第10話 今

『愛してる、愛してない、愛されたい、愛されない、そして愛に行けない。愛の五段階活用か。ムダね……。小田原雅二郎かぁ、変な奴だけど良い所もあるじゃん。イヤだ、私何考えているんだろう』

 カオリが赤い花で占いをしている。

 出番待ちは暇だがそれにしても『他にやる事はあるだろう』と思った。

 8月28日金曜日。

 井の頭公園の広場に設えられた午後のステージ。

 その脇でカオリは出番を待っていた。

 マサが引き受けた仕事。地元の民族音楽グループとのコラボレーション。1回だけのステージだ。

 メンバーはステージでセッティングを終え、カオリを待っている。

「カオリ、出番だ」

 後ろでマサの声がした。

 カオリはその声に押し出される様に、ステージに駆け上がった。

 拍手が起きる。

 ステージから聴衆とバンド、コーラスと順番に頭を下げるとジュンのカウントが入った。

 民族的なコーラスから歌に入る。

「♪暁影に精霊達の 谺が幾重に響きゆく 時期はきたれり 蒸された風に 目覚めるいのち 凛と首たて 今 目を開く♪」

 堂々と歌っている。

「♪夢彼方 記憶を辿りゆく 心音のままに導かれ 清澗ねむる 珠を求めて 時期は時期は来たれり♪」

 コーラスとカオリが一体となった。

「♪天翔け 照機の大志に乗って 闇夜の現世 無限に照らせ この命 ひとつ 儚き夢なれば♪」

 ステージに送り出してしまえばマネジャーのやる仕事はない。

 マサは、公園の木立の中に入って行った。

 日射しが樹木で遮られ、影と陽がまだら模様となり不思議な霊気を漂わせている。

 2コーラス目が聞こえて来た。

 カオリが自信をもって歌っている。夏のバイトで舞台度胸をつけた様だ。歌が人の心を動かしているのが分かる。

 マサは、5人と一緒に過ごした夏を振り返っていた。

 不思議な感動を覚えた夏だった。そしていつも今に向かう勇気を考えさせられた。

『過去を振り返り、向かい会う事により過去と決別をする。俺は今に生きる』そう誓うべきなのか。それが亡くした戦友たちに出来ることなのか。

 上空で飛翔音がし、マサは思わず首をすくめた。

 軽飛行機が低空を通過していた。

『もう戦争は終わったのに何を反応しているんだろう』

 思わず苦笑した。

 飛翔音が小さくなり、思い出がフェードアウトしていくように感じた。

 もう一度空を見上げると抜ける様な青空だ。

「マサさん!」

 カオリの元気な声に振り向いた。

 いつの間にかステージが終了した様だ。

 今回のセッティングは先方。ステージが終了すれば文字通りの終わり。楽器を持ってお帰りだ。

 バンドのメンバーが笑顔で後ろに集まっている。

「オオ、お前ら終わったのか?」

 カオリが腕を組んで少しふくれている。

「マサさん、聴いてなかったのぅ」

 マサは慌てた、話題を変えよう。

「聴いてたさ。熱いな。アイスクリーム買ってきてやる。ちょっと待ってろ」

 やっぱり聴いてなかったようだ。皆、笑っている。長い夏のバイトがバンドとマサを家族のようにしてしまっている。

 マサが50メートル程先の売店に向かっている。

 カオリがポツリと呟いた。

「良い所あるよね。セコイようだけど気前の良いところがあったり、ドライなようで人情厚いし。不思議な人」

 ヒロがカオリを覗き込んでいる。

「カオリちゃん惚れっぽいね。止めた方が良いよ。マサさんは今39歳、2020年のカオリとは4歳違いだけど。実際は60歳も違う。加えて生きている時代も違う。大正生れだぜ。俺たちがいたのは令和だから3つも時代が違う。複雑で条件が悪すぎ。ヤメナサイ」

 ヒロから言われ、カオリは自分で言った言葉にドキッとした。

「じょ、冗談じゃないわよ。どんな生き方してきたのか興味があっただけ。やめてよヒロさん。誰があんな変人に。ところで今何時?」

 カオリはデジタル表示のBABY-Gしか持ってないので身につけられない。

 便利なものは不便だ。

 ジュンが1964年の質屋で買った手巻きの腕時計を覗いた。

「3時さ」

「タイムスリップした時間ね。ベンチや売店も同じ。違うのはマサさんがアイスクリーム買ってるだけ。スマホ鳴らないかなぁ、私、持って来ちゃった。井の頭公園来ると、鳴るんじゃないかと思って、つい持って来ちゃうんだよね」

 つられて4人も思わず笑った。


「ピ・ピ・ピ・ピ・ピ・ピ」

 その時、スマホの呼び出し音が鳴った。

 誰のスマホか?

 ジュンの着信画面が光っている。

「俺のだ」

 耳に当てる。

 驚きしかない。

 突然、同期で同じ部門にいる横田の声がした。

「三浦か? お前らいったい何処にいるんだ」

 いきなりの質問だ。

「何処って、信じられないだろうけど1964年の井の頭公園だよ」

「バカ言ってんじゃないよ。お前ら今『消えたデパート社員』と言われて大変な事件になってるのは知っているだろ」

 思いがけず繋がったのでお互い考えがまとまらない。

「なんの話だ?」

「とにかく早く姿を現せ。会社も大変な事になってる。経営がおかしくなって四苦八苦だ」

「ムリだよ。戻りたくても戻れない」

「本当は近くに居るのが分かってんだ」

「何か証拠でもあるのか」

「あるよ。お前らの家にバンドの持ち物が帰っている」

「何だ、そりゃ」

「7月23日には、一色のチューナー。8月6日には、森戸のシールド。8月16日には、片瀬のエフェクター。そして8月27日には、お前のデジタルメトロノームが自宅に置かれていた。そんな物、誰が持ってきて置いていく?」

「ウソだろ。ありえない」

「本当だ。良く考えてみろ、誰がそんな手の込んだ事する。普通泥棒が忍び込めば、物を置かず盗って行くだろ。お前らが置いていったとしか考えられない」

「そりゃ、違うぞ。本当に行ってない」

「それに、お前らの家族だってな」

「家族がどうした」

「プツッ!」

 回線切れだ。

 2020年との通信は終わった。

 カオリがジュンの腕を掴んでいる。

「ねぇ、横田さん最後に何て言っていたの」

 ジュンは手短に横田との話しを伝えると自分のスティックケースを開いた。

「横田の言う通りだ。メトロノームがない。確かに厨子海岸のライブの前にカッターナイフと一緒にここに入れたのを明確に覚えている。当然あるものと思って見もしなかった。カッターナイフも一緒に無くなっている」

 ヒロに思いつくふしがある。

「2020年にワシらの物が現れた日は、全てバイトの最後にライブをやった日だ。何か関連があるのか?」

 カズの心にも不安が忍び寄る。

「会社がおかしくなったり、家族に何かあったり、未来に影響が出ている。僕らのせいなのか?」

 リョウがスマホを見ながら答えた。

「しかし確認する術はない。スマホはタイムスリップした同じ時間と場所でしか通じない。それも切れた」

 カオリが少し涙目だ。

「家族に何かあったのかしら。早く帰らないと」

 5人の間に沈黙が流れた。

 気配を感じ振り返ると、近くでマサがアイスクリームのカップの入った紙袋を手に固まっていた。

「お前ら何してんだ。その右手に持ってるものは何だ」

 マズイ完全に見られた。

「何か、放送でも聞いてるのか」

 横田と話した内容を聞かれたかも知れない。

 リョウが咄嗟に言い訳を思いついた。

「これは、今大学でメーカーと共同開発している。携帯ラジオ」

「携帯ラジオ?」

「そう、新型のトランジスタ携帯ラジオ。今、メーカーと共同開発で作ってます。試作中なんで皆で受信状況調べているんだ。企業秘密なんで黙ってて下さい。迂闊だったなぁ、出来上がったら真っ先にプレゼントしますよ」

