第32話 先輩32 謝罪

 「ちょっと、何してんの……」 


 「ゆ、有希亜……。ちょうどよかった、今お前に付きまとっているこの生意気な後輩を……」

 「ちょっと離してよっ!」


 有希亜先輩はそう怒鳴ると、鈴木先輩から僕を強引に引きはがした。

 僕は一瞬緊張が解けたせいか、足から脱力して地面に座り込んだ。


 「カイ君っ、血がっ……」

 「こ、これくらい大丈夫ですよ……」

 「いいからっ、これで拭いて。待って、今絆創膏出すから」

 

 先輩はしゃがみこんで僕にハンカチを手渡すと、焦った表情でかばんから絆創膏を取り出して言った。


 「ほら、こっち向いて」

 「そんな、いいですよ」

 「ばい菌が入ったらどうするのっ。いいから早くっ」

 

 こんな切羽詰まった顔をした先輩を見るのは初めてだった。その勢いに押されるように、彼女に言われるがまま、僕は顔を向ける。


 「ふぅ……これでよしっ」

 「あ、ありがとうございます……」    

 「うん、どういたしまして。でも、後でちゃんと保健室で消毒してもらった方がいいよ」

 「わかりました」


 応急処置が終わると、先輩はいつもの明るい表情を見せた。



 「な、なんでそんなやつ庇うんだよ、有希亜」


 声がしたので顔を上げると、ものすごい複雑な顔をした鈴木先輩の姿がそこにはあった。嫉妬、怒り、悲しみ、そして絶望。まるでそんな負の感情をすべては押し込むことができなかったかのように、彼の顔は歪んでいた。


 「……そんなやつ?卓也こそ、カイ君に何してんの……?」

 

 僕の肩に手を置いたまま、有希亜先輩は鈴木先輩の方へ振り返った。


 「お、俺はただ、有希亜にちょっかいだしてるこの1年に忠告してやろうと……」

 

 先ほどの威勢のよさはどこへ行ったのか、焦りの表情を隠せない鈴木先輩は子供の用に弁解をしようとする。


 「忠告って何?卓也、もしかして私のためだとか思ってる?もしそうなら今すぐやめて」

 「ど、どうしてだよ、有希亜。お前のためを思って何が悪いんだ……?」

 

 今まで僕が見てきたどの先輩にも当てはまらないその表情、言葉遣いに、僕も鈴木先輩も動揺を隠せない。しかし、先輩の怒りは収まるところを知らず、目の前で棒立ちになっている彼に更なる追い打ちをかける。


 「卓也にとっての私のためは、本当の私のためじゃない。すべてあなた自身のためでしょ?私は卓也の告白断ったはずなのに、周りに私たちがホントは付き合ってるなんてデタラメ言いふらして。私、我慢してたけど、カイ君にまで手を出すなら、もう許さないっ」


 先輩は、まるで「遠慮」という言葉を知らない子供の様に饒舌に、そしてはっきりと自分の意思を鈴木先輩にぶつけた。

 そしてそれを言われた当の本人はというと、母親に叱られた子供の様に、今にも泣きだしそうにくしゃっと顔を潰していた。


 「で、でも……」


 それでも、なんとかかき消えそうなか細い声で言葉をつなごうとする鈴木先輩に、先輩は最後の止めを刺す。


 「もう話しかけてこないでっ!本当に私の事を思ってるなら、私と私の大切な人たちに今後一切関わらないでっ!!」

 

 

 一瞬、自分の周りのあらゆる音が静まり返る感覚に見舞われた気がした。先輩のあまりの勢いに、周りにいた人、いつの間にか騒動を聞き駆けつけてきたであろう先生、僕、そして鈴木先輩、ここにいる全員が時間が止まってしまったかのように言葉を失ってしまった。


 そして数秒後、運動場でトラックを走る野球部の1,2,1,2という掛け声が遠くから聞こえてくるのを感じた。


 

 きゅっ


 手に温かくて柔らかい感触を覚えた。手元を見ると、先輩が僕の左手を握っているのがすぐに分かった。

 

 「……先輩?」


 目の前の同じ目線にいる先輩にだけ届くくらいの声で呼びかけると、先輩は黙ったまま僕の手を引いて立ち上がる。そして、同じく黙ったまま階段の方へ歩きだした。

 生徒も先生も誰も止めようとはせず、心配そうな顔で道を開けていく。というか、誰も僕らを止められなかった。そう、まるで金縛りにあったみたいに。

 僕は先輩に引っ張られるがまま、階段を昇った。


 途中、鈴木先輩の方をちらっと見たが、下を向いたまま微動だにしなかったので表情は読み取れなかったが、その立ちすくみには怒りというよりは悲しみがにじみ出ているようにも感じられた。



