第7話 チャレンジ

 7月25日土曜日の朝「南風荘」の食卓は微妙な沈黙と緊張感に包まれていた。 ジュン、ヒロ、カズ、カオリの4人が無言で目の前に置かれた大皿を見つめている。

 ジュンが大皿に添えられたスプーンでヒロの皿に料理を取り分けようとした。

 ヒロの顔が引きつって来た。

「ジュンさん。余計な気を使わないで! いいから自分でやる。カズお前から先にとってやる」

 カズも防戦一方だ。

「ヒロさんの気持ちは嬉しい。だけど気持ちだけにして。アッそうだカオリお前からやる。遠慮するな」

 カオリも必死だ。

「DVで訴えるわよ。いつも泣くのは女。公平にジャンケンで決めようジュンさん」

 いつになく強硬だ、他に妥協策はなさそうだ。

 ジュンが渋々頷くと4人が声を揃えた。

「最初はグゥー! ジャンケン、ポイ!」

 4人の手がテーブルの上に集まった。

 数十秒後には、モニターに指名されたヒロがしぶしぶ箸を運んでいた。

 カオリが下から顔を覗き込んでいる。

「どう、大丈夫?」

 ヒロがニッコリ笑った。

「今日のは、すばらしい! 現代料理界の奇跡だ。正に新境地の開拓」

 皆、安心して箸を運び始めた。

 ひと口含んだジュンが箸を置いた。

「ヒロ、お前だましたな」

 安心してかきこんだカズが飲み込めずにいる。

 カオリは水で飲み込み、目を丸くしている。

「ヒロさん負けたわ、名演技。確かに料理界の奇跡、正に新境地の味だわ。ヤッパ公平を旨とする当番制見直そうかぁ。得意な分野を活かす人事制度に変更すべだわ」

 ジュンもウンザリしている。

「これから1週間以上リョウの作った飯を食うんだろ。まだ始まったばかりだぜ」

 リョウがキッチンからさらに大皿に盛られた料理を運んで来た。

 4人は座りなおし、作り笑いをした。

「お待たせ、追加が出来たぞ。ヒロさん味どう?」

「旨いよ、最高だ。だけどワシの好みじゃない」

 その時、庭の木を揺らす音がして縁側から網戸を開けてマサが入って来た。

「いたいた。ヤアー諸君、おはよう」

 空腹だが食えない料理を前にしてカオリが少し苛立っている。

「マサさん、いつも縁側から入ってくるけど、ちゃんと玄関から入ってきてよ」

「いいじゃねェーか、俺の家なんだから」

「そりゃ、そうだけど」

 カオリがそう言っている間にマサはヒロの箸を取って料理を口に運んだ。

 思わず「ウッ!」と言う。

「お前らずいぶん珍しいもの食うな。納豆カレー焼飯か。それにしても上手に不味く作るな。身体こわすなよ。ところで仕事持ってきた」

 カオリが思わず身構えた。

「又、私やーよ、この前みたいにオヤジに触られるの」

「今度は違う、遊園地のプールサイドで演奏。合間にたこ焼きとスイートコーンの屋台出して販売。ダブルで稼ぐ。勤務時間は遊園地の開園から閉園までで朝・昼・晩の飯付きだ」

 ヒロの顔が明るくなった。

「じゃあ、合宿所で飯食わなくて良いんだ。やろう。ジュンさん受けよう」

 カズも異論はない。

「プールサイドかぁ。いいですねェー。水着姿の女の子見ながらバイトでお金も入ってくる。二度おいしい、やりましょう」

 ジュンもまんざらではない。

「じゃあ、やるか。リョウせっかく料理作るの慣れて来た所なのに。わりぃーな」

 リョウは皿をテーブルに置き、エプロンをはずしている。

「せっかく面白くなってきたんだけど、仕事なら仕方ないわ。でも、プールサイドで『たこ焼き』作るんだろ。そっちで才能活かすわ」

『とんでもない事考えてる』カオリが慌てた。

「そ、それはバイト先行ってから考えよう。ネッ、そうしよう。私もバイト賛成」

 マサも嬉しそうだ。

「そうか、良かった。それじゃ、ステージ衣装が必要だな。男のお前らは、アロハとバミューダを吉祥寺で買って来い。安いのだぞ。予算は厳守。カオリお前には水着買ってやる。なるべく肌の露出の多いヤツだ、そうだビキニがいいな。よし、デパート行こう」

「ナニよ、結局前と一緒じゃない」

「衣装も楽曲の一部。プロなら文句言わない。自分で選べるんだから良心的だろ」

 何となく理屈は合ってるような気がする。

「そりゃ、そうだけど」

「出かけるぞ、早く着替えて来い」

 30分後しぶしぶ着替えたカオリとマサは南風荘から出かけて行った。

 

 2時間後、銀座4丁目で眩しそうに和光の時計台を見上げている2人がいた。

 郊外と違い都心の日射しは乾いて強い。

 デパートの前で若い男女がたむろしている。男は半そでボタンダウンに細めのコットンパンツや膝丈のパンツ、女性はノースリーブにロングスカート。そして共地のリボンをウェストで結び、髪には二つ折りの大きめなハンカチを被っている。 何故か男女共に大きめの紙袋や麻袋を持っている。

 カオリは眼がテンだ。

「この人たちナンダ? ホコテンもないじゃん」

「ホコテン? なんだそりゃ」

「ふつう土曜日なら、そうか……。ホコテンはもっと後の時代か。いいの、ゴメン勘違い」

「お前、若いのに『みゆき族』も知らないのか、鹿屋の田舎から出て来てるんじゃ仕方ないな。こいつらは『みゆき族』と言って、今年の5月位から銀座に出始めたのよ。ファッションは見ての通り、アメリカのアイビールックがお手本さ、アメ公のマネよ。もっぱら銀座のみゆき通りにたむろしているんで『みゆき族』って言われてる訳さ。警察はオリンピック前に補導したがっている」

「話は分かったわ。この後いっぱい出て来るよ。『竹の子族』とかさ、路上パフォーマンスは見飽きてるからいいわ。それよりマサさんお腹空いた。朝からご飯、食べてないの」

「竹の子ご飯食いたいのか? それよりも、とんかつご馳走してやる」

「やったァー!」

 そう言うとマサはみゆき通りの方へ歩いていった。


 2人はみゆき族の間を掻き分けながら、見るからに老舗のとんかつ屋に向かった。格子戸の前に盛り塩がしてある。中に入ると清潔な木のカウンターの他に4人掛けの小ぶりなテーブルが3つほど配置してある。

 とんかつ屋らしく油の匂いはするが不思議と嫌味ではない、むしろ香りと言ったほうが良い位だ。

 それにさすが銀座だ、巨大な冷蔵庫ほどありそうなクーラーが据え付けられている。レトロだがこの時代では最新式だ。正面には、生産国「MADE IN USA」メーカー名「GE」と言うプレートが誇らしげに輝いている。

 カオリは久々の冷房に生き返った気分だ。

 席に案内されたカオリがあたりを見回すと、カウンターの後ろにロースかつ定食300円の品書きが張ってある。

『安い! おごってもらって悪いけど、どうもこの時代の値段にツイテいけないんだよね』

 マサがオーダーした。

「本日のサービス、2つ頼むわ。」

 見ればテーブルに別の品書きが立て掛けてある。

『本日のサービス定食150円、1時まで』

「あいよ!」

 カウンター越しに威勢の良い掛け声が返ってきた。

 カオリは、氷の入った麦茶を飲みながら呟いた。

『ケチ』

 麦茶を飲み新聞を読んでいる内に、大きめの皿に盛られた「コロッケと一口カツの盛り合わせ」が運ばれてきた。

 細かく切られた多めのキャベツに熱々のトン汁が嬉しい。

 味は、流石に老舗のとんかつ屋だ。

 荒めのパン粉は、2度づけされており少し厚手だがカリッと仕上がっている。しつこさはなく、むしろ軽い位だ。思わずご飯のお代わりをしてしまった。

 食後のデザートは、夏の定番デラウェアだ。

 最後は熱めの番茶。

 定食というより見事な作品だった。


 満足し、再び銀座4丁目の交差点に戻った2人は角にあるデパートに入っていった。

 店内は、夏のバーゲンセールで賑わっている。人の波を掻き分けてエスカレーターまで行くと接待係員がベルトに軽く布をのせて会釈をしてくれた。カオリも「どうも」と言いつつ会釈を返している。

