん顔が一番だ。

「こっちには何しに来たの? 何かいいものでも持ってきてくれたのかな」

 そう言われると麻希はいたずらっぽく笑って保冷ボックスの蓋を開けた。

「チョット、届け物で来ました。ホラッ!」

 保冷ボックスの中には、弁当箱を縦に三等分した位の細長い寒天が沢山入っている。

「何これ、寒天?」

「そうよ、正しくは心太。須崎の名物よ」

「ところでヒロさん達は何処の出身なの」

「僕らは、鹿屋。鹿児島って事になってる」

「なってる? また変なこと言うのね。鹿児島の方言、なんか教えて」

 昔、テレビで見て一つだけ知っていた。

「『チェスト』がんばれって意味だよ」

「フーン、面白いわね。他は?」

 ヤバイ、話を変えよう。

「ところで、心太突く道具なんてあったかなぁ」

 とぼけて、辺りを捜す様に言った。

「台所にあるわよ。でも地元ではこのまま齧るの」

「えーっ、このまま」

「そうよ、爽やかで美味しいわ。齧ってみる?」

 麻希が長めの菜ばしで器用に取るとヒロは手で受け取った。手のひらに柔らかな冷たさが伝わる。そのまま頬張ってみた。口全体にツルッとした食感が伝わり、噛むとスッ切り落として行く歯ざわりがなんとも心地良い。

 心太を齧りながらヒロが尋ねた。

「麻希さんの家の事聞いてもいいかな。どうもワシャ分からん事が多くて」

 マサやバンドのメンバーもいつしか、心太に惹かれて集まって来た。

 麻希は再び器用に取り、皆の手に乗せ自分も齧りながら答えた。

「いいわよ、何を知りたいの」

「まあ、その家系と言うか。とにかく家も庭も松も年代物で立派だし、近所の人の接し方もちょっと違うようだ。ワシャ不思議。差し支えなければ知りたいね」

「そう、不思議に見えるかもね。いいわよお話しするわ。不思議ね、あなた方といるとすごく年上の人といるみたいに素直になれて」

 麻希は、海を見つめながらゆっくりと話し始めた。


 麻希の川名家は400年程前、関が原の合戦が終わった頃に一族で須崎に移り住んで来た。古文書には「故あって、移り住み候」としか記載されていない。須崎は当時から最近まで陸の孤島であり道がなく、船で訪れるしかなかった。守るに適した土地であり、時代背景からして戦がらみの事件で移り住む事となったのだろうと推測されている。

 麻希の先祖は、一族の名主であり当時からこの場所に屋敷を構えていた。庭の松はその時に植えられたものだと言う。一族は代々、土地も海も豊かなこの地で静かに暮らしていたが200年ほど前ある事件が起きた。

 下田との領地争いである。 

 本来須崎の領地であった下田との境界線部分の土地を下田が自分達の領地だと一方的に主張し始めたのである。下田は須崎とは比較にならないほど大きく、加えて中間に位置する柿崎も下田支持派に廻ったので、須崎の主張はかき消されそうになった。

 この絶体絶命のピンチに麻希の先祖である宗右衛門は立ち上がったのだ。名主として私財を投げうち、江戸の奉行に訴訟を起こす決意をしたのだ。その時宗右衛門は、須崎の村人を集めこう言った。

「わしは、全ての財産を投げ打ち須崎の為に尽くす。これから江戸へ行きお奉行様に裁定をお願いして来る。叶わなかった時は一命を投げ出す覚悟だ。だから皆の衆わしに協力してくれ」

 旅立ちの日、須崎の人々は江戸に赴く宗右衛門を姿が見えなくなるまで見送った。そして長い月日が過ぎ、人々の不安が募った頃江戸からの早馬の使者が到着した。それは訴訟勝利の知らせだった。

 村は歓喜で満ち溢れ、人々はその偉業をたたえ、帰郷する宗右衛門を自分達のものとなった土地境まで出迎え喜びあったのである。そして宗右衛門の死後は海に面した山の中腹に神社を設け、村の守り神として祭った。以来この家を継ぐ者は宗右衛門とも呼ばれ、名主としての責任と共に先祖の祭事にも携わる事となった。


 マサと5人は歴史の深さに目点だ。その長さはアメリカ合衆国より古い。

 カオリは、興奮している。

「凄いじゃない。麻希さん」

「でも、私には押しつぶされる程重いの」

「どこが?」

「私は名主の一人娘、昔は男の子を作る為にお妾さんを囲ったけど今はそうは行かないわ。だから私が宗右衛門を継ぐ事になるの。川名家、いえ須崎の歴史で宗右衛門を女性が名乗るのは初めてよ。私が須崎の伝統を守って行かなければならないの」

「すごいじゃない」

「知らないから、そう言えるのよ。しきたりが沢山あるの、今は違うけど小さい時は人に話しかけてはいけないと言われたわ」

「何故?」

「身分が違うから。名主はこちらから話かけてはいけないの、相手から話しかけられたら話す。そして何処へ行っても私が宗右衛門を継ぐ娘だと知っている。高校は須崎を離れて下田の高校へ進学したけどそこでも皆、私を知っていたわ」

「それは、息が詰まるわね」

「そうよ、喫茶店や映画に行っても皆が私を知っている。名主だからって私だけ料金を受け取ってくれない時もあったわ。一緒にいる友達になんて言うの。この土地にいる限り私生活なんてないわ。だから限られた人としか遊ばなくなった」

「だからゲンさんや朝子さんと親しいのね、気持ちの分かり合える人は他にいないの」

「もう一人いるわ。源蔵、邪宗門にいた毅。あいつの家も名主で下田の源蔵を継ぐ。源蔵は須崎に領地争いを仕掛けた相手よ。今は、名主同士の交流があるから小さい時から知っている。でも向こうも話しかけてはいけない事になってるから、話しをしない幼馴染よ。だから会うと名主同士のプライドがぶつかりあって、ああなっちゃう」

