第6話 夢

「ガラ、ピシ、ガラ」軋みながら南風荘の玄関が開くとオヤジバンドたちが顔を出した。

 午後6時、これから夕食の買い出しと近所の探索だ。

 先ずは善福寺公園方面から女子大通りへ出て、西荻商店街に向かって行く。 

 町並みは2020年と異なりマンションなどはなく低い家が建ち並んでいる。郊外らしく敷地が広く、生垣で囲まれている住まいが多い。

 T字路を右に折れ商店街に入ると道は狭く、そこをバスが人を掻き分け這うように進んでいる。 

 5人は近づいて来るバスを店先に張り付いてはやり過ごし、商店街を回り始めた。

 夕焼けが美しくなってきた。西の空を鮮やかな茜色に少しずつ染め始めている。近くの踏み切りを列車が通過して行くのが見える。

 グローブを持った子供達が横を駆け抜けていった。家に帰るのか四つ角で「バイバーイ」と元気に手を振っている。

「晩御飯が待ってるぞ」そんな光景だ。

 公園を駆け抜ける子供のグローブからボールがこぼれた。

 気がついて追いかけようとする子供をカズが制し、腰を落としてボールを拾うと子供に投げ返した。

 ボールは「スゥー」っと綺麗な直線を描いてグローブに吸い込まれていった。

「ストライク!」

 買い物籠を下げたカオリが隣りで嬉しそうに右手の親指を立てている。

「カズさんは、野球少年だったの?」

「そう、三重の高校でやってたんだ。甲子園目指してね。結局行けなかったけど夢中でやってた。だから大学に入るのは一浪しちゃった」

「三重県にいたんだ」

「そう、オヤジの転勤でね」

 茜空を背景にカレーの匂いが漂って来た。

 ヒロが向かいの家を指差した。

「あそこの家は今晩カレーだぞ。夏の夕方、家から漂うカレーの匂い。月並みだけど幸せの方程式だな」

「ヒロさんカレーって、家庭の味だよね」

「そうだな。それぞれに家の味がある。カオリ、カレー頼むよ」

「いいよ。じゃあ今日は特別に私のカレー作ってあげるね」


 暫く行くと突き当たりに「古谷精肉店」と言う看板と「本日大安売り」と言う幟が見えてきた。

 店先は、買い物の主婦や子供たちでにぎわっている。

 店頭から「ジュー、ジュー、パチ、パチ」というコロッケやメンチを揚げる油のはじける音や匂いがしてくる。

 安っぽいコロッケの匂いは駅の立ち食い蕎麦、焼き鳥屋の匂いと並ぶB級グルメの王者だ。

 特に空腹には堪える。カズから白旗が上がった。

「カオリ、この油のはねるビート音たまらん。何とかしてくれ」

「回りくどい言い方しないで、『コロッケ食べたい』ってはっきり言えば。でも、本当においしそうね。気持ち分かるわ。ついでにカレーの材料も一緒に買おうか」

 買い物の気配を察したのか、ガラスケースの向こう側にいるオヤジと目が合った。

「おじさんバーモントカレーと豚の細切れ300グラム、それにコロッケも5つ下さい」とカオリが頼むと「アイヨ」と笑顔で肉屋のオヤジが応え、分銅のついた秤で豚肉を計り、竹皮でコロッケを包み始めた。

「はいお待ち。今日はカレーかい? バーモントーカレーが55円と豚肉が100グラム60円だから300グラムで180円。コロッケが1個5円で25円。だから全部で260円ね。毎度あり」

 ガラスケース越しに愛想良く渡してくれる。

 こちらも思わず「ありがとう」と応えてしまう。

 懐かしい光景だ。コンビニやスーパーの時代と違い、買い物するにもコミュニケーションがある。

 ジュンがカオリの買い物籠を覗き込んでいる。

「カオリ。高いのか、安いのか?」

「2020年換算は10倍でしょ。コロッケは50円だから安いね。カレー550円は約2倍。豚肉は高いよ。バーゲン価格でも100グラム600円。この時代、やっぱりお肉は高級品なんだ。お肉を節約する為にコロッケにして食べたの分かるわ。でも良いところは消費税がない事ね、計算はしやすい。この後は八百屋さん行こうか」

 カズがカオリの買い物籠の中を覗き込んでいる。

「いいねぇ、この匂い」

 揚げたてのコロッケは熱ければ熱いほど旨い。そして何故か夕方に店の前でパクつくのが似合う。

「揚げたてコロッケ、夕方、店の前」こんなに揃うタイミングはめったにない。

 逃してはいけない、正に旬の誘惑だ。

「本当、揚げたてですごくおいしそう。コロッケはここで食べようか。じゃあ一列に並んで、まずは年の順でジュンさんからあげるね」

 カオリは5人にコロッケを分け始めた。店の前で母鳥から餌をもらうカルガモの様に並んでいる姿を見て、側を通る主婦達が「クスッ」と笑った。

 コロッケは油を纏い、その上包みは竹皮ですべりやすい。最後にカズの番で手が滑った。

「アッ! ごめん」

 コロッケが方物線を描き、クルクルっと回りながら落ちていく。

 カズが膝をつき、すばやく手を伸ばした。

 惜しい! 地面からあと数センチのところで届かない、痛恨のエラーだ。

「キーッ!」

 自転車のブレーキ音がした。

 コロッケは見るも無残にタイアの下敷きとなり2つに割れた。

「アーッ! ゴメンなさい」

 女性の声がした。

 カズが見上げると、自転車に乗る女性が日射しを背にシルエットになっていた。

「ゴメンなさい。コロッケ轢いちゃって。私、弁償します」

 夕方の爽やかな風に長い髪がサラリと揺れた。

 立ち上がってみると、20歳くらいだろうか向日葵がプリントされたスカートに白いノースリーブが眩しい。

 すまなそうに涼やかな眼で見られるので少し照れる。

「いいよ、エラーしたのは僕だから、僕の責任さ」

 少し格好をつけてしまった。

 ヒロがコロッケを割ってカズに差し出した。

「半分やるよ。ダイエットだ」

 その言葉に、女性は周りのメンバーに気づき会釈をした。 

「ごめんなさい、皆食べているのに、貴方の分だけなくなっちゃったわ」 

 カズは、笑ってヒロからコロッケを受取り女性に見せた。

「大丈夫、少し小さくなっただけだから。気にしなくていいよ。気をつけて」

 そう言うと皆、歩き始めた。皆、軽く会釈しながら自転車の横をすれ違っていく。

 カズが時々振り返るのがヒロには気になった。

「カズ、未練がましいぞ。コロッケはあきらめろよ」

 カオリは、ヒロの鈍感にややあきれ気味だ。

「ヒロさん、違うわよ。コロッケじゃなくて、轢いた人が気になるのよ」


 日も暮れて、南風荘からカレーの匂いが漂ってきた。

 ジュンとヒロが風呂上りに、ビールを飲みながら扇風機にあたっている。

 ヒロがカオリに扇風機越しに声をかけた。

「カァァ、オォォ、リィィ、フゥゥ、ロォォ、ハァァ、イィィ、レェェ、ヨォォ」

「ヒロさん扇風機に向かって喋るのやめてよ。何言ってるかわからないわ。お風呂でしょ。私はシャワーでいいや。サッと浴びたらビール飲もうかな。先に食べてて」

 その時、木を揺らす「ガサ、ガサ」という音と庭から人の近づく気配がした。

 キッチンから漏れる光の先を見ると、スイカの網を右手にぶら下げたマサがいた。

 マサは縁側から網戸を開けてキッチンに入って来ると、持ったスイカを床に置いた。

「スイカ貰ってきた。食ってくれ。今晩はカレーか、いいな」

「マサさんも一緒に召し上がる?」

「イヤ、俺はいい。これからも気にしないでくれ。俺は一人の方がいいんだ。実は、明後日の仕事の件で来た」

 仕事の話に隣の部屋でギターを弾いていたリョウとカズも集まって来た。

 5人を見回してマサが胸を張った。

「すごいぞ、『ラスベガス』だ」

 マサの報告を聞いてヒロが笑っている。

「いきなり、海外か。すごいぞワシら、インディーズを飛び越えていきなりメジャーデビューだ。ンナ、訳ねェーよな。怪しげな匂いがする。いい期待は裏切られるけど、悪い予感は必ず当たる」