 マサは怪しいと睨んだ。とってつけた様な言い訳はミエミエだ。

 しかし、ここはそう言う事にしておこう。

 安心させておいて、ボロが出てくるのを待った方が良さそうだ。

 夏のバイトは、マサとバンドの絆を家族の様にしたが同時に疑惑も大きくした。

 マサは、努めて明るく鈍感さを装った。

 その為に話題も変えた。

「じゃあ売り出されたらひとつ頼むよ。ところで昨日厨子から帰ったばかりなのに、いきなり仕事で悪かったな。明日からは少し休もう。俺も明日は、夕方から多摩川の中州へ夜釣りに行ってくる」

 リョウは安心した。

 良かった疑われてないようだ。話題が戻らない様、相槌を打っておいた方が無難だ。

「それは良かった。僕らも休ませてもらいます。ちょっと、ゆっくりしたいし。明日の天気予報は雨らしいけどマサさん大丈夫?」

 多摩川はマサにとって裏庭みたいなもの。

「大丈夫さ、多摩川は子供の時から行って状況は分かってる。どんな時に気をつければいいかも知ってるさ」

 お互い駆け引き通りの展開となり笑みが漏れる。


 翌29日土曜日は、天気予報通りの雨だった。

 夏の日射しに体が疲れていたのか、少し下がった気温につい寝過ごした。

 ジュン達が起きるとカオリが遅い朝食の準備を済ませ、頬杖をつき何か考え込んでいた。

 ジュン達がテーブルに着くと突然立ち上がった。

「やっぱり間違いない!」

 4人はカオリを見上げて声をあげた。

「何が?」

 カオリがテーブルに手をつき4人を見下ろすように話始めた。

「今日は、日比谷線が全線開通する日よ。朝刊にも出ている。親戚の叔母さんが盛んに言ってたわ。全線開通したから上野から六本木に遊びに行き、ひどい雨に降られたのが叔父さんとの最初のデートの記憶だって。叔父さんはその日多摩川に夜釣りに行く予定だったけどデートでやめたの。そうして良かったって言ってた。だってその日、多摩川は氾濫して中州に取り残された人は、皆危ない目に合ったの。マサさん多摩川に釣りに行こうとしている。止めないと危ないよ!」

 事実か? 思い違いの可能性もある。

 リョウが新聞の天気予報を見ている。そこには等圧線が描かれている。

「とにかく、関東地方が低気圧に覆われていることは事実だな。カオリ記憶は、確かか?」

「当り前よ、お盆で親戚が集まる度にこの話何回聞かされたか分からないわ。劇的な要素もなく結婚した叔父さんと叔母さんだけど、この話だけは唯一のエピソードだと言ってたわ」

 間違いはなさそうだ。でもどうやって行動を止めるか。

 ヒロがトイレに立とうとした。

「今日は、持病の不整脈出てるわ。不整脈出るとホルモン異常でトイレが近くなるんだよね。高血圧だし薬飲もう」

 ジュンが薬を飲もうとするヒロのコップを取り上げた。

「なにすんのよ」

「ヒロ。お前、薬飲まずに入院しろ」

「いいよ、別に」

「バカ、芝居だ。大騒ぎしてマサさん足止めする。マサさん夕方に出かけると言ってたな。3時頃から演技開始だ。ちょっと皆朝メシ食ったら相談だ」

 朝食もそこそこに密談が開始された。


 3時、カオリがマサの離れにある事務所に飛び込んだ。

「マサさん、大変!」

 肝心のマサがいない。

 のっけからハズされた。

 もう、釣りに出かけてしまったのか。

 ラジオがつけっぱなしで天気予報を告げている。

 ラジオがついているのは居る証拠だ。

 少しほっとして、何気にデスクを見ると書きかけの手紙があった。

 悪いと思いつつ読むと、厨子の泰三へお礼と励ましの手紙だ。

 デスクの壁には、クレヨンで描かれたマサの似顔絵が貼ってある。

 小学生が一生懸命描いたのが伝わって来る。

 絵の下には、「マサさん、お菓子をありがとう。竹の子学園」と、たどたどしい文字でお礼が書かれていた。他に葉書が2通、東大と麻希からだ。そこには、バイトの終了後に気配りをしてくれたマサへの感謝が綴られていた。

『マサさんは、バイトが終わった後も交流を続けていたんだ。そして有形無形の励ましをしていた』

 後ろで声がした。

「カオリさん」

 ビクッとして振り返ると釣竿を持ったマサがいた。

「何を読んでるのかな、あまり良い趣味ではありませんな」

 思わず、手に持った葉書をデスクに置いた。

「マサさん。ごめんなさい。あやまるわ、本当ごめんなさい。私、恥ずかしいわ」

 マサは、少し照れくさそうだ。

「別に悪い事書いてある訳じゃないし、いいよ。お前らにも関連のある事だから」

 鷹揚な態度に心が安らぐ。

「この手紙や絵はどしたの?」

「よく一期一会と言うけど。この夏の出来事は、そうしたくはなかったんだ。バイトで訪れた先で皆が真剣に今と向き合っていた。生きることに真剣になる。こんな純粋な気持ちになったのは20年ぶりだ。繋がりを切りたくなかった。だからその後も連絡をしていた。泰三ともとるつもりだ」

