パラレルワールドみたい
死が近いといっても、俺には持病があったり誰かに狙われていたりするわけじゃない。死神のように、親兄弟や恋人や友人の死に次々直面してきたわけでもない。だから、本当に生死に関わる状況に身を置いたことのある人からしたら、俺の「死が近い感覚」の話なんてちゃんちゃらおかしいのは百も承知だ。怒りを通り越して呆れられるだろう。実際に言われたことだってある。お前の言う死なんて所詮ファッションだ、この中二病野郎。キモいんだよ、メンヘラナルシストのかまってちゃんが。
それでも俺はこの話をしたい。長くなるけど話したい。
死が近いって感覚がどんなかというと、「ああ、なんか今日気圧低いな」「雨降ってて嫌だな」みたいな些細な憂鬱をトリガーに、自分のいない世界に移動してしまう感じ。パラレルワールドに迷い込んだみたいに、俺は本当にさっきまでこの世界で生きてたんだっけ? とか考えだして、自分がついさっき生まれたばかりのような、ついさっき死んだばかりのような感覚がして、何もかもが嘘くさく見えだす。夢から覚めたみたいな、実は全部夢だったみたいな、その感覚がやってくると急に生が希薄になって、その分死との距離が近くなる。
嫌なことが続いている時にこれがやってくると、人は本当にうっかり死んでしまうと思う。嫌なことが続いていなくても、うっかり死に近付きすぎて死んでしまう人もいると思う。うっかり飛び込んじゃったり、うっかり切っちゃったり、うっかり生を見逃してしまった末の《うっかり死》。
俺が今まで本当に死にそうになったのは三回だけで、一回目は小学三年の頃、海で溺れた時。二回目は二十代の終わりに睡眠薬と精神安定剤を赤ワインで流し込んだ時。三回目は三十代なかばでこたつのコードを天井にひっかけて首を吊った時。一回目は事故だけど、二回目と三回目は死が近い感覚と鬱による希死念慮がマリアージュしての見事な《うっかり死》だった。あぶないあぶない。
死が近い感覚と鬱による希死念慮のマリアージュは、エイヒレと日本酒、巨乳に童顔、作詞・松本隆/作曲・細野晴臣くらい間違いのない組み合わせで、そいつらがまとめてやってくると過去の嫌な思い出と後悔、恨み、悲しみ、泣き寝入り、怒り、恐怖、自己嫌悪たちがあたかも今起こったかのように一気によみがえって、手汗と脇汗をどろどろにかいて、動悸が激しくなって、ひどい場合は過呼吸も起こす。そんな時はホント上手にできているというか何というか、ちゃんと世界中が俺を追い詰めてくれて、友達にLINEやメールや電話をしても誰も出てくれない。みんな俺を愛してくれているはずなのに、たまたまその日は早く寝ていたり、仕事が忙しかったり、手が離せなかったりする。本当にみんな俺を愛してくれているのだ。でも死が近い時は往々にして誰にも連絡がつかない。
そういう時はじっと耐えるしかなくて、あらゆる手段で死から目を逸らそうと試みる。テレビとかYouTubeとか、音楽とか、小説とか。でもそんなもん一つも頭に入ってこない。なので酒や煙草やお菓子をガバガバガバガバ摂取してしまいナチュラルハイで、いやそれ全然ナチュラルじゃないんだけど、わりと簡単に飛んでしまう。セックスという手段もあるのだけれど、そんな時のセックスは、その晩はやり過ごせても絶対に禍根を残す。その後の人生における賢者タイムがハンパない。
そう分かっていてもセックスにひたすら逃げた時期があって、その時期俺は、彼女は欲しくなくて、でもセフレを作っても禍根を残しまくるから疲れてしまって、しょうがないからデリヘルを利用していた。デリヘルに電話をかける時の偽名は山下。デリヘルを呼ぶ時偽名を使う意味全然無いと思うんだけど、それでも人はデリヘルを呼ぶ時偽名を使う。個人情報が漏れるのが怖いとか恥ずかしいとかって理由もあるんだろうけど、本当の理由は、風俗で名前を偽ることを様式美だと無意識に理解しているからじゃないだろうか。そのセックスは片足分、日常でないのだ。嬢も偽名だし素の自分なんて見せない。デリヘルはファンタジーであり非日常。バーチャルなラブ&セックス。