「『ラスベガス』がイヤなら『ハワイ』や『モナコ』もあるぞ」

 カオリが眉間にシワ寄せながら人差し指の爪でコップの端をはじいている。

「それって、キャバレーじゃない?」

「ビンゴ! いい勘してるね」

「あのネ、もう少し仕事選んでよ。キャバレーってスケベおやじばかり来る所でしょ」

「おやじを全てスケベと言うのは間違った偏見。含有率が高いと表現すべき」

「同じ事じゃない」

「プロは仕事を選ばないの。バンマスどうする」

「ああ、やりますよ。それからマサさん、俺たちを幼馴染同士の愛称で呼んでよ。付き合い続くんだから。俺は『ジュン』それから……」

 ジュンは全員の愛称を紹介した。

 リョウがギターを抱えながら聞いた。

「それでマサさん、持ち時間とステージの回数は?」

「ワンステージ30分で4回位」

「何時位からやるの」

「開店は6時。マネジャーの指示で適当な時間にスタート、11時位がラストステージ。仕事場へは、明後日の1時に車で向かう。今から曲目考えておけよ。最近の曲は必ず入れてくれ。それから事務所にあるアコギも使っていいからな」

 そう言い残すと、マサはヒロのビールを飲み干して帰っていった。

 カレ-ライスは大成功だった。家庭的で食べなれた食事は気持ちに安らぎを与える。 

 人間は食事を摂ると気持ちが前向きになる。

 5人は早速、選曲に取り掛かった。

 ジュンを議長に選曲会議が進んでいく。

 2020年から持ってきた。と言うか、タイムスリップと一緒にくっついてきた歌本「オールディーズ・ベストヒット」をめくりながら曲を選んでいく。

 ジュンがしみじみ本を見つめている。

「これ見て弾いたら、こっち来ちゃったんだよなぁ」

 ヒロは、ギターでコードを拾いながら軽く合わせている。

「そうだよ、それにしてもこんな事になるとは。今にしてみると持って来て良かったよ」

 正直なところ縁起でもないし、あまり見たくない気持ちもある。しかし、現実から逃れる訳にもいかない。

 現実逃避には、当座の集中が一番だ。

 リョウとカズも選曲に加わった。

「マサさん、『最近の曲を必ず入れて』って言ってたよな。カズ」

「そう、僕らにはオールディーズだけど、この時代の人には最新ベストヒットって訳でしょ。なんか変な感じ」

 ジュンがメモをし始めた。

「先ず可愛さで売るか「コニー・フランシスの『ヴァケイション』、『大人になりたい』からエディーホッジスの『恋の売り込み』、『コーヒーデイト』と繋げる。その後ペトゥラ・クラークの『恋のダウンタウン』で盛り上げるってのどうだ」

 ヒロとしては、ちょっと意外な曲も挟みたい。

「おやじにウケルか分からないけどビートルズを挟もうよ、『プリーズ・プリーズ・ミー』、『シー・ラブズ・ユー』きっとまだ知らないヤツ多いぜ」

 カオリが口を挟んだ。

「ベンチャーズはどうかしら? 『ダイアモンドヘッド』、『パイプライン』インストでテケ、テケ、テケ、テケって、きっとウケルわよ」

 ジュンが歌本に記載されている曲の年号を見て答えた。

「ベンチャーズはダメ」

「何で?」

「流行るのは、1965年。つまり来年」

「納得」

 ちょっといたずらもしてみたい。ヒロがギターの6弦を『ピン』と鳴らした。

「じゃあ、その後に客を躍らせるか。チャビー・チェッカーの『ザ・ツイスト』ディーン・トーレンスで『サーフィンUSA』、いたずらで1990年代のヴァン・ヘーレンバージョンでロイ・オ-ビソンの『プリティーウーマン』やっちゃおうぜ」

 大笑いだ。

 カズはチューニングをいじっている。

「すけべオヤジたちにはチークダンスのプレゼントといきますか。ベン・E・キングで『スタンド・バイ・ミ-』、テンプテーションズの『マイ・ガール』。最後は又、可愛くコニー・フランシズで『ボーイハント』なんてどうですか」

 曲順が決まると、ジュンが書いたセットリストを全員に見せた。

「よし、この流れなら演奏時間に合わせて何処でも使えるぜ。早速今晩から練習だ。コンビニコピーがないから譜面は手書きするしかないな。明日、文房具屋で五線紙を買ってこよう」


 翌々日の8日、水曜日。5人を乗せた車は青梅街道を新宿に向かっていた。

 青梅街道は道幅も狭く未整備で、新宿駅の西側には淀橋浄水場が大きく広がっている。「7年もすると超高層のホテルが開業し、それを皮切りにニューヨークの様な高層ビル街が出現する」なんて言ったら、気でもおかしくなったと思われるに違いない。

 新宿に近づくとJRならぬ国鉄が青梅街道を大ガードで横切り、道の両脇には猥雑な飲食店が肩を並べ戦後の匂いをまだまだ残している。

 一方駅周辺は、小田急百貨店が開業し京王百貨店も秋開業を目指し工事中で好対照をなしている。

 大ガードを抜けると都電の停留所があり、パンタグラフに電気を送る電線が蜘蛛の巣の様に道全体を覆い、車両の先頭に「11」「12」「13」と言った番号を付けた都電が慌しく行き来している。

 車も盛んに往来しているが自家用車は少なく業務用が多い、時々オーバーヒートした車が道の脇でボンネットから白い煙を吹き出しているのが目に付く。

 人の流れは地下街がないのでその分2020年より多い位だ。建物に吸い込まれ、吐き出され、追い越し、すれ違っていく姿だけが変わらない。

 まるでタイムカプセルを開けたような風景だ。

 新宿は見慣れた街だが、時代が異なるとこんなに違うのか。まるで巨大な映画のセットを見ている様だ。5人は息を呑んで新宿の街を見つめた。

 カオリが呟いた。

「見て、『ALWAYS三丁目の夕日』の世界だよ」

 田舎者が都会を見て驚いている。マサにはそう映ったに違いない。

「どうだ、東京はすごいだろ」

「すごいわ、街全体がアンティック」

 マサは何を言っているのか分からず、首を傾げながら先を急いだ。

 大ガードを抜け、西武新宿線の駅を過ぎ100メーター程で左に折れると歌舞伎町だ。繁華街にしては、やや広めの道を進むとコマ劇場に突き当たる。

 コマ劇場横には広場があり映画館やらキャバレーが囲んでいる有数の歓楽街だ。

 昼だと言うのに酔っ払いやそれを呼び込むヤクザっぽい男もいる。

 ミニバンは時々車の前に出てくる人を避けながら、広場に面した大きなビルの前に車を停めた。

 マサと5人が車から降りてビルを見上げると、2階付近に「ラスベガス」と言うネオン看板が見えた。看板のペンキが所々はげている。

 マサがビルの裏側にある入り口に回り込み、しばらくすると出てきた。

 出てくると手招きし、その合図で早速機材の搬入を始めた。アンプや楽器をミニバンから降ろし、台車に乗せて運ぶ。この当時は、まだアンプやドラムセットを据え付けている店が少ないのでほとんどが持ち込みだ。真夏に汗だくの作業となるが、従業員用の通路に入ると少し「ヒヤッ」っとするのが救いだ。エレベーターで2階に運び込み、通路を通ってキャバレーの中に入る。中は静かで、少し湿った空気と毛羽たったソファが煌びやかな夜とは別の顔を見せている。

「オイ、こっちにベーアン置け。ドラムはこの辺」

 マサの声と5人が台車を転がす「ガラ、ガラ」と言う音だけが響いている。

 カズが少し下を向いてギブソンのアンプGA40に注意を向けながら押していると、前から山盛りのコロッケをトレーに乗せた女性が近づいて来た。サンダルがチラリと見えたので少し脇に寄せたが足に軽く当たってしまった。

「アッ!」と言う声がして、トレーからコロッケがひとつ落ちて来た。

 カズが膝をついて、すばやく手を伸ばす。

 ナイスキャッチだ。

 見上げると髪の長い女性がいた。向日葵のスカートに白いノースリーブが眩しい。

 カズと目が合うと、クスッと笑った。

「この間のコロッケの人ね」

 そう言って話しかけて来た。

 カズもすぐ思い出し、意外な出会いに驚いた。

「ああ、又会ったね。コロッケ返すよ」と言って、手のひらに乗ったコロッケを戻そうとした。

「いいわよ、食べて。この間自転車で轢いちゃったし。お詫びのしるし」

 トレーには、コロッケが山盛りだ。

「コロッケたくさんあるんだね」

「コックさんがたくさん作ってくれるの。開店前の私達の食事、朝遅いからこの時間がお昼。沢山あるから1個くらい無くなっても分からないわ」

 コロッケは沢山ある程美味しそうに見える。

「じゃあ、遠慮なく」

 そう言って笑うとカズがコロッケを頬張った。

「ここで食べちゃうの」

『無邪気な人』由喜は嬉しそうに微笑んだ。

「だって、ポケットに入らないし。バンドの機材運んでるんで手もふさがってるから」

 もっと知りたくなった。

「今晩から来るバンドって貴方たちなの?」

「そうだよ、僕はカズ。ギタリスト、よろしく。君ここで働いているの?」

「そう、働いているの。私はホステス、鎌倉由喜。ギタリストって、ギター弾く人でしょ。素敵ね。楽しみにしてるわ」

 ヒロが、ステージから降りてきた。由喜の姿に気づいた様だ。

「やあ、この間の彼女か。偶然だね。ちょっとゴメン、時間がないんだ。カズ、セッティング早くしてリハやらないと間に合わないぞ」

 カオリもステージでマイクセットを急ぎながらこちらを見ている。

「じゃあ、又後で。準備急ぐから」

 カズがそう言うとアンプを押してステージに向かって行った。

 1時間ほどでアンプやマイクのセッティングも終わり。リハに入れる状態になった。さすがに一級品のアンプ揃いだセットされるとビジュアルも素晴らしい。この時代にSNSがあれば投稿したくなる。