 そう言うとデスクの壁に貼ってある絵をなでた。

「この絵は厨子に行く前に、竹の子学園にお菓子を持って行った時のお礼さ」

 逗子に行く前に『用事があるから先に出る』と言っていたのは、このことだったのだ。

 絵に描かれたマサが笑っている。

 カオリに『マサに怪我をさせたくない』そんな気持ちが心底湧きあがって来た。

 マサは釣竿をまとめ始めた。

「言う程でもないさ。さて行ってくるか、ちょっと雨足が強くなってきたかな」

 カオリの頭に血が上った。

「マサさんダメ! 釣りに行っちゃダメ。危ない!」

 思いもかけない言葉にマサは目を丸くしてカオリを見つめた。

 カオリも自分自身の大声に驚いた。

『多摩川が増水して危険だ』とは言えない。辻褄を合わさなければと思い、しどろもどろとなる。

「ゴ、ゴメン、マサさん。ここへ来たのは手紙を見る為じゃなくて、車を出して欲しくてきたの。さっ、さっきヒロさんの動悸がおかしくなって、病院に連れて行って欲しいの」

「エーッ! 何だって。それ、早く言えよ。釣りどころじゃねぇや。車出すから早くヒロ連れて来い」

 そう言うとマサは、車に走った。

 暫くすると4人がその後を追うように、ヒロを車に運んだ。

 芝居にしては真剣だ。

 ジュンが息を切らしている。

「本当に具合が悪くなると思わなかった」

 オヤジにとって夏は汗を大量にかくので体調を崩しやすい。薬を控えさせた事がヒロの症状を悪化させてしまった。

 リョウが先に乗り込みヒロの座席を用意した。

「芝居にしては上手すぎると思ったよ」

 カオリも同感だ。

「あたし、すっかり芝居だと思ってた。ヒロさん頑張って」

 ジュンとカズがヒロを車に押し込むとドアを閉めた。

 風が強くなり、雨が車のボディを激しく叩く。

 ドアが閉まるのを確認するとマサは急いでギアをローに入れた。

 フォルクスワーゲンのミニバンは、泥濘の水を撥ねながら水道道路を吉祥寺方面に向かって行った。


 水道道路沿いにある総合病院の待合室でマサと4人は、医師の結果を待っていた。

 マサは突然の出来事に、4人は想定外の出来事に驚いている。

 奥にある診察室のドアが開き、白衣に身を包んだ医師が出て来た。

 人間身体が弱った時、白衣は頼もしい。ユニフォーム効果だ。

 マサ達が待つソファに近づいて来た。

 思わず立ち上がってしまう。

 医師は、マサに手を挙げると笑顔で「やあ」と言った。

 親しいらしい。

 マサも「悪かったな、急に運び込んで」と答えた。

 医師は、ハイライトを咥えるとジッポのライターで火を点け病状について説明し始めた。

 病院でタバコを吸ってしまうところが、いかにもこの時代を感じさせる。

「マサ、久しぶりだな。お前なんでびっくりしたよ。俺がここにいるのをどうやって知った」

「驚かせてすまなかった。戦友会の名簿で貴様がここにいるのは知っていたよ」

「なんだ、そうか。最近住所不定になっていたから。どこで何をやっているのかと心配していたが、まぁ元気そうじゃないか。今は、芸能プロダクションの社長さんか」

「軍医の卵が今は立派な親鳥か」

「イヤ、飛び方覚えた位かな」

 そう言うと二人は嬉しそうに笑いあった。

「ところで具合はどうだ?」

「点滴している。血圧も下がって来た。若いから別に大丈夫だと思う。たぶんな」

「たぶん?」

「病状は、回復に向かっているし。大した病ではない。でもチョッと気になる所があってな」

「何だ?」

「まぁ、少し待て。気になるんでさっき採血をしてみた。血液検査に回している。特別に血液検査は無料にしておく。患者は一晩預かるがいいな」

「すまんな。仰せの通りするわ。軍医殿」

「バカ、やめろ。もう20年近く過ぎてるんだ。お前も、もう過去の事は忘れろ」

「説教はやめてくれ。ところで、金は先に払っておく」

「先払いか、あまり聞いた事がないな。でもいいよ。患者は今晩検査して明日の朝食後、退院だ。俺は、まだ上で診察がある。じゃあな、今度飲もうぜ。井の頭公園の近くに旨い焼き鳥屋がある」

 そう言うと医師は廊下の灰皿でハイライトをもみ消し、待合室脇のエレベーターに向かって行った。

 医師と別れたマサとカオリは、別棟にある会計の窓口に向かった。

 傘を忘れたので雨の中を小走りで急いだ。

 息を弾ませてカオリが尋ねた。

「マサさん、さっきのお医者様と親しいの?」

 マサが、万年皺のついたハンカチを頭にかざしながら答えた。

「ああ、昔軍隊で一緒だった戦友さ。だから便宜を図ってくれた。でも何時もさっきみたいに説教されるので御免だ」

 別棟は、古い木造3階建ての建物だった。ドアを開けると少し湿っぽい空気を感じた。

 扇風機が首を振っているが、湿気を含んだ空気をかき回しているだけだ。

 肩の雨を払いながら窓口に行くと、事務員が明細書を見せてくれた。

 明細書が扇風機の風で時々飛びそうになる。

 事務員が飛ばないように押さえながら説明を始めた。

「初診料に点滴……。合計で2000円ですけど、保険証お持ちですか? あれば負担が軽くなりますけど」

『困った』

 ヒロの保険証は有るが、2020年のカード型保険証では出す訳に行かない。

 カオリは、動揺した。

 マサはその様子をすかさず察知した。

「もってないのか? 東京で皆一人暮らしだろ。保険証なしで病気の時どうしてた」

 咄嗟に答えられない。

「まぁ、いいや」

 そう言うと窓口の事務員の方を向いた。

「こちらは、田舎から来た学生さんだ。とりあえず俺が立て替えておくよ。保険証が田舎から着いたら持って来るからその時払い戻してくれ」

 そう言うとサッサッと払い始めた。

 カオリは焦った。マサに負担はかけられない。

「マサさん」

 マサが優しい目でカオリを見つめた。

「いいよ。何か事情があるんだろ。話したくなったら話せ。俺は待ってる。お前らは、家族みたいなもんだ。気にするな」

 言葉が継げない。

「マサさん、ありがとう……」

 かすれた声で言うのが精一杯だった。

 カオリは、少しきしんだ床をじっと見つめていた。

 床に水滴が落ちた。

 それは、髪についた雨の雫だけではなかった。


 ヒロを病院に残し南風荘に戻ると、4人はいきなり脱力感に襲われた。

 芝居のつもりで仕掛けたら本当になってしまった。

 夕食を済ませ、時計を見ると時間はすでに7時を回っていた。

 空気を変えようとしてカズがラジオをつけた。

 少し聞きずらい。

 周波数のチューナーを合わせるとアナウンサーの声が明瞭となりニュースが飛び込んで来た。

『今朝ほどから振り続けた雨により関東地方各地で水の被害が出ております。特に増水した多摩川の中州では釣り客が取り残され、府中消防署と警察が現在懸命の救助活動を行っております。この雨は今夜半まで降り続き』

 カオリの言う通りだ。マサを行かさないで良かった。ジュン達4人は顔を見合わせた。

 カオリがキッチンにたつと得意そうに焼酎の瓶を持って来た。

「さあ、ヒロさんの全快とマサさんの無事、そして天気予報に乾杯しようか」

 雨が窓ガラスを叩く中、グラスの合わさる音がした。


 庭を挟んでマサの事務所がある。

 マサは、事務所で釣竿をしまいながらちょうど同じニュ-スを聞いていた。

『今朝ほどから振り続けた雨により関東地方各地で水の被害が出ております。特に増水した多摩川の中州では釣り客が取り残され、府中消防署と警察が現在懸命の救助活動を行っております。この雨は明日朝まで降り続き』

 思わず動きが止まる。

 行ったら危ない所だった。増水すると多摩川は手がつけられなくなる。命の問題になったかもしれない。

 するとカオリの言葉がよみがえって来た。

『マサさんダメ! 釣りに行っちゃダメ。危ない!』

 あれは、一体何だったんだろう。

 まるで確信をもっている様な、偶然発した言葉とは思えなかった。


 一方、食堂ではジュン達が盛り上がっていた。

 カオリが小さなケースを持って来た。

 酔っ払っている。

「ネェ、これつけて見ようよ」

 そう言いながらケースを開けた。

 真っ赤なコンタクトレンズだ。

「ライブでこれつけてマイケルジャクソンのスリラーの真似しようって、言ったじゃない」

 皆拍手で大笑いだ。

 今日は、マサを助けると言う最終的な目的を達した。

 皆が気分良くコンタクトをつけると雨足が強くなって来た。

 庭の木が風で揺れその度にしずくが「ザッ!」と落ちる。

 4人は、黙って庭に降り続く雨を見つめていた。


 マサが釣竿を収め終わると「トゥル、ル、ル」事務所の電話が鳴った。

 病院の医師からだ。

「マサか、今日の患者だけどやっぱり変だぞ。若いのに高血圧に加えて不整脈がある。これは普通、中高年にならないと出てこない症状だ。おかしいと思ったんで、血液検査したらもっと変だ。DHEA、アルカリポスターゼと言う男性ホルモンがあるんだがこれは若い人ほど多い。しかしそれが極端に少ないんだ。それも50歳並だ。ありえない。何か知ってる事あるか」

 マサはあいまいな返事をすると、静かに受話器を置いた。

 そしてブラインドの隙間から母屋の食堂を覗いた。

 そこには、真っ赤な目をしてこちらを見つめている4人がいた。

 慌ててブラインドを閉じ、背を向けるとマサはつぶやいた。

「あいつらは、一体何者なんだ」


 翌、30日。日曜日の午後ジュン達は、退院しすっかり元気を取り戻したヒロを連れ立川の米軍基地近くにある楽器屋見物に出かけた。

 まだこの時代から抜け出せそうもない。5人が当面食っていくには、マサに頼み込んでバンドを続けるしかなさそうだ。それには演奏中のトラブルに備えスペアの楽器がいる。都内の楽器店では高くて手が届かない。フェンダーのストラトキャスターはケース込みで20万円以上する。大卒の初任給が2万円程度だから今の価格にすれば200万円近くする。それに殆ど出回っていない。