『エスカレータ-にいてもエレベーターガールか。2020年じゃ見ないよな』カオリはそんな事を考えながらマサと水着売り場に向かった。

「マサさん、水着買ってくれるのは有難いけど試着室覗かないでよ」

「その位の常識は持ち合わせてるよ。それよりもちゃんとビキニ選べよ。ビキニ以外ダメだぞ。恥ずかしいと思うな、仕事なんだから」

「全然平気よ、着慣れてるもん。刺激の強そうなの選んであげっから期待しててよ」

「なんかカオリと話していると、調子狂うんだよなぁー。世代が違うって言うか」

「世代じゃなくて時代」

 赤いビキニは1500円だった。

 カオリは小さな袋を抱えて店から出て来た。隣のマサは不満そうだ。

「なんで、下着くらいしか布使ってないのに1500円もするんだよ。サービス定食10人前だぞ。詐欺だ」

「そう言うもんなのよ。いつの時代も。1500円は男の挑発代。マサさんだって見たいでしょ、合宿所で水着のファッションショー見せてあげるよ」

「ありがとよ。あいつらに土産でも買っていくか」

「サンキュー! 何がいいかな。電話して聞いてみるわ」

 通じる訳ないのについ習慣で持ってきてしまったスマホを出しそうになる。カオリは心の中で思わず『アブネェー』と呟き、裏通りにある電話ボックスに入った。 マサは外で待つことにした。

 電話ボックスの中はとんでもない暑さだ。

 短いコール音の後リョウが電話に出た。

「リョウさん今銀座。お土産買って帰るけど何食べたい物ある?」

「俺、食い物のイメージ湧かない」

 よりによって味覚音痴のリョウが出るとは。電話ボックスの暑さの中でカオリは気を失いそうになりながら運の悪さを嘆いた。

「リョウさん、じゃあ誰かに変わってよ」

 電話の向こうで「カズ、カズ」と呼ぶ声がし、「ゴト、ゴト」と受話器を台に置く音がした。そしてやっとカズの声が返って来た。暑さの中で時間が焦れったく感じる。

「カオリ、ご苦労様。水着あったか。お土産もいいんだけど。俺のデジタルチューナー知らないか。一昨日から見あたらないんだ」

 どうでもいい事だ。

「そんなの知らないわよ。それより私のラインマーカー知らない。一昨日からないのよ」

「僕は知らない」

 全然関係のない話になってしまった。

「そんな事より電話ボックスの中暑いんだからお土産早く決めてよ、ケーキとかお饅頭とかさ」言いかけた時残り30秒を告げるブザーが鳴った。

 カズは受話器の向こうで「うーん」と唸っている。

 よりによって味覚音痴の次は優柔不断男だ。

 つくづく男運が悪い。カオリは腹がたってきた。

『自分の好きな物にする』そう決断すると「時間ないから切るよ。適当に買っていくから。文句なしよ」と、電話を切った。

『何だったんだ、この電話は。結局自分で決めるなら、しなきゃ良かった』

 カオリは熱で少しふらつきながら電話ボックスから出て来た。

 外が涼しく感じる。

「モォー、無駄な時間過ごしたわ」

 そう言いながらマサを見ると向かいの米屋で冷えたジュースを買っていた。ボトルの横には「プラッシー」とブランド名が入っている。

 自分はこんな暑い思いをしているのに、カオリは急に不愉快になってきた。

「ツカ、ツカ」とマサに近づき。

「サンキュー」と言ってマサが開けたばかりのジュースを取り上げ、ボトルの口をハンカチで「キュッ、キュッ」と拭くと一気に飲み始めた。

「オイ、ちょっと俺の」

「マサさんだって、人のビールやご飯とるじゃない。ンーんまい、ご馳走さま」

 そう言って空ボトルをマサに返すと再びデパートの食品売り場に向かって行った。


 2人が善福寺の合宿所に帰り着いたのは5時を少し回った頃だった。

 カオリが食堂兼ミーティングルームの隣にある和室に入っていくと、4人の男が 畳に寝転がり、肘を突いて週刊誌のグラビアに見入っていた。

「ただ今」とカオリが言ったとたん4人は週刊誌を閉じ、座りなおした。

「ナニを見てたかな。ナニナニ」

 そう言いながらカオリはカズが後ろ手に隠した週刊誌を取ろうとした。

「破けるからやめろ、今見せてやるよ。大して珍しくもないから」

 雑誌の表紙にはアイビールック若者がイラストで描かれている。

 グラビアは外人女性のヌードだ。

 雑誌のタイトルは「平凡パンチ」と書かれている。

 リョウが雑誌の説明をした。

「今年、つまり1964年の4月28日に創刊された若い男性向け週刊誌だよ。表紙を描いているのは大橋歩と言うイラストレイターさ。音楽や映画などの若者向けの話題にヌードのグラビアが売り。団塊の世代に絶大な支持を得た雑誌。1989に廃刊になっちゃったけどね」

 カオリはあきれた。

「雑誌の説明は分かったけど、私が言いたいのは56年前から男の興味は一緒と言う事よ」

 ヒロは内容に不満そうだ。

「これのどこが面白いのか、健全なもんよ。時事ネタも真面目。ヌードだって外人ばっかりで、それはそれで良いとしても、ヘアーひとつ映ってない。中学生くらいの時親に隠れてこっそり見たから、懐かしくて買ったけど。こんなのどこが良かったのか。ワシャ、50円返せと言いたいね」

 カオリは、お土産を膝の上に置きながら呆れて座り込んでいる。

「はい残念でしたね、お土産のクッキー食べる」

 白地にブルーの太いストライプが入った蓋の真ん中には浮き輪が描かれ「Izumiya」と名前が入っている。

 ジュンが嬉しそうだ。

「カオリ良くやった。懐かしいなぁ。昔は高級クッキーでさ。めったに食えなかったよ。バターの香りとコリッとした食感で、俺は特にこのドーナッツ型で小さなドライフルーツがトッピングされているのが好きなんだ」

 カオリが麦茶を運んでくると皆それぞれに手を伸ばした。

 まんざらでもない、喜んでくれれば暑さの中買ってきた甲斐もあるもんだ。少し微笑みが戻る。

「ゆっくり味わってよ。暑い中、買って来たんだから」

 リョウが麦茶を飲みながら尋ねた。

「銀座までどうやって行ったの」

「往きは、マサさんが地下鉄の方が涼しいって言うから、荻窪から丸の内線を使って銀座まで行ったけど、冷房ないから窓開けるでしょ、だから車内がうるさくて。帰りは有楽町から東京経由でJRじゃなかった国鉄で帰ってきたわ」

「銀座の街はどうだった」

「とにかく、暑いのひと言。ホコテンやってないから歩道を歩く人は多いし、街は吸殻だらけで2020年の方が綺麗だわ。あと目立つのは和光の時計台と三愛ビル、見た事ないけど、でっかい森永の地球儀があったわ」

「ゴジラに散々壊され続けた建物だな。そりゃご苦労さんでした。ところで水着、気に入ったのあった?」

「赤くて可愛いビキニがあったわ。夕食の後、着て見せてあげようか?」

「あれって着るって言うのかな。身に着けると言うか、脱ぐ寸前とか。でも頼むわ。夕食はどうする?」

 そうだ、大変な事を思い出した。リョウの一言で当番がもう一回残っているのを思い出した。4人は、猛暑の中で凍りつきリョウを見つめた。

 リョウはクッキーに手を伸ばしながら提案した。

「明日からたこ焼きも作るんだろ、練習の為に物干し台で七輪使ってバーベキュー大会やらないか、マサさんも呼んで」

 良かった救われた、渡りに船とはこの事だ。

 言うまでもない、飛びついた。

「賛成」

「その賛成に賛成」

「賛成の賛成に賛成」


 物干し台は、2階屋根の上にあり涼しく、大きな建物は女子大くらいしかなく見晴らしは抜群だ。

 向かいには女子大の寮があり、風呂場が合宿所側にある。洗面器の「カラン、カラン」と言う音や「ジャッ!」と言うお湯をかける音。その中に混じる女子大生の声が妙になまめかしい。オヤジにとっては想像出来る分、平凡パンチより刺激的だ。

