Music, Sex and Prayer after Millennium

野々花子

第一部

ミライとの会話(1)


 ※※※※※※※※※※※※


「ミライは幸せか?」と俺が問えば、あなたはどう答える。


 その質問を二〇〇〇年に聞かれていたら、あなたはどう答えていた?

 俺もあなたも今より二十歳若く、考えなしで、無責任で、無邪気で、そしてそれが許されたあの二〇〇〇年だ。

 あの事件も、あの戦争も、あの災害も、あの自殺も、あの裏切りも、あの諦めもまだなかった、想像すらできていなかった二〇〇〇年だ。

 あの頃、ミライは幸せだったか?


 そして今は?


 ※※※※※※※※※※※※



「私は××と居られて幸せだよ」

 目の前にいるミライはそう答えた。

 ××には俺の名前が入るんだけど、そこにはあなたの名前を入れてもらっても構わない。

 黒い椅子にだらしなくもたれた俺とは対照的に、ミライは白い椅子に姿勢よく座っている。ここは俺の暮らす部屋で、俺とミライしかいない。だけどあなたが見ている。

 あなたから見て、俺とミライは釣り合っているだろうか。

 もったいないと思うかもしれない、ミライはとても美しいから。

 でもミライは俺の物だ。

「なあミライ」

「ん」

「俺は時々、ああ死が近いなって思うことがあって、それは年齢のせいとか、十年以上俺が鬱病でアップダウンしているせいもあるんだけど」

「でもたぶんそうじゃなくて、もっと根本的に昔から俺の中にあるもので。そういうのって分かるかな、死が近いって感覚」

「えっと、時間じゃなくてもっと物理的に近いような。うっかりすると死が隣にいるみたいな」

 俺はミライの返事を待たずに、思い付くままに喋る。

 少なくとも十四歳の時。

 それは前世紀の話で、陸上部で同学年だった江崎くんと学校帰りに坂道を下りながら「時々死にたいとか思うことあるよね?」と俺は確かに尋ねた。江崎くんは驚いて「ないよ、思ったことない」みたいな返事をした。どんな流れで俺がそれを尋ねたかは覚えてないけど、江崎くんが驚いただけじゃなくて少し気味悪がった様子だったことは思い出せる。たぶん、どんな流れでその話になっていても、彼はそんな反応をしたんじゃないだろうか。俺は江崎くんと特別仲が良かったわけではないけれど、彼と俺は三年間中学校のグラウンドを一緒に何百周も、誇張でも何でもなく本当に何百周も一緒に走った仲だったから、彼があの時本当に驚いていたことくらいは分かったし、それは二十年以上経った今も俺の記憶に刻み込まれている。

「ああ、妙にその場面だけ鮮明に覚えている記憶ってあるよね」

 ミライは特に表情をそう変えずに言った。元々彼女は感情の起伏が少ない。

「うん、まさにそういう感じで。だけど俺だって江崎くんの答えにびっくりしたんだよ。だって死にたいとか死が近いって感じるのってとても普通のことで、みんながそう思っているもんだと俺は思ってたから。じゃないと、二十年ずっとその日の天気まで全部覚えてない。すっごい晴れてたんだよ、学校帰りの坂道を下りながら線路の前で江崎くんが、えっ、ないよ、思ったことないって驚いて、俺は線路の上のパーって開けた青空を見ながら、ええ~? ないの? あるでしょ? って思ったんだって」