 立川には米兵からの流れ物だろうか理由(わけ)ありの中古品があった。そこで夏のバイト代の殆どをつぎ込みギターを2本、ベースを1本、スネアドラムを購入してしまった。

 ギターは理由あり品なのでジャックやピックアップ、コントロールの調子が悪く音が出ないが、そこは電気系を専攻したリョウの出番。南風荘に戻ると近所の電気屋で買ってきた部品で見事に直してしまった。

 一方カオリはジュン達とは別に都内のデパートに行くことにした。

 2020年では手に入らない最新式アンティックな時計がズラリと揃っている。

 男もののセイコーのスポーツマチックを買ってしまった。8800円だった。

 デパートを回り、映画を見終わるとすっかり夜になってしまった。

 西荻窪の駅に着いた頃には9時を回っていた。

 2020年と違い街は暗い。

 善福寺公園に近づくにつれて街路灯の数も少なくなっていく。

 不気味なムードについiphoneを耳にしてしまった。

 音楽に気を取られ、駅からずっと知らない男がつけている事に気がつかない。

 近所で夕食を摂ったマサが十字路に差し掛かると、カオリが通りを横切って行くのが見えた。

 耳にイヤフォンを挿している。

『トランジスタラジオを聴いているのか。車に気をつけろよ』思わず笑った。

 その後をやや距離をおいて男が横切った。

 イヤな予感がした。

 突然カオリの悲鳴がした。

 マサは、下駄の音を響かせながら走った。

 角を曲がると男がカオリを茂みに連れ込み、馬乗りになっているのが見えた。

 右手には街灯に照らされたナイフが「ギラリ」と光り、カオリを脅している。

 マサは下駄を脱ぎ飛ばし、男に組み付くと思い切り投げ飛ばした。

 興奮した男は、ナイフを突きたてながらマサに襲い掛かる。

 マサはきわどい所でナイフを避けると手で叩き落とし、再び男を投げ飛ばし怒鳴りつけた。

「特攻上がりを甘く見るな! お前なんかと鍛え方が違うんだ!」

 強い、半端な強さではない。

 ケンカなれしている。

 力の違いを思い知ったのか、男は急いで逃げ去った。

 カオリは茫然自失としている。

 何が起きたのか整理できず、胸の動悸が収まらない。

 男の恐怖が身体の芯に残っている。

 そして近くにもう一人の男がいる。

 助けてくれたのか、その男は安全なのか?

 街灯の光が背になり良く分からない。

 影が少し動いて顔が見えた。

 マサだ。

 安心感が身体全体を満たし、力が抜けていく。

「マサさん……」

 それだけ言うのが精一杯だった。

 道路にカオリの持ち物が散乱している。

 マサは、ひとつひとつ丁寧に拾い始めた。

 小さな音が聞こえて来る。

 音のする方を見ると街灯の下に明るく光るカードのようなラジオが落ちていた。

 イヤフォンを耳にすると音楽が流れて来た。

「♪彼女が髪を指で分けただけ それが シビしびれるしぐさ♪」

 聞いた事のない曲、音質も明瞭で画面があり、映像が映し出されている。

 次にカオリの財布を拾った。

「LV」と印されたマークが沢山ついている。

 そこから運転免許証が飛び出していた。

「運転免許証、有効期限令和6年8月」

 聞いた事もない元号と見た事もないカード型の免許証だ。

 財布の中には1万円札が入っていた。

 大きさも柄も違う。

「福沢諭吉だ。この札は何なんだ」

 そう呟くとマサは、カオリの側へ行きiphoneとルイヴィトンの財布を手渡した。

「カオリ、そろそろ本当の話をしよう。駅前で一杯やるか」

 カオリは、マサから受け取ると黙って頷いた。


 2人は、西荻窪の駅前に行くと近くの居酒屋に入った。

 テーブルには焼きとんに煮込みなどの簡単な料理とグラスが置かれている。

 マサの額がうっすら切れて血が滲んでいる。カオリが濡れティッシュで拭いてやった。

「本当に不思議なもの持ってるね」

「まだあるわよ」

 百円ライターでマサのタバコに火を点け、手渡した。

 マサは、「ホーッ!」と言って手に取り不思議そうに見つめた。

「綺麗なものだな。透明で中の液体ガスが見える」

 カオリがマサにビールを注いだ。

「何から話そうか」

 今度は、マサがカオリに焼酎のサイダ-割りを作ってやった。

「最初は俺から話す」

 マサから切り出した。

「カオリ、学徒出陣って知ってるか?」

「2020年にも芸能人で『GACKT』っていたわよ」

「又、訳の分からない事を言うね。俺が話すのは戦争の話さ。今から20年前、俺は英文科の学生だった。そして学徒出陣を受け兵役に就いたんだ、戦局が劣勢なのは分かっていた。『どうせ死ぬんだ。』そう思って海軍の航空隊を志願し、鹿屋の基地で特攻の順番が来るのを待っていたんだ」


 1945年の夏。

 鹿児島県にある鹿屋の海軍航空隊の基地から爆装したゼロ戦や艦爆が1機、2機と飛び立って行く。腹に爆弾を抱え、重そうに編隊を組んでいく。

 何回も繰り返された光景だ。

 この1発で敵の戦艦や空母は、機能不全に陥る。駆逐艦や軽巡洋艦なら轟沈だ。

 しかしほとんどの飛行機が敵の艦隊までたどり着けない。

 待ち伏せしている敵の戦闘機に次々と撃ち落とされていく。

 牛若丸と言われる程、軽快なゼロ戦だが250キロ爆弾を抱えている為動きが鈍い。爆弾を落とせば戦えるが任務は、敵艦に突っ込む事だ。

 何とかたどり着いても敵艦隊の猛烈な対空砲火で、バタバタと撃ち落とされる。

 運良くたどり着いたら、こんどは爆弾を抱えたまま敵艦に体当たりするだけだ。

 何れにしても、選択肢は死しかない。

「8月の上旬。ついに俺に順番が回って来た。どうせ死ぬんだと覚悟していたのに、実際に来ると恐ろしかった。出撃の前夜は戦友と肩を組み、酒を飲んで威勢よく歌ったが、朝起きたらとてつもない恐怖がこみ上げて来た。吐きそうな怖さだった」

 早朝、出陣式が終わり上官に敬礼し戦友と握手を交わした後機に乗り込む。習慣の様に空冷エンジンの調子をチェックする。申し分ない音だが不思議に喜べない。自分へのレクイエムの様に聞こえた。

 滑走路の端まで機をタキシングし、エンジンの回転を上げると機が滑走をし始めた。まだ若い緑の稲穂がコクピット越しに流れ去って行く。遠くで農作業をしている人が整列し、手を振っているのが見える。滑走路の脇では少女が赤い花を振っていた。

 スピードの乗った所で機首を上へ向けると機体はフワリと浮き上がった。

 まるで自由な鳥が大空へ飛び立つ様だ。

 コクピットから見える夏の空は雲ひとつなく生命に賛歌を贈る様な青空だった。 これから人生が終わりを迎えるなんて他人事のようだ。編隊を組みしばらくすると大隅半島の南端、佐多岬上空が近づいてきた.。

「その時俺の心に『生きたい』と言う気持ちが情念の様に溢れてきたんだ。それはまるで尽きることのない泉の様で止める事は出来なかった。『このまま海に出たら最期だ。引き返せない。海岸線に命の境界線が引かれている』そう思った瞬間、俺は咄嗟に隣を飛ぶ機に翼を振り合図してしまったんだ」

