第9話
濃霧が街を包み込む。辺りは白い絵具で塗りつぶされたかのようで寸分先の看板すら見えない。
「天気が悪いな」
ここはミルデアス。機械産業と工業によって発展した街。そのような背景と石造りの建物が多く立ち並ぶ街並みはロウの世界でいう近代ヨーロッパを彷彿とさせる。
「そこのお兄さん」
周りを見回していると男に声を掛けられる。ふと、その相手に視線を合わせようと声が聞こえた方向を向く。
その男の容姿にロウは少しだけ驚く。服装は茶色のコートにジーパンというオーソドックスな組み合わせで特に不審な点は無かった。問題は顔だ。男の顔にはまるで非道な実験を行うマッドサイエンティストに似合いそうな不気味なガスマスクを被っていたのだ。
「あんた、そのマスクは?」
「この霧は毒性がある。短時間なら大丈夫だがこのままだと死に至るぞ」
男に言われて、初めてこの霧の違和感に気付いた。確かにこの街の霧は普通のに比べて咽そうな臭さと微かな息苦しさ。
ふと周りを見回すと霧に紛れて詳しくはわからないが、道端にはぐったりと倒れている人間がいた。
前の世界で似たような体験をしたことがあった。毒ガスのよって汚染された地域を横断した時にした時、息苦しさの他に眩暈や嘔吐、倦怠感に襲われ死にかけたことがあった。きっと、狼鬼の力がなければ同じ目にあっていただろう。
「そうか。忠告に感謝する」
「感謝の気持ちがあるのならこれを買ってくれないか?」
一言礼を言って立ち去ろうとするが男に肩を捕まれる。そして、背負ってあったリュックから男が被っている物と全く同じ形をガスマスクを差し出す。
してやられたとロウは頭を掻きむしる。アメリカに一人旅に行った際に見知らぬ少年に勝手に道案内をされ、破格のチップを要求されたこと思い出す。勝手な善意を押し付けられ、勝手に見返りを求められるなど、これ以上にないくらいはた迷惑で苛立つものはない。
「値段は?」
「五万円だ」
「高いな。桁を一つ間違えてないか?」
「それが商売だよ。旅人」
男は鋭い声色を発しながら、急かすようにガスマスクを押し付ける。
本当のことを言うと値段に関しては問題はなかった。ロウのポケットは某ネコ型ロボットの如く四次元に繋がっている。そこにはいろんな物を制限なく出し入れできる。そして、もう一つ、この空間では文字通り湧き出るように金が生まれる、金に困ることは絶対にない。
しかし、この金は本来、この世界に存在するはずがないもの。そんな金を身勝手に使えば、気付かぬままに金の量が多くなる。そして、いつの間にかにインフレを引き起こし、この世界の経済を破綻しかねないことになる。
だから、安易に金を使うことはできない。この世界の経済を守るためにもどうにかしてやり過ごさなくてはならない。
「そうか。それがあんたの商売なら」
目には目を。歯には歯を。強引な手段には強引な手段で対処しようとロウは行動に移す。
「これが俺の世渡りの仕方だ」
ロウの拳が男の腹にめり込む。岩をも砕く拳だ。ただの人間が受ければただでは済まない。案の定、男は汚い呻き声を上げ。ガスマスクから血を吐いて地面に倒れてしまう。
「……生きてるか?」
明らかに重体の男を見て、ロウの血の気が引く。
軽くやったつもりであった。しかし、あまりにもロウの力が強すぎたのだ。焦りを抱きながら、必死に肩を叩く。すると、男は微かに唸り声を上げる。
「良かった……」
ロウは胸を撫で下ろす。軽い気持ちでの殺人など命への最大級の冒涜だろう。
「病院を探さなくては」
安心するにはまだ早い。このまま放っておいてしまえばそれこそ本当に死んでしまう。ロウは男をおぶると常人離れした脚で街中を走り回る。
「あれか」
濃霧のおかげで探す手間がかかったものの何とか病院を見つけることができた。
ロウは扉の前に立ち、男を下ろす。そして、扉を数回ノックすると咄嗟に物陰に隠れる。
「何だ。今の音は?」
「院長。ここに怪我人が!」
「何! ……危険だ! すぐに治療する!」
医者は男を急いで病院内に運び込む。
「これで大丈夫か……」