「晴れてたの?」

「うん」

「季節は?」

「それは覚えてない」

「そういうのってどこまでが本当か分かんないよね。その江崎くんがどう思ったかとかもさ、全部××の印象というか、記憶でしょう」

 責める感じではなく淡々とミライがそう言うので、俺は少し黙った。

 その後で言い訳みたいに「でも、すごい覚えてるんだ」と言った。

「じゃあ、私もちゃんと覚えておいてあげるよ」とミライが言う。

 ちなみに二十歳くらいの頃に最後に会った江崎くんは、眼鏡をやめて金髪になって垢抜けていた。でもちょっと無理してる感じだった。俺たちが二十歳の年ってちょうど西暦二〇〇〇年でミレニアムで、髪を染めるのがとても流行っていた時代だった。大学のキャンパスにはビジュアル系バンドや若手漫才師を思わせるピンク色の髪をした男が結構いたし、紫色やマッキンキンの髪の女の子も全然珍しくなかった。今よりずっと、みんな髪を奇抜に染めていた時代だったんだよ。あなたがもし「お前の周りだけじゃん?」って思うなら、一九八〇生まれの奴に聞いてみてほしい。嘘じゃない。


 死が近い感覚の話に戻る。

 今度は十八歳の頃の話。

 高校のクラスに皆川さんって女の子がいて、彼女はおとなしめで成績が良くて、友達も同じようなタイプで、休み時間はそういう似たようなおとなしい女の子と喋っているか、一人で読書をしていた。彼女がよく読んでいたのは池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズだったから、俺はずっと皆川さんのことを心の中で《鬼平》と呼んでいた。高校三年の文化祭の時、勝手に《鬼平》と呼んでいたことを本人にカミングアウトしたんだけど、彼女はちょっと怒った素振りをした後に笑ってくれた。彼女が正確に何て言ったかは覚えてないけど「は!? 確かに読んでるけども。いやでも鬼平って~。なにそれ、ひっど~(笑)」みたいな感じだったと思う。

 本当はこのカミングアウトは彼女を深く傷付けていたのではないか? と俺は今でも考える。

 でもそういうあだ名の付け方は俺の治らない悪癖のひとつで、何年か前に知り合った女の子にも《阿修羅》というあだ名を付けてしまったことがある。これも本のタイトル由来で、その女の子が舞城王太郎の『阿修羅ガール』をめちゃくちゃ好きだったからだ。ミライは読んでたっけ? 阿修羅ガール。

「うん。《減るもんじゃないって言ったけどやっぱり減った。返せ。私の自尊心。》だっけ?」

「そうそう、そんな書き出しのやつ」

 俺が《阿修羅》とあだ名を付けてしまった女の子の本名には《あ》も《しゅ》も《ら》も付かない。かすりもしない。本名は可憐な響きで、顔なんてむしろ少し童顔で甘い雰囲気なのに、俺の中で彼女を指す固有名詞は完全に《阿修羅》になってしまっていて今さら変えられない。でも、もし本当に《鬼平》や《阿修羅》が似合ってしまう外見もしくは言動の人物だったら、逆にそんなあだ名で呼ぶことは憚られるだろう。皆川さんも可憐な名前のあの子も、鬼や修羅ではなかったのだ。

 と、思うのはあくまで俺の主観。

 俺が知らないだけで、彼女たちの中にもきっと鬼や修羅は棲んでいたんだろう。

 皆川さんはこの世の悪を許さないような潔癖さがあり、それゆえに友達が少なかったようだったし、《阿修羅》は楽しく飲んだり恋バナをしていても、時々悲しみか怒りか笑いか分からないような顔をして、やたらと感情的になることがあった。あだ名であっても名前は人を縛るし、呪うし、形づくる。

 受験のちょっと前だったから、高校三年の秋か冬だったと思う。皆川さんと図書室で話した時に彼女は、自分が田舎町のとりわけ辺鄙な山の近くに住んでいることを前置きした上で、「ふっと、家の裏の誰もいない暗い山の中に入って、消えちゃいたくなることがある」と話してくれた。

 十八歳の俺がそれに何て返したかは覚えてないけれど、彼女のその告白は、俺が江崎君に「時々死にたいとか思うことあるよね?」と聞いてしまった感覚とかなり似ていたんじゃないかと思う。