 マサがエンジンを指差して故障の合図をすると、隣を飛んでいる少尉は心配そうな顔で『帰れ』と手を振った。

「俺は、敬礼して翼をバンクさせると旋回し、編隊から離れていった。その時後ろめたさを生きたい気持ちで一生懸命押さえ込んだんだ」

 基地へ戻るには爆弾を海に棄てなくてはならない。そうしないと着陸の時危険だ。

 途中で海岸線に出て爆弾を捨てようとするが、いくら操作しても爆弾が落ちない。翼を振ったり急な降下や上昇を繰り返したが効果はなかった。

 そのうちエンジンが本当に故障し「プス、プス」とイヤな音を発し始めた。不時着をするしかない。そう覚悟を決め、必死になって不時着出来そうな場所を探した。

「俺がそうやって不時着場所をモタモタ探している間。戦友たちは1機また1機と敵に撃ち落とされ、命を散らしていったんだ。俺が友を裏切り編隊を離れる時、心配して手を振ってくれた少尉も別れて2時間もしないうち死んだんだ。なのに俺は自分が生きるための不時着場所をノコノコ捜していたんだ。そうやっていつも不時着出来る所ばかり捜して生きてきたんだ。俺は、友からも自分からも逃げたんだ!」


 まるで自分の心に鞭を打つ様な言葉だった。

 マサは、コップを両手で包み一点を見つめるようにテーブルに目を落とした。

 カオリは、マサに優しく語りかけた。

「マサさん。もういいよ。自分を責めるのやめようよ。もう話さなくていいよ」

「イヤ、話を続けさせてくれ。俺は何処かでこの自分にケリをつけなければならない。その事にお前らと出会って分かったんだ。今がその時。この時を逃したら自分を変えられない。心に勇気を持つ時なんだ。俺は卑怯な生き方をしてきた男だ。それを認め、今の自分と向き合うべきだ。もう自分から逃げるのはイヤなんだ!」

 カオリにはそんなマサが寂しかった。

 同時に怒りがこみ上げてきた。

『何を昔の事にいつまでもイジイジしているの。マサさんは、そんな男じゃないでしょ!』

 そう言いたい。

 カオリは、怒りを込めて持ったコップをテーブルに「パン!」と置いた。

 焼酎が飛び散ってテーブルの上を濡らす。

 周りの客が振り返る中、カオリはマサを正面から見すえた。

「じゃあ、私も言うよ。マサさんは確かに死から逃げたよ。でも、その時生きる道を選んだんじゃないの。生きる事が卑怯なの? 違うでしょ、生きてはいけないの? 生きてるという今を受け入れるべきじゃない。いつまでも過去の自分をウジウジ引きずって。そんな生き方してたら手を振って亡くなった友達だって怒るよ」

 マサは少し困って悲しそうな顔になった。

「カオリ。そんなに、キレイに線を引いて考えられる時代じゃなかったんだよ」

 長く重い沈黙が続いた。

 扇風機の送る風がカオリの汗で濡れた前髪を揺らした。

 カオリは耐え切れなくなった。

「ごめん。言い過ぎた。続けてマサさん。聞くわ。貴方の話」

 マサは「ふぅー」と、大きなため息をついて話を続けた。

 心の中に『雅二郎、本当の自分と向き合うのは今なんだ。明日へ向かえ』そんな声が聞こえた。

「ありがとう続けるよ。そしてなんとか騙しながら機を飛ばすと、下に長く真っ直ぐに伸びた農道が見えたんだ。奇跡みたいに。俺はそれにすがりついた」

 農道の行き止まりには小さな山があり麓が森になっているが何とか着陸出来る長さだった。旋回し、やっとの思いで山に向かう着陸コースに入ると、エンジンの調子はますます悪化し、「プス、プス」という音から「バス、バス」と言うと音に変わり黒い排気が出始めた。農道が次第しだいに近づいてくる。エンジンパワーは最低だ。

 やり直しはきかない。

 テーク1、一回だけだ。


 農道の端に近付いた瞬間、着陸の為機首を上げた。鳥が翼をめいっぱい広げて大空を仰ぐ様に。

 それまで地上との距離を測るのに夢中だったが、機首が上がった瞬間コクピットから雲ひとつない夏の青空が見えた。離陸する時に見たのと同じ、生命の賛歌に満ち溢れた雲ひとつない青空だった。

「ドン」という音がして地上に降りたのを確認すると今度はブレーキをかけ必死に機を止めようとした。

 未整備の農道で機は「ガタガタ」とバウンドをする。

 まだ若い緑の稲穂が流れ去り、森が近付いて来る。農作業をしている人が手を休め機を見つめている。

 250キロもある爆弾を抱えたままの着陸なのでブレーキの効きが悪い。このまま正面の森に突っ込んだら爆弾は間違いなく大爆発する。隣の水田に舵を切れば機体はもんどりうって、ひっくり返り、同じことだ。しかも農作業をしている人を巻き添えにしてしまう。

 しかし、森はますます近付いてくる。

「俺はその時『止まれ。止まってくれ』と、心の底から夏の日射しに祈ったんだ」

 その時奇跡の様に機は止まった。

 正面に迫った木の先端から5メートルと離れていない、間一髪のところだった。

 風防を開けてコクピットから身を乗り出すと、木登りをしている子供達と目が合った。

 皆、大きく眼を見開き、枝の間からゼロ戦をジッと見つめている。

 手に握り締めた赤い花が鮮烈だった。

 しばらく見つめ合い、言葉が出ない。

 重い沈黙だった。

 夏の日射しが強く、水田を吹き抜ける風の音だけが聞こえる静けさの中にいた。

「俺は声を上げて泣いた。人は特攻が出来ず無念の涙と言ってくれたが。違う! 俺は自分の命が惜しくて友を裏切り、逃げ出した挙句、小さな子ども達の命まで巻き添えにする所だったんだ。なんて奴なんだ。情けない! 俺はそんな自分に愛想をつかした。生きていく価値のない最低の男だ。最低の男には最低の生き方が相応しい。そうやって生きていくことを決心した。そして基地に戻り暫くの間待機しているうちに戦争が終わったんだ」