「ああ、それで何か昔風の名前で呼び合っていたのね。でも、あの件は麻希さんが正しいわ。格好良かったわよ。私すっきりしちゃった」

「あれは、後から来る松崎さん困ってしまうし」と麻希が言いかけた時、玄関の扉を激しく叩く音がした。

「麻希ちゃん、麻希ちゃん」と言う朝子の声がする。

 麻希とヒロが何事かと玄関に行くと朝子と松崎先輩が息を切らしている。

 ただならぬ気配に押された麻希にかわりヒロが尋ねた。

「どうしたんですか? 顔色変えて、なにかあったの?」

 こちらも、口の聞けない朝子に代わり松崎先輩が説明し始めた。

「今、漁協に連絡があったんだけど、朝ちゃんのお父さんが畑で倒れて救急車で運ばれたんです。河津の山崎先生の診療所に搬送されたそうなんです。麻希さん、僕らを車で診療所まで連れて行ってもらえませんか」

 今度は麻希が顔色を変えた。

「ゲンさんが! 朝子急ごう。ヒロさんも一緒に来て」

 言うが早いかスニーカーを履くのも、もどかしくベレGに飛び乗った。

 運転席には麻希、助手席にはヒロが座り。後部座席には朝子と松崎先輩が座った。

 朝子の顔色はすっかり青ざめ、下を向いて肩を震わせている。そんな朝子を松崎先輩は肩を抱きしめ、しっかり手を握っている。

 車は、スピードを上げ135号線を河津に向かい北上した。

 麻希の見る車内のバックミラーに朝子と松崎先輩の様子が映る。

 2人の会話や息遣いも伝わってくる。カーブを切るたびに2人の身体が寄り添っていく。

 途中で救急車とすれ違った。ゲンさんを診療所に運んだ救急車に違いない。

 不安は益々募る。

 朝子はすっかり顔色を失ってしまった。

 そんな朝子に時々松崎先輩は声をかけ励まし、涙を自分のハンカチで拭いてやっている。

「透さん、透さん」

 朝子が頼る様に松崎先輩の名前を呼ぶ。

 その度に松崎先輩が不安を消す様に優しく答えている。

 それが又、麻希の見るバックミラーに映る。

 車は、30分ほどで山崎先生の診療所に到着した。

 4人が車から降りると、山崎先生がニコニコしながら外まで出迎えてくれた。

 40歳前後の女医さんだ。優しい目が印象的で清潔な安らぎを与えてくれる。

「朝ちゃん、いらっしゃい。麻希ちゃんも久しぶりねぇ」

 おっとりした口調に少しコケる。

 松崎先輩が尋ねた。

「あの先生、ゲンさん大丈夫ですか」

 山崎先生は、ニコニコしながら応えてくれた。

「大丈夫よ。意識もしっかりしているわ。軽い熱射病ね、もう年なんだから外で作業する時は帽子を被って、水分も沢山摂るように言ってね。今、点滴しているから大丈夫よ。どうぞ中にお入りなさい」と診療所に入る様に勧めた。

 朝子はすっかり力が抜け松崎先輩にもたれかかった。そんな朝子の肩を松崎先輩は優しく抱きしめている。

「朝子よかったな。早く会いに行こう」

「透さん、ありがとう。今日は一緒にいて」

 ダメ押しとも言える一言、これで決まりだ。


 麻希は下唇をかみ、ヒロに向かって強い口調で話しかけた。

「ヒロさん私たちこの後、ホテルの仕事が控えてるから戻りましょう。ゲンさんも大丈夫なの分かったし。朝子、良かったね。松崎さん、後はよろしくお願いします。行こう、ヒロさん」

 そう言うが早いか車に乗り込むと勢い良くドアを閉めた。

 ヒロも挨拶をすると車に乗り込んだ、と同時にベレGはホイールスピンをさせ、もの凄い勢いで走り出した。

 車は、来た道を戻らず天城峠の方へと向かって行く。麻希は前をしっかり見つめているが、涙で頬をぬらしている。ただならぬ気配だ。車はどんどん峠道に入って行く。入って行くと言うよりは分け入って行くと言うイメージだ。

 峠道は益々狭くなりすれ違う事も困難となる。1車線で時々すれ違えるように少しだけ広くなっている。そんな峠道をコーナーの手前でヒールアンドトゥでシフトダウンさせながらカウンターステアでクリアーして行く。車は空を仰ぎ登ったかと思うと谷底に向かうように降りて行く。

 前からダンプが来た、急減速でハンドルを切り横をすり抜ける。ダンプのクラクションとブレーキの凄まじい音がドップラー効果のように遠ざかる。そしてすかさず加速すると次のカーブに向かう。手前の荒地で少しバウンドした。オーバースピード気味でコーナーに突っ込むと大カウンターステアの大ドリフトのスピン寸前で切り抜ける。