 バーベキューは大成功だった。七輪を持ち出し、火を起こして魚の干物やたれにつけた肉やおにぎりを焼いた。又、フライパンを持ち出してきては、練習に焼きソバやお好み焼きを作ってみたりもした。

 飲めないリョウも少し飲み、涼しいせいか酒も進んで皆いささか酔っ払った。

 夕食後は酔った勢いでカオリの水着ファッションショーとなった。

 ミーティングルームに集まり隣の部屋から出てくるカオリを待つ。

 襖が「サッ!」と開きカオリが登場した。

 くるりと回ったりしてポーズを決めると全員大拍手だ。

 でもカオリは、マサ以外の視線がどことなくおかしいのに気づいた。マサ以外はカオリを直接見ていない。

 最初は分からなかったが後ろの鏡を振り向いて分かった。

 マサ以外は、後ろの鏡に映った20歳のカオリを見ているのだ。


 7月27日、月曜日の早朝、5人とマサを乗せたフォルクスワーゲンのミニバンは豊島園の駐車場に辿り着いた。

 管理人に挨拶を済ますとミニバンは開演前の遊園地にゆっくりと入り、プールサイドに向かって行く。

 朝早く開園前の遊園地は、昼間とは異なりのんびりした風景だ。

 名物のジェットコースターはまだ無く「空飛ぶ電車」と名づけられたモノレールがゆっくりと動き、動物列車やボートを係員が点検をしている。大きな噴水近くにはウオーターシュートがあり、新人の練習か時々水しぶきを上げては人が飛び上がっている。

 機材を運び込むのは40m四方位のナイアガラと言う滝のあるプールの脇だ。隣接して50mの中プールと20mの小プール、それに飛び込みプールがある。

 いつも通り配線をし、チューニングを合わせる。キャバレーのバイトで経験済みなので手馴れたもんだ。

 チューニングをしているとマサが困った顔でやって来た。

 頭をかかえている。

 カオリが心配して覗き込んだ。

「マサさんどうしたの? 頭かかえて」

「明日からやるたこ焼きとスイートコーンの屋台借りるのに、レストラン部門の課長が屋台のデザインとか売り上げの予測を出せって言うんだよ。そうしないと貸さないって言うんだ。それも今日の午前中にだぞ。そんなの出来る訳ないじゃん」

「マサさん、売上げ予算とか仕入計画とか立ててなかったの」

「そんなもん、ある訳ないだろ。間に入った業者が出来るって言うから、何とかなると思って材料の仕入れもしちゃったよ。どうする明日の朝には蛸とかトウモロコシとか入ってきてしまう」

 隣で聞いていたジュンが口を挟んだ。

「有名遊園地だから、イメージ壊したくないんでしょ。しょうがないなぁ。どの位仕入れたの」

「とりあえずは、2日分位。俺ちょっとキャンセル出来るか聞いてくるわ」

 そう言うと、マサは10円玉を握って公衆電話の方へ走っていった。

 カオリはその後ろ姿を見送りなが「どうすんだろね、これから」と言い、腕から下げた籐のバックを軽く振った。

 その時バッグから電卓が落ちた。

 リョウが慌てて拾うとカオリのバッグに押し込みながら耳打ちした。

「なんで、ここに電卓があるんだよ。1964年で使っちゃマズイ事ぐらい知ってるだろ」

「だって久しぶりに販売するって言うから、ポケットに入れて来ちゃった。電卓はデパートの必需品。いつも持ってるの。商売熱心でしょ」

 ヒロがリョウの肘を突付いている。

「実は、ワシも持って来ちゃった。デパートマンの鏡」

 リョウが空を仰ぎ額に手をやっている。

「この時代じゃソーラー電卓なんて御伽噺だよ。この時代はもっぱら算盤よ」

「そりゃ、分かってるけど。ワシ、算盤出来ないし、リョウは暗算得意?」

「不得意、でも今回は良かったかもな。マサさん助けてやろうか。ジュンさんどう?」

「いいよ、この時代じゃマサさんが頼りだからな。お前から言ってやれよ」

 そう言ってるとマサがすっかり気落した様子で戻って来た。

「キャンセル出来ないってよ。お前らこれからしばらく飯は蛸とトウモロコシだ」

 これは、冗談じゃない。メンバーにとってはリョウの料理もさる事ながら、蛸とトウモロコシの毎日もたまらない。

 リョウがマサに提案した。

「企画書と収支計画書作るの僕らがやりましょうか。有名な遊園地だから、どんな商売するのか知りたいんでしょ。イメージ壊されると困りますからね。後はこっちの支払い能力も知りたい。機材を貸して代金も払わず逃げられたら、たまらないですから」

「そう言ったって、そんな書類直ぐ作れるのかよ」

「ダメかどうかはこれから作りますから、それを見てから決めて下さい。それ以外に方法あります? 僕らだって毎日蛸とトウモロコシ食べたくないですから」

「そうか分かったよ、とにかく頼む」

 リョウは、マサに向き合った。

「集中してやりますので我々だけにしてもらえますか。部屋は控え室借りますね」

 仕事は段取り八分だ。更衣室に隣接した控え室に入るとジュンがメンバーに役を割り振った。

「屋台のコンセプトはリョウが作れ、販売促進は慣れているだろ。俺とカオリはたこ焼きの販売・利益計画。ヒロとカズはスイートコーンの販売・利益計画を日割りから期間累計までの表にする。1時間もかからないだろ」

 手慣れた仕事だ、今まで使ってきた用語を駆使し、需要予測を経験値で当てはめて行くだけだ。

 5人は久々、得意の仕事に没頭した。

 一方、マサは本当に企画書が出来るのか心配で仕方ない。

 控え室は隣の更衣室と壁一枚で隔たっていて上が30センチくらい空いている。マサは更衣室に忍び込むと椅子をそっと持ち寄りその上に乗って、玩具の潜望鏡を使いながら壁の上から覗いて見た。

 すると不思議な光景が目に入って来た。

 5人のいるテーブルの前にあるパテーションが邪魔して良く見えないが、ジュンが数字を読み上げカオリが熱心に薄い金属盤を叩いている。見た事もない不思議な光景だ。

『何なんだ、アレは? 数字のボタンがついて、新しい暗算方法か? 不思議な奴らだ』

 もうと少し良く見ようと背を伸ばしかけた時、誰かが更衣室のドアに近づく音がした。マサは慌てて椅子から降り、更衣室から退出した。

 1時間ほど過ぎる、5人が控え室から出てきた。

 リョウがマサに企画書を手渡した。

「はい、マサさん。簡単なものですが出来上がりました」

 マサは、さっきの光景を目にしたせいもあり怪訝な顔だ。

「早いなあ、ちょっと説明してくれるか」

「いいですよ。屋台のコンセプトとしては、基本的な考え方の事ですね。ファミリーと言うよりは、トレンドに敏感な若い年代層をイメージターゲットとしてエスニック調、つまり東南アジアを意識した屋台とします。見た目は、屋台に椰子の木やバナナの絵を簡単に付けた物とします。こんなのお化け屋敷の大道具にベニア板切ってもらえば、後はペンキで描くだけ、僕らで出来ますよ。投資はゼロに等しい。肝心のたこ焼きとスイートコーンの味付けですがタイ風にナンプラーのきいたソーズを普通・中辛・ドン辛の3種類に分けてお好みで選んでもらう。1日の売上げは一品30円で販売して平均50個とします。だから1500円です。これは、豊島園の入園人数に一定の想定値をかけて出しました。かなり低く見積もった数値ですので大丈夫でしょう。そこから想定される荒利ですが人件費はバンドで稼ぐのでなしとして、原価は10%もありませんから殆ど利益。そこからリース料を引くと……」

 マサは目テンだ。

「何、言ってんだか分からねぇけどスゴイ。最近の大学はこんな事も勉強するのか。悪いけどリョウ、俺と一緒に来て説明してくれ。俺じゃ無理だわ。飛行機の操縦だったらいけるがこれは専門外」


