もうフセインのニュースはやっていない

 俺がフジロックに行ったりサッカーにハマったり本屋と土産物屋でダブルワークしたり浮気して彼女を乗り換えたりしている間に、アメリカのジョージ・ブッシュが大量破壊兵器保有の疑いを理由にイラクに攻撃を仕掛け、フセイン像は倒され、サダム・フセイン本人も捕まって処刑された。イラク戦争だ。

 アメリカの攻撃開始は二〇〇三年三月。フセイン像が米兵によって引き倒されたのが同年四月、フセインが捕まったのが同年七月、処刑されたのは二〇〇六年の終わりだ。アメリカが攻撃開始した次の日が俺の大学の卒業式で、教授は送辞の際に次のような言葉でアメリカの攻撃開始を批難した。


「職業に貴賤は無い、しかし人間に貴賤はある」


 俺はその言葉をそれから十五年以上の間何度も反芻し、時に肯定し、時に否定し、いまだ答えることができないでいる。果たして人間に貴賤はあるのか?

 フセイン像が倒された二〇〇三年四月に何をしていたのか、俺は覚えていない。

 フセインが捕まった二〇〇三年七月に、俺は友達とフジロックに行ってビョークを見逃して、ロイクソップで踊って、ティム・デラックスで踊って、踊っている最中に欧米人のゲイと思しき男性に抱き付かれた。彼は確か真っ赤なTシャツを着ていた。さっきも話したが、俺はそのフジロック最終日に高熱を出し、帰ってからパクノダさんに電話で毒づかれるのだが、ゲイと思しき男性に抱きしめられている時にはもちろんそんなことは知らずに、どうせ抱き付かれるなら女の子がいいなあ、フジロックでワンナイトねーかな、なんて思っていた。その間にイラクで数えきれないほど多くの人が死んだ。幼い子どもが家や家族を失った。その子どものうち何人かは、きっと十数年後にイスラム国に参加している。

 教授の言葉を借りる。


 人間に貴賤はあるか?



 ※※※※※※


 イラク戦争は二〇一一年十二月にバラク・オバマによって改めて終結宣言がなされている。この戦争における現在までのイラク民間人の総死者数は調査機関によって大きく異なっており、少ないところで約二十万人、多いところでは六十万人以上とされている。

 フセインが捕まり俺が高熱を出した二〇〇三年のフジ・ロック・フェスティバルは、開催七年目にして初めて来場者数が十万人を超えた。


 ※※※※※※



 サダム・フセインが処刑された二〇〇六年末、俺はストーカーに困っているという女の子に疲れ切っていた。

 二十代を折り返し、本屋と土産物屋のダブルワークに疲れ、パクノダさんから乗り換えたナナとはあっさり別れ、相変わらずバンドも売れていなかった俺は、就職することにした。でもいきなり正社員の道なんて全然なくて、とりあえず社員登用ありの輸入古着ネットショップ運営会社にバイトで入りこんで、ウェブデザインだかなんだかの真似事をした。毎日毎日倉庫で古着のしわを直して、カメラで撮って、フォトショップでさらにしわを直して色味も直して切り取って、《この夏のイチオシ☆ カジュアル・ママにおすすめアバクロのサマーニット♪》みたいなくっだらないキャッチ付けてアップして……。カジュアル・ママってなんだよ、シリアル・ママみたいなものか?

 その職場の事務に、短大出たての茶髪の女の子がいて、背がちっさくて胸が大きくて、なんだかすぐにやれそうだな、と思って俺はちょくちょくその女の子と話すようになる。「お互い社員登用目当てで入ったけど、ホントに社員なれるんですかねえ」みたいな会話をしてるうちに、「××さん、彼女いないんですか」「一年くらいいないかな、そっちは?」「私も同じくらいいないですね~」みたいな話もするようになって、ある日「ちょっと誰にも相談できてないんですけど……最近うちのポストになんかヘンな物が入ってて」と彼女が言い出す。