 ヒロが叫んだ。

「ダジげてぐでぇ-!」

 必死だ。

「止めろ、麻希! 死ぬぞ。ワシには、2020年に女房も子供もいるんだ。まだ学校だってローンだって残ってる。止めないならサイドブレーキ引くぞ!」

 麻希の目は、涙で一杯だ。

「何言っんのよ。サイドブレーキ引けるもんなら、引いてみなさいよ! 後輪がロックして後ろが流れるわ。谷底へ一直線よ」

 冷静にさせた方がいい。

「分かったよ。命預けるから、先ず話し合おう。見ろ、海が見えて来た」

 かなり登ったのかカーブの先に伊豆の海が見えてきた。午後の日差しを浴びてキラキラ輝いている。小さなうねりが海一杯に広がり、光る絨毯の様だ。

 昂ぶった感情を自然に抑えてくれる。

 次のカーブの頂点に小さな避難スペースが見えて来た。ベレGは、砂利をかっ飛ばしながら滑り込んだ。

 タイアから土煙がたち、おさまるとヒロが出て来た。開けたドアにもたれかかり息をついた。

 思わず声が出る。

「助かったぁ」

 運転席側のドアが開くと麻希が出て来た。背中で車にもたれかかり上を向いた。

 麻希が叫んだ。

「負けたぁー! 負けたぁ!」

 その後「ウワァーッ!」と泣き始めた。

 号泣だ。

 ヒロは振り向き、ただ驚いて見つめている。

「負けた、ああっ。朝子のやつ、松崎さんと付き合ってるなんて一言も言わなかったじゃないか。親友なのに! 何が須崎祭りの打ち合わせだよ。松崎さんとのデートに利用しただけじゃないか。何で今まで言ってくれなかったの。私、何も知らずにバカみたいに一人で踊って……」

 感情が昂ぶって来ている。

 麻希はドアを手荒く閉めると右手の人差し指をヒロに向け、車を回り込んで来た。

「ヒロ、可笑しいだろ。強気で意地っぱりで何でも自分を通してきた女が一人で芝居をしてピエロの様にふられたんだ。それも親友が付き合ってるのも知らずにだよ。ザマミロ、生まれて初めて負けたんだよ。可笑しいだろ」

 笑顔で泣くのを懸命におさえ、ヒロの目を見つめて益々迫って来る。

「さあ、嗤え! 嗤え!」

 ヒロは少し悲しそうな顔をしたが、麻希はおさまらない。

「同情しているのか。いいんだ、ザマミロと言え。世間はもっと厳しいとか、いい経験だとか教訓垂れるのかよ。それより嗤え! さあ、嗤え」

「麻希ッ!」

 強い言葉と共にヒロが向かって来た。

 麻希は、掌の甲を口に少し後ろに退いた。

「麻希、泣けよ。悲しいんだろ。泣けよ。ムリすんなよ」

 ヒロはそう言うと麻希の手を取りそっと引き寄せ、抱きしめた。

「……」

 麻希は、ヒロの肩を涙で濡らした。

 風が木々の間を抜け、蝉の声が時雨となって注ぎ、目一杯広げた枝の間から夏の日射しが強く差し込んで来る。

 何事にも左右されない自然の優しさと懐の深さが2人を包んだ。

 穏やかな時間が過ぎた。

 少しおさまったのか麻希がポツリと呟いた。

「ヒロさん、ゴメンね。ありがとう、こうしてくれて。私ったら興奮して恥ずかしい。不思議ねこうして抱かれていてもちっとも変じゃないの。なんかお父さんに抱かれているみたい」

「ああ、それはまあ。その位の女の子がいるっちゅうか。いや、兄妹がいるからじゃない」

「これから、どうしよう。前と同じ気持ちで朝子や松崎さんに会えるかなぁ」

「分からない、でも麻希は良く我慢したよ」

「何が?」

「2人の前で良く感情を抑えた。可哀そうに麻希、偉かった。チェスト」

「頑張れって言ってくれたの。ありがとう、優しいんだね。お願いしてもいい」

「何だい」

「もう少し、このまま抱いてて……」


 盆踊りを2日後に控えた8月14日、金曜日のビアガーデンライブが終わった夜遅く麻希が屋敷を訪ねてきた。

 縁側に座ったヒロの隣に座った。

 奥からカオリの歌声が聞こえる。カズのマーチンがいい音を出している。

「♪空を飛ぶ 鳥のように 風に乗って この思いあなたへと 届きますように♪」

 ジュンが小さな茶筒に米を入れ、振りながらリズムを刻んでいる。

「♪長い長い歴史のページをめくるたび 零れ落ちる涙よ♪」

 リョウもベースからギターに持ち替えている。

「♪憎しみは憎しみを生むだけ 長い長い奇跡の輝き信じて神々の星♪」

 歌が終わると虫の音だけが響いた。

「いい歌ね。神々の星かぁ。何かこの土地に相応しいわね。いいわねヒロさん達はしがらみが無くて」

「そうかな、でも寄る術がなくてただ時を彷徨うのも寂しいよ」

「変な事ばかり言うのね。今ここにちゃんといるじゃない。彷徨ってなんかいないわ」

「そう、見えがかりはね」

 話題を変えたほうが良さそうだ。

「明後日はどんなお祭りするの」

「私の先祖の宗右衛門を祭るお祭り。勇壮よ。夜、お神輿を担いで海に沈めて清めた後、中腹の神社まで一気に駆け上るの」

「そりゃ、凄い」

「でも、お神輿の担ぎ手にはならない方がいいわよ。先頭を争って必ず怪我人が出るから」

「なんでそこまでやるんだい」

「お祭りは、先祖を祭るハレの祭典ではあるけど強い遺伝子を残す大切な儀式でもあるの。祭りで怪我をする様じゃ海では生きていけない。強い男と子孫を残す試練の場」

「厳しいもんだな」

「今年は、3年に1回祭り船を使う年だから盛り上がるわよ」

「祭り船?」

「そう、200年以上続く行事。船は新造や改修をしてきたけど、伝統は変わらない。海の神に祝福された船が須崎、柿崎、下田の順番で1年毎に交代で使う事になっているの。明日はその引渡しの日。夏祭りに下田から須崎に引き継がれ1年間あらゆる行事を祝福する」

「明後日の祭りがスタートか。それで盛り上げにワシらのバンドを頼みたい訳か」

「そうよ、でもバンド契約はホテルのもの。須崎とは関係ないわ。だから断ったの」

「そりゃ、そうかもしれないけど」

 ヒロがそう言いかけた時、急に外が騒がしくなった。

 