 カオリは下を向いて小さくつぶやいた。

「もうやめて、マサさん。もう十分だよ。自分を悪く言うのやめよう」

「ゴメン、もうすぐ終わる。君たちとの不思議な出会いまでもうすぐだ。顔を上げて俺を見つめてくれ。『勇気』を出して聞いてくれ」

 カオリは、瞳一杯の涙を溜めて雅二郎を見つめた。

 涙で滲んで見えた。

「俺は、こんな不誠実な過去を引きずっている。だから俺の兵役は永遠に解除される事はない。何時までも、過去と今との間を彷徨い続けるしかないと思った」

 戦後、マサは得意の英語を活かして米軍基地で働いた。

 今まで敵だった奴に雇われる。自分自身に相応しいと思った。

 しかしその中でジャズと出会うことが出来た。

 音楽を聴いていると、その時だけ今を忘れる事が出来る。

 暫くすると米軍基地をやめ、小さな芸能プロダクションを開いた。

 歌手を何人か雇い、米軍基地やキャバレーを回る。

 そんな、しがない商売を始めた。

 しかしやってみると、その面の才能があったのか思いがけず順調だった。

 自分自身も愉快だった。

 しかし仕事が順調になればなる程、心に虚しさが広がっていくのを打ち消せない。

 米軍基地に行く度、自分の過去が思い出され今を問いかける。

 その度に酒におぼれ女に手を出した。

 それが次第に生活に影を落とし始めた。

 仕事にトラブルを発生させ周囲を呆れさせのに大して時間は掛からなかった。

 気がついた時は最後に残った歌手も逃げ去っていた。

 そして小さな借金も抱え、この夏屈折した気持ちでバンドコンテストの手伝いをしたのだった。

 気乗りのしない仕事だった。

 若い奴がいい気になって下手くそなギターを弾いている。

 戦争の苦労など、他人事だ。

 今の時代は、特攻で亡くなった仲間達の犠牲の上に成り立っている。

 そんな事も知らない若者に対する怒りと特攻から逃げた自分への思いが感情を屈折させた。

「その時君らと出会ったんだ。音は良かったよ、だけど最初は利用するつもりだった。鹿屋から来た田舎のボンボンを使ってひと夏儲ける。そんなつもりだった」

「最初に見たキーホルダーね。それで鹿屋の事知っていたのね」

「鹿屋から来たのと違うのか?」

「違うわ。それで私達と一緒に夏を過ごしてどうだった」

「そうだな、付き合っているうちに考えが変わった」

「何故?」

「俺もそれを知りたい。今度は君の番だ」

 カオリは、グラスを飲み干した。

 炭酸の粒が弾け少し苦く感じた。

「じゃあ、話すわね。変な事言うわ。驚かないで。私達は未来から来たの」

「未来、未来って何時だい?」

「21世紀、2020年、令和2年。第32回夏季オリンピックが開催される東京からよ」

「56年後、東京でまたオリンピックが開催されるのか。本当か?」

「嘘じゃないわ」

「そして私達の本当の年齢は……」

 カオリは、井の頭公園の経緯から話し、そして多摩川の氾濫の件も打ち明けた。

 全てを聞き終えるとマサは、ため息をついた。

「信じられないけど、信じるしかないのか。じゃあ、赤い目は何だい?」

「アー、見たの。あれはコンタクトレンズ。ほら」

 そう言ってカオリがコンタクトを装着してマサを見つめた。

 赤い目をして無邪気に笑っている。

「早くはずせよ。みんなビックリする。じゃあ、カオリは35歳なのか。」

「そうよ、昭和60年生まれ。3人兄妹の末っ子。私が生まれるのはこれから21年後。マサさんは何歳」

「大正14年生まれで39歳さ」

「4歳違いか、ちょうどいいわね」

「何が?」

 カオリは、自分自身の思いがけない言葉に驚いた。

 話題を変えなければ。

「マサさんは、何か私達に気付いていたの」

「今の時代と異なる違和感があったよ。証拠もある」

「本当」

「南風荘に戻ろう。そこで皆に話をする。その前に聞かせてくれ。2020年はどんな時代になっているんだ。豊かか? 平和か? 幸せか? 便利な道具も沢山出来ているんだろうな。昔『HGウェルズのタイムマシン』を読んだことがあるけどこんな事が目の前で起きるなんて信じられない。そうだ、戦争は?」

「タイムマシンなんてないよ。さっきも言ったけど、どうして1964年に来たのか分からない。戦争はないわ、安心して。これからの56年間日本は戦争をしない。それどころか、技術開発を推し進めて世界で3番目の経済大国となり、豊かになって途上国に援助をし、世界中の国から敬意を払われているわ」

「じゃあ、幸せだな」

「そう、世界中のレベルで言えば幸せよ。紛争を抱えている国や飢えている人々が沢山いるんだから。でも私達、大切なものを失いつつあるの」

「幸せに囲まれて失うものなんてあるのか」

「そう、あるの。幸せが普通になると知らずに失ってしまうものがあるの。憧れを求める『夢』、恐怖を克服する『チャレンジ』、甘く切ない『挫折』、新たな目標へ向かう『成功』。それを受け入れる心の若さ。そして何よりも大切な『今』を見つめ続ける『勇気』。それを失いつつあるの。私達を見て! いつも先送りしたり、逃げたり、眼をつむったり」

「いや、そんな事はないよ。君らは立派だよ。人にやさしく、自分と向かい合い、苦しみながらも前に進んでいる」

「そう、もしそうだとすれば、この時代に来て分かった事があるの。それは前を向くこと。明日はきっと今日より良くなる。そう信じて生きること。明日からの方が長い、それと比べれば今日のつらさは一瞬のこと。そう思える様になった」

「俺の言いたい事を言われたな」

 そう言うとマサとカオリは改めて乾杯した。


 南風荘には、皆帰っていた。

 マサとカオリが食堂に入るとジュン達がギターを磨いていた。

 ちょっと驚いた様子だ。

 カオリから話を聞くと安心した空気になった。

 ヒロが晴れ晴れとした顔になった。

「もうワシら取り繕わなくていいんだ」

 ジュンも同感だ。

「オイ、もう正直にいこうぜ」

 皆、沈黙の了解をした。

 テーブルには焼酎やビール、お茶が入ったグラスや茶碗が置かれている。

 庭からは虫の声が聞こえ、秋がすぐそこに来ている事を知らせている。

 ジュンが茶碗に注がれた焼酎を含むと切り出した。

「マサさん、何時から俺たちに疑問を持ったの?」

「最初からだよ」

「最初?」

「お前らが俺の楽器を持っている」

「この中古楽器がマサさんの?」

 マサは、意外な顔をした。

「楽器も今の姿に見えるのを知らないのか?」

 ジュンには何の事か分からない。

「どう言う意味よ。俺たちの楽器は、2020年に御茶ノ水の中古楽器店で纏めて買ったんだぜ。56年近く前の楽器だけど程度が良くてさ。金が無かったんで取り置きしてもらってさ」

「中古に見えるのか」

「そうだよ。立派な中古でしょ」

「俺には、新品とは言わないがかなり新しく見える。だってそれは俺の楽器だ」

「エッ、どう言う意味?」

「自分たちのギターを鏡に映してみろよ。それから裏も映してみな」

 片瀬たちは、居間の鏡にギターを映して見た。

 鏡に映すと中古だったはずのギターが新品に見えた。そして裏返すとボディーには白いペイントで『OP』と書かれているのが見えた。

「見えるだろ『OP』って。俺が描いた『小田原プロダクション』の略さ。時代も経ったんでペンキも消えたのさ。それに普段は、鏡の前では演奏しないから気が付くはずもないよ」

「マサさん、前から知ってたの」

「当たり前だ。コンテストで初めて会った時からさ。ウチにあるはずのギターと同じものを持っていた。偶然にしては不思議だった。コンテストの後、家へ帰るとやはりギターはなくなっていた。最初は、お前らが盗んだのかと思った。でも辻褄が合わない。俺が家を出る時は確かにあった。家を出る時、そう午後3時頃動物の唸り声とも嵐とも違う音がして一瞬暗くなり風が吹いた。でも、その時間はお前ら井の頭公園で篠崎たちと会っていた。それからはずっとコンテストの会場にいたのを俺も見ている。だから西荻窪まで来て盗む時間的余裕なんてない」

 ジュンが遠くを見る様に呟いた。

「じゃあ俺たちは、マサさんが手放したギターを2020年で買った訳だ。そんな不思議な縁があるのか」

 マサが焼酎を一気に呷った。

「お前ら本当に2020年から来たのか?」

「カシューン」

 スマホのフラッシュが焚かれた。

 マサの目に小さな光の残像が残った。

 リョウが笑ってスマホの画面を見せた。

「ハイ、マサさん」

 見ると自分の顔が写っている。

「ピ、ピ、ピ、ピ」

 今度はカオリのBABY-Gが鳴った。

「今、23時よ」

 そう言うとマサに映し出されたデジタル数字を見せた。

 今度は、カズがリニアPCMレコーダーを取り出し再生を押した。

 ジュンの指示する声がした。

『分かったよ。じゃあ歌行くぞ。ワン、トゥー』

 曲が流れ始めた。

 スタジオリハの録音だ。

 ジュンがマサを見つめた。

「これらは、全部2020年の最新式機材だ。一般的に普及しているものばかりさ」

 マサはため息をついた。

「どうやら信じるしか無さそうだな。じゃあこれからの時代はどうなる」

 ジュンが首を振った。

「マサさん。それは言えない」

「何故だ?」

「もし、教えたら時代に影響を与えてしまう。未来に帰れなくなる」

「証拠でもあるのか?」

「証拠はない。でも小さな積み重ねがある。リョウ、さっきの仮説をもう一度話してくれ」

 そう言われるとリョウが身を乗り出して来た。

「じゃあ、オレの仮説を話す。聞いてくれ」

 皆の視線がリョウに注がれた。グラスや茶碗を手にする者はいない。

 リョウの仮説はこうだった。

「自分達がこの時代に来たのは、井の頭公園で1964年の歌を歌った時だ。そして昨日タイムスリップした同じ場所と時間に2020年と携帯が繋がった。会話から得た情報は、家族や会社に異常が発生した事と1964年で無くしたはずのチューナーやエフェクターが2020年の自宅に戻っていると言う事だ。家族や会社に異常が生じているのは自分達の行動が後の時代に影響を与え始めた証拠だろう。チューナーやエフェクターが戻っていると言う事は、自分達の歌は時を移動させる力を持っているのかも知れないと言うことだ。自宅にエフェクターやチューナーなどが戻った日は、自分達がバイト先で最後に思いを込めて2020年の歌を演奏した日だ。1964年の歌を歌ってこの時代に来たとすれば、同様にタイムスリップした同じ時間と場所で2020年の歌をありったけ演奏すれば元の時代に戻れるかも知れない」と言う内容だった。