 マサは時間に追われて少し焦っている。

「開店まであと1時間だ。ギターのチューニング急げよ。着替えもしておけ。貸衣装だけど結構高いんだから汚すなよ」

 衣装は、驚きだ。ジュンたちはラメの入ったブルーのスーツ、カオリは同じくラメ入りの赤いノースリーブ、ハイウエストに大きなリボンがついている。髪は当然ポニーテール。

 安っぽく、ど派手なカラーを前にさすがに躊躇う。

 カオリが鏡に向かって衣装をあてている。

「コレ場末って言うか、そのものじゃない」

 嫌がる歌手をその気にさせるのはマサの得意術だ。

「可愛いよ、20歳の君にぴったり。みんな振り向くよ。間違いない。追っかけが次から次と出てきて。あっと言う間にお茶の間のスターよ」

 満更でもなくなってきた。

「20歳かぁ。お茶の間のスターかぁ。まあいいか」

 そう言いながら右に左に角度を変えて映したり、スカートのひだを少し摘んだりしている。

『ヤレ、ヤレ』

 ほっとしてマサがカオリに訊いて来た。

「カオリ、曲の紹介が良く分からないから、もう一度教えてくれないか。ここのマネジャーに説明しなきゃならないんだ」

「曲数が多いからしょうがないか。じゃあもう一度説明するね」

 カオリはそう言うとマサにメモを渡して説明を始めた。

「ここでしょ、モータウンサウンドとはモータータウンつまり自動車の町デトロイトで流行っているサウンドで……」

 カオリが熱心に教えている。

 マサも必死に覚えようとしている。

「よし、分かった。線、引こう。エーと赤鉛筆はと」

 カオリが消えるラインマーカーを出してマサのメモに引いてあげた。

「ほら、ポイントはここ。分かるかなぁ?」

 マサはキョトンとしている。

「何だそれ? その細いマジックみたいのすごいな。便利だなぁ。初めて見た」

 カオリは『しまった』と言う顔になった。1964年にあるはずもない。

 ジュンも側で見て、額に手をやり天を仰いでいる。

 カオリが言い訳を思いついた。

「アーッ! これ、これね。お父さん貿易の仕事してるんで、外国人からプレゼントで貰ってきたの」

 そう言うと慌ててポケットにしまった。

 見られては、危ない。ペンの横には「こすると消える蛍光ペン」と言う品名と使用上の注意と製造元が日本語でしっかりと書かれてある。ジュンが話題を変えようとマサに言った。

「マサさん。チューニング終わりましたよ」

 さすがにマサも驚いた。

「ナニーッ! もう出来たの。信じられない」

 それもその筈だ。ギターのチューニングは時間がかかる。

 一般的に良くやるのは、上から2番目の弦をA(ラ)の音に合わせてから1本ずつチューニングしていく。しかし人間の耳で合わせるのでギター同士には微妙な違いが生じる。それをもう一度音を出し合いチューンニングするので結構時間がかかる。

 しかしヒロ達は2020年からデジタルチューナーを持って来ていた。これはクリップをネックにつけるとデジタルに周波数を感知してチューニングをするので正確でしかも早い。

 マサは半信半疑だ。実際の音を聴いてみないと何とも言えない。

「ちょっと、音出してみろ」

 ブルースコードで軽く12小節合わせると、マサは目を丸くした。

「お前ら、すごいな。絶対音感あるのか」

 これは、とんでもない宝の山に出会ったかも知れない。

 思わず頬が緩む。

 リハから、1時間程で開店となった。

 ドアが開いて、ホステスがズラリと並んで客を出迎える姿は圧巻だ。

 音楽が流れ、ボーイがテーブルを回り飲み物や料理を運ぶ。

 天井では、ミラーボールが輝きホステスの嬌声や客の笑い声の間でグラスを重ねる音がする。その合間では、景気良くビールの栓を開ける音が聞こえ、アイスクリームの上では花火が弾ける。

 夏のボーナスは出たばかり、しかもこの頃は銀行振り込みではなく現金支給なので入りは上々だ。

 出番が近づいて来た。

 カオリがビビッている。

「ジュンさん。ダメ、自信ない。帰りたい」

「何処に帰るんだよ。2020年か? 今の俺たちには帰る所なんかないんだ。みんな集まれ。カオリに元気づけてやれ」

 全員集合して輪になり、手を重ねて「ヨーシ」と気合を入れる。

 司会の紹介を合図にステージに登場した。

 見るからに若造が出てきたので客席からは、軽い失望の気分が漂って来た。

「皆さん、こんばんは私達TWO HUNDREDです。今日は『ラスベガス』へようこそいらっしゃいました。一生懸命、歌いますので楽しんで下さい。最初の曲は、オールディーズじゃなかった。最近の曲からコニー・フランシスの『ヴァケイション』、『大人になりたい』をお届けします」

 自信なさそうにカオリが振り向いた。

 ジュンがスティックで前を向けと合図すると、隣でヒロが1980年代アイドルの大根切りのジャスチャ-をした。

 ジュンのスティックがカウントを取る。

「ワン、トゥー。ワン、トゥー、スリー、フォー」

「♪V・A・C・A・T・I・O・N 楽しいな ギラギラと輝く 太陽背にうけて 青い海泳ぎましょ 待ち遠しいのは 夏休み♪」

 いきなり歌から入り、バックが音を重ねる。ボリュームは充分だ。バランスもいい。

 乗りやすい曲なのでホステス達も、拍手で懸命に盛り上げてくれる。ホステスが喜んでくれるので一体感が生まれ客も引っぱられる。

 2曲目の「大人になりたい」に入った。

「♪夜遅くに帰ると ママからお目玉 いつも10時に寝るの それが決まりよ Too Many Rules Too Many Rules 早く大人になりたい お星様にそう祈るの だけど Too Many Ruies♪」

