青い月

ぽてち

第1話

都会からずいぶん離れた場所にある田畑ばかりが目立つこの村に。

不釣り合いな洋館が建っている。

 二階建ての幕末に建てられた異人館を本館とし、くっついている日本平屋を別館。

 そして、中庭を望む廊下を繋いだもう一つの日本平屋を家事場と呼んでいる。

古くから養蚕業で贅を成してきた【神山家】のものだった。

 その屋敷の中庭には、樹齢数百年の桜が植えられている。庭全体を覆うように枝を伸ばし、花を咲かせる。

花びらが地面に落ち、あたり一面桃色に染め上げる姿は美しいと思う。

その中庭を見渡せる屋敷の引き戸を拭きながら小夜は、ぼんやり見ていたことに慌てて、頭を振った。

 おかっぱ頭に、どんぐりみたいな瞳。小夜は、両親に似ていない自分の顔が、嫌いだった。

同じ使用人らの、嫌気が差したような声がした。

 震災で小夜は両親を失い、父方の姉に引き取られ、この屋敷で働いている。

まだあの場所には、自分の友がいた。好いている相手がいた。

それなのに、行方も知れぬまま、こちらに来てしまった。後悔ばかりが胸を圧迫する。

 春は別れと出会いの季節。小夜にとっての別れが彼らなのだとしたら、新たな出会いは。

廊下の向こうから、黒く長い髪に整った顔立ち。

 そして一目で分かる上質な着物を纏った少女は、小夜を見ると睨み付けてきた。

 少女は名を【神山美佳子】と言う。神山家の娘だった。

「小夜(さよ)?」

 名を呼ばれ、小夜は思わず体を震わせた。

 近づいてくる美佳子は、小夜を嫌悪している。なぜかは分からない。

 ほかの使用人や村人には、分け隔てなく優しいのに。

 理由が分からないまま、時ばかりが過ぎている。

 そして、美佳子は他の目が届かぬところで小夜を折檻する。彼女が小夜に近づくだけで、昨夜鞭で打たれた背中が痛む。

「美佳子お嬢様………」

「ねぇ、小夜。お父様に『青い花』を見せたいの。取ってきてくれる?」

「ですが、その花は………」

「あなた、私に口答えするつもり?」

「いえ、そういうわけでは………」

「じゃあ。お父様がお戻りになる前に取ってきなさい」

菩薩のような笑みを小夜に向けると、清々しいほど美佳子は去って行く。

青い花。この屋敷のある山に生息する珍しい花のことだ。見たものは少なく、生えている季節や形状すらも曖昧で、捜すのは困難だ。

 このように美佳子から無理難題を突きつけられるのはいつものことだ、と。小夜は小さくため息をついた。

 美佳子の父であり、現神山家当主・類(るい)は、都心で仕事をしているため、帰りが遅い。

 そんな多忙な父を癒やすため、小夜に青い花を見せたい。それは、誰しもが思うこと。

 珍しく早く帰ってくる父を喜ばせたい。

 その気持ちが小夜には分かる。だから余計、美佳子に反論できなかった。

 窓拭きを終え、小夜は立ち上がって歩き出す。

 歩く度に叩かれた背中が痛む。本当だったら今日は休むつもりだったのに。

 ぞろぞろと皆が掃除を終えて、昼餉へと向かう中。小夜は、皆とは逆の方向へ足を向けて、人気の無いことを確認すると、壁に寄りかかった。

そうだ。こんな日に小夜が休むことを美佳子は望まない。

 もし、花が見つからなかったら。全身、水でも浴びたような汗が噴き出し、小夜は震えた。

 昨日はカエル、その前は芋虫を食べさせられたことを唐突に思い出した。口元を手で押さえながら、小夜は背を丸める。

早くここから動かなければ、と分かっているのに、動けなかった。

 これ以上、叔母の幸子に、迷惑をかけたくはない。

裕福とは言いがたく、幸子も生活するだけで精一杯なのに、小夜を迎えてくれた。

嬉しかった。だから出来うる限りのことはしようと思っていたのに。

「小夜ちゃん、大丈夫?」

 優しい声に小夜は、顔を上げた。

 二十代後半で髪を一つ結びした女性、はつは、しゃがみ込むと小夜の背中をさすった。

 本当は背中を撫でられるだけで痛かったが、小夜はぐっと耐えた。

「とりあえず今は、調理場へ行きましょう」

はつは、小夜の肩に腕を回してと立ち上がらせると、微笑んだ。

「何か食べた方がいいわ」

「………そうさせて、いただきます」

 小夜は弱々しく答え、はつと共に調理場へと歩を進める。すれ違う使用人は、気遣わしげな視線を向けるだけで、その身を避けた。

 やがて、美味しそうな匂いが小夜の胃をきゅうと鳴らせた。

調理場は、土間と居間のある畳敷きの空間が一緒になった部屋だ。

 そこに使用人十名が働いている。

 その中で、威勢よく他の人たちを指示しているのが幸子だった。

 頭をはつと同じく一つ結びにしたふくよかな体つき、どんぐりみたいな瞳。

「あんた、塩入れすぎ!これじゃあ、体を悪くしちまうよ。そっちはどうだい?味を見て見ようか?いい匂いだね、腕が上がったんじゃない!おや」

 小夜とはつに気づいた幸子は、周りの人に声をかけると二人の元へ向かってきた。

そしてはつは、小夜を幸子に託すと自分は持ち場へと戻っていった。

「小夜、なにがあったんだい?」

小夜は幸子の視線から逃れるように、そっぽを向いた。

幸子は小夜に置いてあった草履を履かせ、外へと連れ出した。

その瞬間、暖かい春の日差しに包まれ、桜の花びらの中を幸子が行く。頼もしいと感じた。

幸子は、小夜を調理場の裏手にある使用人の休憩場所へと連れて行った。

丸太を半分にしたような長いすに小夜を腰掛けさせた。ちょっと待っててと言うと、再び調理場の方へ戻って行く。

その後ろ姿を眺めながら、小夜は腹の底に黒い水が、溜まっていくのを感じた。

震災があったときですら、みんな大変なんだからと自分を鼓舞してきた。

しかし、美佳子の謂われのない暴力にはどうすることも出来なかった。どうして、自分だけがこんな想いをしなければならないのだろう。

幸子に打ち明けようと何度思ったか知られない。

「はい、お食べ」

すっとた湯気のたつお椀を目の前に出され、小夜は目をぱちくりさせる。

出汁のいい香りに、小夜は幸子からお椀と箸を受け取り、口を付けた。

こっくんっと熱い汁が喉から胃へ届いていく。体中に染み渡っていく味に、小夜はほうっと息をついた。

「少し分けてもらったのよ。あと、あとおにぎり」

 本当は、汁物だけでよかった。小夜は一旦、椀を幸子に渡すと、おにぎりに齧り付く。

 そのおいしさに喉元から迫り上がってきた塊を握り飯と共に、飲み込んだ。

「叔母さん、私、これから………お山に入らなければ、ならないんです」

「今からお山に?」

 無言で頷き、後ろを振り返った。。

 神山家が所有する山には、神が済んでいるとされており、一族の許可なく立ち入ることを禁じられている。

そのため、幸子が怪訝に思ったのは、昼を過ぎてから山を登ることへの危険からだった。。

「心配はしないでください。日暮れまでには戻りますから」

「お腹空くだろうから、準備をして裏口で待っておいで」

 小夜の肩を軽く叩くと、幸子はすっくと立ち上がる。

 軽快な足音が遠ざかる幸子の後ろ姿を、小夜は涙を零しながら、俯いた。

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