 数日前から、ポストに差出人の分からない手紙やプレゼントが入っていて、気持ち悪いと思って捨てていたら、ついに昨晩誰かが部屋の呼び鈴を鳴らしてきて、ストーカーかと思うと怖くて眠れなかったと彼女は続け、深刻そうな口元と、対照的に甘えた上目遣いで「もし良かったらなんですけど今日家まで送ってくれませんか? 一人で帰るのホント無理で……」と相談を受けたものだから、俺はのこのこ付いていってしまう。「家まで送ってくれませんか?」は、「怖いからちょっとだけ家に居てほしい」になり、「今夜は泊まっていってほしい」になる。彼女があまりに怖がるので泊まっていくことにするが、さすがにこの状況で手を出すのはどうなんだろうと俺も思い、俺は床で毛布にくるまって眠る。いつストーカーがやってきてもいいように、玄関の近くで。

 その晩は呼び鈴は鳴らず、朝になってポストを見ても何も入っていなかったので、「ひとまず良かったね、でももしまた何かあったらすぐ呼びなよ。夜中でもいいから」と言って俺は帰る。さすがに悶々とはしていたので帰りにレンタルビデオ屋でアダルトビデオを借りる。VHSからDVDへの過渡期だ。店によっては両方置いてあったが、やがてどこもVHSは中古で投げ売りはじめる。古いドラマやアニメがシリーズでまとめ売りされていたあの風景。

 数日後にまたポストにストーカーからの手紙が入っていたと相談を受け、再び彼女を家まで送る。「どんな手紙だったの?」「怖かったから、すぐに捨てちゃいました……」この辺で俺もストーカーは彼女の狂言や妄想じゃないかって思い始めるんだけど、仕事中は普通の子だし、疑うのは悪い気がしてしまう。で、家に着くとまた「泊まっていって」が発動して、こないだは床に毛布で耐えられたけど、一週間で何でこんな寒くなんの? ってくらいフローリングは冷たくなっている。それでも玄関の前で毛布にくるまって寝ようとしていると、彼女が「寒いだろうから一緒に寝よ」と言ってきて、「いや、それはまずいんじゃないかな」「でも寒いでしょ、風邪ひかせたら悪いよ」「いやいや、大丈夫今日着込んできてるし」で、落ち着いたと思ったのだが、電気を消してしばらくしてから彼女が「起きてる?」って聞いてきて、「起きてるよ」と返すと「怖いから、一緒に寝てほしい」から再びの押し問答。面倒臭さと性欲とどうせストーカーなんて嘘なんじゃねえのという疑念と寒さのせいにして、俺は彼女のベッドに移動する。まあするよね、セックス。で、来ないよね、ストーカー。

 朝になって、やっちまったなあと思いながら彼女に「ねえ、ストーカーって……」と聞こうとすると、ドラマみたいに彼女は俺をさえぎって「私たち、付き合ってることにしてもらっていいですか!」と叫ぶ。「もしストーカーに遭った時、彼氏のフリして助けてくれるだけでいいんです。ホントに付き合ってるとかじゃなくて!」「ああ、それなら……」。

 ああ、それなら良いよ。なんて言った覚えはないのだが、仕事帰りに彼女を送るのが俺の日課になってしまい、玄関まで送っても彼女はやっぱり帰してくれない。最初のうちは大きな胸とゴム無しでやらせてくれるのにつられて俺も喜んで泊まっていくのだが、全然呼び鈴は鳴らないしポストには手紙もプレゼントも入っていない。会社を別々に出た後に駅近くのコンビニで待ち合わせて二人で帰るのが当たり前になり、彼女は怖がる素振りもどんどんなくなって、笑いながら「ポテチ買って帰るけど、うすしおとコンソメどっち派?」とか聞いてくる。毎日月~金でそれが続いて、金曜夜から日曜までは彼女の家に泊まりっぱなしで全然自分の家に帰れなくなり、俺はあっさり嫌気がさす。嫌気がさして、「今日は自分の部屋に帰る」と言うと彼女は引き下がらず、ガムテープを汚く剥がすみたいにして彼女から無理矢理離れて自分の部屋に帰る。すると今度は「ストーカーが来た、助けて!」って電話とメールが鳴りやまない。《夜中でもいつでも助けに行くって嘘だったの?》ってメールが来て、ああもうちくしょう、戻る。ストーカーなんていない。部屋に上がる。帰してもらえない。なしくずしに、やがて捨て鉢に、まれに積極的に、最終的に惰性で、俺は彼女のまんこにちんこを入れ、彼女の具した食事を胃に入れる。