 可愛らしい歌詞と甘いメロディーが中年男にはたまらない。

 カオリも緊張がとれてきて、ヒロが指示した1980年代に流行ったアイドルの振り付け、「大根切りポーズ」を披露した。

 可愛らしいパフォーマンスに声が飛び、バカウケだ。

 ダンスナンバーからは、ホステス達が客をホールに引っ張り出して踊り始めた。

 チークタイムも終わり、第一回目のステージは大成功。

 ステージを降りて客席の間を縫って楽屋へと退場して行く。

 その間にチップとして金を包んだお捻りが手渡される。

 客の手がカオリのヒップに伸びた。

 その手がスカートをめくる、思わず叫んだ。

「キャッ!」

 すかさず、由喜が間に入って来た。

「やめてちょーだぃ。ダメよぉ。この人は、ホステスじゃないから触っちゃダメなの」

 そう言うと、酔った客の手を自分の腰に回すと『早く行け』と目で合図した。

 カオリは、感謝の気持ちを込めて由喜に軽く会釈すると、楽屋に通じるドアに向かって逃げる様に走り去った。

 ドアを後ろ手で閉めて呼吸を整えているとマサが近寄って来た。

「カオリちゃん、ご苦労様。もらったチップはこっちね。全部集めて再・配・分」

 鵜飼いの鵜の様な気分だ。切っても切れないヒモにたかられている様で、気が荒んで来る。

 カオリは少しムッとした表情でマサに金を「ポン」と渡すと楽屋に消えて行った。

 その後のステージも同じ様に、ホステス達が先頭に盛り上げてくれた。

 バンドをやっていてこれ程嬉しい事はない。5人も、声援にパフォーマンスで応えた。

 最終ステージが終了すると30分ほどで蛍の光が流れてくる。

 開店の時とは異なり、席毎に会計を済ませた酔客がホステスの肩に手を回しながらドアに向かい、名残惜しそうに他愛のない話で盛り上がった後、順次見送られて帰って行く。

 5人もギターやスネアドラムを楽屋にしまえば終了だ。

 時間は12時を回ってきた。

 さすがに腹が減ってきた。

 着替えを済ませたカオリが楽屋でへたり込んでいる。

「お腹空いたわ。残り物のサンド出してくれたけどもたない。焼肉食いたいわ。ジュンさんどうする」

「この時代、焼肉屋あるかなぁ。第一そんな金ない。そのうちマサさんが迎えに来るよ」

 言うも間もなく、楽屋のドアが開いてマサがやって来た。

「お待たせ。今日は良かったぞ。メシ食いに行こう。早く車乗れ」

 望むところだ。「ワッ!」と言って車に乗り込んだ。

 車が着いたのは、新宿区役所裏にある寂れた飲み屋だった。車は店の前に路上駐車だ。構うものか、第一肝心な車が殆ど走っていない。

「江ノ島」と書かれた看板の下で引き戸が開けっ放しになっている。

 縄のれんを分けて入ると、店内から「マサちゃん、いらっしゃい」と言う声がした。

 カウンターと小さなテーブルがあり扇風機が2台回っている。2階もあるが使っている様子はない。

 青線の名残だ。

 1958年、売春防止法が全面実施され売春主体の赤線と言われる風俗店は禁止となった。それに代わって出てきたのが青線だ。青線は一見料理屋を装いカムフラージュし、別の部屋で非合法に売春を提供する。しかしオリンピックが近づくと共に、規制が厳しくなりメイン会場に近いこの地域では営業出来なくなっていた。江ノ島の使われていない2階はその名残だ。

 マサは、手馴れた様子でビールを冷蔵庫から出すと女将に5人を紹介した。

 良いスタートが切れたので気持ちが弾んでいる。

「皆、ここのは旨いぞ。何でも出来るから好きな物食え。ただし割り勘な」

 そう言うと早速ビールを並べ始めた。

 カオリがマサにビールを注ぎながら尋ねた。

「そりゃ、割り勘でいいけどさ。マサさんお酒飲んじゃって、帰りの運転どうするのよ」

「運転? 車だってアルコール飲んでんじゃねぇーか。そりゃ片手落ちだ。帰れなきゃ『ラスベガス』に泊まるさ」

 冗談じゃない、風呂だって入りたい。

 酒を飲めないリョウは麦茶を飲んでいる。

「オレ。酒飲めないから運転するよ。皆安心して飲めよ」

 本人には、申し訳ないがこういう時の下戸は本当に助かる。

「そうかい。リョウすまねぇーな。じゃ遠慮なくいくか。最初のビールは俺がおごるわ」

 バンドの出来は良かった。ホッとした気分の中でグラスを重ね始めた。

 それぞれが勝手に頼むので、カツ丼、焼きそば、塩鮭、焼きおにぎり、チキンライス、肉野菜炒め、お新香と言う、全く一貫性のないメニューが並んでしまう。それを、適当に分け合って食べている。今日の出来は良かったが、全て自分達の力で成し遂げた訳ではない。「ラスベガス」のホステス達が応援してくれたからだ。その事が5人の心に引っかかっていた。

 しばらく飲み、酔いが回ってくると外で若い女性達の声がした。一人が縄のれんを分けて中を覗いている。焼酎を飲んでいるマサを見つけた。

「マサさん、みぃーつけた。今日良かったわよ。車が前にあるからすぐ分かったわ。一緒に飲んでもいいでしょ。ネェー、マサさん」

「なんだ『みぃーつけた』って、俺はタヌキやキツネじゃねぇーんだ。ミサ達か、いいよ但し割り勘だからな」

 縄のれんの向こうから声がした。

「あたしで悪かったわね。お金がないのは、分かってるわよ。皆、行くわよ」

 笑い声がすると縄のれんを分け、数人の女性が入って来た。「ラスベガス」のホステス達だ。由喜もいる。

 勝手に冷蔵庫からビールを出したり、カウンター越しに手を伸ばして薩摩揚げをつまみ食いしたりしている。女将は「コラッ」と言いながら笑っているのを見ると常連なのだろう。

 5人は席をつめたり移動したりしてゆずりあった。カオリはテーブルに移動し、由喜と一緒に座った。

 カオリから声をかけた。

「由喜さん、今日はありがとう。盛り上げてくれた上にお客様の手からも救ってくれて。お礼も言わずに帰ってしまって。ごめんなさい」

「いいのよ。今日のバンドすごく良かったわ。キャバレーに来るバンドって年寄りばかりでしょ。歌も演歌ばっかりで厭きてたから、自然に身体が動いちゃって。気持ちは皆同じだわ。お客様はごめんなさい、気にしないで。お酒が入るとああなっちゃうの、皆いい人なんだけど。明日も側にいてあげるから」

「由喜さん、逞しいのね。うらやましい」

「そんな事ないわ。運命だから。私こそ、うらやましいわ。こうして仲間同士でいて食事も分け合って。家族みたい、うらやましいわ。皆、自由に話をするし。学生さんなんでしょ、頭もいいのね」

「そんな」と言いかけた時、リーダー格のミサがカズに声をかけた。

「あんた、ギター弾いてたろ。ちょっとやってよ。いいでしょ」

 いい加減酔っ払ったマサが間に入って来た。

「俺たちゃプロだ。タダじゃやらないんだ」

 焼酎のグラスを持って時々頭がカウンターにつきそうになっている。

「分かってるわよ、酔っ払い」

 そう言うと、100円玉が二枚「スゥーッ」とカウンターをすべってマサのグラスにぶつかった。

 コインがグラスの当たった音で頭を上げた。

 グラスに口をつけては頭を上げ下げする。

 昔、玉様のアイデアと言うショップで売っていたお辞儀鳥の様だ。

「よし、カズ何かやってやれ。女将、スマン。この間、借金のかたに置いていったアコギ借してくれ」

 女将は、『やれ、やれ』と言った顔で2階に上がりギターケースを降ろして来た。

 ケースを開けるとマーチンD28が出てきた。プレスリーやマッカートニーが使ったマーチンの代表的モデルだ。状態も悪くない。軽くギターを拭きながらカズが電話に手を伸ばした。

「女将さん、すいません電話借ります」

「どこかに架けるの?」

「いえ、音もらいます」

 そう言うと受話器を耳にチューニングを始めた。

 受話器から聞こえる音は、A(ラ)の音で5弦の音と同じである。その音を基本にチューニングをする。そんなカズの姿を由喜が不思議そうな顔で見つめていた。

 カズがギターを抱え直した。

「今日は、応援してくれて、ありがとうございます。お礼の気持ちを込めて歌います」

 他のメンバーも頷いて、ホステス達と軽く乾杯の仕草をした。

 カズがテーブルに座っているカオリに振り向いて「夜空のムコウ」と指示した。

 マーチンD28は、アルペジオで弾くにはもってこいのモデルだ。

 一つひとつの音が明瞭に表現される。優しく、切れのいい旋律が江ノ島に流れた。カズとカオリが流れのままに歌い始めた。

「♪あれから僕達は 何かを信じいてこれたかな 夜空のムコウには 明日がもう待っている……。あれから僕達は なにかを信じて来れたかな夜空のむこうには もう明日が待っている♪」

 歌が終わった。心細い不安の向こうにかすかな希望の匂いがする。

 「グゥー」マサの鼾が聞こえた。

 微笑みながら、由喜がつぶやいた。

「いい歌ね、初めて聴いたわ。カズさん、もう少しお願いしてもいい?」

「オーナー寝たから、タダでいいよ」

 ジュンにヒロ、リョウもギターを弾き、その後も歌は続いた。そして日にちの変わった未明、5人と酔いつぶれたマサを乗せたミニバンは善福寺の南風荘に帰って行った。


 さらに3日程が経ち、バイトにも慣れた12日の日曜日、合宿所の電話が突然鳴った。

 電話を架けて来る相手なんているはずないのに。首を傾げながらカズが受話器を取ると由喜の声がした。

「カズさん? よかった、繋がって」

 受話器ごしにほっとしているのが分かる。

「どうしたの。今日は日曜日だから仕事休みでしょ。電話番号良く分かったね」

「カオリさんに聞いていたから」

 女同士は、仲良くなるのが早い。

「カオリに変わろうか」

 由喜は咄嗟に考えた。

『カオリでもいいが、今回は同情ではなく助けが欲しい。回りの説得も必要だ、カズの方が具体的な答えが得やすいし、行動してくれそうだ』水商売で身についた勘がそうさせた。

「カズさんがいいと思う。ちょっと聞いてくれる?」

 キャバレーは、歌やバンドだけでなく踊りやマジックもはさむトータルエンターテイメントだ。赤坂にある「コルドンブルー」は特に有名だ。レベルは違えど歌舞伎町「ラスベガス」も同じ様にプログラムを組んでいる。