 若者がゾロゾロと屋敷の前を通り過ぎて行く。木刀を持っている者もいて物々しい雰囲気だ。外へ出ると朝子が近づいて来た。

「麻希ちゃん大変だよ。下田のやつらが祭り船を須崎に回さないって言うんだよ」

「えっ、それは掟破りじゃない」

「でも毅が来て、そう言ってるんだ。柿崎のやつらまで下田になびいて、下田と柿崎が須崎の境まで来ている。だから皆も話しをつけに向かっている」

 危険だ。話しをつけるどころか暴力沙汰になるかもしれない

「迂闊だった。邪宗門で毅が言ってた事はこれだったのか」

 麻希は自分の想像力の乏しさを後悔した。

「麻希ちゃん、松崎さん呼んでこようか?」

 そんな事に巻き込む訳にはいかない。

「バカ! 松崎さんは、市役所の職員だよ。この様子を見てよ。こんな騒ぎに巻き込んで、もし何かあったら市役所にいられなくなるよ。松崎さんと幸せになりたいんだろ」

 朝子は、下を向いてしまった。

 列の最後に麻希たちが追いつくと前で怒鳴る声がした。

 毅の声だ。

「だから、1年待てと言ってる訳じゃないんだ。祭り船を1週間ずらせと言ってるんだ。今年から始まった下田の大漁祭り、今年は観光協会や市も応援している。それにワシら青年団も応援して盛り上げようって訳よ。祭りの続く1週間だけ貸せと言ってるんだ。下田が発展すれば腰にくっついてる須崎の為にもなる。柿崎衆も同じ意見よ」

 須崎の仲間が反論した。

「何を言ってる。祭りは神聖なものだ、金銭じゃない。200年の伝統を破るのか。それに市や観光協会から要請があった訳じゃないだろ」

 毅は、フンとあざ笑った。

「その通りよ。ワシらの自主的な判断だ。下田を思う気持ちがそうさせたのよ。文句あるか。下田のおかげで食ってるくせに、言う事聞いとけ」

 その一言で怒号が飛び交い、騒然たる雰囲気になった。一触即発の状態だ。

「やめろ、やめろ」大きな声がした。

 マサだ。

「待て、待て。落ち着け」

 出て来た途端に双方からトマトが飛んで来た。

「何しやがんだ。このヤロ!」

 止めになってない。

 下田と須崎の両方から散々やられ叩き出された。

 マサを叩いたおかげで気が治まったのか、少し落ち着いたのを見て毅が切り出した。

「埒があかんな。両地区でもめた場合。伊豆のしきたりに従う。名主同士の一騎打ちだ。宗右衛門はいるかぁ!」

 麻希が一族、いや須崎を代表する名前で呼ばれた。

 朝子が麻希の腕を掴んでいる。

「麻希ちゃん、行っちゃダメだよ。絶対敵わないよ。相手は男だし、身体だってあんなに大きいんだよ。ヤメテ」

 麻希は、黙って朝子の腕を振りほどくと前を向きツカツカと歩き始めた。

 列が縦に割れ、道を作った。

 麻希と毅は正面から向き合った。

「宗右衛門、又合ったな」

「源蔵、邪宗門でもそうだったが恥ってものを知らないのか」

「泣いて頼んで、俺の女になるなら手心加えてやってもいいぞ」

「断る。お前には指一本触れさせない。須崎の土地や祭り船もそうだ」

「じゃあ、仕方がないな。海の勝負だ。明日の朝、夜が明けたら勝負だ。いいな」

「望むところだ」

 毅が叫んだ。

「酒!」

 麻希が叫んだ。

「酒!」

 なみなみと注がれた茶碗を持ち麻希と毅は腕を絡めて一気に飲み干した。

 飲み終わると再度酒が注がれた。二人はもう一度酒を口に含むと「ブウォーッ!」と二の腕に吹き付け、茶碗を地面に叩きつけた。

 暗闇の中、割れた茶碗の破片が月の光で白く照らされていた。


 麻希と朝子はマサたちと屋敷に戻った。

 麻希は帰ると仏間に篭りっきりになってしまった。

 屋敷の中は先ほどの喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 カオリが、マサの手当てをしている。

「マサさん良くがんばったわね」

「イ、テ、テ、テ。そっとしてくれよ」

「バンドエイド貼ってあげるわ。ホラ、もう大丈夫」

 ジュンがリョウに尋ねた。

「オイ、カオリがバンドエイド貼ってるけど大丈夫か?」

「ギリギリじゃないですか、確か日本での販売は1964年からだったかと」

「それにしても、麻希さん部屋から出てこないな」

 カズがつぶやいた。

「天の岩戸か」

 朝子は、玄関で一人落ちつかない様子だ。

 ヒロがその様子に気付き、近づいて来た。

「さっきから、ずーっと玄関から動かないけど、どうしたの?」

「使者を待ってるの」

「使者? 何を知らせに来る訳」

「伊豆の勝負は、海。水泳で勝負を決める。1000メートルほど泳ぎ、ゴールの旗を得た者が勝者となる。その勝負の場所を伝える使者を待っている」

「誰が来るの?」

「紛争にかかわらない中立地区の者。今回は白浜に頼んだ」

「麻希に勝ち目は、あるのか」

「やって見なければ分からないわ。でも、勝ち目はある。麻希は高校時代、水泳部で県大会自由型の2位。それに、父や私と遊んだから海での潜りや遠泳も得意よ。ただ、毅も伊豆で育った男。やって見ないと分からないわ。でも殴りあいみたいな勝負よりは可能性がある」