 事務所で説明が終わるとレストラン部門の課長はおおいに納得し、屋台の装飾から足りない調理器具の手配まで助けてくれた。

 2人がプレゼンから戻るともう開園だ。

 家族連れや若い人達が続々と門をくぐり、遊園地は華かに始まった。

 演奏まで時間があるのでマサと5人は、プールサイドでお茶を飲みながら時間をつぶしていた。

 そこへ2人の若者がやって来た。

 小柄な160センチ位の男性と150センチ位の女性だ。

 先ず、男性から口を開いた。

「小田原さん、いらっしゃいますか。レストランの課長からアルバイトを紹介されて来たんですけど」

 マサが立ち上がった。

「早いな、ご苦労様。皆、明日から屋台を手伝ってくれるバイトの学生さんだ。演奏中も営業するしな。手伝ってもらう事にした。バリバリ稼ぐぞ。今日は、さっきリョウが言ってたエスニック屋台の制作を手伝ってもらえ。段取りはつけたから。俺はクーラーのある控え室で昼寝する。ジュン後は頼むぞ」

 そう言うとサッサと控え室の方へ行ってしまった。

「なんだよ、人雇ったら利益計画ムダになるじゃん、気楽なもんだ。まぁトントンでもいいか。蛸とトウモロコシ食い続けるよりましだわ。先ず自己紹介からするか、俺はドラムでバンマスのジュン、それから……」

 メンバーの簡単な自己紹介が終わるとバイトの2人が自己紹介を始めた。

 女性から始めた。

 オレンジ色のスカートに白い半そでのブラウス、ショートカットの髪が活発な印象を与える。

「私は、岬智子といいます。川西短大の2年生で20歳です。家もこの近くです。入り口で入場券売ってたんですけど、もう少しバイト続けたいので紹介されました。料理は得意な方です。よろしくお願いします」

 次は男性の番だ。

 黒の学生ズボンに白の開襟シャツ、黒縁眼鏡。

「真面目」と言うものを絵に描いて具体化したらこうだろう。

「僕は久里浜秀一です。メリーゴーランドの手伝いしてました。僕も、もう少しバイトを続けたくて、大学は東京大学理科Ⅲ類の2年生で年は20歳です。下宿は近くですが故郷は長野です」

 リョウが思わず大声を出した。

「東京大学理科Ⅲ類! それって医学部じゃん」

 皆、絶句だ。

 皆の眼が集中するのに東大生は耐えかねた。

「あのぉ、医学部の学生がバイトやっちゃいけないんですか」

 カオリが不思議な生き物でも見る様に見つめている。

「そんな事ないけどぉ、東大医学部の人って初めて見たから。手も足もついてるわ。見た所、私達と変わらないけど勉強したのねぇ」

「僕化け物じゃないです。勉強は中学と高校の授業を普通にしてれば入れますから。僕、努力した事ないです」

 サラリと言われた。3流大学の理工学部を卒業したリョウはムッと来た。カズにそっと耳打ちした。

「オレ、こう言う奴本当にいや。はっきり言ってキライ」

 負け惜しみと言うよりは劣等感丸出しだ。上を見ればキリがない、仕方がない。

 カズは、リョウの隣で首をすくめた。

 ジュンの提案で二人は「智子」「東大」と呼ぶ事になり、バンドメンバーと同じアロハシャツを着る事となった。

 バンドのウケは良かった。曲もキャバレーで散々やって来たので慣れているし、この時代では最新ヒット曲だ。何よりも衣装が注目の的だ。勿論男のメンバーが着ているアロハではない。当然カオリの着ているビキニだ。とにかくビキニはまだ出たて、セパレーツすら着ている女性は少なく視線は釘付けだ。つくづくバンドはボーカルしか見ていない。カオリも満更ではない。その間バイトは屋台の装飾作り、文化祭の準備の様で楽しそうだ。明日からの販売が楽しみだ。

 翌朝、開園前にプールサイドに屋台を引き出していると材料屋がやって来た。小麦粉に蛸、トウモロコシを置いて行く。

 目の前に置かれた材料を見つめてジュンが役割を考えている。

「人事配置に希望はあるか」

 リョウが手を挙げた。

「オレ、たこ焼きやってみたい。理工学部の出身なんで千枚通しとかドライバー使うの慣れてる」

 一番やって欲しくない奴が手を挙げた。しかし希望を募った以上仕方がない。

 ジュンは自分の軽率さを後悔した。

「分かったよ、他は」

 別になかった。バランスを考える他はない。

「スイートコーンはガスが熱いし焼くだけだから、ヒロとカズに俺、演奏中はマサさんに頼む。たこ焼きは、材料切って混ぜたり、焼いたり手が掛かるからリョウ、カオリ、東大、智子。演奏中は東大と智子でやってくれ。これでいいな」

 屋台は大好評だ、特にナンプラーソースは、この時代にはない味なのでヒットだ。

 予想外の結果も出た。リョウの焼き方が上手いのだ。本人の言う通り、器用に千枚通しでたこ焼きをひっくり返して行く。味付けはダメだがドライバーや千枚通しは電気の学科を卒業したので使い慣れている。一方予想外は東大だ。包丁は握れない、材料を混ぜれば濃さが調整できない、焼くのは当然ダメ。仕方ないのでスイートコーンに回すと生だったり焦がしたりと散々だ。仕方がないので又、たこ焼きに戻した。

 昼になると客も並び始め、リョウが少し苛立った。

「オレも言えたもんじゃないけど。お前そんな不器用でメス握れるのかよ」

「手術は料理と違います」

 カオリも同意見だ。

「同じよ、お肉切るじゃない。私絶対、東大のいる病院行かない」

 智子が葱をきざみながら東大をかばった。

「大丈夫、これから上手になるよね。まだ始まったばかりだし」

 東大は、下を向いて肯いた。

 リョウとカオリは、智子の弁護に先を続けられなくなってしまった。

 しかし、本人の自覚もあったのか、3日ほど経つと少しずつだがスキルの向上が見え始めた。


 8月1日土曜日の早朝、いつもより早めに着いた5人とマサは豊島園の駐車場からプールサイドに向かっていた。

 リョウがジュンにぼやいている。

「ジュンさん、東大だけどあんまりだよ。オレの料理も酷いと思うけど、アイツも酷い。偏差値と料理は反比例するんだ」

「お前、少しは自覚あんだな。まぁ、確かに最初は下手だったけど最近上手くなってきてるぞ。来た時は葱きざむのも出来なかったのに最近はリズムもいい」

「だけど、味覚はないぜ。粉の調合なんか見られたもんじゃないよ」

 カオリが割って入って来た。

「リョウさんに言われてるんじゃ、酷いわ。リョウさん料理上手に不味く作るもんね」

「うるせェーな」とリョウが言いかけた時、前を歩くヒロとカズがプールサイドの屋台に若い男女がいるのを発見した。

「アレッ! あの2人東大と智子じゃねェーか。そうだよなカズ」

「そうですよね、こんな朝早くから何やってんだろう」

 5人とマサは木陰に隠れてしばらくの間、観察を続けた。

 よくよく見ると、屋台の側に長いテーブルを置いて、その上にビーカーを並べている。

 ビーカーには白い液体が入り、外側に番号が貼ってある。

 東大がビーカーの液体を順番にたこ焼きの鉄板に流し込み、千枚通しでひっくり返しては焼き上がったたこ焼きを智子に手渡している。

 智子は嬉しそうに受取ると試食をし、立ち上がっては側に寄り添い手本を見せている。

 2人とも真剣だが笑顔を見せ合っていい雰囲気だ。

 カオリが両手の指を絡ませて呟いた。

「ウーッ! たまらん、この雰囲気。こうやって教えていたのね。智子、絶対東大の事好きだよ。ネッ、ジュンさん」

「俺もそう思うよ。東大も智子の事好きなんじゃないか。ああやってラジオ体操みたいに早朝特訓してたんだ。どおりで上手くなった理由が分かったわ。ところでビーカーの中身はたこ焼きの生地だろ、何やってんのかね」