 カズ達の前や後でフラメンコを踊っている夫婦がいた。旦那がギターを弾き、女房が踊っている。大ウケするものではなかったが、海外旅行が気楽に出来る時代ではないので異国情緒があり、まずまずの評判だった。難点はフラメンコ文化がないので15分程度で飽きられてしまう事だ。その旦那が急病で明日は出られないという。演奏がなければ踊れない。芸人はステージに穴を空けたらおしまいだ。替わりはいくらでもいる。ホステス達も心配していて、『明日が契約の最終ステージなので何とか協力して欲しい』と言う話だった。

 由喜は「お願い。これから、そっちに行くから」と、言うと一方的に電話を切ってしまった。相手に有無を言わせない捨て身の作戦だ。

 1時間もするとやって来た。

 ミーティングルームに全員集まると由喜が心細そうに頭を下げた。

「ごめんなさい。勝手にお願いして」

 マサが仕方なさそうに由喜に話し始めた。面倒くささが言葉の端はしに表れている。

「由喜さん。カズから話は聞いたよ。こいつらも協力したいって言ってる。だけどなこれはビジネスなんだ。俺のプロダクションに所属しているバンドを貸せ、と言ってる訳だ。だから……」

「お金ですね。フラメンコの大磯さんは、自分達が受け取る日割りギャラの倍を払うと言ってます」

「でっ、幾らだい」

「6000円です」

「1日3000円! そんなに貰ってるの。2人でこっちの5人分かぁ。やりましょう。やらせて下さい。お願いします。お前らうまく相談しろ」

 そういい残すと離れに消えてしまった。

 勝手に消えて行かれ、何とも言えない空気になってしまった。とにかく間が持たない。沈黙は可愛そうだ。ジュンが優しく声をかけた。

「心配しなくてもいいよ。皆さんには応援してもらって感謝してるし、お役に立つなら嬉しいよ。ところで曲はどうする? ヒロ何か考えあるか」

「今から新しいのはムリだし。ワシらフラメンコは、やった事がないしねぇ」

 リョウが、手持ちの譜面をめくって考えている。

「オリジナルの中からやるか。揺想(おもい)あれなら雰囲気出せるだろ。カズは?」

「歌のパワーが欲しいですね。ボーカルがカオリ一本だとフラメンコの踊りとリズムに負けてしまう」

「残念だけどそうだわ。もう一人、一緒に歌ってくれるボーカルが欲しいわ」

 今からボーカルを捜すのは難しい。

 全員「フゥー」とため息をついた。

 由喜が回りを見回してから、恐る恐る手を挙げた。

「私じゃダメ、か・し・ら」


 翌、13日の月曜日。5人と由喜は、ダンサーと共にステージに立った。ダンサーの赤、カオリのブルー、由喜のイエローのドレスが鮮やかだ。ジュンたちは、ボーイの黒い制服を借りた。客席のホステス達は、仲間がステージに立ったので期待を込めて見つめている。

 カオリ達が腰に手をあて、顎を上に向けたポーズを決めるとジュンのパーカッションが始まった。ヒロとカズのアコースティックギターとリョウのベースが追いかける。ラテンの力強く、切なくなるようなメロディーが啼く。

 軽いハミングの後、強烈に女性デュオの力強い歌声になる。フラメンコダンサーが打つ手拍子と足のリズムが響く。歌とダンスが繰り広げる絶妙のパフォーマンスだ。

「♪燃え盛る 想い 月の夜に唄う 届かぬ指先 見つめては Oh 君想う♪」

 双子の様に声が共鳴する。そして手を上で交差させたり、腰から下に這わせたり、セクシーに歌う。

「♪沈みかけていた 夕日が惑う 昇り行く月の背 目にして Ah 息止まるほど 揺らぎ増す波 一時だけでいい 一緒に居させて 儚いほど美しいのならば 今燃え尽きていい 交すことの 出来ない想い この風に叫ぶ Woo♪」

 眼をしっかりと開き、強く前を見つめる。二人の歌声とダンサーの迫力が一体となって客席に向かって行く。客席からは嬌声が消え去り、静まり返った。

「♪唄い続ける声にならぬ声 どうか私を見て 祈る願い 今放つ♪」

 狂おしいほどに燃えさかる恋の情熱が矢の様に突き抜ける。

 間奏になった、カズとヒロのギターが闘いの様に激しく絡み合う。アルペジオとストロークが交差する。そのメロディーに合わせて3人が踊る。赤とブルー、イエローの花びらが足でリズムを刻みながら激しくステージを回り花開いていく。カオリの息が上がってきた、少し躓いた。仕方がない、本当は3人の中で一番年上だ。

最終コーラスに入った。

「♪月灯りに想い揺れる夜 重なる時は今 望むのは 永遠の夢じゃなく 束の間くれる夢、帰れない、寄せては返す 波 また激しく 胸荒らす♪」

すかさずギターのアルペジオとストロークが入る。

「Yee!」

 恋で胸を焦がす様な由喜の叫び声で歌が終わった。 

 キャバレーのホール全体が感動で静まり返った。

 天井のミラーボールがキラキラと周りを照らし続け、それだけが時間が止まったのではない事を証明している。

 すると、ひとりの紳士が立ち上がり「パン、パン、パン、パン」と力強く拍手を始めた。すると次々と客が立ち上がり、その拍手はうねりとなった。マネジャーとマサも顔を紅潮させ、我を忘れて握手と拍手を繰り返している。涙ぐむホステスすらいる。 

 歌舞伎町の安キャバレーでこんな素晴らしく感動的なショ-が生まれるなんて。

 1964年7月13日、月曜日。雲ひとつなく晴れ渡った真夏の夜の出来事だった。


 7月21日火曜日、バイトの最終日がやってきた。

 仕事が終われば、お決まりの江ノ島。

 すっかり打ち解けた5人にマサとホステス達がバイトの打ち上げをしている。

 中から大きな声が聞こえて来た。

 カオリとマサがカウンターで焼酎のグラスを片手に酔っ払っている。

「折角、下着替えてきたのにぃー。今日はないのよぉ!」

「カオリちゃん、今日何色か教えて。赤かなぁー」

「聞くな、バカッ! 女は何がおきてもいい様に準備だけはしてるのよ」

 隣では、ヒロがギターを抱いてジュンにビールを注いでいる。その横で飲めないリョウは麦茶をジョッキであおっている。

 干物を焼く煙が満ち、いい匂いがする。

「カオリが言ってるの、客のスカートめくりだろ。ヒロ」

「そうだよ、『キャッ』とか言ってた癖に慣れるの早いよ。結局は、期待してるんだもん」

 リョウが麦茶を飲みながら思わず吹き出した。

「ゴホッ! ゴメン。あいつ、毎日パンツの色変えてたぞ」

「ワシも知ってる。リョウも見てたか」

「そう言う訳じゃないけど、見えちゃうから」

 カズは由喜やミサと同じテーブルにいる。

 ミサがつまみのアタリメを取り分けながらカズに尋ねた。

「カズさん、バイト今日で終わりだね。いいわね、学校戻るの?」

「イヤ、まだ続くよ。僕らはいつ帰れるのか分からないんだ。でも皆さんが応援してくれたんでいい演奏が出来ました。又、来たらよろしくお願いします。由喜さんもこの間のフラメンコ良かったよ」

 誉められて由喜は嬉しそうにカズを見た。

「変なの、いつ帰れるか分からないの? 歌は人前で歌うの初めてで、すごくドキドキしたわ」

「でも良く仕上げたよ。声量もあるし、歌手になれるんじゃない」

「歌手かぁ。本当になれたら嬉しいんだけど」

「由喜さん、少し聞いていい?」

 由喜は、ドキドキした。

「何?」

「初めて出会った時、なぜ西荻窪の商店街にいたの?」

 少し困った顔になった。

「ああ、あれね……」

 ミサが間に入って来た。

「学生さん。人には、話したくない事があるんだよ。察したら、それ以上は聞かない事、それがこの世界の決まりさ」

 ミサのいつになく強い口調にカズはたじろいだ。

 由喜は少し上を向き、壁に懸かった写真を見つめた。たくましく伸びる樹木と抜ける様な青空に雲が少しだけ浮かんだ井の頭公園の写真だ。

 由喜は暫く見つめると決心する様に話を始めた。

「カズさん、お話するわ。私、本当の事を話そうと思っていたの。助けて欲しい事があって、正直に話さないと分かってもらえないと思うし、勇気を出して言うわ。聞いてくれる?」そう言って大きくため息をついた。

