波紋のように広がって届く

 二〇〇四年。アテネ五輪とサッカーアジアカップがあった年だ。

 俺は全然スポーツに興味が無かったのだけど、二〇〇二年の日韓ワールドカップ前からサッカーだけは観るようになった。きっかけは当時バイトをしていたコンビニの先輩がサッカー好きで、レジでいつもサッカーの話をしていたせいだ。彼は仕事を丁寧に教えてくれて、サッカー観戦についてはそれ以上に丁寧に教えてくれた。基本的なルール、当時の日本代表やJリーグの状況、海外サッカーについて一通り話した後で、彼は「今週代表の試合がテレビでやるから。明神をずっと観たらいいよ。そうしたらサッカーの面白さが分かる」と言った。俺は彼の言うことを信じて、テレビの前で明神という選手のプレーを追いかけた。最初はよく分からなかったが、後ろの方の選手は守備ばかり、前の方の選手は攻撃ばかりしているのに比べて、明神だけは守備も攻撃も参加して忙しそうだということがだんだん分かってきた。サッカーはボールが絶え間なく動いて目まぐるしく攻守が切り替わるが、どうやらそのカギを握るポジションがちゃんとあるらしく、当時の日本代表では明神がそこを任されていたわけだ。後日、コンビニの先輩がそのポジションはボランチというのだと教えてくれた。ボランチ。名前もいい。その先輩の名前も顔も覚えていないけど、おかげで俺はサッカーとボランチを覚えた。

 それがちょうど、二〇〇二年日韓ワールドカップが開幕する前だったから、当時付き合っていたパクノダさんには「サッカー観んの? 超ミーハー! ワールドカップかぶれのにわかサッカーファンやん! イタいなぁ~」と笑われた。彼女は俺を指さし、腹を抱えて笑った。彼女も俺もスポーツになんか縁のない、音楽や映画やセックスが好きな文化系大学生だったから仕方ない。

 以来、俺は代表親善試合や国際大会のテレビ中継だけを観るにわかサッカーファンを二十年近く続けている。明神智和と中村俊輔と中田英寿と中田浩二、三都主アレサンドロ、鈴木隆行たちがいた二〇〇二年。その後長く代表を支えた遠藤保仁や加地亮。ずっとベンチからピッチを見つめていた三浦淳寛。結局代表に定着できなかった田中達也。二〇〇六年にこそ呼ばれるべきだった《ル・マンの太陽》松井大輔。二〇一〇年にPKを外してその松井に肩を抱かれた駒野友一。二〇一四年にワールドカップ本大会だけ招集されピッチで苛立っていた大久保嘉人。そして、ヴァイド・ハリルホジッチの不可解な解任の後、試合に勝っても勝負に勝つことなくベスト8に最も近付いた二〇一八年。

 熱狂していた時もあったし、冷めていた時もあった。

 俺が一番覚えているのは、二〇〇四年に中国で行われたアジアカップだ。


 二〇〇四年アジアカップ。ジーコ監督率いる日本代表は優勝候補筆頭と目されながら、大苦戦を続けていた。延長やPKまでもつれこむゲームが続き、暑さと中国サポーターからのブーイングもあって疲弊していた。その大会を、俺は本屋のレジに座ってラジオで聴いていた。客の来ない夜の本屋で、一人きりで、ギリギリまでラジオの音量まで上げて、少年漫画のように毎回大苦戦の末勝利する日本代表の姿を耳で追った。

 俺は当時もう大学を卒業していて、フリーターのバンドマンだった。アルバイトは、朝から百貨店の土産物売場、夕方から夜まで個人経営の本屋。昔からある街の本屋で、近所の人が雑誌や漫画、エロ本を買いに来るくらいの、暇で暇で楽勝の店だった。俺は毎日漫画を読んだりラジオを聴いたりしながら、レジを打って気が向いたら段ボールに返品本を詰めていた。時々、店長が奥の倉庫兼住居から見回りに来たが、何も言われなかった。『のだめカンタービレ』も『いちご100%』もここで読んだのを覚えている。そして、サッカーの試合がある時はいつも店のラジオでサッカーを聴いていた。

 二〇〇四年アジアカップ準々決勝、日本対ヨルダン。

 撃てど撃てど日本のシュートは枠を外れ、数少ないヨルダンのチャンスは毎回日本のサポーターに冷や汗をかかせた。実績やネームバリューでは日本が勝っていたかもしれないが、試合内容は互角だった。延長でも試合は決まらずPK戦となった。本屋の閉店時間が近づき、店には客はいない。俺は延長とPKの間に、急いで店のシャッターを下ろしにいき、走ってレジに戻った。

 するとレジに店長が立っていて、真っ赤な古いポータブルテレビを捨てるみたいにゴン! と置いて、ぼそりと言った。

「見ていいよ」

 店長はそのまま奥に戻っていった。

 だから俺は、あの試合のPKを、立て続けに日本が二人シュートを外し誰もがもうダメだと思ってから、宮本恒靖のエンド変更交渉で流れが変わり、川口能活の神か悪魔がとり憑いたかのようなセーブの連発により奇蹟としか言いようがない逆転を果たしたPK戦を、小さな本屋の誰もいないレジカウンターの中で、真っ赤な古いポータブルテレビにかぶりついて観ていたのだ。