「粉の配合色々変えて試してるんじゃないかしら。さすが理科系。暫く2人にしておきましょうよ。準備は後にして朝食行こう」

 マサと5人は「そぉーっ」と離れると更衣室の裏にある従業員食堂に向かった。

 朝食を終えた5人とマサが屋台まで行くと2人が緊張した雰囲気で立っていた。

 東大が何か言いたそうだが、ためらっている。

 智子が東大の背中をそっと優しく押すと、小さく前に出てジュンに向かい話し始めた。

「あの、リーダーに提案があるんですけど」

「なんだよ、俺は雇い主じゃないし。たまたまバンドリーダーなんで兼務しているだけ、身分的には同じバイト仲間さ、ざっくばらんに言ってくれ」

「たこ焼きのメニューを智ちゃんと一緒に考えたんですけど、『蛸やケーキ』ってどうでしょう。生地をホットケーキミックスにして中にチョコレートやキャラメル、チーズなんか入れて。それにココアパウダーを振りかけるんです。新おやつ感覚のたこ焼き」

 2人の早朝特訓の成果、プレゼンテーションだ。

 カオリの目が輝いた。

「それ、面白いね。いけるかも、試しに作ってみてよ。いいでしょマサさん」

 その言葉にマサが頷いた。

 それを合図に2人は「ハイ」と言い、作り始めた。

 智子が調合をし、東大が捏ねる。

 東大が鉄板に生地を注ぐとその側から智子がチョコやキャラメル、チーズを入れて行く。

 東大が器用に丸く作って行く、いつの間にか見事な手つきになっている。テクは、リョウを超えている。

 最後に東大が出来上がった「蛸やケーキ」を皿に盛ると智子が仕上げにココアパウダーを振りかけた。

 素晴らしいコンビネーションだ。

「はい、どうぞ」2人の声が揃うと試作品が差し出された。

 甘い香りに包まれた丸くて小さいホットケーキがココアパウダーをまとい可愛いらしい。

 楊枝を突き刺し口に運んでみる。

「美味しい」思わず声が出る。

 生地に包まれた中に入っているチョコやキャラメルのトロリ感がたまらない。たこ焼きを食べた後に、又食べたくなる。新たな設備投資も不要だ。たこ焼きを頼むのは女の子にとってチョット恥ずかしいが、これならいける。

 カオリは感嘆した。

「これ美味しいわ。絶対売れるよ。やろう、いいでしょマサさん。それにしても2人共息があって、恋人同士みたい」

 カオリの少しわざとらしい言い方に、東大と智子はすっかり真っ赤になり少し離れた。

 5人とマサは思わず微笑んだ。

 蛸やケーキは大成功だった。たこ焼きでお昼時を稼ぎ、おやつ時は蛸やケーキで稼ぐ。たこ焼きの二毛作だ。客が並ぶので隣のスイートコーンも釣られて売れる。 売上げは倍に増えた。東大と智子の息も益々合って行く。真剣に仕事に打ち込む姿は独立を果たし、人生にチャレンジをしていくカップルの様だ。

 喧騒のうちに1日が過ぎ、日が落ちると遊園地も閉演時間となった。

 屋台も店じまいだ。昼間あんなに沢山いたお客はすっかりいなくなり、整備の為動いている遊具の音が思い出した様に聞こえて来る。

 瞬く星の下で照明が柔らかくあたりを照らし、遊園地全体が疲れを癒しているかの様だ。

 プールサイドから少し離れた流し場でリョウと東大が調理器具を洗っている。

 リョウが、ボウルを洗いながら東大に話しかけた。

「すげェな、驚いたよ。こんなに売れると思わなかった」

「ありがとうございます。僕も驚きました」

「たこ焼きひっくり返すの、上手くなったじゃん」

 東大は汗を拭きながら、照れくさそうに答えた。

「ええ、早朝練習したから、智ちゃんのおかげです」

「どっちから言い出したんだよ」

「何ですか?」

「早朝練習だよ。決まってんだろ」

「僕が困ってるの見て、智ちゃんから。だから家に帰っても練習して、僕初めて努力しました。努力っていいものですね」

 ちょっと嬉しそうな東大に対してリョウは不愉快そうだ。

「お前その一言がカンにさわるんだよなぁ。まてよ、オーッ! 俺たちいつも『智子』って呼んでるのに、お前は『智ちゃん』って呼ぶのか。アヤシイぞ」

「何ですか。僕そんな事言ってないですよ」

 そう言うと東大は、少し乱暴にボウルを洗い始めた。

 屋台では、カオリと智子が台や鉄板を拭いている。

 2人が星を見上げ、手の甲で汗を拭くと爽やかな風が吹き抜けた。

 屋台の柱に取りつけた風鈴が「チリリン」と鳴ると夜更かしな一匹のトンボがライトに照らされたプールの上を掠めるように飛んでいった。

 カオリは、布巾を絞ると智子に話かけた。

「いいアイデアだったわね。『蛸やケーキ』美味しかったわ。どちらが考えたの?」

「秀一さん。自宅のビーカーで混ぜて練習しているうちに小麦粉とホットケーキミックス間違えて焼いてしまったの。でも焼いて食べるまで分からなくて、食べたら美味しくて、偶然の産物だって」

 嬉しそうに話す智子を見て、カオリが仕掛けた。

「そう、面白いわね。それから」

「バカね。東大行ってるくせに。普通、焼いているうちに匂いで違いがわかるわ。翌朝、早朝練習に来たら、食べて見てくれって」

 カオリはムズムズしてきた。

「それから?」

「私も食べたら美味しかったの。それで持ってたチョコを中に入れてみたら。秀一さんも美味しいって言ってくれたわ。それで出来たの」

 カオリは、思わず微笑んで智子を覗き込んだ。

「ひとつ聞いてもいい?」

「ええ」

「私たち『東大』って呼んでいるけど。智子いつも東大のこと『秀一さん』って呼ぶの?」

 智子は顔がすっかり赤くなってしまった。

「そんな事言ってないですよ。ウソ! 言ってない」

 そう言うと布巾を干しに言ってしまった。

 一人になったカオリの側にリョウがやって来た。

「何か、アヤシクねぇー」

「私もそう思う、アヤシイの通り越してるよ。あの2人」

「言い出せネェーんだろ」

「そう言う事よ。飲もうかぁ、仕事終わったしぃ」

「いいねェー。飲んで、歌おうぜ。もっともオレ飲めねぇーけど」


 客のいなくなったプールサイドで乾杯が始まった。マサも屋台が軌道に乗り上機嫌でコップ酒をあおっている。カオリはビールジョッキに山盛りの氷を入れて得意の焼酎サイダー割りだ。他のメンバーや東大と智子も思い思いに飲み物を作り、飲み始めた。仕事の後の一杯は旨い。特に上手く行った後は、なお更だ。

 暫くするとリョウがベースを持ち出して来た。それを合図にメンバーがステージに集まり始めた。酔っ払ったカオリがTシャツを脱ぎ捨て、ジョッキを片手にビキニのブラとハンケツ出しのショートパンツ姿でマイクの前に立った。