 ミサは、無関心を装って、静かに焼酎のグラスを口に運んでいる。

 由喜はそっとグラスを置いた。グラスの淵に儚く口紅がついていた。

「カズさん。今度『真夏の卒業式』があるんだ。そこは1年中いつでも卒業式があるの。そんな所知らないよね。私は、そこで育ったの」

 由喜は、昭和19年2月東京都墨田区本所に生まれた。生後間もなく父親は、招集され戦地に赴いた。そして6月サイパン島で戦死した。母が父の戦死の知らせを受けた時、由喜は何も分からず母を見てニコニコ笑っていたと言う。それも大きくなってから母からではなく知り合いから聞いた話だ。何故なら母は、昭和20年3月10日の東京大空襲で亡くなってしまったからだ。東京大空襲は凄まじい惨禍だった。夜中の12時から行われた爆撃で浅草、本所をはじめとする下町の一帯は灰燼に帰し、約8万を超える方が亡くなられた。「大量殺戮」と言う言葉があるが、日本における広島・長崎の原爆投下と東京大空襲は正にその言葉通りに行われた。この3回の爆撃だけで30万人以上の命が失われた。非戦闘員を含む地区への無差別爆撃は明らかに国際法違反であるがこの爆撃は『人の命を奪う』それだけの目的で行われた。今でもその日になると慰霊碑の前で日本の政治家は『二度とこの様な過ちは繰り返しません』と誓う。冗談じゃないそれは、『アメリカの台詞だろ』と思う。

「母の最期の姿がどうだったか分からないわ。その事になると知っている人は皆下を向いて口を閉ざすから。私は母のおかげで助かり、その下で泣いていたんだって」

 巻き上げる炎の中から近所の人が奇跡的に見つけ抱き上げてくれた。空襲は去ったが人は自分の安全と食料を確保する事に必死だ。他人の子供を引き取る余裕なんてない。ましてや親戚も分からないとなればなお更だ。由喜は、戦災孤児を引き取る施設を転々とした。そして戦争が終わってしばらく経った昭和21年、西荻窪の北側、今は井の頭通りと呼ばれている水道道路の奥にある竹の子学園に引き取られたのである。竹の子学園は幼児から15歳までの施設である。そこから近くの学校に通い、中学卒業後は自活の道を選ぶ。先生も奥さんも優しく両親の様に映った。しかし、何せ子供の数が多い。愛情の取り合いだ。だから風邪をひくと嬉しかった。先生の奥さんの部屋で寝られるからだ。そんな時は思い切りしがみついた。だから風邪が治るのがいやだった。父親や母親の愛情なんてそんなものだ。物や理屈じゃない。いつでも思い切り抱きしめてあげる。それだけでいい。

 やがて、弟が出来た。昭和30年、由喜が11歳の夏、3歳の二ノ宮健太郎が入寮してきたのである。健太郎は家庭が複雑で母親と暮らせなかった。肉親のいない由喜は泣いてばかりいる健太郎を自分の弟と決め、愛情を注いだ。熱を出せば同じ布団に寝、いじめられて泣いて帰ってくれば仕返しをした。

 そして昭和33年、由喜が14歳の五月晴れの日、奇跡が起きた。親戚の叔父だと言う人が迎えに来たのである。竹の子学園で初夏の卒業式が行われ、皆に祝福されながら引き取られていった。叔父は『中学卒業後は、自分の仕事を手伝えばいい』とまで言ってくれた。『一人じゃないんだ』何度も自分に言い聞かせ、幸せをかみ締めた。子供のいないせいか、叔父は親切だったが妻は何故かいつも不機嫌そうだった。『仕方がない、全てうまくはいかない。我慢しなければならない事は沢山あった。今に始まった事ではない』自分にそう言い聞かせた。

 ある日我慢どころではない事件がおきた。叔父の仕事を手伝い始めた6月、少し蒸す雨の日。休日、妻が外出中に叔父が突然襲いかかってきたのである。部屋に追い詰められ、衣服を少しずつはぎ取られた。押し倒され、叔父の手が身体を這っていく。窓をたたく、雨の音だけが聞こえた。『早く終わって欲しい』そう思った瞬間、部屋の襖が開いた。物凄い形相の妻がいた。

「この、ど助平猫!」

 そう言われ。荷物を纏める間もなく家をたたき出された。街を彷徨い、心に雨の冷たさが染みた。竹の子学園に戻りたいけど、幸せを祝って喜んでくれた先生や仲間達に何て言えばいいのか途方にくれた。

『こんな事言えない、どうしよう』

 思い悩み気がつくと、雨でネオンが滲む新宿の街にいた。

「あたしが声かけたんだよ。雨の中で今にも電車に飛び込みそうでさ。あたしも、切羽詰った事がいっぱいあったからねぇ。分かるんだよ」

 ミサは、そう言って由喜の肩を優しく抱いた。

 由喜は、ミサに守られてキャバレーラスベガスの寮に入り住み込みで働き始めたのである。最初は裏方の手伝いだったが、すぐ年齢をごまかしてホステスとなった。

 こうして、由喜は社会人としてのスタートを切った。

「竹の子学園には、1年位してから顔を出したわ。『両親と離れて、今は住み込みで芸能関係の仕事をしてる。もうすぐ歌手にもなれるんだ』ってウソまでついて。そんな事知らず、先生も健太郎も喜んでくれた。それからは何度も顔を出したわ。その内に、ウソが後に引けなくなってきて、カズさんに会ったのは竹の子学園で自転車借りて皆にコロッケのプレゼントを買に行く途中だったの。その日に聞いたんだ。健太郎が母親と暮らせるようになったって。でも健太郎見たら不安そうで、あいつ来年は中学なのに。そうしたら、つい『お姉ちゃん努力したら、歌手になれたんだ。だから健太郎も頑張りな』って言ってしまったの。明後日は健太郎の卒業式なんだ。だけど! あの子私の事信じて、歌手になったって思い込んで!」

 涙で声が繋げなくなった。ミサが背中をさすっている。ジュンとヒロ、リョウとカオリ、そしてマサにも話が聞こえ、いつしか5人はグラスを握ったまま固まってしまった。

「ウソがいいとは思わない。でもお願いがあるの。明後日、竹の子学園で真夏の卒業式があるの。そこで私のバンドをして欲しいの! 健太郎は私が自慢なんだ。私が歌手だって信じている。バンドで歌を歌って『お姉ちゃん、歌手になったんだよ。だから健太郎も頑張ってね』って言ってあげたいの。あの子の夢だけは、壊したくない。バカなお願いだとは分かってるわ。ウソの手伝いをさせるなんて」

 誰も言葉を継げない。

 重い雰囲気を察して、女将がお茶を一人ひとりの前にそっと置いた。

 優しいほうじ茶の香りがした。

 カズがそっとお茶を含んだ。

「女将さんありがとう。空気読んでくれて」

「えっ。空気?」

「ゴメン、話しやすくなりました」

 お茶は優しく暖かい味がした。

 カズは迷いを口にした。

「由喜さん、話してくれてありがとう。苦しかったろう。手伝いたいと思うよ。でも僕には良い事なのか分からないんだ」

 リョウがカウンターに向いた椅子を回して振り返った。

「気持ちは分かるよ。でもそうしたスタートが健太郎君の為になるのか? オレは疑問だ」

 カオリも同調した。

「私も一緒だわ。正直な事を話すべきよ。ヒロさんはどう思う」

 ヒロは、手の甲でお茶を脇に寄せると焼酎のグラスをあおった。

「リョウ、カオリ。お前らの言葉は正しそうだけど、上っ面にしか聞こえないよ。ワシらそんなに立派に生きて来たか。自分の事考えてみろ」

 他人の事で何故こんなに熱くなるのか。もしかして気がつかないうちにこれまでの人生と向き合っているのかも知れない。

 ジュンには分かっていた。

『皆、由喜を助けたいんだ。だけど自分に立場を置き換えている。でも大切なことは、自分と由喜とは生きてきた軌跡も考え方も違うということだ。自分の見方にこだわってはいけない』

 自分達らしい結論を出した方がいい。

「皆、White Lieって知ってるか、直訳すれば『白い嘘』ウソの中にはいいウソもあるんだ。あまり良い例じゃないけど重病の人に『心配ない』って言うようなものさ。でもそれで元気が出て本当に回復する事だってある。皆の本当の気持ちは、由喜さんを助けたいんだろ。自分達に素直になろう」

 カズが、その言葉を聞き思いつめたように続けた。

「マサさん明後日、俺達に機材貸してくれませんか」

 そうしたかったんだ。自分の気持ちを開いてくれた事が嬉しかった。

 由喜も必死に頼み込んだ。

「マサさんお願いします。私、必ずお支払いします」

 マサは、由喜が見たのと同じ写真を見つめていた。

『東京大空襲か。月光も雷電も役に立たなかったんだ。あの頃俺は、鹿屋で……』

 ミサがマサの肩を叩いた。

「マサさん。ちょっと聞いてるの。バンドの機材貸してって頼んでるのよ。アンタ次第なんだから。なんだっけその『ハワイのライオン』とか言うの」

「White Lieだろ。知ってるよ。おれはビジネスになるならOKだ」

「まだ金儲けかよ、このケチ」

「相場は、車も入れて1000円だ。機材や楽器は好きなものを使え、俺が車を運転して運んでやる。傷つけられるのイヤだからな。それからパーティーにはお菓子がつきもんだ。アメリカ軍の基地に友達がいるんだ、1000円でダンボール一杯になる位買ってきてやる」

