第2話
ずり落ちそうになる足元を、小夜は確かめながら山を登る。のどかな鳥の鳴き声、木々のざわめき。
小夜は今、左右斜めがけにした一方に編み籠、もう片方に幸子からの貰った弁当を下げている。
「はぁ………」
小夜は、一旦足を止めて振り返った。
洋館の屋根が見える。日が高くあり、それを見ながら小夜は日が暮れる前に帰れるかどうかを考えた。
【青い花】は、名前のとおり鮮やかな空色をしており、この山に、冬の終わりに咲く花。
それだけを頼りに、小夜は山を登っていた。
一本道が、頂上まで続いているが、去年の冬山の中腹に咲いたと、聞いていたので、小夜は脇道に逸れる。
それさえも眉唾なもので、実際に持ち帰った者はいない。見たとだけが一人歩きしているような花だった。
それゆえに、見るかるとは思っていない、日暮れ前に戻れるとも思っていなかった。
小夜の中にあるのは、幸子に対する申し訳なさだった。
小夜は美佳子が、己を責めているように見えた。自分と美佳子の間にある原因の分からぬそれはなんなのだろうか。
それを小夜は知らなければならない。でなければ、何か言ったとしても事態は好転しない。
「はぁ………」
結局、、小夜に出来ることは、青い花を取りに行くことだけ。
ただ、鬱々とした気持ちを抱えながら小夜は歩き続けた。
*
梟が鳴いている。
それに気づき、小夜は足を止めて空を見上げた。
今夜は、満月だった。
途中に休憩を挟みながら探し続けたが、見つからなかった。
しかも、小夜は迷子になっていた。
「ここ、どこ、だろう」
山の中に、空しく小夜の声が響く。
月が出ているおかげで暗くはないが夜になれば獣が出る。
風が揺れた、それだけで体が震える。
神経質になりすぎることはないと、小夜は前を見据える。。
どこに向かっているのかは分からない。それでも立ち止まってしまえば動けなくなる。
動けなくなれば、立ち上がれなくなる。そして、それでもいいと小夜は思い始めていた。
屋敷に帰れば、美佳子に折檻され、幸子には心配される。
そう思うと、涙は頬を伝って、地面に落ちた。
どうすればいい、どうすればいい。何も出来ない自分が情けなくて、惨めで嫌だった。
ふと気がつくと、涙に烟る向こうに青い光を見た。
乱暴に袖で拭えば、木の根元に、まるで今の小夜を嘲笑うかのように青い花が咲いていた。
小夜は歩き出すと、木の根元にしゃがみこんで青い花に両手をを差し伸べた。
青い花は、四つ葉のクローバーを大きくしたような形で、顔を近づけると甘い香りがする。
小夜は、青い花の根元を丁寧に掘り返すと、両手で包み込むようにして持ち上げた。
これでやっと。様々な感情が小夜を翻弄した。
「はぁ………」
小夜は、そして斜めがけした籠の中に青い花を丁寧に置く。崩れないことを確認すると、大きく息をつく。
これから帰ってこの花を美佳子に渡す。
きゅうとお腹が鳴った気がして、小夜はお腹を押さえる。
さすさすと惨めな気持ちになりながら、場所を確認するために辺りを見回した。
すると、気づかなかったが、そこには蔵があった。
神山家が所有する蔵だろうか。隠れているみたいに木々が密集した所に建っていた。
なぜだろう。
このまま、蔵を素通りしてしまうには惜しい気がする。折檻されるなら、少しでも先延ばししたい。
少しだけならいいよね。。
心の中で川のような言い訳がに流れて消えて、足は蔵へと向かう。
月明かりの下で、見上げた蔵は古そうに見えた。
足元に鳴る草音、そして梟の声。
小夜は、青い花の入った籠を庇うように掌で押さえながら、音をできるだけ立てぬよう歩く。
この蔵の存在を屋敷の者は、知っているだろうか。
神山家の人間は知っている。
蔵の前まで来ると、小夜は顔を上げる。
小夜は手を伸ばして蔵の戸に触れる。
南京錠がかけられ、巻かれている鎖もさび付いて、金属の匂いが風に運ばれた。
