アフロディテの自死

水ようかん

灰になったら物を言え


 誰かが言ったそうだ。世界の幸福の総量は一定である、と。

 一方の人が幸せになれば、他方の人が不幸せになる。勝者と敗者を分けるように、白黒はっきりつけるように、瞭然として幸不幸は不平等なまでの偏りで以て分配される。

 また別の人の曰く、幸福は努力の蓄積である、と。幸福を獲得する為、枚挙に能わぬ辛酸と苦汁を舐めたのだ、と。

 僕にしてみれば、それは幸福な者にしか吐けない言葉だと思う。

 不幸な者とは、努力の多寡に拘らず、成果を得られない者を指す。もしくは、どれだけ努力をしても、どうしようもないくらいに、堕ち果てた者。そう、丁度僕のように。

 五年前の四月十六日に、弟が死んだ。河川敷の高架下で、投棄された自転車みたいに、一種の滑稽さをすら内含して、死んでいた。やたらに陽射しが暖かくて、風が涼しくて、河のせせらぎが耳に心地いい日だった。弟は、鋭利な物で首を一閃されていた。誰の目にも明らかに、殺されていた。父は抱えていた精神病が悪化し、休職することになった。母は弟の部屋に頑なに誰も近寄らせず、時折弟を幻視した。

 弟を殺した人間は、発見の六日後に判明した。隣町の、弟と何ら接点のない女子学生だった。そいつは悪びれることなく、取り調べに対して「可愛かったから、つい」と答えたそうだ。

 僕の運命は変わった。暗転し、暗がりへ足を踏み入れた。

 ところで右の言説には補遺が必要だ。即ち、不幸な者は大別して二種類ある。先天的に不幸な者と、後天的に不幸になった者だ。僕は、後者だ。仄暗い泥濘でいねいに残りの生涯を捧げた者だ。



 そして現在までの雌伏の時を経て、僕はとうとう仇敵に逢着ほうちゃくした。

 釈放され自由の身となったという一報を聞き、果物ナイフを懐に仕込んだ僕はそいつに対面した。

「……僕の弟を憶えているか」

 弟が死んだ河川敷で手を合わせていたら、予想通りそいつが現れた。供えられた花は色を失って萎み、事件そのものが世間から風化してしまったようだった。

「ああ、その顔でここにいるってことは、そうなんだろうね」

 女は特に表情を変えないまま、淡々とそう返した。

 高架の上を電車が通り、静寂を掻き消すほどの振動が少し埃を降らせた。

 僕は懐に手を伸ばしつつ、その女に、仇敵に少しずつ歩み寄る。

「イエスと捉える。どうしてここに来た」

「見に来たかったから」

「どうして弟を殺した」

「可愛かったから、つい」

「可愛かったら殺すのか」

「そうだよ」

「お前の快楽のために、僕の弟は死んだのか!」

 手を伸ばせば届く距離。僕は未だ飄然ひょうぜんとパーカーのポケットに手を突っ込んでいる女に肉迫し、果物ナイフを首に突きつけた。

 そこで初めて女は表情を変え(少し目を丸くし)、やがて温度の感じさせない瞳で答えた。

「快楽とか分かんないよ。殺しちゃったから気持ちいいとかそんなんじゃなくて、殺さなきゃ気持ち悪い、殺さなきゃいけない、そういう声に従っただけ」

「声って、何だ」

 僕の質問に女は目をすがめ、鼻を鳴らした。

「あのお医者サマとおんなじこと訊くんだね。知ってるよ、 “普通” はそういうのってないんでしょ」

「…………」

 はっきりとした一線を引かれたように感じた。普通と異常、という括りは適切でないにしても、僕が多数者でこの女が少数者であると、言外に宣告されたのだ。

 ひゅるりと吹いた風が女の前髪を揺らす。

「逆に訊きたいんだけど、なんで殺したいと思わないの?」

「殺したいよ、特にお前はな」

 ナイフを握る手に力が入る。弟の仇だ。僕がこいつに話しかけた時点で、ナイフを取り出すまでもなく、こいつは僕の目的を理解していただろう。

「ふうん」

 女は関心なさげに自身の指の爪を眺めた。そしてこちらを一瞥し、

「じゃあ――」

 途端に、女の姿が視界から消えた。否、しゃがみ込んだのだ。そう気付いた次の瞬間には、僕は橋の裏側と、薄ら笑みを浮かべた女の顔を見ていた。

「――だったら、なんですぐにそうしないの?」

 女は、いつの間にか僕の手を離れていたナイフを手にして、僕の上半身に馬乗りになっていた。ナイフの峰が首筋に当てられる。

「わたしがあの子を殺しちゃったのは、可愛かったからだって、言ったよね」

 僕は身動きをとることができず、女の言葉を聞いていることしかできなかった。足を払われた時に後頭部を打ったらしく、ずきずきと痛む。ついでに舌も噛んだのか血の味がしたし、距離が縮まったことで土と草の臭いが強まった。

「わたしが、あなたも殺しちゃうかもしれないって、考えなかったの?」

 可能性としては充分に考慮していた。僕が殺そうとする以上、僕もまた殺されうるということを。死を回避し生きるということが全ての生命の使命なのだとしたら、それを全うしようとすることは何ら不自然ではない。

 が、

「それがどうしたっていうんだ。僕はあの日に死んだんだ。弟がお前に殺されて、家族がまともじゃいられなくなって、生きていることに意味なんてなくなったんだ。お前に復讐する以外に」

 幸福だとか不幸だとか語る以前に、僕はそもそも幸福を追求するレースから離脱リタイアした。幸福の希求も不幸からの脱却もこの手で放棄した。この女を殺す為だけに、憎しみだけを燃料に、今日まで稼働し続けてきた機械だ。機械は幸福を求めない。目的を遂行する他に方法を知らない。

「お前を殺せるなら、一矢報いることができるなら、僕はそこで死んだっていい」

 この五年間、何度も考え頭の中でそらんじてきた思いを、思っていたままに口にする。ずっと寝食を共にした憎悪だ、それは実に容易かった。

 女は、僕の首に突きつけていたナイフを離し、その代わりに顔を近付けてきた。

「……いいね。そういうの。自分の生死とかどうでもいいわけだ」

 囁く。女の髪が顔に当たって擽ったかった。長く反り返った睫毛も、茶色がかった瞳も、真っ直ぐ整った鼻梁も、少し薄い唇も、全てが近くて、それでも僕は抵抗することもできずそれを見ていることしかできなかった。

 そしてそんな僕を嘲笑うように女は僕の頬に手を添えて、口付けをした。

「――!?」

 一瞬何をされたのか分からなかった。自分の唇に柔らかい感触がして、温度が伝わってから、僕は我に返った。女の鼻を噛み千切ってやろうとしたが、目の前にナイフが現れて制された。

 女はぺろりと自らの唇を舐め、笑った。

「……あんたがあたしを殺すのは勝手だけど、あたしもあんたを殺してあげる」

 ナイフの刃で頬を撫でられ、少しの痛みと共に温かいものが滲んで流れ始めた。

「あんたがあたしを憎むのは勝手だけど、あたしはあんたを愛してあげる」

 世の事象は大分して幸か不幸かだが、憎しみから殺そうとしていた人間に愛され殺されるというのは、どちらなのだろうか。

 僕は、上半身に乗ってナイフの血を舐め取る女を見上げながら、ぼうとそれを考えていた。

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アフロディテの自死 水ようかん @mzyukn0809

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