「秀一さん、智ちゃん。今日はサンキュウ! 2人の為に特別ライブを開催しまぁす。ジュンさん、ヒロさん、リョウサさん、カズさん、準備OK!」

「ヨッシャ」、「アイヨ」、「OK」、「いいっすよ」掛け声が戻ってくるとカオリがカウントを入れた。

「ワン、ツー、ワン、ツー、スリー、フォ-!」

 ジュンの軽快なドラムにヒロのギターがすぐ絡んだ。

「♪例えば 泣き虫な事や 誰よりも 負けず嫌いで チーズが好きだとか ニンジンが苦手な事とか♪」

 歌いながらカオリのジョッキが揺れて、サイダー酎ハイがこぼれそうになる。すかさず口をつけて嬉しそうに飲む。

「♪ご飯を食べてる時の あなたの顔を見るのが とても幸せな事 まだまだ伝え切れなくて♪」

 リョウが東大と智子にウインクをして笑いかける。

 バンドの音に引かれて他のバイトも集まって来た。皆カオリの刺激的な格好に目が吸い込まれる。

「♪見つめていたい 溢れる笑顔 今この自分がなにより大好きで♪」

 手拍子が起き始めた。

 カオリが手のひらを上して東大と智子に向けた。

「♪こんなに 全て キレイに見えるのに 早く誰よりも あなたの一番になりたい♪」

 エンディングでバンドから掛け声が起きる。

「yee!」

 東大と智子はプールに足を浸らせながら恥ずかしそうに目を伏せた。

 2人は同じ事を思っていた。

「月並みだけど、このまま時が止まってしまえばいいのに」


 翌8月2日朝、智子が珍しくバイトに遅れて来た。

 心配してたリョウが、ボウルを傍らに置いて話しかけた。

「どうしたんだよ、開園前だからまだいいけど。昨日飲みすぎたのか?」

 下を向いて困っている智子を見て東大とカオリも集まって来た。

「ごめんなさい。私、別に飲みすぎた訳じゃなくて」

 カオリが理解したように頷いた。

「リョウさん、あまり聞くもんじゃないわよ。女性の身体にはいろいろあんだから。だから理科系はデリカシーが無いって言われるのよ。智子、言わなくてもいいよ」

 側でやり取りを聞いていた東大は不満そうにつぶやいた。

「僕も理科系だけど」

「お前は医科系。ラジオ直せねぇーだろ。ザマみろ」

 リョウは劣等感丸出しだ。

 カオリがすかさず絡む。

「私が言いたいのは、ラジオの構造じゃなくて。女の構造よ。そっちは得意よね、東大」

「カオリさん。ナニ、考えてんですか」

 違う話にどんどん向かっていく。

「ちょっと待って下さい。違うんです」

 3人の目が智子に向かい、静かになった。

「私、自宅でセキセイインコ飼ってるんですけど、一週間位前から元気がなくなって。今日は朝からエサも食べないし、眼を瞑ってばかりなんです。心配で、心配で、どうしたら良いか分からなくて遅れてしまったんです」

 大した事ではない、リョウは軽く頷いて東大に言った。

「簡単じゃねぇーか。東大、お前治してやれ」

 冗談じゃない。自分はまだ医者ではない、しかもこれは獣医の範疇だ。

「何、言ってんですか。僕はまだ学生で医師になった訳じゃないですよ」

「だから、人間治せって言ってる訳じゃないんだ。インコだよ、イ・ン・コ。小鳥じゃないか。人は無理でも鳥ぐらいは治せるだろ」

 カオリも加勢した。

「そうよ。あなた、智子のおかげでたこ焼き、上手くなったんじゃない。今度は、あなたが恩返しする番でしょ」

 女の論理は何時もムチャクチャだ。

 でも今回はどことなく説得力がある。

 智子も東大に頭を下げた。

「先生お願いします。どうか、うちのピー子治してやって下さい。お願いします」

 重い無言の圧力と共に、3人の目が東大に注がれる。

「分かりましたよ。やってみます」

 とうとう言ってしまった。

 話がまとまれば早い、智子はインコを連れに自宅に戻り、リョウとカオリはマサを説得し始めた。マサは、蛸やケーキのヒットによる売上げ増がよっぽど嬉しかったらしく今日と明日の2日間東大に休みをくれた。

 開園して暫くすると智子がインコの入った籠を下げて戻って来た。

 籠は東大に引き渡されると、少し揺れながら豊島園を後にして行った。

 小柄な東大の右手に下げられた籠の中でブランコに乗った黄色いインコが揺れている。

 そして一人と一羽の姿がだんだん小さくなって行った。


 豊島園から歩いて10分程のところに畑を背にして二階建ての木造アパートがある。

「豊島ハウス」と看板がかかっている。

 西陽の入る2階の角部屋が東大の下宿だ。

 東大はインコの籠を直射日光の当たらない一番風通しの良い所に置いた。そこは本来この部屋の主人が寝る所だが仕方がない。

「しょうがないや、医者は患者優先だからな」

 そう呟き、白衣に着替えるとカルテを取り出した。

 カルテは自分の切り取った古いノートに線を引いて、それらしく作った。

 医師は、初めての患者に挨拶をしなければならない。

 何よりも患者の不安を取り除くのが大切だ。

「エー、はじめまして主治医の久里浜です。お名前は?」

 籠にはプレートが下げられ、智子らしく控えめな綺麗な文字で「岬ピー子」書いてあった。

 東大は、「クスッ!」と笑うと智子の字を指でなぞり、カルテの一番上に「岬ピー子」と記入した。

「性別=メス、推定年齢=2歳、発症=7月25日位と思われる。症状=羽をふくらませ眼をつむり片足を上げて握りしめている。痛みに耐えている様子」

 カルテにどんどん記入されていく。

 でもこれから、どうすればいいのか、東大はインコに話しかけた。

「君が少しでも話せればなあ」

 インコが「ワン!」と鳴いた。

 東大は苦笑いした。

「そう言えば、智ちゃん『家で犬も飼ってる』って言ってたな。じゃあ治療法を調べるか! 『ピーちゃん』、先生は大学の図書館にご本借りに行ってくるから少し待っててね。必ず良くなるから。約束するよ。君のお母さんの為にもね」

 立ち上がり部屋の扉を開けて出て行くのを、インコの瞳が不安そうに見送っていた。

 東大がリュックと両手にいっぱいの本を抱え込んで帰って来たのは夕方近かった。

 本を降ろすと机代わりのちゃぶ台を近くに寄せ、黙々とページをめくり始めた。

『絶対に見つけられる。勉強で苦労した事はない。この分野は無敵だ』

 自信はある。

 集中すると時間を忘れる。夜明けまではあっと言う間だった。

 しかし結果は、空しく時間が過ぎただけだった。

 籠を見るとインコが止まり木に止まっていた。片足を上げている。

「ふぅ」大きなため息をつくとインコの水とエサを取り替えた。

 エサは少しも減っていない。ジッと眼を閉じているだけである。少し小さくなった様な気がする。

 胸が痛い。

 夜が明けかかった裏の畑に忍び込み小松菜の葉を一枚だけ頂いた。

 黄色いインコに緑の小松菜。少し食べてくれた。

 やや「ホッ!」としたがプレッシャーは消えない。焦りも感じる。

「よし、負けるか。まだ始まったばかりだ」

 声に出して自分を鼓舞する。

 答えが見つかるまではいつも長く感じる。知らない道を歩く様なものだ。でも同じ距離なのに帰り道は不思議に近く感じる。解決までは長く感じるだけ、知識なんてそんなもんだ。

 答えは時間が来れば決まった様にやって来る。通勤電車みたいなもんだ。いつもそうだった。

 恋人もそうかな。

『恋人かぁ』

 東大は、少し嬉しそうに呟いた。

 背中を押す様に不思議にやる気が湧いて来た。この勇気は何なのだろう。

 大きく伸びをすると部屋にある小さな洗面台の蛇口で頭を洗い、再びちゃぶ台に向かった。

 夏の朝日は、そんな努力をあざ笑うかの様に容赦なく攻め込んでくる。手ぬぐいで汗を拭き拭きページをめくる。本との格闘技だ。

 いつの間にか眠りが襲い、ちゃぶ台に突っ伏してしまった。

 気がついたのは「パラリ」夜風がページをめくる音を立てた時だ。

『いけねェー。寝てしまった。』

 手元の灯りを点け、籠のインコを振り返る。

 インコの病状は益々悪くなっている。ジッと辛そうに眼を瞑り、足も少し震えている。

 命の炎が燃え尽きようとしているの感じる。

 東大は焦った。

『どうすればいいんだ。がんばれ。生きてくれ、頼む』

 そう祈り、参考文献のページを必死にめくるが頭に入らない。

 焦る。

 インコに少し萎びた小松菜をやったが見向きもしない。

 心に敗北感だけが大きく広がっていく。

 こんな気持ちは初めてだ。

『自分にはムリだ。医師の勉強だってしてないのに、初めからムリだったんだ。あんな軽い乗りで引き受けて、とんだ恥かきだ。電話帳で動物病院を探せばいいんだ。僕には、その程度がふさわしい』