 玄関の引き戸がノックされた。白浜からの使者だ。使者は朝子に黙って封筒を差し出すと去っていった。

 封筒を開くと書状には、こう記されていた。

 日時は、翌8月15日土曜日午前5時。場所は白浜の北、本根崎。ルールは伊豆の掟に従い競泳。本根崎の岩場近くに座礁した漁船がある。沖合いから1000メーターほど泳ぎ、漁船に立てられた旗を最終的に手にした者が勝者だ。漁船での見届け人は白浜衆。スタート台となる須崎と下田の船には、見届け人として伊豆とは利害関係のないバンドメンバーの乗船を指定した。

 朝子は、書状を持って麻希のいる仏間に入って行った。

 暫くすると静かにお経を上げる声がし、終わると麻希が朝子と共に仏間から出て来た。

 マサと5人の前に居住まいを正して話し始めた。

「明日、須崎の名主として下田との勝負に臨みます。皆さんをこのような争い事に巻き込んでしまい申し訳なく思ってます」

 深々と頭を下げた。

「しかし、私はこの勝負を避けて通る事は出来ません。このような時の為に名主としての沢山の好意を受けて来たのです。万が一の時、須崎を代表して命を捧げる。その為に一族は生きて来ました。見届けて下さい」

 毅然とした態度と真剣な眼差しにマサと5人は口もきけない。

 理解出来たのは『ただの水泳大会ではない』と言う事だ。

 ことによると命のやり取りになるのかも知れない。

 朝子が書状を抱きながら麻希に尋ねた。

「明日は低気圧が来て海が荒れるわ。船は切りあがりのいい勇太郎丸を使って。それから操船は私がやるわ。いい?」

「ありがとう。勇太郎丸と朝子の操船なら申し分ないわ。それからカオリさんにお願いがあるの。4時前に仏間に来て下さる。協力してもらいたい事があるの。今日はここで休ませてもらうわ。朝子は明日に備えて家に戻って」

 そう言うと再び仏間に戻って行った。


 翌8月15日の朝4時、カオリと一緒に仏間から出て来た麻希の姿を見て皆息を飲んだ。

 麻希はカオリに頼み肩より伸ばした髪をバッサリと切り落とし、水着の身体を川名家の紋が入った羽織で覆っていた。髪は、仏壇に供えたと言う。須崎を代表して勝負へ向かう覚悟を示している。しかし短い髪と小柄で細い身体は、まるで少年のようで痛々しい。

 まだ明けない須崎の漁港に出ると皆集まっていた。暫くすると7~8メートル位の漁船が近づいて来た。力強いエンジン音を響かせ、朝子が巧みに操船している。勇太郎丸が桟橋に接岸すると麻希、それに見届け人として指定されたバンドメンバーの中からヒロとマサが乗船した。

 須崎の港を出た勇太郎丸は、白浜を左に見ながらひたすら北上する。朝子が巧みに操船をし、波を駆け登っては駆け下る。強風でうねりが大きくなり雨も降り出した。麻希は船首に座り目を瞑っている。時折波しぶきがかかるが拭おうともしない。果し合いに向かう武者の様だ。本根崎の沖合いまで来ると夜が明け、下田衆の船が近づいて来た。毅と艇長の2人が乗船している。

 両船は巧みに接舷すると下田の船にマサが乗り移った。これで須崎と下田、両船に見届け人が揃った。後は合図を待つだけである。岸を見ると浜とその上の道路にも須崎や下田だけでなく柿崎や白浜からも集まり、人が溢れていた。

 浜から100メーターほど離れた所で座礁し、傾いた漁船がゴールだ。漁船には見届け人として白浜衆の二人が乗り込んだ。そのうちの一人が赤い小さな旗を漁船のブリッジの窓枠に差し込んだ。ゴールの旗だ、それを手にした者が勝者となる。そしてもう一人が白く大きな旗を振っている。その旗が振り下ろされた時、レースのスタートとなる。潮流に流されないよう両船とも時々軽くエンジンをふかす。その音が「タ・タ・タ・タッ」とリズムを刻む。麻希、毅とも水着となり合図を待った。

 少し大きめのうねりが来てエンジンをふかす「タ・タ・タ・タッ」と言う音が再び強く響いた時、真っ白な旗がゆっくりと振り下ろされた。

 それを合図に両船は一斉に船を回頭させると腹を岸に向けた。


 麻希と毅は、ほぼ同時に飛び込んだ。まるできらきらと輝く飛魚の様だ。岸から喚声が上がったが、風と波の音でかき消された。麻希には「麻希ちゃーん!」と言う朝子の叫び声が聞こえただけである。

 麻希は不思議に落ち着いていた。始まる前はドキドキしたが一端海に飛び込むと勝負だという事を忘れる。本当に海が好きなんだと思う。海を慈しむ様にひとかき、ひとかき進んで行く。潮流を確かめながら進むと、「ゴスッ!」と突然鈍い衝撃が後頭部を襲った。そして次には首を絞め上げられた。毅だ、水泳大会ではない。海の格闘技である事を開始早々、思い知らされた。素手であればなにをやってもいい、毅は前半で麻希を沈めるつもりだ。

 麻希は腕をスルリとすり抜けると「グイッ」と一気に潜り込んだ。水中に毅の足が見える。すかさずパンツを掴みズリ下げた。毅は慌てて前を押さえ、必死にパンツをはこうとしている。麻希は、その隙にスッと離れピッチを上げ始めた。

 海の中は風が波をたて、空気の泡が小さな粒となり渦巻いている。まるでクリスマスにプレゼントされたドームの中を舞う雪の様だ。それがひとかき毎に後ろへ流れていく。麻希は波を上っては下り、時には縫い針の様に刺しこみ進んでいく。無駄のない泳ぎはそれだけでも美しく新しい種が生まれたかの様だ。

 少しスピードが落ちてきた。高校を卒業してから暫く泳いでいない。体力は、こんなに落ちていくものなのか。すぐ後ろから下田の船が近づいてくるのが見える。競技者と並走する決まりになっているので、毅が差を詰めてきたのが分かる。