あのまま男と一緒にいれば怪我をした経緯をしつこく聞かれるかもしれない。そして、自分が犯人とばれてしまえば、お縄に着くのは目に見えていた。
「この力……もう少し上手く使えるようになれば」
この世界に転生してしてエーテルから狼鬼の力を与えられた。最大限の力を使うには人の命を食わねばならない。だが、副作用として、通常の身体能力も飛躍的に上がっており、常人なら簡単に圧倒できる。
しかし、あまりにも強すぎる力故にロウ自身が振り回されてしまっている。先程のように殴っただけで瀕死の状態にさせてしまうこと。掴んだだけのコップが粉々になってしまったりすることが多々ある。
いつか、この力を制御するためにもどこかで修行せなばならないとロウは思った。
「……取りあえず、宿をそう」
今、ここで悩んでも仕方がない。気を取り直して早、宿を探しそうと辺りを見回す。すると、おぼろ気に宿屋の看板が見え、そこに向け足を運ぼうとする。
その前に流石に血を吐かせてしまったのはやり過ぎたと反省して、男の顔の横にお詫びの印として五百円玉を置いて、やっと宿屋へと向かう。
「この宿。風情がある」
目的の宿屋はかなり年期が入っており、至るところが傷んでいた。しかし、前の世界では似たような廃墟を寝床にしていたため、慣れていた。寧ろ、慣れていない綺麗すぎる宿はロウにとって落ち着かず、到底休める場所ではなかった。
「さて、入ってみるか」
ロウは軋む木製の扉を押して、宿の中へと入る。
まず、最初に目に入ったのは小さなフロント。至る所が破損していたが、隅まで丁寧に清掃されていた。フロントは宿にとって顔とも言える場所であり、ロウの経験から言うとフロントが綺麗な宿に外れはなかった。しかし、肝心の受付嬢がいないの残念であった。
「すみません。ここに泊めていただきたいのですが」
静ずかな屋内にいるであろう従業員に向けロウは声をかける。だが、返ってくるのは反響した自分の声。
実は閉めた宿だったのではないかと疑い始める。
「えっ!? 嘘!? お客様!?」
突然、上の方から若い女性の声が聞こえてくる。そして、騒がしい足音が段々と近づいてくる。
「ただいま伺います……うわぁ!」
階段から三つ編みの女性が慌てて駆け下りてくる。しかし、慌て過ぎたせいで段を一つ踏み間違えてしまい、体勢を崩して落ちてしまう。
このままでは大事故に繋がるとロウは咄嗟に女性の落下地点に滑り込む。そして、間一髪女性を支えることに成功し、事なきを得た。
「お怪我はありませんか?」
「は、はい!」
女性は申し訳なさそうにロウから離れる。
ロウは本当に怪我はないか確かめる為、女性を凝視する。
半袖から伸びる細く白い腕には小さな傷一つない。例え、傷があったとしても見えない服の下であり、わざわざ脱がせるわけにもいかない。
他に気付いたことを言うと、左胸のあたりにネームプレートが付けられたことか。そこには擦れて読み辛くなっていたがキャシーと書かれていた。
「あ……お泊りですよね! それならお好きな部屋をお使いください。鍵は後でお部屋に持っていきます」
「お好きな部屋って……」
「こんな古臭い宿に泊まるお方なんて物好きな方なんて……いえ! お客様を乏しているつもりは!」
失言してしまったとキャシーは華奢な体を懸命に動かし、誤解を解こうとする。
だが、キャシーの言っていることはあながち間違ってはいない。
「いや。気にしない。こういう言い方は失礼なのは承知だが、小汚いくらい部屋が俺にとって居心地が良くてな。そういわけで早速三〇二号室を借りたい」
宿の部屋を見て、ロウは三〇二号室に目をつける。その部屋は道に面した角部屋であり、外の様子を伺いやすい。また、程よい高さがあるため、何かしらの襲撃があった際、部屋まで来られる時間を稼ぐことができ、逃げ出す際に安全に着地しやすそうであった。
「か、かしこまりました。こちらが鍵です」
「ありがとう」
キャシーから鍵を渡され、軽く会釈をしてロウは部屋へと向かった。
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