 マサはぶっきら棒にそう言うと、また写真を見つめグラスに残った焼酎をあおった。

 ミサはその側で嬉し涙を拭いている。

「マサさん、いいとこあるじゃないか。アンタ格好よすぎるよ! 見直したよ」

 カオリも思わず拍手し、両手をメガフォンにすると叫んだ。

「私も言ってあげる。マサさん格好いい!」


 23日の木曜日、ワーゲンのミニバンは西荻窪の北側にある竹の子学園に向かっていた。

 水道道路から奥に入って行くと道はまだ未舗装で轍があり、車は右に左に揺れる。途中両脇に小さな雑木林があり、アーチの様な樹木の間から蝉時雨と共にまだ柔らかい午前の日差しが降り注いでいる。そこを抜けると竹の子学園の入り口が見えて来た。

 昔からある武蔵野の家らしく、敷地が広く生垣に囲まれた2階屋である。

 入り口から車を園庭に乗り入れると子供達が寄ってきた。

 水色と白のツートーンカラーのミニバンが珍しいらしくボディーに触れたり、中を覗き込んだり、楽器に触れようとしている。マサは近づく子供達を手で追い散らしている。やがて子供達の後ろから60歳くらいの夫婦が来て出迎えてくれた。

「お待ちしてました、園長の藤沢です。子供達も皆さんが来て下さるのを楽しみにしていました。今日は、お忙しい所をわざわざ有難うございます」

 そう言うと、穏やかな笑顔でマサに一礼した。その姿がとても自然で愛情溢れる人柄に自然と心が和む。

 人格に圧倒されたのかマサは緊張して帽子を取り何度も頭を下げた。

 

 車からアンプや楽器を降ろし始めると、子供達が一緒に手伝ってくれた。初めて見る物ばかりなので皆目を輝かしている。

「テレビの人が来た」そう言いながら、はしゃいでいる。

 由喜の案内で建物中央にあるホールまで運び込んだ。

 ホールは30畳ほどもあり十分な広さだ。

 ドラムセット、アンプ、マイクスタンドにギター。

 見た事もない機材が次々と運び込まれる。

 運び込んだ機材のセッティングが終わると、ホールの中を風が吹き抜けカーテンを揺らした。

 由喜がエプロンをはずして汗を拭いカズを振り返った。

「カズさん、私のいた部屋見る」

 そう言うとホールの後ろにあるドアに向かった。

 ドアを開けると廊下があり、突き当たりに階段がある。出窓から明るい光が差し込む階段を登りきると2階だ。昇りきって振り返るとまっすぐに廊下が伸び、南側にはドアや襖が並んでいる。由喜はその中の小さなドアをノックして中に入った。部屋には誰もいない。小さな箪笥と折りたたみの小さなテーブルがあるだけだ。西部劇のポスターと野球選手のカレンダーが部屋の主を物語っている。

「2人で一部屋。冬は寒いから布団をかぶって勉強したんだ。だから勉強は苦手」

 軽いショックだ。バブルと共に育った自分とは明らかに違う現実がある。

「大変だったんだね」そんな事しか言えない自分が薄っぺらに思える。

「そんな事ないよ。これしか知らないから」そう言って屈託なく笑う由喜が逞しく見えた。

 由喜が窓手すりに腰掛けて夏の空を見つめていると「お姉ちゃん遊ぼう」下から男の子の声がした。

「待ってて、今行くから。健太郎、お姉ちゃんにポスターちょうだい」

「いいよ!」

 元気な声が返って来た。

「カズさん、下に行こう」

 バンドメンバーも子ども達と思い思いに遊んだ。

 愛情に飢えているのか、小さい子どもは抱っこや絵本をせがむ。

 小学生くらいの子は『達磨さんが転んだ』や『ゴム縄』、『ハンカチ落とし』だ。

 汗をいっぱいかきながら遊ぶ。皆が遊ぶ事で満たされない何かを埋めようとしているかのようだ。子どもの苦手なマサは車の中でスイカを食いながら見ている。

 カズは健太郎とキャッチボールを始めた。

 白いボールが「スゥー」っと線を描きながら行ったり来たりする。

「スパン! スパン!」リズミカルなボールの音がする。

「健太郎君良かったな。お母さんと暮らせる様になって」

「ウン、そうでもないんだ」

 会話もキャッチボールをする。

「嬉しくないのか?」

「今まで、会ってなくて急に言われても」

「これから、慣れるさ」

「親に慣れるの? 変なの。僕には、姉ちゃんが一番さ。でも、母ちゃん高校も行かせてくれるって言うし、そしたら野球部に入って甲子園に行くんだ」

「野球、ほんとに好きなんだね」

「そうだよ、高校出たらプロ野球の選手になるんだ。王や長嶋みたいにね」

 そう言うと健太郎はボールを高く投げた。

「スゥー」っと高く上がったボールは青空に吸い込まれ、太陽と重なりカズは思わずエラーをした。落ちたボールが小さな土埃を上げて転がっていく。

「お昼よ」ホールから奥さんの声がした。


 ホールのテーブルに着くと、砂糖をまぶした揚げパンにコロッケ。そしてミルク紅茶が並んでいた。

「わぁ! 最高じゃない。私これ大好き」

 由喜が目を輝かせている。子ども達の歓声もあがった。

「いただきます」の声も、もどかしく食べ始める。

 心が愛情を身体が栄養を欲しているのだ。

 バンドメンバーの分もあった。マサもいつの間にか来て一緒に食べている。

 食事をしていると外が暗くなって来た。太陽が隠れ「ゴロ、ゴロ」と言う雷鳴まで聞こえて来た。

 奥さんが優しく皆を見回している。

「今日は外で遊ぶのはもう無理ね。卒業式しようか」

 子ども達から「ワッ!」と歓声があがった。

 マサがダンボールを運んでくると、年長の子ども達がお菓子の袋を出して配り始めた。

 配り終わると、1年生位の男の子が前に出て挨拶を始めた。

「これから、健太郎君の卒業式を始めます。健太郎君おめでとう」

 開会を宣言すると、あちこちから「おめでとう」と言う声と拍手が上がった。

 最初は小さなゲームから始まった。

 バンドのメンバーも入って「しりとり」や「探偵ゲーム」子どもの頃に戻り、時間が経つのを忘れる。

 1時間ほど遊ぶといよいよバンドの出番だ。

 子ども達の目が輝き始める。

 セッティングとチューニングを確認する。

「バン! バン!」と言うドラムの響き。

「キューン!」と言うギターの唸り。

「テス、テス!」マイクを通してボーカルの声が聞こえる。

 聞いた事もない音量に、ある子は耳をふさぎ、ある子は手を握り締めてこれからの展開を見つめている。

 セッティングが終わると急に静けさが訪れた。

 窓ガラスを叩く雨の音だけが聞こえる。

 バンドのメンバーが目配りし開始を待つ合図をする。

『何時でもいけるぞ。スタンバイOK』

 強い気配を感じると由喜が前に出て来た。

 マイクのスイッチをONにして話し始める。

「健太郎おめでとう。お母さんと幸せにね。お姉ちゃん、プレゼントに歌うから聞いて」

 子ども達から拍手が上がった。

 真ん中に座る健太郎はとりわけ強く手を叩いている。

『歌手になった大好きなお姉ちゃん。皆に自慢したい』

 気持ちが伝わって来る。

 直ぐ曲に入る。

 ジュンのスティックがカウントを取る。

「ワン、トゥー。ワン、トゥー、スリー、フォー」

「♪V・A・C・A・T・I・O・N 楽しいな ギラギラと輝く 太陽背にうけて 青い海泳ぎましょ 待ち遠しいのは 夏休み♪」

 いきなり歌から入り、バックが音を重ねる。小さいホールなのでボリュームは絞り気味だがバランスはいい。

 いいスタートだ。

 しかし子ども達が今ひとつ、ついて来ない。

 2曲目の「大人になりたい」に入った。

「♪夜遅くに帰ると ママからお目玉 いつも10時に寝るの それが決まりよ Too Many Rules Too Many Rules 早く大人になりたい お星様にそう祈るの だけど Too Many Ruies♪」

