第20話 先輩20 失恋

 カッカッカッ……


 「いいですか?ルートの計算はまず初めにルートの中を細かく区切ること。掛け算から始めようとすると、素因数分解するときに二度手間になってしまう。なので、この問題で例えるなら、……」


 そう言って教科書の例題を黒板に書きながら、解説する先生。後ろからはべったりと汗がワイシャツに染みているのがよくわかる。それを見て、前の席の女子たちはクスクスと笑いを必死に抑えている。

 それに気づいているのか、はたまた気づかないふりをしているのか、全く後ろを見る気配もなく永遠と黒板に話しかける数学教師。

 

別に悪い先生ではないのだが、教え方が正直あんまり上手ではない。それはクラスのみんなも重々承知のようで、半分は1時間目だというのに机に突っ伏して爆睡している。残りの半分はというと、教科書……ではなく、別冊の問題集を開いて自力で勉強をしている。こっちのほうが遥かに点数が取れるのだから仕方がない。

 かく言う僕も断然後者だ。普段なら。


 「はぁ……」

 

 あごに手を置き、肘をついて一つため息をつく。


 「はぁ……」


 繰り返すこともう1度。

 

 「はぁ……」

 「ちょっと、集中できないんだけど」


 3回目のため息で、隣の明日香から苦情……じゃなくて指摘を受ける。


 「ごめん」


 同じくひそひそ声で淡々と返す。


 

 カサッ


 彼女はルーズリーフを取り出し、何やら書き始めた。そして書き終わるとそれを4つ折りにし、僕の机の上にポイっと投げてきた。


 カサカサ


 『どうしたの?』


 チラッと彼女の顔を見るが、視線は問題集にくぎ付けだ。


 僕は「なんでもないよ」と続けて書いて、同じように明日香の机に手紙を返す。


 チラッと紙を見ると、またすぐに何かを書き、こっちに投げ返す。


 『嘘バレバレ』


 なにその単語の羅列。

 なんて返そう……。


 カサッ……


 すると今度は僕が書き始める前に、明日香からもう1通投げ入れられた。


 『この後事情聴取ね』


 今度はバッと思いっきり彼女の方をガン見する。しかし、書いた本人は相変わらず問題集に夢中だ。

 仕方ないので、とりあえず僕も問題集を開くことにしたが、結局その時間は1問も進まなかった。

 ちなみに前の席にいる優斗からも手紙らしきものが投げ入れられたが、それは見なかったことにした。


 キーンコーンカーンコーン



 チャイムが鳴ると同時に僕は席を立ち、廊下の方へと足を動かす。


 「どこに行くのかなー?」


 明日香の喉から、「逃がさない」という声が幻聴で重なって聞こえた気がした。

 

 「ちょ、ちょっとトイレ……」

 「給食時間にじっくり聞かれるのと、今ここで手短に話すのとどっちがいい?」

 「戻ります……」

 

 卑怯な選択を迫られ、やむを得ず自分の机に戻る。

 ただの言葉の綾かと思ってたよ、「事情聴衆」。


 「それで何があったの?」

 「ほんとに大したことでは……」

 「はぁっ……、なんて普段はめったに言わないカイ君が1時間永遠と吐き出してたら、大したことにしか思えないよ」

 「ぼく、そんなにため息ついてた?」

 「うん、呼吸する度に吐き出してるくらい」

 

 マジか……。僕の換算では3回だったはずなのに。


 「別に話したくないんだったらいいんだけど、でもそんなにため息つかれると、こっちだって心配になるよ」

 「あ、ごめん、授業中うるさかったよね……」


 まさかそんなに心配させていたとは、申し訳ないことをした。


 「うるさいとかの問題じゃなくて、悩み事があるならちゃんと相談してほしい」


 じっと僕の顔を見つめる明日香。この表情は見覚えがある。でも、すぐにそれを否定した。


 「んー、だれにも言わないでほしいんだけど……、実は先輩と付き合うことになった」



 ……


 数秒の沈黙。



 「えっ……?付き合うって、恋人になったってこと?」

 「そういうことになるのかな」

 「いつから……?」

 「えっと、昨日から」

 「そ、そう……」

 「あ、明日香、どうかした?」

 「えっ!?だ、大丈夫っ。よかったじゃん、おめでとう」 

 「うん、ありがとう」

 「それで、出来立てほやほやカップルのどこに不満があるのかな?」

 「ふ、不満っていうか、どうしたらいいかわかんなくて。恋愛なんて初めてだし」

 「そういうことね。要するにただのノロケってわけだ」

 「あのなぁ、こっちは真剣に……」

 

 僕が半分呆れた顔でそう言うと、明日香は肩を揺らして笑った。


 「あははは、ごめんごめん。でも、相手はあの先輩でしょ?なら心配しなくてもむこうからリードしてくれるよ」

 「それは男としてどうなんだ……」

 「まぁ、たまにはカイ君から引っ張ってあげるくらいでいいと思うよ」

 「そういうもんかなー?」

 「そういうもんなの。むしろ、あのカイ君が女子をガンガンリードしてたらちょっと引くかも……」

 「ねぇ、それどういう意味?」

 

 こらえられず、さらにお腹を抱えて笑い出す明日香。笑いすぎて、涙目になってるし。


 「あははは、はぁ……。まぁ、2人なら全然うまくいくと思うよ。だから頑張って」

 「そっか……。ありがとう、なんかすっきりしたよ。さすが明日香」

 「ふふっ、どういたしまして。あ、授業前にちょっとお手洗い行ってこよっと」


 そういって、明日香はタンタンッと廊下に出て言った。


 やっぱ明日香ってすごいな。きっと恋愛経験も豊富なんだろうなー。


 そんなことを考えながら、次の授業の教科書を机に出し始めた。



 


 ぐすっ、ぐすっ……。

 

 「ほら、もうすぐ授業始まるぞ」

 

 明日香の頭の上にハンカチが置かれる。


 「あ、ありがと……。ぐすっ。もしかして、さっきの聞いてた、優斗?」

 「なんのことだか」

 「ふふっ。あーあ、先越されちゃったな。悔しいっ」

 「そうだな」

 「小学校のころからいつも一緒にいてさ、放課後に遊んだことだって1回や2回じゃない」

 「あぁ、そうだな」

 「それで、中学になっても同じクラスで、同じ班で、隣の席で、……なのに、なのにっ!私よりも全然一緒にいる時間が少ない先輩の方がっ……!!」

 「……」

 「……私の方がずっと好きだったのになぁ、カイ君の事」


 今にも崩れそうな笑顔を、必死に取り繕うとする明日香。

 優斗はその表情に何も言えず、ただただ見つめることしかできなかった。


 2時間目のチャイムがすでになっていたのに気づいたのは、それからしばらくしてからだった。

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