 やってみる価値はありそうだ。

 ジュンが皆を見回した。

「皆、どう思う」

 マサが組んだ腕を解いた。

「皆、家に帰りたいか」

 ヒロが日にちを消しこみ、残りの少なくなった8月のカレンダーを見つめて言った。

「もう8月30日だ。ここに来て、間もなく2ヶ月だ。『僕たちのいた夏』は終わりにしよう。」

 マサが香織を見つめた。

「カオリも同じか?」

 カオリは、少し口ごもった。

「そ、それは今に愛着あるから」

 もっと先を言いたかった。でもここでは言えない。

 マサが立ち上がった。

「俺に任せろ、あてがある。必ずステージを作ってやる」


 9月月1日の火曜日、季節は秋に入り5人は井の頭公園のステージに立っていた。

 そこはタイムスリップしたベンチの上に作られたステージ。

 ベンチはステージの下に隠され見えなくなっている。

 5人の役割は、この秋からデビューするグループサウンズの前座バンドだ。

 マサが金で無理やり押し込んだ。

 しかしカオリがステージに出て来ない。

 観客が少しざわついて来ているのが分かる。

 このライブは落とせない。

 2020年に帰らなければならないからだ。

 そしてこのステージのために夏休みで作った全ての財産をつぎ込んだマサの為にも成功させなければならない。

 だがカオリがステージに出てくる気配は一向にない。

 リョウが焦れて来た。

「ジュンさん、まずいぜ。カオリぬきでとりあえず始めるか」

 観客のざわつきが大きくなってきている。

 時間は午後2時30分を指している。

 ヒロがギターの弦を弾ねた。

「ジュンさん、とりあえず繋ごう。カズ、いくよ。1964年の納涼大会だ」

「了解」

 そう言うとヒロとカズがギターで絡み始めた。

 スタジオで散々練習した曲だ。

「♪夢に見る姿の良さと 美形のBlue Jean 身体と欲で エリ好みのラプソディー♪」

 サザンオールスターズの「Miss Brand-New Day」だ。

 リョウがボーカルを取っている。

 聴いた事もない曲に聴衆は引き込まれた。

 イントロからいきなり掴んでいる。

 側で聴いているグループサウンズが青ざめていくのが分かる。


 舞台のそでにいるカオリとマサにも聞こえて来た。

「カオリ、もう時間だぞ。皆が待ってる。早く行け」

「マサさんありがとう。素晴らしいステージを用意してくれて」

「ああ、乾坤一擲の勝負だ。夏で稼いだ金、全部使ったけどな」

「ゴメン、私達のために」

「気にするな、おかげで儲けさせてもらった。それ以上に心のプレゼントをもらった。お金は、又稼げばいい」

「私達がいなくなったら、どうするの」

「わからん。お前ら程のバンドにはもう出会わないだろう」

「じゃあ、困るじゃない」

「いや、大丈夫。育てればいい、それが分かった」

「いいわねマサさんと皆は、楽器や仕事のスキルもあって」

「どうしたんだよ」

「私には、何もないわ。楽器も弾けないし、仕事のスキルもない。2020年では唯の女子社員。たまたま、ジュンさん達がたまたま近くにいたからバンドに誘ってくれたけど、別に歌が上手な訳ではない。運が良かっただけ。一人前を装ってるけど仕事も歌も実力がないのは自分が一番良く知ってる」

「何を言いたいんだ。皆がステージで待ってるぞ」

「私、ステージには上がらない。2020年には帰らない。ここに残る」

「気は確かか、カオリ。2020年に帰りたいと言ってたじゃないか」

「私、一言も言ってない! マサさんの鈍感」

 マサは、どうして良いか分からなかった。

「世界中にたくさんの人がいるのに、私、時代まで超えて、マサさん好きになって。押さえよう、抑えようとしても心が向かってしまうの。私、未来に帰れない。私、そんなに強くない!」

 堰を切ったように涙が溢れた。

 2020年から1964年まで遡って恋に落ちて、溜めた涙。

 マサの掌が「スッ!」と伸び頬の涙を拭いた。

 カオリの気持ちを知らなかった訳ではない。自分もその感情をずっと抑えてきた。

 両手でカオリの頬を包み込むと自分に向けた。

「カオリ。君が1964年で向かい合った現実も今じゃなかったのか。皆と過ごした事、そこで得た事は今じゃないか。2020年で過ごす事と同じだ。どこで区別が出来るんだ。そして君は未来じゃなくて過去を選ぼうとしている。君は前にこう言ったじゃないか」

『マサさん今を受け入れるべきじゃない。いつまでも過去の自分をウジウジ引きずって。そんな生き方してたら手を振って亡くなった友達だって怒るよ』

 カオリに西荻窪の居酒屋の記憶がよみがえった。

 テーブルには、叩きつけたグラスから焼酎が飛び散っていた。

「あれはウソなのか、違うだろ」

 今に向かうのは、今を受け入れる事なのか。

 カオリの優しく甘い香りがした。

 マサはカオリの頬に手を伸ばした。

 カオリはマサの掌に頬を預けた。

 マサがカオリの頬を上に向けると2人は近づいた。

 ステージから漏れる陽の光に照らされ、2人はひとつのシルエットになった。

 人の身体と唇はこんなに柔らかく暖かいものなのか。

 2人は、互いのぬくもりを確かめあった。

「カオリ、君は行かなければダメだ」

「哀しみってなんなのだろう。そう言った人がいたわ」

「哀しみなんて相対的なもの、哀しみの大きさは比較の問題。きっと乗り越えられる」

「じゃあマサさんは愛も比較するの。愛も真実も。それじゃ私は何?」

「理屈じゃない。愛してる」

「何時から?」

「厨子から戻ってからかな」

「不思議ね、私も一緒」

「夢とチャレンジに挫折、そして成功を体験した事が気持ちを変えた」

「振り出しにも・ど・れ・た」

「今までそれに向かい合うのが怖かった」

「日常に流される方が楽だった」

「今に向かう勇気の大切さを知った」

「変ね、説教っぽくない」

「オヤジだもん。愛してるカオリ、でも一緒に居てはいけない。2人の今が違うんだ。目をそむけてはいけないんだ」

「そうね、マサさん。貴方は立派に戦後を生きて来た。これからは自分を大切に生きて欲しいわ」

「人は、『今』に生きる事が大切。その為には現実を受け入れて前に進むしかない。その『勇気』を持つ事だ。俺はその事にやっと気付いた。君とは、歳も60歳近く違う。その事に気付いて欲しい。向かうべき今が違うんだ。カオリ! もう行くんだ。君の仲間が待っている。待っていてくれる人のところへ行くんだ」