 勝利が決まった瞬間、返品コミックを詰めたダンボールに囲まれながら、俺は雄叫びを上げてガッツポーズをした。店長が奥から顔をのぞかせて、多分笑って、また引っ込んで行った。

 奇蹟はこういうところにもちゃんと届く。波紋のように広がって届くことがあるってこと。


 夜は本屋、昼は百貨店の土産物売場でバイトをしていたので、毎日十二時間くらい働いていたはずだ。でも全然お金がなかった。この頃から、失われた十年、ロスジェネ世代、ワーキングプアといった言葉をよく聞くようになって、俺たちは貧乏くじをひいたのかもしれないと思わされることが増えていった。俺がモラトリアムでバンドなんかをやっていたからじゃないかと思うかもしれないけど、やっぱり俺の前後数年くらい、具体的に言えばだいたい一九七七年から一九八五年に生まれた世代の多くはそうだった気がする。大学卒業後にストレートに就職できたやつよりも、フリーターか派遣社員になった奴の方が多くて、そうじゃなくても公務員試験に向けて勉強するとか、資格を取るとか、大学院に行くとか、少なからず曲がりくねった道を選択し、失敗に失敗を重ねていた。そして、数少ないストレートに就職した奴らも体か心を壊して転職や休職をしていた。

 こういうことは、どの世代にも多かれ少なかれあることなんだろう。でも、二十一世紀最初の数年がそれまでと大きく違ったのは、もう完全に手遅れなのにみんなが「まだギリギリ大丈夫」と思っていたことじゃないだろうか。当事者である俺たちも、俺たちの親世代も、ひいては日本人のほとんどが。

 まだ大丈夫。遠回りでもやり直せる。就職できる。正社員になれる。結婚できる。車や家を買うことだって夢ではない。一発逆転できる。エンド変更すれば、神がかったセーブを連発すれば、俺たちにもまだチャンスはある。

 そうブツブツと唱えながら固く目を瞑って、二十代をドブに捨てたのが俺であり、あなただ。

 とは言え、俺もあなたも毎日そんなことを考えていたわけじゃない。とっくに手遅れだったのに危機感なんて全然持っていなかった。むしろそんな毎日を楽しんでいた。俺はサッカーを観たり、フジロックに行ったり、パクノダさんとセックスしたりしていたんだ。本屋と土産物屋のダブルワークも悪くなかった。寝なくても平気だったし、食べなくても大丈夫だった。


 土産物屋に、マナカナの間に入ったら三つ子になりそうな顔の女の子がいて、しかも名前がナナで、俺はその子と寝てしまう。彼女について語れることはそんなに多くない。彼女と寝る前に一緒に行った韓国料理屋は俺が人生で食べた韓国料理屋の中で最も美味かったということ、俺はしばらく二股かけた後にパクノダさんから彼女に乗り換えたんだけど数か月で別れたこと、そしてその韓国料理屋もすぐにつぶれたこと。

 そしてもう一つ。

 それから十年以上が経った頃、韓国料理屋があった場所は周り全部が更地になって、イオンモールが建った。俺はそこで映画を観て、帰りに寄ったモール内のパン屋で、偶然ナナを見かけたことがある。

 ナナは小さな男の子を連れていて、パンを取ろうとする男の子に手を焼いているようだった。俺は無視するべきか声をかけるべきか一瞬考え、無視するべきなんだろうと思い、チョコクロワッサンに目を戻した。右手でトングをカチカチ鳴らして、左手に空のトレイを持って、パンを食べたかった気持ちはどこかに行ってしまった。しばらくして、覗き見るようにナナと男の子をもう一度見た。

 彼女はきっと結婚して、誠実な旦那さんと可愛い子どもを連れてイオンモールで買い物をするのだろう。旦那は時に誠実でないだろうし、子どもを可愛くないと感じることもあるだろう。でも、それよりも幸せなことってあるだろうか? 二〇〇四年には、こんなにも日本中のあちこちにイオンモールはなかった。

 俺は馬鹿みたいにまだトングと空のトレイを持ったまま、パン屋を出ていく彼女と男の子を見ていた。男の子は五歳くらいで、サッカー日本代表のユニフォームを着ていた。背中には《4 HONDA》とプリントされていた。


 一発逆転も、エンド変更も、神がかったセーブもなく、二〇一八年のワールドカップで日本代表はベルギーに負けてベスト8に届かなかった。翌二〇一九年のアジアカップで、日本代表は決勝に進むもカタールに圧倒され優勝を逃した。

 奇蹟以外のものも、良いものも悪いものも、判断のつかないものも、波紋のように広がって届く。否応なく時間は進み、波紋は広がり、見分けがつかなくなっていく。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る