 思った以上に速い。

『あの時パンツ脱がしておいて良かった』と思った。

 そんな事を考えている自分が可笑しかった。同時に『あいつも下田を背負い、見世物みたいなこの中にいるのか』と思うと、連帯感とも言えないやり切れない気持ちがこみ上げて来た。進行方向右側に本根崎の先端が見えて来た。漁船までもう直ぐのサインだ。カモメが視線に入った時右手に手ごたえがあった。漁船の船体だ。船は座礁し、20度程傾いている。海に接する船弦に手をかけると難なく這い上がった。

 膝をつき見上げれば赤い旗がブリッジの窓からはためいている。

 勝利を確信した。

 手を伸ばした瞬間、傾いたデッキで右足がすべった。

『しまった!』

 体勢をたて直し、旗を掴もうとした瞬間、右の足首を「ガシッ!」と何かに掴まれた。麻希が下を見ると毅が足首を掴んでいる。

 振りほどこうとした時。

「あっ!」と言う間もなく海に叩き落とされた。波から顔を出し、見上げた時は毅が旗を手に岸に向かって勝利の凱歌を上げていた。

『しまった。もう少しだったのに、慢心があった』

 麻希は唇を噛み、右手の拳で海面を叩いた。

 額が少し痛んだ。落ちた時にぶつけたのか血が滲んでいる。その時、一騎打ちのルールに気付いた。

『最後に旗を手にした者が勝者だ』

 恐ろしいルールだ。どちらかかが動きを止めるまで勝負は終わらない。地上では勝ち目はないが、海の中なら勝負になる。

 潜るのは得意だ。

『海中に引きずり込み溺れさせる』

 そう決意すると再び船に這い上がり旗を振っている毅に近づき、後ろから思い切りパンチを浴びせた。


 後ろから顎に一発くらい、毅は驚き振り向いた。

「毅、まだ終わってないぞ。最後に旗を手にした者が勝ちだ」

 毅は憎しみを込めた目で麻希を見つめ、ドスの効いた声を響かせた。

「麻希、お前死にたいのか」

 麻希はレスリングの様に背をかがめ両手を前に出した。

「毅、いいかこれは私とお前の喧嘩じゃないんだ。須崎と下田の戦(いくさ)なんだ。名主ならわかるだろう! 土地の為に命をかける、その為に生きてきた。小さい時から周りの人がチヤホヤしてくれたり何かをしてくれるのも、いざという時命をかけるからだ」

 目が死を覚悟している。

 毅は、射る様な目の光に一瞬たじろいだ。

 そして、闘うだけの為に生まれた人の物語を映画か何かで見た事を思い出した。

 今の自分と重なった。

「麻希、もうやめろ。決着はついたんだ。これ以上やる必要はない。十分だ」

 麻希の胸にやるせない悲しみが溢れ、涙が込み上げてきた。

「そうはいかないんだ毅。お前には何の恨みもないよ。だけど私達は闘わなければならないんだ。そう言う宿命なんだ! 私ら名主なんかに生まれてぇッ!」

 麻希の凄まじいまでの気迫に勝負を見守っていた人々は圧倒された。

「源蔵、いくぞ!」

 風と波は、さらに激しくなった。自然は人の為に生まれた訳ではない。厳しさとか優しさは、受け取る側の都合に過ぎない。

 あざ笑うかの様に風は空間を制し、波は海を支配した。


 2人が組もうとした、その時。

「麻希ちゃん! 波!」

 悲鳴のような朝子の声がした。

 振り向くと大波が目の前に迫っている。

 勇太郎丸と下田の船は旋回して波に向かい転覆を回避し、船首は天をさしている。両船が波を越えると、波は「あっ!」と言う間に漁船に打ち付けた。麻希と毅は、瞬く間に身体をすくわれブリッジに思い切り叩きつけられた。打ち付けた波は魔性の手のように麻希を海に引きずり込もうとする。

 麻希はかろうじてブリッジの手すりを掴み、体を確保した。波は何度も何度も打ち寄せ、渦巻き、弄び、絡み取ろうとする。麻希は捕食動物に睨まれた小動物の様に芯から震え、思わず膝を胸まで抱き寄せた。波はそんな麻希の姿をあざ笑い、生贄を欲するかの様に再びブリッジまでを洗い、海中へと誘う。震える手で手すりを掴みながら船首を見ると人の身体と赤い旗が波の間に飲み込まれて行くのが見えた。


 意識を失った毅とゴールの旗だ。

 共に波に引き寄せられ、岩場へと近づいて行く。

 岩に叩きつけられたら最期だ。

 どちらかが砕けた瞬間、命を賭けたこのゲームは終わる。

 波と風の音が囁く様に聞こえた。

『今なら間に合う、旗をとれ』

『海に生きる者は、掟に従え』

 二つの声が心に響いた。

 目を瞑り、耳を澄ますと荒ぶる波と風の音が不思議に静かに聞こえた。それは幼い頃から慣れ親しんだ海の声。

『恨まない。この命、海に任せる』

 そう決心すると麻希は震える膝を両手で思い切り叩き、立ち上がると勇太郎丸に向かい叫んだ。

「朝子! ロオーゥプ!」

 生命の決意が波と風を切り裂いた。

 空を切り、勇太郎丸からロープが白蛇のように身をよじらせ飛んで来た。

「パッシィーン!」

 麻希は朝子の投げたロープを右手で受け取ると幾重にも身体に巻きつけた。

 命のロープだ。

 今、死と向かい合う。

 空に祈った。

 一瞬の雲の割れ間から日の光が閃光のように走る。

 勇太郎丸に乗るヒロと目が合った。

「チェストォー!」

 麻希は一声叫ぶと荒ぶる海に飛び込んだ。


 海の中は、波と風に撹拌され砂が嵐のように舞う。その中で沈んでいく毅の身体だけが白く見える。船の上ではロープが海に吸い込まれていくのが見えるだけだ。 麻希はしっかりと見据えると毅との距離を縮めた。海中に届く薄い光の中、見上げるとまるで絶壁の様に岩場が目の前に迫っている。毅の身体が吸い寄せられるように岩場に近づいて行く。やっと近づき右手を伸ばすが、かすりもしない。