 命の重さが高い壁の様にかぶさって来た。

 昨晩から食事も喉を通らない。

 その時、風でページがめくられちゃぶ台から落ちかけている本が目についた。

 手元の灯りが半分だけページを照らしている。

 めくられたページの一行が眼に入った。

 不思議に、そこだけ日が射している様に感じる。

 病名の書かれた一行があった。

 奇跡ではない。

 そう、やっとたどり着いた努力の一行。

 病名から始まる症状と治療法を貪る様に読んだ。心が知識を求めている。乾いた砂に水が浸み込むかの様に知識が吸い込まれていく。

 知識に命への愛を感じる。

 初めての経験だ。

 いつしか治療法がイメージとなり、理解した。

 東大は思わず両手をちゃぶ台に突っ伏した。

 心に大きな感動が波の様にこみ上げてくるのを感じた。

『今、感じる。知識の喜びを感じる。知識の愛で心が震えるってこんな事だったんだ』

 東大は静かに立ち上がると両手を突き上げ、下宿の窓から夜空に向かってさけんだ。

「これだ、これだったんだ。ついに、掴み取ったぞ。智ちゃん見てくれ!」

 月を中心に満天の星が輝いていた。

 東大の声に驚き、近所の犬が一声吠えた。

 東大は片膝をつき両手で籠を抱きしめるとインコに優しく、力をこめて話しかけた。

「今、助けるぞ。助かるんだ。いいか安心しろ。絶対、治して見せる。待っててくれ」

 東大はそう言って勢い良く立ち上がると、ドアを開けるのももどかしく階段を駆け下りていった。

「カン、カン、カン、カン!」

 夜中の商店街に東大の下駄の音が響いた。

 東大は息を切らせて、店の前に立つとシャッターを必死に叩いた。

「ガン、ガン、ガン、ガン!」

 音と共に「食品雑貨 いなぎ」と書かれたシャッターが揺れる。

 そして東大の声が夜中の商店街中に響いた。

「お願いします。開けて下さい。小さな命が消えかかっているんです。お願いします。助けるのは、僕にしかできないんです。開けて下さい!」


 8月4日火曜日、開演前の遊園地。プールサイドに東大がふらつく足どりでインコの籠を下げやって来た。

 インコは、元気そうにエサや小松菜を食べている。食べるとすぐ藁で作った巣の中に入って行く。

 先ず、智子が気付くとマサと5人も集まり、東大を中心に小さな輪が出来た。

 インコは元気になったようだ。自然と笑顔が生まれる。

 リョウが「ニッ!」と東大に笑いかけた。

「インコ治ったのか、元気そうだな」

「そうです。もう心配はいらないと思います」

「そうか、大したもんだよ。お前は」

 周りからも安堵の笑いがおきる。

「ちょっと、待って下さい。ご家族の方にきちんとした報告をしなければなりません。それが医師の務めです」

 東大の凛とした言葉に回りは思わず居住まいを正した。

 何を言おうとしているのだろう。カオリがおずおずと尋ねた。

「あのぅ。報告って」

「医師は患者の病気と、治療経過をご家族の方に報告する義務があります」

 完全に医者だ。

「そ、そうよね。智子、先生の前に行きなよ」

 カオリはそう言うと一歩引き、替わりに智子の背中を押した。

 東大は、折りたたんだカルテをズボンのポケットから出すと智子を見つめた。

「岬智子さんですね。これからピー子さんの病気についてご説明します」

 智子は、前に出ると少し肩をすぼめて緊張した。

「結果からご報告します。ピー子さんもう大丈夫ですよ。安心して下さい」

 ホッとした空気が流れた。

「先生、ありがとうございます」

 嬉しい、自然に頭が下がる。

「母子共に健康です。うーん、子はこれからかな」

「母子ともにぃー!」

 予想もしない言葉に思わず全員の声が揃ってしまう。

 東大は冷静だ。

「じゃあ、ご説明しますね。ピー子さんの病気は尿毒症。簡単に言うと便秘による卵詰まりです。インコは卵管出口と肛門が一緒のため卵が肛門をふさいでしまう事があります」

「はあ」

 皆、それしか言えない。

「治療法は浣腸・脱糞処理・保温です」

 刺激的な言葉が続く。

「まず、ヤンチャなインコを安心させなければなりません。インコが身をゆだねる様に安心させる必要があります。その為、親指と人差し指で頬の下をさすってやり、その後やさしく嘴を吸ってやります」

 智子は思わず赤くなった。

『キスしてる。やだ私、インコに嫉妬しているのかしら』

 東大の話は続く。

「そうなったらインコを仰向けにして肛門を探し、小さなスポイトでオリーブオイルを浣腸してやります。これですっかり糞が出ます」

 ますます赤くなる。

『やだ、恥ずかしい。私じゃないのに』

 東大は、病状説明に一生懸命だ。

「その後、産卵を促すため親指とひとさし指でおなかをさすってやります。その後インコの身体を保温しました。これで産卵も促されました」

 モジモジしながら智子が聞いた。

「何でそうなったのでしょう先生。原因は?」

 東大は顔色ひとつ変えずに答えた。

「発情過多! 子作りの好きな、交尾の好きのインコによくある症状です」

 インコが、応える様に「ピー」と鳴いた。

 カオリはたまらず屋台へ走り、その下で口を押さえて笑いを必死にこらえた。

『H大好きインコだってェ。クゥー! 笑える。たまらん』

 東大の説明は最終に向かった。

「そして保温したら無事に出産しました。母体・卵とも健全です。おめでとうございます」

 智子は、自分が治療されている様な気持ちになり、胸がドキドキして何と言っていいか分からない。

「先生、ありがとうございました。ピー子見て安心しました。嬉しいです。でも治療費はどうすればいいのか」

 それだけ言うのが精一杯だ。

 東大はやっと微笑んだ。

「今回はいいです。オリーブオイルとスポイトは商店街にある食品雑貨屋のお店で買ったくらいだし。ちょっと夜遅かったら、起こしちゃったけど」

 そう言ってると巣から出てきたインコがブランコに乗った後、エサをついばんだ。東大と皆の目がやさしく注がれると、卵を抱く為再び巣に潜り込んだ。

 何とも言えない安堵感が漂う。

 東大は続けた。

「僕の方こそお礼を言いたいです。ペットは人に愛と喜びを与えてくれますが、同時に命に対する責任も求められます。あなたはそれを立派に果たしました。ピー子さんの命を救う為の愛情。智子さんは、ピー子さんの素晴らしいご家族です。そして、僕も本当に勉強になりました。それは医師として一番大切な事。命の尊さです。そしてそれを救う為に必要な努力と勇気です。僕はあなたを通してたこ焼きを作る努力、命を救う勇気を知りました。初めて自分の殻を破る事の大切さを知ったんです。なんとなく医学部に入ったけど、医学の意味を初めて知る事が出来ました。ありがとう気付かせてくれて」