 カオリは涙を貯め、手の甲を口にすると両手でしっかりとマサの胸を押した。

「マサさんも過去の自分と決別して」

 そう言うと背筋を伸ばし敬礼した。

「命令! 小田原少尉。貴方の兵役を解除します。これからは夢を心に抱き、命を大切に生きる事。復唱せよ!」

 マサは背筋を伸ばし、踵を合わせると敬礼した。

「小田原少尉、復唱いたします。兵役の解除承りました。夢を心に描きこの命大切に生きる事を誓います!」

「さよなら。小田原少尉。マサさん」

「カシューン!」スマホのシャッター音がした。

 ストロボで一瞬目が眩む。

 振り返るとステージの階段を駆け上るカオリの後姿が見えた。

 ステージでは4人の仲間が待っていた。

 午後の日射しは強く、ステージを熱く照らしている。

 ヒロが笑顔でマイクに向かう様、促した。

 カオリが客席に一礼するとマイクを握った。

 会場は聞いたこともない曲に圧倒されたのか静まり帰っている。

「チッ」

 電源の入る音するとカオリが話し始めた。

「皆さん初めまして、TWO HUNDEREDです。私達は2020年から来ました。信じられないでしょ、でも本当なんです」

 パラパラと拍手が上がり、少し白けたムードになった。

 カオリは、深呼吸をすると前を向いた。

「最初は何で来たのか分かりませんでした。でもここで暮らすうちにこの時代に来た意味を知りました。それは、今という現実にたち向かう勇気を持つ事です。その大切さを、この時代で様々な人々とめぐり合う事により知りました。歌手の『夢』を抱く戦災孤児のキャバ嬢、初めて『チャレンジ』をした東大生、恋や勝負に『挫折』したホテルオーナーのひとり娘、『成功』の意味を悟ったオリンピック候補選手、『今』に生きる意味と戦っている元特攻隊員。誰もが現実に立ち向かい『勇気』を燃やしています。これから歌うのは、2020年で私達が歌った曲です。1964年で知り合った全ての人に感謝の気持ちを込めて歌います。聞いてください」

 そう言うとカオリはスマホの画面を見た。

 そこには、フラッシュに驚いたマサの顔があった。

「マサさん」

 そう言うとカオリは少し笑った。

 そして慈しむようにスマホをポケットにしまった。

 カオリは、前を向き歌い始めた。

 心にメリーゴーランドの様に情景が浮かぶ。

 竹の子学園のホール、豊島園の駐車場、須崎の祭り、厨子海岸の海の家。

『夢』、『チャレンジ』、『挫折』、『成功』

 その時の出来事を愛しむ様に歌った。

 カオリの話が分からなかった観客も歌と共に世界に入り込んで来る。

 曲が進むと同時に遥か彼方に小さな黒い点が生まれた。

 重ねる度にそれが大きくなって来る。

 想い出の4曲を歌い終わる頃には、観客席の一番後ろまで迫っていた。

 黒い点は壁となり、天まで聳え辺りを不気味な暗闇で包み込んだ。

 風は強くなり、動物の様な唸り声までが聞こえて来る。

 2ヶ月前に聞いた声だ。

 5人に記憶がよみがえる。

 しかし壁や唸り声は観客には見えない、そして聞こえない。

 5人だけにしか分からない。

 4曲を香織が歌い終わるとジュンが声をかけた。

「皆、あつまれ。」

 ステージの中央に5人が集まった。

 ステージから5人は、目前に迫った黒い壁を見つめた。

 ジュンが問いかける。

「皆、あれが見えているな」

 5人は見つめ合い、目で頷きあった。

「逃げる訳にはいかない。今に向かい合う時が来た。カオリ、ヒロ、リョウ、カズ、2020年に帰るぞ」

 そう言うと5人は右手を出し、重ね合った。

「勇気を出すんだ」

 全員が重ねた右手を見つめ、気合を入れた。

「オーッシ!」

 5人は顔を上げるとお互いの顔を見詰め合った。

 一瞬、驚きで声が出ない。

 そこには、20歳の自分達の姿があった。

 カオリがため息をつくようにジュンの名を呼んだ。

「ジュンさんなのね」

 ジュンは、ヒロの肩を掴んだ。

「ヒロか」

 ヒロは、背の高いリョウを見上げた。

「リョウ」

 リョウはカズのギターに軽く触れた。

「カズ」

 カズは、マイクをスタンドからはずすとカオリに渡した。

「カオリ歌おう」

 5人は、20歳の姿を改めて見詰め合った。

 ジュンが最後の指示をした。

「ベースは、アタックをきかせろ。ギターは絡みを大切に、ボーカルはしっかりと前を向く事」

 5人の若者は、静かに頷くとそれぞれの位置についた。

 カオリがマイクのスイッチをONにした。

「皆さん、今日はありがとうございます。最後の曲になりました。アンコールは出来ません。もう直ぐ2020年に戻るからです。さよなら皆さん。夢とチャレンジと挫折、成功を信じて。未来で又、お会いましょう。そして、最愛のマネジャー。マサさん、さようなら」

「カッ、カッ、カッ、カッ」

 ジュンのスティックが鳴る。

 空気が一体になった。

 すかさず、カウントが入る。

「ワン、トゥー。ワン、トゥー、スリー、フォー」

 ベースのアタックから入る。

 8小節の後、ドラムとボーカルが入った。

「♪目の前の 景色がなぜか 遠い記憶のように 映ったの みんないる なのになぜか 急に 愛しさがあふれた 今この瞬間も 思い出になるの♪」

 ヒロとカズのギターが絡み始める。

「♪たとえ 離れたとしても 距離や時間に負けない あなたが私を誰よりも 知ってるから 『大丈夫』 その言葉で 私を包み込んで♪」

 黒い壁は客席の3分の2を覆ってしまった。

 カズは急に肩の軽さを感じた、同時にピックが空を切る。

 肩からかけたレスポールがない。

 急にカズの音が聞こえなくなったのでメンバーも気付いた。

 鳥肌が立つ。

『先ずカズのギターから2020年に帰った』

 いよいよ始まった。

 全員が理解した。

 カズは誰かが肩を叩くのを感じた。

 後ろを見るとマサが予備のギターを持っている。

 4人が立川で買って来たものだ。

 マサは、カズに笑って手渡すとシールドをアンプに繋いだ。

「♪困らせて 悩んで 泣いて 答えが見つからず 離れた時も そんなコトも 今思えば とても 愛しいと感じる 私の居場所がなくても わすれないで♪」

 壁は、客席の半分を覆った。

 漆黒の闇が広がる。

 今度は、リョウのプレシジョンが消えた。

 マサが横からスペアのベースを渡した。

 リョウは、右手を出すと笑って受け取った。

「♪ずっと つながってるよね 絆を 作ってきたから 私があなたを誰よりも 知ってるから 「大丈夫」 その言葉で あなたを抱きしめるよ♪」

 黒い壁から発する唸り声が近く聞こえ始めた。

 するとヒロのフェンダーが消えた。

 ヒロは仕方なさそうに肩をすぼめるとマサの側に行き、軽く握手をすると新しいギターを受け取った。

 間奏にはいる。

 グルーヴが生まれる。

「♪たとえ 離れたとしても 距離や 時間に負けない あなたが私を誰よりも 知ってるから 「大丈夫」 その言葉で 私を包み込んで♪」

 黒い壁は、目前だ。生臭い風が吹き始める。

 ジュンのラディックが消えた。

 マサが予備のスネアをそっとセットし、準備が済むと軽くジュンの肩を押した。

 壁は暗黒となり全体を支配した。風は強さを増し、唸り声はバンドの音を掻き消そうとする。

 カオリは前を向き、振り返らない。

『今を見つめ未来に向かう』

 心に誓った。

「♪ずっと つながってるよね 絆を 作ってきたから 私があなたを誰よりも 知ってるから 大丈夫 その言葉で あなたを抱きしめるよ♪」  

 歌い終わるとカオリの手からマイクが消えた。

 そしてカオリは静かに胸を張った。

 壁は、覆いかぶさる様にカオリの胸から包み込み始めた。

 演奏は終わった。

 カズは正面を向き、リョウはギターのネックを天に向け、ヒロは水平に構えた。 暗闇に向け、ジュンは両手を大きく振り最後のクラッシュを入れた。

 同時に壁は、5人を一気に飲み込んだ。

 ステージが一瞬光ったと感じた瞬間5人の姿は消えていた。

 夏の日射しに照らされたステージには、楽器だけが残されていた。

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