 僕と先輩は一言も声を発しないまま、どんどん階段を昇って行った。というか、何を話しかけたらいいかわからなかった。先輩の本気で怒った表情、心配そうな表情、そして僕に向けた申し訳なさそうな表情。どれをとっても僕には初めてだったわけで、これらの表情を見せる先輩にかける言葉など、知りえるはずがなかったのだ。



 とうとう最上階まで来てしまった。といってもうちの学校は生徒は屋上へ行けるわけではないので、最上階の4階のちょっとした空間で立ち止まる形になった。

 先輩は背を向けたまま動かない。僕も相変わらずかける言葉が見つからず、先輩の後ろに立ち尽くす。

 

 幸い、ここはほとんど人が来ないので人にあまり見られる心配がない。唯一4階で部活動をしている吹奏楽部も、こちらとは反対側の階段の方に音楽室があるので、彼女たちがうっかり目撃してしまうという心配もない。なんか、まるでこれからイケないことをするかのように聞こえるがそういう事ではない。多分……。


 「せ、先輩……」


 さすがに沈黙に耐え切れず、思い切って声をかけてみた。

 すると次の瞬間、目の前の先輩が勢いよく振り返って髪をなびかせながら、無言で僕の胸に飛び込んできた。


 「せ、先輩……?」

 「ごめん……」


 先輩は顔をうずめたままぎゅっとか細く僕を抱きしめた。泣き声とともに、体が震えているのが一目でわかった。

 僕は、そんなさっきとは打って変わってか弱くなってしまった先輩の体に腕を回し、優しく抱きしめた。


 「先輩、さっきはありがとうございました。僕の事、助けてくれたんですよね?」

 「……うん」

 「すごくうれしかったですよ。だからもう泣かないで?」

 「……違うの」

 「え……?」

 

 先輩は顔を少しだけ上げて少しだけ顔を見せた。その眼には涙が流れていた。


 「私、カイ君に悪いことしちゃった。カイ君に、迷惑かけちゃったのっ……」


 声が震えたのが聞こえたのと同時に、背中に回した先輩の手が僕のジャージをぎゅっとつかんだのが分かった。

 僕は黙って先輩の続く言葉を待つ。


 「卓也にね、前に一度告白されたの。その時私断ったんだけど、諦めてくれなかったみたいで、それからもちょくちょく言い寄ってきて……」


 さっきの鈴木先輩の事だとすぐに分かった。先輩からあの人の名前が出るのは少しもやっとしたけれど、我慢して聞き続ける。


 「ちょっと前までは事あるごとに私のところに話しかけてきてて、でもそれくらいならいいかなって思ってたんだけど、……カイ君と付き合い始めて、学校中にそれが広まり始めた時、また彼が告白してきたの……。当然、私は断ったんだけど、そしたら彼が、私と付き合ってるってクラスの子たちに広めてっ……」


 先輩の声が再び涙声になる。僕は自分勝手でしつこく先輩に言い寄る鈴木先輩に今度ははっきりとした憤りを感じた。


 「私、やめてって言ったんだけど、全然やめてくれなくて……。ついにはカイ君にまで……。ホントにごめんね……?私がもっとはっきり言っておけば、こんなことにはならなかったのにっ……」


 かき消えそうな声に耐え切れなくなった僕は、先輩の体をぎゅっと力強く抱きしめて言った。


 「もういい。もういいです先輩っ。これ以上、自分を責めるのはやめてください」

 「でも、私のせいで……」

 「先輩は何も悪くないっ!悪いのはすべて僕です。先輩が苦しんでるのを知らずに勝手に舞い上がってた僕のせいです」

 「そんな……、どうして?私のせいにきまってるのに、なんでそんなに優しくしてくれるの……?」

 

 「そんなの、大好きだからに決まってるだろっ!」

 

 何にイラついたのかはわからない。でも、なぜか頭に血がぐわっと上ったのを感じた。柄にもなく、口調が荒くなってしまったが、そんなことはどうでもよかった。

 先輩が恐る恐る顔をこちらに向ける。


 「……こんな私でも、好きでい続けてくれるの……?」

 「……もちろんです」

 「…………よかった。うれしい……っ」

 

 そう言うと、先輩は子供の様に顔を歪ませて声を震わせた。


 「私っ、カイ君に嫌われたんじゃないかって怖くなっちゃって、それでっ……」


 もうほとんど涙声になっている先輩は顔をくしゃっとして、それでも笑顔を取り繕おうと努力する。


 「大丈夫ですよ。先輩の事、嫌いになるわけないじゃないですか」


 僕も、熱くなる心臓をなんとか抑え、精いっぱいの穏やかな笑顔を作る。


 「ほんと……?」

 「本当です。だから、もう泣かないで?」


 僕は、肩を小刻みに震わせている先輩の頭を優しく2度、3度と撫でた。

 それから僕たちは誰も来ないこの場所でしばらくの間、無言で抱きしめあった。1秒も離れたくないという想いから。

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