デリヘルは大抵ホームページの写真にモザイクがかかっていて、モザイクがなくてもフォトショップで加工されているから、女の子が来るまで当たりか外れかは分からない。それに顔が当たりでも、スタイルが好みかとか話が合うかとか口が臭くないかとか色々あって、それは会うまで絶対分からない。でも、とりあえず二時間弱気がまぎれればいいわけだから、大抵のことは許せる。それでも真剣に写真を見て、その嬢のプロフィールを嘘だと理解した上で一字一句読み込めば、嘘だらけの画像とテキストの中に真実が見えることがある。それが見つかる嬢は当たりだ。だから俺はその時期、できるだけ真剣にデリヘル嬢を選んだ。
ある時そうやって真剣に選んでいると運命を感じるレベルでビビッと来た嬢がいて、俺はその子を指名する。その子はキリッとした美人でスタイルも良くて人気嬢。なんだけどそんなことより、その時俺がはまっていたアニメキャラに雰囲気が似ていて、部屋に上がってほとんど喋らないうちに、不思議と俺は安心できてしまって、プレイの前から俺は「来てくれてありがとう。なんか、本当助かった」みたいなことを言って泣きだしてしまう。憧れのヒロインが画面から出てきたとまでは言わないけど、違う世界から女の子が俺を助けにきてくれたように見えたのだ。
彼女はそんな俺を優しく、エロとかじゃなく母性をもって抱きしめてくれて、しかもその後にはちゃんと母性モード解除してエクセレントにエロいこともしてくれて、時間ぴったりに終わらせて静かに帰っていった。そのプロフェッショナルな仕事は俺を癒し感動を与え、あおむけのままベッドで放心させる。そのまま、死が近い時のセックスがもたらす賢者タイムに襲われることなく俺は安らかに眠る。人類最古の仕事と言われる娼婦の神業。何千年と受け継がれてきた愛の技術。
明け方に、そのデリヘル嬢が俺の家に再びやって来て俺は起こされる。
彼女は「泊めて」と言い放ち、それから約半年俺の部屋で過ごす。毎日ではないが、だいたい週に三、四回仕事で様々な男に抱かれた後、俺の部屋に上がり込んで眠り、俺が仕事に行く頃に一緒に起きて自分の家に帰るようになる。もちろん彼女は俺ともセックスをする。初めの三ヶ月くらいは、それまでセックスワークをしてきたとは思えないほど、明け方に彼女は俺と濃密なセックスをする。だけど三ヶ月ほど経ったところでぱたりと俺たちの間にセックスが無くなる。彼女はうちに来てただただ眠るだけになる。少しは話したり漫画を読んだりご飯を食べたりもするが、だいたい眠る。彼女は眠り続ける。まるで村上春樹の小説みたいだけど、あなたの予想通り、ある日彼女は前ぶれもなく出ていった。
これも嘘みたいだけど本当の話。
彼女は俺にとって最後の風俗嬢。彼女がいなくなってから、俺は真剣に嬢を見極めることができなくなってしまった。嘘だらけの画像とテキストの中から真実を見抜くスキルを失った。こんな風に、生きていく上で特殊な場合にのみ発揮されるスキルもあるってこと。そしてそれは役目が済んだら消えてしまうってこと。
俺は死が近い時にセックスに逃げることは無くなったけど、相変わらず月イチくらいで死が近い感覚は襲ってくる。最近はもう生理だと思うようにしている。ああ、今月重いな、みたいな。俺は男だからあくまで想像だ、ごめんよ。
「今の話、私以外の誰かに話したことある?」
俺がダムに残った水を残らず吐き出すみたいに喋り倒し、乾いたコンクリートみたいに黙ったのを見届けてから、ミライはそう言った。
「ない。するわけない」
「そう。でも今だって、私以外の誰が聞いてるか分かったものじゃない」
そうだね。
あなたが聞いている。