開かずの蔵。一瞬脳裏をかすめ、やはりとため息をついたとき。
指先にピリリとした痛みが走った。背中の痛みに付随するものに、小夜は掌を見つめた。
傷はなかった。
パキン、と小夜の目の前で錠前が割れ、ガラスのように粉々になった。
「ひっ………」
小夜は一歩後ずさった。
そして何もしていないのに、蔵の戸が音もなくあっさりと開いた。
その隙間から籠もったような匂いと共に、果実のような甘い匂いがする。
小夜は、思わず、己の体を抱きしめる。指先が冷たくなり、体が震える。
「ほぉ。だれか来るとは、珍しいな」
好奇心と侮蔑が交じる声に小夜は息を飲む。
自分と同い年くらいの少年だろうか。小夜は生唾を飲み込んだ。
息が、うまく出来ない。
蔵の中は広く、天井高くに電球が一つぶら下がっている。ここまで電気が通っていた。しかしそんな施設は暗くて見えなかった、自家発電だろうか。
異様なのは部屋の半分以上を隔てる鉄格子、そこに大量のお札が貼られていた。
小夜の入って左奥に、木製の机と椅子。机の上には黒張りのノートと筆記用具が置かれていた。
そして鉄格子の向こうは、床に畳が敷かれいる。折りたたまれた布団に文机、散らばったお手玉や鞠や折り紙。
まるでおもちゃ箱をひっくり返したような部屋だった。
「なんだ、子供か」
吐き捨てた声は、先ほど小夜が聞いたものと同じだった。
鉄格子の向こうで、正座する人がいた。
夜の闇より濃い黒い髪、切れ長の瞳は琥珀色。ため息が零れるほど整った顔立ち、肌は雪のように白い。黒衣に蝶の文様が舞い踊る着物。
苦笑をする目を逸らすことが出来ない魅力と、艶やかさを持つその人。
顔が赤くなるのを止められず、小夜は息が出来なくなる。
体中が熱を持ったようで小夜は、たじろいだ。
「あな、たは、誰?」
小夜は、それだけを言うだけでクラクラした。
これほど前に美しい人を、見たことがなかった。他の誰とも比べることは愚かなことだと思う。
質問に答えることはなく。その人は顎に手を添えて考える素振りを見せただけ。
小夜の胸はドキドキした。足が縫い止められたように動かない。もし、これ以上近づいたら汚れてしまう気がした。
にぃと三日月のような微笑み、鉄格子の向こうから手を伸ばされた。
おいで。声なく、告げられる。
体に鉛を入れられたような感覚。小夜は熱に浮かされたように、体がふらつく。
琥珀色の瞳に、小夜が映る。
「いい子だ」
小夜はその人が手を伸ばせば届く距離まで近づく。
小夜の頬に手が触れる。吸い付くような感触が気持ちよかった。
着物の衿を開けさせられる。
小夜の肩口に舌を添わされ、嘗められる。指先がじんじんとする。
ぷつりと歯を立てられたのだと気づいたとき、小夜は我に返った。
小夜は喉元から迫り上がってくる塊に、涙が頬を伝って、その人の肩をきつく掴む。
立っていられなくなり、思わずその人にすがりつく。
最後のあがきのように、その人の帯に手が引っかかった。
啜る音が、小夜には卑猥に響いても、歓喜する自分がいた。
「あっ………いやっ!」
口から溢れる声が自分のものではなくなる。
思わず小夜が突き飛ばす。すると、自分の体が斜めに倒れていく。
その人の緩められた帯が畳の上に落ちていく。
開けられた前、その人に胸はなかった。
「おと、こ、の、こ………」
少年は口の周りを小夜の血で染めながら笑う。彼の口内は赤黒くなっていた。
そして、小夜は地面に倒れ、視界からは少年の足元しか見えない。だからどんな顔をしているのか、分からなかった。
「あぁ、旨いな」
夢心地な少年の声。小夜は自分でも信じられない満足感に息を吐く。
小夜の意識が遠くなる。その中で美佳子を見た気がした。
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