第7話

次の日。小夜はいつもより早く家を出て、琥珀の元へ走った。

そんなに急ぐ必要はなかった。いつもの時間に家を出て、食事をするついででもよかった。それなのに、まだ朝日も昇らないうちから、小夜は向かっていた。

走るたびに鞄が跳ねる。小夜の鼓動のように早かった。

胸元に強く抱きしめたハサミが、生き物のように鼓動がする。

小夜は自分が恐れていることを知った。

美佳子が琥珀の髪に触り、綺麗ねと囁いた。たったそれだけなのに、小夜は気が狂いそうなぐらい胸が締め付けられた。彼から切って欲しいと言われたとき、嬉しかった。

あの長い髪を、美佳子に触られないで済む、と。でも、すぐ思った。短くなっても、今度は毛先を触るかもしれない。

帰路への帰り道、小夜の胸にあったのは嫉妬だった。触らないで、と思った。琥珀の髪に美佳子が触っていいはずがない。

目の前が真っ赤に染まりそうなほどの怒りを、小夜は感じたことはなかった。

次に小夜は自分の顔を覆って泣いた。苦しい、痛い。

美佳子から受けた暴力の非ではなかった。心がただ痛くて、悲しくて、つらかった。

どうして、こんな気持ちになるの。

誰にも相談出来ないまま、小夜は今日という朝を迎え、琥珀のいる蔵の前へ立ち止まった。

 そして。戸を開けた。

朝食を持って来てもいない。こんなに早くから小夜が来ようとは琥珀は思わないだろう。

ゆっくりと押して開いた蔵の中は、真っ暗で、何も見えなかった。

 けれど。

朝日が差し込んだ。たった一つある蔵の窓からの光が、琥珀が寝ている布団を照らした。

気配で気づいた琥珀が起き上がるのを、小夜は息をつめて見つめる。

「あれ?小夜、おはよう。こんなに早いなんて珍しいね」

身支度を調えていない琥珀は無防備で、髪や衣服も乱れている。

微笑む顔も、間が抜けていておかしかった。

小夜は一瞬で理解した。

いや、これは理解ではないと思った。これは、感情の奔流だった。

好き。大好き。綺麗。可愛い。すき。すき。だいすき。あい、してる。あいしてる。

愛。アイ。あい。

琥珀が、好き。

「小夜?」

再度尋ねられて、小夜は我に返った。一瞬で引き戻された彼女は、急に恥ずかしくなって、赤く染まった頬を冷やすようハサミを当てた。

すると琥珀は、小夜がこんなに早く来た目的を悟って、短く頷いた。

「ハサミ、持ってきてくれたんだ。ありがとう。でも、ちょっと待って、顔を洗いたい」

布団から起きだして立ち上がるのを見て、小夜は慌ててハサミを備え付けの机に荷物と共に置いた。

そして、顔を洗うための桶を琥珀から受け取ると、それを抱きしめて、井戸に向かう。

水を組む間も、ずっと心臓は高鳴って、小夜は何度も深呼吸を繰り返した。

落ち着け、落ち着け。呪文のように何度も自分に言い聞かせる。

でないと、言ってしまいそうになる。こんな気持ちは初めてだった。

蔵へ戻り、水の張った桶を琥珀に格子越しに手渡す間。

小夜は、琥珀の髪を切る準備をする。

外に放置してある木のバケツを持つと、再び井戸へ向かって、水を組む。

そうして、戻って見ると琥珀の身支度はすっかり終わっていた。

今日は、紺色の着物を着ており、そうしていると妖艶さから離れ、普通の少年のように見える。この人が人ではないと、分からない。

「じゃあ、お願い」

鉄格子に背中を預ける琥珀に、小夜は水を組んだバケツを持って近づく。

そして、しゃがみ込み、彼から再び桶を受け取ると、水をそこへ流し入れる。そして、机の上に置いてあるハサミを取ってくる。

「じっと、していて」

膝立ちをすると、琥珀の頭はちょうど小夜の胸あたりにくる。

滑らかな琥珀の髪を一房、捧げ持つとハサミを差し入れた。

金属と金属が合わさり、音が鳴る。

ひらり、ひらり、と蝶が舞うように琥珀の髪が小夜の膝へ落ちていく。

「………」

どうしようと、小夜は思った。

切るのを失敗したとかそういうことではないことは、分かった。

ただ琥珀の髪を切っているだけなのに、とても満たされた気持ちになるのだ。

自分と彼だけがこの蔵にいる。

朝早いこの時間、屋敷にいる美佳子もまだ夢の中だろう。

そして、髪を切りながら共に働く皆の視線を思い出す。

朝、昼、晩の頃にいなくなる小夜を興味深げに訴えてくる者や聞いてくる者もいた。

それらに、類に特別な用事を頼まれたのだというと、納得してくれた。

ふと、思う。みんなは琥珀のことを知っているのだろうか。

屋敷からは歩いていける距離にあるこの蔵の存在を、みんなが知らないはずはない。

幸子も当然、知っているはずだ。

直接聞いてはいないが、長年この村に住まうのならば、知っていることが当たり前だ。

今更のようにその考えに至り、小夜は苦いものを飲み込んだ気持ちになる。

だから、小夜が琥珀の世話を務めるという事に対して、納得していたのではないだろうか。

前任者がいる以上、その者が話していない可能性はなきにしもあらずだ。

小夜は、頭を振ってハサミを床に置く。目の前に襟首あたりまでに切り揃えられた琥珀の髪をさっ、さっ、と。

手で軽く払うと、小夜は立ち上がった。少しの間なのに、体の節々が痛かった。

「もういいわよ」

小夜は、琥珀に呼びかけると自分は小走りに外に立てかけてあった箒を手に戻ってくる。

そして、床に散らばった琥珀の髪を掃いていく。後でまとめて捨てに行くつもりだ。

「どうかな。結構自信があるんだけど………」

そう聞きながら、小夜は顔を上げる。

「なんか、スースーする」

首元を手で触りながら、傾げる琥珀を前に小夜は、身動きが取れなくなった。

彼の項が妙に色っぽく思えてしまった。

これでは、髪の毛を切ろうが切らなかろうが同じだったな、と小夜は思わず顔を背ける。

「小夜、ちょっとおいで」

「あっ、はい!」

いつもより大きな声に小夜が振り返ると、琥珀は苦笑しながら手招きしていた。

そして、近づいて琥珀と目の高さに合わせてしゃがみ込むと。

「お礼」

短くそう言って、懐から取り出したのは彼の瞳と同じ色をした琥珀色の鉱石だった。

「きれい」

素直に感想を述べると琥珀は、差し出した小夜の手の平に、鉱石をそっと置いた。

腫れ物でも触るように優しく、そして小夜の手と自分の手を重ねた。

「もしものときに、持っていてほしい」

目で誘われて、小夜は琥珀と額を合わせた。

彼の長い睫が、唇に瞳が吸い寄せられる。

「大事に持っていろ」

小夜は、自分の鼓動が琥珀に届きそうで怖かった。でもそれと同時に、じんとした甘い痺れにぎゅっとなる。

「うん」

小夜が消え入りそうな声で、頷いた。

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