 図書室で俺は彼女とずいぶん色んな話をしたような気がする。でも他に覚えているのは、彼女がサニーデイ・サービスを好きだって言ったことくらいだ。残念ながら十八歳の俺はロッキングオン系バンドよりもビジュアル系バンドの方が好きで、サニーデイはコマーシャルで使われていた『NOW』しか知らなかった。『NHK-FM 中村貴子のミュージックスクウェア』を聴いていたにも関わらずだ。俺がサニーデイの良さを知るのはそれから二年後、ちょうどミレニアムの頃で、皆川さんとはすでに何の接点もなくなっていた。元々特に親しかったわけではない。図書室での会話はたまたまだったと記憶しているし、《鬼平》ってあだ名をカミングアウトしたのだって文化祭でハイになった勢いだったはずだ。俺は高校の時、クラスの女の子とはあまり親しくなかった。俺が親しかった女の子は部活の先輩たちで、片思い相手も、片思われ相手も、初彼女も、初セックスも、部活の先輩だった。振り返ると、俺はサークルクラッシャーみたいだな。俺が高校時代に何を壊したかは、あなたの想像にお任せする。

「nice boat.」

 嘘臭い滑らかな発音でミライが言った。俺はそれを聞いて鼻で笑った。

 ミライはアニメが好きだ。元ネタが分からない人は流してくれてかまわない。


 皆川さんとは衛星の軌道が重なり合うように近付いたことが二度あって、一度は今話した図書室での出来事。もしも人間に魂があるとすれば、俺が十八歳の皆川さんの魂に最も近付くことができたのは、あの図書室で会話した時だろう。

「あるよ。魂はある!」

 唐突に、これまでより力強い口調でミライが断言する。

 俺もそう思いたいから、頷くだけで何も言わずに話を続けることにする。

 現実的な意味で、時間にして最も長く皆川さんと一緒に過ごしたのは、高校三年春休みのある一日だ。つまり、高校卒業後のエアポケット期間。

 俺と皆川さんは高校の現国教師の家を一緒に訪れていた。現国の先生は担任ではなく、クラブ活動などで関わったわけでもなかったが、俺は受験の小論文を添削してもらったことをきっかけに親しくなり、皆川さんも同じように受験の相談で先生と親しくなっていたらしい。先生にとって、俺と皆川さんはお気に入りの生徒だったようで、卒業後に餞別として大量に本を譲ってくれることになった。一緒に行くつもりじゃなかったんだけど、先生が「先に来た方が好きな本ばっかり持って行ったら後で来た方が損でしょう。一緒に来なさい」と言ってくれたので一理あると納得し、俺と皆川さんは現地集合という約束で先生の家を訪れた。実のところ、先生は本と一緒に家の物を一気に片付けたかったらしく、二人同時に呼んだのは人手が欲しかったからなのだと着いてから明かされた。騙されたな、と言いながら俺と皆川さんは先生の家の片付けを手伝い、お茶を飲み、本を選んだ。帰りの自転車がふらつくくらいたくさんの本をもらったけど、その中で今も俺の手元にあるのはサリンジャーの『フラニーとゾーイー』『ナインストーリーズ』の文庫本くらいじゃないかな。皆川さんは受験に失敗して志望校に行けなくて、ずいぶんショックを受けていたということを後で人づてに聞いた。でも、先生に本をもらった時にはそんな態度も話も出なかった。

 大学生の頃に京阪電車の中で、皆川さんにそっくりな人を見かけたけれど、声をかけようか迷っている内に彼女は電車を降りてしまった。

 皆川さんに関して覚えていることはこれで全部。さっきミライが言ったように全部の記憶が正しいかは分からないし、きっとこの中には俺の想像や捏造も混ざっているのだろう。でも、俺にとっての皆川さんという女の子は今話した女の子で、全部これは俺の中の本当の話。俺は死が近い感覚を覚えると、彼女が図書室でしてくれた話を思い出す。


「ふっと、家の裏の誰もいない暗い山の中に入って、消えちゃいたくなることがある」。


 彼女がまだ現国の先生にもらった本を一冊でも持っていて、裏山の闇の中に消えていないことを俺は祈っている。

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