 可愛らしい歌詞と甘いメロディーが特徴だが伝わらない。

 ざわついて来るのが分かる。

 由喜は焦り始めた。

 いつもと違う展開にバンドのメンバーも手が打てない。

 3曲目に入れない、由喜はすっかり自信を失い立ちすくんでしまった。

 その時、突然マサが前に出て来た。

 マサはバンドの前に立つと、ポケットからいきなりハンカチを出し手品を始めた。ハンカチが立ったり、カラフルな小さな紙が舞ったり、突然の登場にバンドも子ども達も驚いたが大ウケだ。

 小さなマジックショーが終わるとマサがジュン達に振り向いた。

「自己満足に陥るな。聴衆の心に合わせろ」

 それだけ言うと、又バンドの後ろに消えてしまった。

 ジュン、ヒロ、リョウ、カズは顔を見合せ頷いた。

「ワン、トゥー。ワン、トゥー、スリー、フォー」

 ジュンのカウントに合わせてカズのギターがソロをとった。

 空に向かって飛んでいく様な、明るく力強い未来を予感させるイントロ。


 鉄腕アトムだ。

 子ども達の注目が集まり、瞳が輝く。

 すっかり意気消沈して座り込んだ由喜に替わってカオリがマイクをとった。

「♪空をこえて、ラララ、星のかなた、行くぞアトム、ジェットのかぎり、ラララ、心やさしい、ラララ、科学の子、10万馬力だ、鉄腕アトム♪」

 カオリの歌に合わせて子ども達も歌う。

 歌が塊となってホールに満ち溢れた。

 「ポパイ・ザ・セーラーマン」「ミッキ-マウス・マーチ」次々と歌われる。

 雷雨の中、竹の子学園だけに明るい日が射している様だ。

 そして鉄腕アトムのアンコ-ルでライブは無事終了した。

 由喜の瞳が涙で一杯になった。

 やっぱりウソなんかつくんじゃなかった。健太郎の卒業式を汚してしまった。

 深い後悔が襲う。

 心の声がした。

『今に向かい、正直になるべきだ』

 それが健太郎の為だ。

 由喜は、立ち上がると藤沢先生を見つめて叫んだ。

「先生! 私ウソをついて、私歌手なんかじゃ!」

 手を握り締めた。

 ホールに由喜の声が響くと、皆は「ビクッ」として由喜を見つめた。

「由喜、いいんだ! やめなさい」

 藤沢先生は由喜をやさしく見つめ返し、暖かく力強い声をホールに響かせた。

 皆の視線が藤沢先生に注がれた。

「皆、これから先生の話を聞きなさい。今日は健太郎の卒業式だから夢についてお話しをしましょう。由喜、バンドの皆さんも座って下さい」

 由喜と5人は、小さな椅子を持ち寄り先生の前に座った。

 皆が座ったのを確認すると先生は優しく語り始めた。

「皆さん、人はね夢を心に描くから生きていけるんです。夢は人だけに許された心の栄養。そして夢と言うのは、人が心にその姿を描いた時出来上がっているんです。もう少し分かり易くお話しましょう。例えば皆は絵を描く時『トンボの絵を描こう』とか『お花の絵を描こう』って考えるよね。実はその絵は、胸に描いた時心のキャンバスに出来上がっているんです。浩平の夢は特急電車の運転手だったね」

 浩平と呼ばれた子は力強く頷いた。

「千恵は、お花屋さんだったね」

 赤いスカートをはいた小さな女の子が裾をつまみながら恥ずかしそうに頷いた。

「だから、もう浩平は特急電車の運転手。そして千恵はお花屋さんなんです。いいですか、人は自分の心に夢を描いた時もうその姿になっているんです。後は、画用紙に上手な絵が描けるように努力をするだけ。心に夢があるから絵が描けるんです。そしてもうひとつ大切な事は信じ続ける『勇気』です。それを忘れないで大切にしなさい。だから由喜は歌手なんです。由喜、素晴らしかったよ。これから一生懸命、勉強して皆に夢を与える様な立派な歌手を目指しなさい。皆、何時までも応援してる」

 由喜の瞳がみるみる涙でいっぱいになった。下唇をかんでも、心の堰を切った涙は溢れて止まらない。

『先生はきっと前から私のウソに気付いていたんだ。でも、励ましてくれていた』

 大きな愛情と言う海に包まれていた喜びに心が震えた。

 藤沢先生は、バンドの5人を見つめた。

「由喜ともう1曲歌ってもらえませんか」

 マサが近づいてきてカズにマーチンD28を渡した。

 アコースティックギターをチューニングする優しい音がホールに響いた。

 ヒロもエレキからアコースティックに替えた。

 リョウが目でカオリを促すとカオリが由喜をそっと立たせた。

 ジュンが「声」と曲名を指示した。

 アコースティックの前奏から入る。

「♪ohh、ye♪」

 カオリと由喜のデュオがハーモニーを作る。

 すかさずカズのアコースティックが入った。

「♪その声に守られていた、遠く離れて初めて知った、人は皆誰かを思い、生きている事噛みしめる、君に何ができる? コトバにしたら、何故だろ、なみだが止まらない♪」

 2人のハーモニーが力強くなった。

「♪誰か私を呼んでいる、誰か私を抱きしめる、見慣れたその微笑に、なみだ乾く♪」

 間奏のギターと2人のコーラスの絡みが先を作っていく。

「♪飛び方を夢に見る者だけ、綺麗な蝶になる、誰か私を呼んでいる、誰か私を抱きしめる、見慣れたその微笑に、なみだ乾く♪」

 心に描く夢と信じ続ける勇気を忘れない。

 そんな気持ちが湧いてきた。

 カズは、しっかりと正面を向きギターを終えた。

 終わると健太郎が由喜に走り寄り、抱きついた。

 由喜も健太郎を抱きしめた。

「姉ちゃん、すごいよ。やっぱり歌手だよ。オレも絶対野球の選手になってみせるよ。見ててね、姉ちゃん」

「きっと、きっとなれるよ。健太郎。いつまでも姉弟だよ」

 そこには、夢だけを信じて未来へ向かって行く逞しい姿があった。


 2人の勇気を前にしてカズは立ち尽くした。

 健太郎は、由喜が歌手だと信じて歌を真剣に聞いていた。『夢』は信じ続ける『勇気』なんだ。自分は夢を心に描いて生きて来たのか。いつも言い訳ばかりだ。

 譜面が涙で濡れてインクが滲む。

 自分は、何を拗ねていたんだろう。フロアマーチャンダイザ-になる夢なんかすっかり忘れて。この2人は、自分達の夢と信じ続ける勇気だけを持って未来へ向かおうとしている。2人と比べたら今までの自分は何をして来たんだ。こんな不様な自分の姿を感じたのは高校野球以来だ。

 カズの指からギターのピックがヒラヒラと落ち、カズは膝をついた。


 カズの心に夏の甲子園大会の県予選がよみがえっていた。

 三重県大会、準決勝の9回裏ツーアウト。1点リード。ランナーを2人背負ってカズはマウンドにいた。

 あと一人を打ち取れば夢に見た決勝進出だ。

 甲子園に行けるかもしれない。

 カウント、ツー・スリー。

 渾身のストレートを投げ込んだ。

「やった!」

 バッターは完全に振り遅れている。

 ピッチャーフライだ。

 ボールは高く打ち上げられ、雲ひとつない青空に吸い込まれて行く。

「打ち取った」

 勝利を確信し、両手を広げて合図した。

 その時ボールが太陽に重なった。

 一瞬、見失う。

 ボールはカズの後ろに落ち、土埃をたてて転がった。

 どこに落ちたのか分からない、心が真っ白になる。

 ボールを指差すセカンドの声に気付きボールを掴み、ホームを振り返った。

 その時2人目のランナーが滑り込もうとしているのが見えた。

「バックホ-ム!」

 懸命のボールをキャッチャーに投げ込んだ。

 ランナーは滑り込み、タッチしたキャッチャーはミットを高く上げた。

 クロスプレーだ。

 土煙の中、審判の手がスローモーションの様にゆっくりと水平に広がった。

「セーフ!」

 カズはマウンドでがっくりと膝をついた。

 歓声が遠く聞こえる。

 立ち上がれないカズの側にナインが集まって来た。

 監督が声をかけた。

「カズ、終わったんだ。帰ろう。俺達にはまだやる事が残っている」

 立ち上がれないカズの側にバンドのメンバーが集まって来た。

 マサが声をかけた。

「カズ、終わったんだ。帰ろう。俺達にはまだやる事が残っている」

 フォルクスワーゲンのミニバンは、まだ止まない雨の中を帰路についていた。

 轍に車輪をとられ右や左に傾きながら、ゆっくりと進んで行く。

 バンドの5線紙が少し滲んでいたのは、夏の雨のせいではなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る