第14話
銀製のスプーンでスープをすくう度に食器の甲高い音が鳴る。
ロウとキャシーは食卓を挟んで向かい合わせに座っているものの互いに目を合わせようとはせず、黙々と料理を口に運ぶ。
「あの……聞かないのですか」
静寂の中、キャシーはロウに問う。
「何を?」
「昼間の事です」
普通の人ならば玄関先で乱れている男女を見て疑問に持たない訳がない。しかし、ロウは全くさっきの事を気にする素振りを見せないどころか、まるで忘れているかのように平然としていたのだ。
すると、ロウは思い出したかのように呆気なくあぁと呟く。
「興味はないし、聞く意味もないから」
「それは……」
ロウの言っていることは至極当然だ。
人の性事情に首を突っ込むなど野暮であり、そんなくだらないことを聞こうとする人など自分の好奇心を満たすことにしか興味かない愚か者くらいだろう。
「わかっている。何か訳があるんだろう」
「そうですけど……」
助けを求めるキャシーのあの目が瞼の奥に張り付いている。
少なくとも愛しあっている男女ならあんな一方的に快楽を押し付ける愛し方はしない。それにキャシーもあんな辛い表情を浮かべたりはしない。
「話したいなら話せばいい。いっその事吐いてしまったほうが楽になる」
キャシーの辛そうに俯くあの顔には見覚えがあった。
昔、買っていたペットの犬が亡くなった時だ。最期は笑って送り出せないとペットも成仏できないと父は言った。ロウと妹は父の言葉を信じ、泣かないようにした。だが、妹は本当は泣きたかった。声が枯れるまでずっと泣きたかった。だが、その悲しみを食いしばって踏み留めていた。いっそ泣いてしまえば楽だろうと思いながらロウは妹そっと後ろから抱きしめた。
今のキャシーはあの時の妹と同じだった。
だからこそ、解放してやれねばと思った。キャシーの抱える苦しみ全てを。
「でも……」
「俺は……あんたを軽蔑も否定しない。全部、受け止める」
いくら恩人とは言え、勝手に身の上話をしては迷惑ではとキャシーは思っていた。
だが、ロウはキャシーの全てを受入れようと構えていた。
今までにもキャシーを助けようと様々な男たちが手を差し伸べてきた。だが、殆どが救いの対価として肉体を要求してきた。下衆な男にいいように性の捌け口として使われ、キャシーの心は荒んでいた。兄以外の男など信用するに値しない生物とさえ思っていた。無論、ロウも例外ではなかった。ただ、客をないがしろにするわけにもいかず、平然と振る舞った。
だが、ロウは普通の人間とは違っていた。雰囲気もそうだが、あの食卓を囲んだ時だ。心の底から料理を美味しいと言ったこと。兄のことに苦言を呈したこと。兄以外でここまで本音を言った人は初めてだった。
そして、男に襲われたところを身を挺して助けてくれたこと。
キャシーにとって信用するには十分な材料が既に用意されていた。
「……宿だけではやっていけないんです」
キャシーはスプーンを置き、震える声で語り始める。
「こんな宿にお客様なんて殆ど来ない。閉じるにしても他に仕事がない。それに……ここは思い出の場所で……兄の帰る家だから……」
写真を眺めてはキャシーは目に涙を貯める。
キャシーにとってこの宿は家でもあり、大切な場所。簡単に捨てることはできない宝物なのだ。
「だから体を売って、少しでも生活の、経営の足しにしようとしたのか」
ロウの言葉にキャシーは黙って首を振る。
宝物を守るために自らを汚すことを決意した。
だが、いくら金を稼ぐという建前があっても好きでもない男に、汚くみすぼらしい男に抱かれるなど苦痛の一言では済まされない苦しみだろう。女性として尊厳を根から腐らせられ、内部からゆっくりと朽ちていく。
想像しただけで吐き気を催す苦しみにロウは眉をしかめる。
「辛かっただろう」
苦しみから少しでも楽になって欲しいとロウは言葉をかけつつ、慎重にキャシーの頭を撫でる。
「ロウさんの手……兄さんみたい」