 東大の言葉に智子も周りも感動に包まれた。

 智子が「私も秀一さんとバイトして知りました。それは謙虚な努力を積み重ねる事です。私、秀一さんの事」と言いかけた時、東大が「ふぅーっ」と倒れた。

「オイ、東大!」

「水、水!」と言う叫び声が遠くから聞こえる。


 昼過ぎ、医局でぐっすりと眠り食事を摂った東大がプールサイドに戻ってきた。

 ただの空腹と睡眠不足だ、若さが回復させる。

 戻ると、早速リョウの側でたこ焼きを作り始めた。

 強い日射しのもと、乗り物の音や音楽、プールから沸き上がる歓声、行き交う人々の笑顔、夏の遊園地は生命の喜びに満ち溢れている。

 たこ焼きも良く売れる。

 リョウがボウルで追加の生地を作っている。

「東大、さっきのお前格好良かったぞ」

 東大はすっかり慣れた手つきになり、たこ焼きをひっくり返している。

「そうですか、それよりも皆の前で倒れちゃって。格好悪いです」

「しょうがねぇよ。2日間寝ないで看病したんだから。おかげでピー子元気になって、智子すごい喜んでたぞ」

 智子はカオリと屋台の前で呼び込みをしている。

 智子のショートカットの髪。後ろ姿がとても清潔だ。

 東大は智子を眩しそうに見つめるとリョウの方を向いた。

 大きく息をつき、気合を入れる。

「リョウさん。お願いがあるんです」

 真剣な勢いに気おされる。

「なに? なんだよ」

 虚勢を張るのが精一杯だ。

「僕、自分の殻をやぶりたいんです」

「エッ! いきなり。殻ってなんだよ」

「今回、インコの治療をして分かったんです。自分の勉強なんて浅いものだって。いつも自分のやり易い様に勉強していた。その方が楽だから」

「いいじゃないか、それで東大入ったんだから」

「そうです。これまではね。でも本当の勉強はそうじゃなかった。焦りや諦めや苦しさがあって。それは自分の殻を破る産みの苦しみだったんです」

「インコも卵、産んだしな」

「インコも命がけで子供を残そうとしたんです。今までの自分と戦ったんです。自分の殻に閉じこもってはいけない。その努力をした後に達成感が来る」

「それで、お願いって何だよ」

「前にプールサイドでやったみたいにライブをやって欲しいんです。僕達2人だけの為に」

「僕たちって?」

「僕と智ちゃんです」

「ハア、それで、どうするの」

「僕はそこで智ちゃんに『好きだ』って言いたい。ダメでもいい、好きな人には素直に言いたい。結果を恐れては前に進めないんです!」

 リョウは東大を見つめると、思わずボウルをかき回す手を止めた。

 2人を包む空間に沈黙が流れ、たこ焼きの焼ける「パチ、パチ」と言う油のはねる音が聞こえるだけである。


 閉園後、夜の駐車場ではマサと5人の会話が続いていた。

 リョウが真剣にマサに頼み込んでいる。

「明後日で俺たちのバイトも終りじゃん。あいつらもそうだし。東大が智子にライブをプレゼントしたいんだって。お願いしますよ」

「そんな事で又、バンドのセット貸せって言うのか。何もバンドじゃなくて西武線で池袋まで出て、ジャズ喫茶でも行けばいいじゃないか」

「そうじゃないよ、バイトを一緒にやった二人の思い出が詰まっているこの場所だからいいんじゃないか」

 ジュンが不思議そうな顔をしている。

「リョウ、いつもクールなお前が何でそんなに入れ込むんだよ」

 カオリも同じだ。

「私も聞きたいわ。人には無関心な方なのに」

 自分の事を語るべきだ、それが大切。リョウはそう感じた。

「オレは、2人を見てて気付かされたんだよ。『チャレンジ』って言うのは、結果じゃない。自分の殻を破る『勇気』だってね。システムを変えるのがオレの仕事だろ、でもそれは恐くて出来なかった。過去の自分のやり方と、決別しなければならないからさ。失敗したらどうしようって。だから今までと同じにやっていた。そうすれば安全だから」

「それで、変わったの?」

「考えは変わった。でも仕事は上手く行くかどうか分からない。でも、帰れたらやってみようと思ってる。結果を恐れては前に進めない」

 カオリの眼に涙がうかんだ。感情に動かされると女は強い。

「マサさん。私、リョウさんに協力するわ。お願いします。バンドの機材貸して下さい。ジュンさんも黙ってないで頼んでよ」

 そう言われたら加勢するしかない。女は瞬間に生きてる。

「マサさん、頼むよ。蛸やケーキで儲けたろ。少し返してやってよ」

 ヒロとカズ引きずりこまれ、頼み込んだ。

 マサには、リョウの言っている仕事の意味は分からなかったが5人の気持ちは伝わった。

 不思議な奴らだ、今の若者とも違うし妙に分別くさいかと思うと青臭いところもある。

「俺は、いつもビジネスだ。なんか見返りあるのかよ」

 リョウが胸の前に長く畳んだ1000円札を人差し指と中指に挟んで出した。

「東大がこれで頼むってさ」

「あいつのバイト代からか」

「そうだよ、文句ないだろ」

「分かった」

 マサはそう言ってリョウの1000円札を右手で掴むと駐車場の出口へと向かって行った。

その姿を見て、ジュンがつぶやいた。

「あいつ何処行くんだ?」

 マサの後姿にリョウが叫んだ。

「マサさん。何処行くんだよ!」

 振り返らずマサが答えた。

「撤収の後、ライブやるなら駐車場しかないだろ。そこなら照明もある。この金で駐車場の警備員たぶらかしてくる」

 そう言うと後姿で手を振った。

 まるで映画「シェーン」の1シーンだ。

 カオリが叫んだ。

「カッコイー! マサさん、カムバァーック!」

 5人は見つめあい、微笑んだ。


 8月6日の木曜日、閉演後の駐車場に小さなライブ会場が設けられた。

 蛍光灯の下、ギターやドラムの金属が「キラッ! キラッ!」と光を反射している。

「キューン」というギターをチューンニングする音や「バス、バス」いうドラムの音が響いて来る。

 カオリが「テス、テス」とマイクを調整した。

 後ろを振り返り、バンドに笑いかける。それに応えるようにジュンが笑顔を見せ、スティックで前を向けと指示した。

 カオリが前を向いた瞬間。

「ワン、トゥー。ワン、トゥー、スリー、フォー」ゆっくりとカウントが入るとベースのリードでライブが始まった。

 今夜は2人の為のライブ。

 特別な夜だ。曲の中心はラブバラード。

 カオリがベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」をやさしく歌い始めた。

「♪When the night has come。 And the land is dark And the moon is only light we see♪」

 リョウのベースがバスドラムと絡みながら、始まったばかりの恋を抱きしめる様にゆっくりと進んで行く。

 サビの所でカオリが情熱を込める。 

「♪So darling darling Stand by me stand by me Oh stand by me♪」

 演奏するリョウの思いはひとつ。

『ここだよ、ここ。ここで告れ。行け、東大!』

 2人は恥ずかしそうにうつむき、何も起こらない。

『まだ、早いか。次の曲行こう』

 数曲続いた。物事はそう思い通りに進まないものだ。

 チューニングの為曲を休んだ時、油の切れたリアカーの音が聞こえて来た。

 酒と食い物を載せたオンボロのリアカーをマサが引いている。その後ろを遊園地のバイト仲間が押し、またその後を他のバイト仲間や業者がゾロゾロとついて来る。

 マサが手を振ると叫んだ。

「お前らのファイナルライブ。こいつらも聞きたいんだってよ。酒と売れ残りの食い物出すって言うから加えてくれ」

 リョウは嬉しかった。5人にはライブの目的が分かってるし、いつかいつかと見つめられては2人とも言いたい事も言えない。人数を増やして雰囲気を変えよう。 その方が話しやすい。

 東大たちの周りに仲間が集まり、酒盛りが始まった。

 ライブも一端停止。5人も加わり飲み始めた。

 夏の風が一瞬吹き抜ける。

 吹き抜ける風に乗って夜更かしのトンボが飛んだ。

 2匹が線を引くように真っ直ぐ飛び去っていく。

 それを合図にリョウがベースをとった。

 それを見たメンバーは再び位置につき演奏の準備を始めた。

 仰ぎ見ると月に照らされ千切れ雲が見える。

 5人は顔を見合わせ合図をした。

 先ず、リョウのベースが恋のときめきを伝える様に早めなリズムを刻み始める。

 それにヒロのギターが絶妙にからむ。

「♪石畳のむこう 君の家が見える まだ引き返せると 弱気な自分を隠して 早くなる足取り 君の家の前を 通り過ぎて戻る 繰り返してる♪」

 残念ながら歌詞の通りだ、2人に動きがない。

「♪流れ雲 想い届けて そしたら受け止めて 幸せにするから♪」

 短いブレークのあと、ジュンのクラッシュが入ると観客は総立ちになった。周りは盛り上がってきた。

 リョウは焦れったくて仕方がない。

『東大、何やってんだよ。今だよ今』

「♪窓からこぼれる光を見つめて 震える右手でボタンを押した♪」

 東大がやっと智子の方を向いた。

『そうそう、いいぞ、いいぞ。それでいいんだ』

「♪不思議そうな顔を 良く見られないままに 早口で伝える 鼻が詰まった♪」

『今だ 告れ。行け東大。じれってぇーな』

「♪千切れ雲 月夜色めく 辺りは気配なく 鼓動を際立て 切り出す ユックリ 景色を染めてゆく 大きな両手がアタシを包む♪」

 曲に押される様に2人は立ち上がり、向かい合うと東大が智子の両手をとった。

 何かを必死に語りかけているのが分かる。

 時々汗を拭いては繰り返している。

 リョウのベースが応援するかの様に音を刻む。

 2人はしばらく下を向いて手を握り合った。

 すると智子が頬を染めてうなずいた。

 東大がリョウの方を振り向き嬉しそうに微笑んだ。 

『やった!』

 殻を破ったんだ。結果を恐れなかった。

 リョウは思わず片足を上げベースのネックを立てた。

 ネックの先には満天の星と蒼空に浮かぶ千切れ雲があった。

 この後パトカーのサイレンが鳴り響きマサが警察にしょっ引かれた。

 近所から持ち込まれた騒音苦情を一身に受け、警察署でこっぴどく絞られたのは言うまでもない。

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