 テーク1は失敗だ。さらに潜る。今度こそ、かろうじて手に触れたがダメだ。テーク2も失敗。海が荒れ身体が一回転し、岩場に触れ、肩が切れた。鋭い痛みが走り、血が海水に滲む。もう息が続かない。テーク3、今度が最後だ。

『お願い。手を掴んで』

 砂の嵐が一瞬止んだように思えた瞬間、毅の右手が奇跡の様に伸び、麻希の指と絡んだ。麻希は、毅が岩場にぶつかる寸前思い切り引き寄せた。そして毅の胸に抱きつくと力の限りロープを引いた。

「ビィーンッ!」

 手ごたえがヒロに届いた。

 接舷した下田の船からマサも乗り移り、ヒロと懸命にロープを引く。

 エンジンは唸りをあげ、波にあがらい、船は2人をスクリュ-に巻き込まない様に旋回し、もがく様に岩場から遠ざかる。

 人と船が一体となり、海と言う魔性に捕らわれかかった命を引き寄せる。

 船弦に接するロープは「ギシギシ」と悲鳴を上げ、船首は波とぶつかり合い強い衝撃を伝える。

 日に焼けたロープの色が白く変わった時、麻希と毅の頭が見えて来た。麻希が毅を捕まえている、と言うよりしがみついている。引っこ抜く様に2人を船に引き上げると麻希が毅に飛びつき人工呼吸を始めた。マウス・ツー・マウスで息を吹き込む。 揺れる船上でヒロとマサ、朝子が見つめている。岸で見ている人々も沈黙し、手を握りしめ見守っている。

「お願い、息を吹き返して」

 麻希が懸命に何度も何度も人工呼吸を繰り返す。

 毅の唇は動こうともしない。

 無力感だけが漂う。

 空を仰ぐと厚い雲間から切り込む様に閃光が差した。

 麻希はうつろな目で光を見ると、深呼吸しもう一度息を吹き込んだ。

 そして毅の胸を両手で叩き、涙と共に絶叫した。

「毅ガンバレ。お前、名主だろう!」

「ウウッ」と言う声と共に水が吐き出された。


 診療所の待合室に麻希は、水着に羽織をかけただけの姿で立っていた。

 足元には水溜りが出来ている。

『助かって良かった』と言う気持ちと『こんな事をせずに、もっと違うやり方もあったのではないか?』二つの気持ちが交錯する。

 病室のドアが開き、山崎先生が笑顔で出て来た。

「もう大丈夫よ。お入りなさい。蘇生が良かったので問題ないわ。良くやったわね、勝負事は別として!」

 その通りだ。

『何で、あんな勝負をしたんだろう。闘うだけが名主ではない。もっと違う解決策を見つけ出せたはずだ。軽率だった』

 後悔が麻希を襲う。

 勧められるがまま、山崎先生と入れ替わりにマサやヒロたちと一緒に病室に入った。

 毅はベッドで起きていた。思ったより元気だ。何箇所か包帯が巻かれている。麻希が殴った後が痣になっている。

 それが可笑しくて少し笑った。

「毅、大丈夫?」

 麻希も肩や額に絆創膏を張り、唇を切っている。

「お前も賑やかな顔になったな」

「お互い様だよ」

 2人はもう一度お互いの顔を見つめると笑い合った。

「麻希、ありがとう。助けてくれて」

「海では当たり前の事。気にしなくていいよ」

 毅は、少しため息をついてから話し始めた。

「俺、今回の事で詫びねばならん。すまん、船は須崎が使うべきだ」

「いや、勝負は毅が勝った。下田に権利がある」

 それは、困る。少し慌てた。

「待ってくれ、そうじゃない。俺は全てに負けた。お前の泳ぎは美しく、そして速かった。それに大波の後、旗を取れたのに俺を助けた」

「いや、旗は毅が取った。そしてなくなった。それが結果だよ」

 このままでは終わらない。名主としてお互いの着地点を探さなければならない。

 命の重さが2人を大人にした。

「じゃあこうさせてくれないか。明日の日中だけ下田大漁祭りの先導船として使わせてくれ。夜、須崎祭りまでに責任をもって曳航する」

「分かった、仲間を説得出来るのか」

「それが名主の仕事だ。対立からは何も生まれない。それをお前が教えてくれた」

「憎しみは憎しみしか生まないからな。私も仲間達を説得する。じゃあ、握手だ」

 砂の舞う海の時と同じ様に2人の手が絡み、そして離れた。

 握手が終わると麻希は毅に背を向け、少し歩き病室のドアノブに手をかけた。

 その時、毅の声がした。

「宗右衛門!」

 麻希は、振り返った。

「何だ!」

 再び2人の視線がぶつかり合った。

「ひとつだけ教えてくれ。もし俺が先に着いて足を滑らせたらどうした」

 麻希は、笑みを浮かべて切り返した。

「足首ひっ掴んで、海に叩き落とした」

 毅も嬉しそうに笑った。

「そうか」

 麻希は真剣な顔になった。

「須崎の為なら自分の名誉も省みない」

「俺たち孤独だな」

 優しい表情に戻った。

「ああ。源三、早く良くなれよ」

「宗右衛門、ありがとう。祭りが終わったら一杯やろう」

「カチッ」

 ドアが閉まったのを確認すると、麻希がマサに頭を下げた。

 真剣な眼差しだ。

「マサさん、明日の盆踊り大会でバンドをお願いしたいんですけど。朝子たちを応援してやって下さい」

 突然の申し出に皆驚いた。ヒロも驚きを隠せない。

「麻希、どうしたんだよ。いいのか? お前が断り続けた事だろ」

 麻希は、決意を表すかのように澄んだ目でヒロ達を見つめた。

「私、今回の事で気付いたんです。どんなに嫌おうとしても生まれ故郷の須崎の人や土地への愛を捨てられない。挫折はあるわ。でも憎んではいけない。相手への愛へ踏み出す勇気が必要なんです。須崎の為にお願いします」