キャシーは目を瞑って撫でられる手の感触を確かめる。
ロウの大きく、暖かい手は尊敬する兄に似ていた。キャシーが泣くたびに兄はいつも頭を撫でて、励ましてくれた。あの手に何度、心を救われたことか。
でも、いつも救ってくれた兄はいない。だから、今回は一人で耐えなくては決意した。そろそろ一人立ちしなくては兄に心配をかけるばかりだ。だが、キャシーが耐えようとしていることは並みの人間ならば精神崩壊を起こすほどの苦痛だ。
頭を撫でられる度に兄との大切な思い出が一つ一つ鮮明に思い出される。思い出す度に心の中で急造したダムにヒビが入る。
「俺はあんたを励ますことしかできない。でも苦しみを受け止めることはできる。だから……弱くなればいい」
キャシーはロウに胸に抱き着き、押し留めていた苦しみ全てを吐き出すかのように声を上げて泣き喚く。
ロウにはキャシーの苦しみ、悲しみを受け止めることしかできない。痛みを分かち合うことはできない。
男であるロウは女の心情など理解するのは難しい。無理にキャシーに寄り添おうとすれば心に傷を増やすだけ。
戦うこと以外に何もできず、目の前で泣いている人の心すら救えない自分の能の無さに嫌気が指す。
「あなたみたいに優しい人が相手だったら私はこんな苦しい思いをしなくて済んだのに」
「寄せ。俺はあんたを憐れんでるだけだ」
勘違いはされたくなかった。
例えどんな善行をしてもロウは殺人を犯した異形なのだ。
優しい人でも正義の味方でもない。
「ねぇ……ロウさん。あなたにならこの身を捧げたい。愛し合いたい」
「止めてくれ」
キャシーの意味深なことを言い始め、ロウの背中に悪寒が走る。
「癒して欲しい……だから」
「止めろ!」
「抱いて……ください」
ロウの遮りをくぐり抜け、キャシーは甘く艶っぽい表情を浮かべ、愛に誘う。
あまりの衝撃のことにロウの体は石像の如く固まって動かなくなる。
「それは……」
「……そうですよね。迷惑なのはわかっていました。汚れた体ですし……」
「違う……違うんだ」
あまりの薄いロウの反応に拒絶されたと思い込んでしまったキャシーの表情はまるで崖から突き落とされたかのように引きつっていた。
ロウにはキャシーと交わる資格などなかった。人を殺め、血を浴び、人を食い、異形となったこの体など汚れているどころかドス黒い呪いそのもの。そんな体で交われば彼女に呪いを移してしまいそうだ。
万が一、キャシーが身籠ったらその子供はどうなるか。普通ならばそれでいいが下手をすれば、ロウと同じかそれ以上の異形となるかもしれない。無垢な天使に残酷な枷など嵌めさせたくない。ただでさえ人を殺めた異形のロウが父である時点で枷を一つ付けているようなことだ。
「……俺は」
キャシーの誘いを拒絶しようと口を開け、視線を合わせる。喉に石を詰められたかのような息苦しさに襲われ、額から汗を流す。
今のキャシーはまるで雨の中で捨てられ、寒さで身を震わせる子猫のように見えた。
捨て猫は放置しても一日や二日ではすぐには息絶えない。でも、誰かが手を差し伸べねば、いずれは死ぬ。
ここでロウがキャシーを見捨てればきっと良くないことが起きる。精神的支えが脆くなった今、拒絶は握手。
一番の最善策は兄の帰還だろう。しかし、そんな都合のいいことなど起きるはずがなく、そもそも兄の存在があればこんな状況に陥るはずがない。
「……わかった」
本来、言うべき言葉は明後日の方向に飛んでいってしまう。
最悪の状況にロウは唇を噛み締める。一方で透き通った笑みを浮かべるキャシー。
選んではいけない選択であったが逆に選ばなければキャシーの心はきっと崩れ落ちていた。
いつの間にかに逃げ場のない崖っぷちに追い込まれていたことにやっと気づいたロウは茫然と立ち尽くし、ただ流されるままにキャシーと唇を重ねるのであった。
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