 いつの間にか職場でも俺と彼女は付き合っていることになっていて、年末にはいよいよサダム・フセインが正義の名の下に処刑された。


 その頃には彼女の中で俺たちは完全に付き合っていることになっていて、年末休みも彼女の部屋で過ごしていた。

 彼女は嬉しそうに「初詣、どこ行く?」とか聞いてきたから、俺はテレビのニュースを消して彼女に向き直った。

「あのさ、俺たち付き合ってないよね?」

「え?」

「ストーカーが怖くて、彼氏のフリをしてほしいってことで……そんで、」

「私、××さんのこと好きですよ? ××さんは私のこと嫌いですか?」

「いや、ちょっと、そういう話じゃなくてね」

「答えてください」

「いや、嫌いじゃないけど」

「じゃあ、好きなんですよね?」

「だから、そういう話じゃ」

「好き同士でセックスもしてて、だったらいいじゃないですか。他に気になる子でもできたんですか~?」

 そう言って笑いながら彼女は俺に抱き付く。でも目が笑っていないことを俺は知っている。

「ちょ、離れて」

「やだー。ね、しよう」

「分かった。しよう、話をね」

 俺は彼女を汚く引き剥がす。ガムテープみたいに、ベリベリベリベリ。

「やだやだ、しようよー」

「話をね。会話をね」

「違うの、エッチするの」

「しません」

「いっつも、最後はする癖に」

 その通りだ。彼女に押し倒され、見える場所にキスマークを付けられ、フェラチオからの騎乗位で、俺のちんこは生で彼女のまんこにインサートされる。俺はパクノダさんが恋しくなって、何で浮気とかしちゃったんだろうって考えて悲しくなって、しかもその浮気して乗り換えたナナともすぐに別れて、今抱いてるのがこの女?

 別に顔も大して可愛くないし、話や趣味はパクノダさんやナナの方が断然合ったし、この子はきっと俺が一人でフジロックに行って風邪をひいて帰ってきても、パクノダさんのように怒ってはくれない。それを思うと泣きたくなって、自分が本当に気持ち悪い。勢いに任せて中出ししそうになったけど、こらえて彼女の腹の上に出して、俺はティッシュで雑に自分の性器を拭いて、着替えて外に出る。彼女が何か喚いていたけど、全部無視して自分の部屋に帰る。ずいぶん久しぶりだと思って、携帯の電源は切ってテレビを付ける。

 もうフセインのニュースはやっていない。

 全部嘘だったみたいにおめでたい年末の雰囲気一色になっていて、紅白歌合戦にチャンネルを合わせるも知らない歌ばっかりだったからやめて、ダウンタウンのガキの使い・笑ってはいけない特番を観る。面白い面白い面白い面白い面白い面白い面白い面白い超面白い……なんて言い聞かせている内に俺は眠っていて、起きたらテレビは付けっぱなしで二〇〇七年になっている。

 携帯の電源を入れると着信履歴とメールボックスは彼女からでいっぱいになっていた。

 

 ハッピーニューイヤー。

 フセインは、俺なんかよりもはるかに懸命に生きたはずだ。

 果たして人間に貴賤はあるのか?



 ※※※※※※



 そこでスクリーンは暗転した。


 俺は大きく息をついて、隣に座っていたミライを見た。

 ミライが口を開く。

「休憩しようか」

 ミライは立ち上がり、キッチンへと消えた。

 残された俺は、暗転したままのスクリーンをもう一度見て、そしてそれからもう一度ミライが消えたキッチンの方を見た。キッチンへの扉は閉められていて、ミライがあの向こうで何をしているかは分からない。

 水を出す音が聞こえ、カチャ、と何かのスイッチを入れる音が聞こえた。お湯を沸かしているのかもしれない。

 なんとなく、このままミライが戻ってこなかったらどうしよう、と思った。そして、ミライがさっきまで座っていたクッションを見た。彼女のおしりの形にへこんでいた。

 クッション。

 ミライが出したクッションは三つあった。

 俺のと、ミライのと、そこに座るはずのあなたの分。

 ところが、最後のひとつがさっきまであったはずの場所から無くなっていた。俺は部屋を見回し、三つめのクッションを探した。部屋にはスクリーン以外何もないから、すぐに見つかりそうなのに、薄暗いせいか全然見つからない。

 ミライが片付けたのか? そう思った時、俺は初めて気が付く。


 固く閉じられた黒く重たいカーテンの脇に立っている、あなたの姿に。

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