あなたは今、黒い椅子に座って告白する俺と、白い椅子に座ってそれを受け止めるミライの会話を聞いている。俺たちを見ている。その視点は俯瞰かもしれないし、俺たちと同じ高さかもしれない。もうひとつ用意された椅子にあなたが腰かけているのかもしれない。でも、その椅子が何色なのか俺からは分からない。
その時ミライが立ち上がり、俺の手をとって、立ち上がらせる。
「なんだよ」
「行こう」
ミライは俺をひっぱって、部屋から出す。俺は部屋着にサンダルで、ミライはラフだけどそのまま遊びにも行けそうな可愛い服を着ている。その服がシャツかワンピースかニットか、どんな色でどんな形をしているかは俺には分からないから、あなたが思うままのラフだけど可愛いミライを想像してほしい。それが正解だ。
マンションの廊下に出て、部屋のドアに鍵もかけずにミライは階段へと向かう。降りて外に出るのかと思ったら逆に階段を昇っていく。俺はこのマンションにもう四年以上住んでいるけど、自分が住んでいる階より上に昇ったことがない。ベランダや屋上があるならまだしも、そんなものはない。用事のない階には訪れない。それが普通だろう? でもミライはまるで通い慣れているかのように階段を昇り、一番上の階まで行ってそのまま廊下を迷いなく進む。一番上の階は当たり前だけど俺が住んでいる階と同じような部屋の配置で、俺が住んでいる階と同じつくりのドアが並んでいるのだけど、何故だか全然違う場所に迷い込んだような気分になる。よく似ているのに全然違う。パラレルワールドみたいだ。
ミライは一番上の階の一番奥の部屋の扉の前で立ち止まり、背伸びして、扉の横に付いている電気メーターの上に手を伸ばす。そこには部屋の鍵が隠されていて、それを使ってミライは自分の部屋のように堂々と中に入る。
ミライは自分の部屋のように迷いなく灯りのスイッチを付け、自分の部屋のように俺に向かって「上がって」と言う。その部屋は俺の部屋と同じくらいの広さだと思うが、物が無かったから広く見えた。誰かが引越した後みたいにからっぽだった。でも完全に何も無いわけじゃない。窓には重たそうな黒い遮光カーテンがかかっていて、そして壁にはスクリーンがあった。
「なにここ?」
俺が言うと、ミライは無表情で「マンションの一番上の一番奥の部屋」と答えた。そしてどこから出したのか、クッションを三つ床に転がした。
「おしりが痛くなるといけないから。あと、この部屋は冷えるから」
「ここはミライの部屋なの?」
「違う」
「誰の部屋?」
「誰かが住んでいる訳じゃないよ。安心して、誰かに怒られたりはしない」
ミライはクッションのひとつに座り、そして続けた。
「誰が見ているか分からない。それはどこでも変わらない。この世界に、誰の視線からも逃れられる場所なんてない」
俺も黙ってもうひとつのクッションに座る。あとひとつのクッションは余ったままだ。
「だったらもう、全部観てもらった方がいい」
部屋の灯りが勝手に消え、同時にスクリーンに試験電波のような砂嵐が映った。
ミライが続ける。
「わからなくっても、全部を観てもらうべきなんだよ」
ざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
というノイズ音が聴こえ、俺はスピーカーはどこにある? と思って見回すが、暗くて見当たらない。
砂嵐の中に文字らしきものが混じり始め、やがてそれが四桁の数字だと分かる。数字は旧式のテプラみたいにカシャ、カシャ、と回り、様々な何千何百何十何をルーレットのように……1352……0316……2401……0243……9840……6457……8120……と回り続け……0137……5794……2321……6056……5762……1919……1945……やがて……1980……1994……1998……1999……
2000.
数字が止まった瞬間に俺は、ひとつ余ったクッションがあなたの分だと気付く。
スクリーンに映像が流れ始める。
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