 凛、とした言葉だ。

 感動と言う、沈黙が訪れた。

 マサは、少し気取って答えた。

「俺は、商売だから。条件次第でやるよ」

「お幾らですか?」

「千円だ」

 麻希は水着に縫い付けたお守りの中から小さく折り畳み、濡れた千円札を取り出した。

「これでお願いします」

 マサは濡れた千円札を受け取ると上にかざし、確かめるように広げた。

「分かったよ。これで祭りを盛り上げるバンドの衣装でも揃えるか。なぁカオリ」

 カオリは小さくウインクした。

「分かったわ。今回も言ってあげるよ。マサさん今日も格好いい」

 麻希は側で笑みを浮かべた。

「良かった。それじゃあ、私はこれから祭り舟の件で外にいる仲間たちを説得してきます。皆さん宜しくお願いします」

 そう挨拶をするとマサと5人に背を向け、診療所の長い廊下を歩きだした。

 さっきまでの嵐は嘘の様に去り、雲間から覗き始めた太陽が外を照らしている。 入口のガラス窓から差す光が麻希をシルエットにした。そして麻希が診療所のドアを押し開くと光が「スゥー」っと長い廊下を走った。

 暫くすると外で大きな拍手と歓声が上がった。

 カオリは、しびれてしまった。

「麻希ちゃん、格好いい! ねえ、ヒロさんもそう思うでしょ」

「『挫折』か……。負けてもいいんだ、ただ負け方がある。そして大切なのは、愛に踏み出す『勇気』を忘れない事だ」

「どうしたの? 急に」

「ワシャ戻ったら、もう一度やってみる」


 8月16日、日曜日の夜。

 2艘の船が須崎の湾内に入って来た。祭り舟にはかがり火が焚かれ幻想的な風景だ。須崎の側からも1艘の船が向かい、3艘は接舷すると祭り舟の乗員が交代した。下田の船は乗員の交代が終わると静かに去って行き、須崎の船は祭り舟を先導して港に戻って来た。祭り舟の中央には麻希が乗船している。麻希の着る赤い衣装が月の光に照らされ神秘的だ。祭り船が接岸すると喚声が上がり、祝詞とお囃子が始まった。

 祭りの始まりだ。

 祭りのメイン、盆踊りは町の広場で行われる。前半は、世間一般の盆踊りだが後半はやや異なる。若衆踊りとも呼ばれている。昔からの風習で、若い男女が相手を探すのである。この踊りで相手を見初め、申し込み、結ばれて行く。今ではその風習は廃れたが祭りの形としては残り、若い人たちのイベントとして引き継がれている。

 櫓の周りには舞台が設えられ、機材が運び込まれていた。

 バンドは皆、半纏姿だ。マサが1000円を元手に下田で仕入れて来た。

 司会の紹介と共に始まった。

 ジュンのカウントの後、ヒロのソロから入る。ディストーションが思い切り効いている。

「♪飯炊ぐ 匂ひ 夢の中 温い 褥に そっと見る♪」

 ギター、ベース、ドラムが追いかける。

 皆は、初めてのバンドに驚き踊りに出てこない。

「♪ホゥ ホゥと 吐く息 光に滲む 細い 肩越し 菜刻む音♪」

 一気にフルテンまでボリュームを上げる

「♪明け風 涼しく 稲波渡り 幾世の 大地に 遥々と 永久に 石動きなく 永久に 石動きなく♪」

 民族性の高い旋律だ。

「エイヤ!」掛け声と共に男衆姿の一人が飛び出して来た。青い半纏にショートパンツ、胸にはサラシ、周りから「オ、オ」と言う声が上がった。

 麻希だ。

 続いてマサも同じ姿で飛び出した。青い半纏の松崎先輩と赤い浴衣の朝子も続く。引かれる様に仲間が手をつなぎ次々と加わり、踊りの輪が広がった。

 青い男衆踊りと赤い女衆踊りが二重の輪となり、縮んだり広がったり、時には内外が入れ代り絡まる。青と赤の花びらを持つ大輪の花が夜に咲いた様だ。まるで夏の狂おしい恋を歌い上げるかの様に踊り続ける。 

 麻希は、踊った。

 空を仰げば月に満天の星。

 嬉しいはずなのに涙が頬を伝う。笑おうとしても涙が止まらない。

『愛』という感情が心の中に湧き上がり、そして溢れるのを感じる。

 バンドのグルーヴと若衆踊りが絡み合い、会場全体に渦のような熱気が湧き上がった。

 ヒロは笑顔でギターのネックを水平にすると、麻希の胸を撃つ様な仕草をした。

 麻希は笑顔で胸を押さえ撃たれた様なポーズをすると、今度は両手の人差し指をヒロに向け撃ち返した。

 2人は笑顔で見詰め合うと小さく頷いた。

 夏の若衆踊りは深夜までアンコールを繰り返し、止む事がなかった。

 川名麻希、20歳の夏。

『恋と勝負』に負けたが『愛』を知った。

 そしてヒロは、『挫折』に負けない『勇気』を知った。

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