リリーより、愛をこめて。
藤堂ゆかり
第1話
また忙しい一日が始まる。
おにぎりを頬張りながら道を駆け巡り、駅に到着すると急いでホームへ。満員電車の中へ無理矢理己の身体を突っ込み、やっと一息付いた。
「ああ、また寝ちゃった……」
思わず心中で頭を垂れ、憂鬱な気持ちになってしまう。
柊
起床時間になると、疲れ果てて爆睡している所を同居人に叩き起こされる。夢うつつぼーっとしながら朝食、そして身支度をしていた途中で強力な睡魔に襲われて、眠ってしまったらしい。同居人は凛々が起きたのを確認するとすぐに出勤してしまったらしく、再び夢の世界から引きずり出す人間がいなかったというわけだ。
「また部長に怒られる……」
今日は朝から会議がある。若手である自分が遅刻とは非常によろしくない状況だ。これから浴びせられるお叱りの言葉に胃がきゅっと締まったような気がした。思わず、吊革をぎゅっと握りしめる。
「へぇ……?寝坊?あなた社会人としての自覚あるの?」
「申し訳ありません、すみません!!」
部長である藤川ゆり子のデスクの前で深々く頭を下げる。
朝の朝礼はとっくに終わっており、各々がデスクでパソコンのキーボードをカタカタと打っている。時折、またあの子が……と、周りの視線が地味に突き刺さっていた。しかし、その場から立ち去ることも出来ず、出来ることならば、目線の先にあるタイルの隙間にでも潜りたい気分だ。
「自己管理も仕事のうちです。いい加減自覚しなさい」
「はい。本当に申し訳ありませんでした」
「わかったら、この書類を50部コピーしてきて。後10分でこの前クライアントからの依頼について会議をやるから。コピーしたら、いつもの会議室に持って来て」
「わかりました」
凛々はゆり子から書類を受け取り、深々と頭を下げて、印刷室へと向かう。
緊張が解けたせいもあって、背中から滴り落ちる汗が下着に染み込む。肌にピタリとくっついているのが気持ち悪いと感じる余裕が出来たようだ。
印刷室には誰もおらず、書類にコピーをかけながら、はあ、とため息をついた。
コピーライターという職業は非常に激務だ。
クライアントからのCMや雑誌などの広告制作の依頼が舞い込み、キャッチコピーをクライアントの要望に添うように何度も会議を重ねて作り上げる。コピーは非常に重要で、コピー一つでその企業の方針や利益に関わってくる。
人々の心を動かすようなコピーを作りたい一心で競争率の高いこの業界に飛び込んだのだが、理想とはかけ離れ、繁忙期になると終電帰りは当たり前、酷いときには逃してタクシーで帰ることなど通常だった。化粧を落とさず廊下で寝ようとしても、同居人がメイク落としと温かいタオルを用意してくれて、肌の状態はまだ酷く荒れてはいないのだが、疲労やストレスのせいで吹き出物が目立つようになる。おまけに目の下に薄黒いクマが住み始めてしまった。
「こんな筈じゃなかったんだけどなあ……」
この業界に来る前はもっと華やかな社会人生活を送るものだと思っていた。定時で退社し、アフターファイブで憧れのエステやヨガ教室と自分磨きをし、その後は友人や恋人と美味しいディナーを楽しむ。そして、良い気分で一日を終える。そんな社会人生活を送れると思っていた。しかし、今はそれとは真逆な生活を送っている。救いなのは、同居人と住んでいるために寂しい思いはしていない。しかし、お互い多忙なために一緒に住んでいるのにも関わらず、すれ違いが多いのが現状だ。
そして、憧れの藤川部長の存在だ。どこか凛とした佇まい、仕事も的確にこなし、周りからの信頼も厚い。入社して早々にミスを犯し、すぐさまフォローしてくれたのが、藤川部長だ。そんな部長に対して、憧れと尊敬の念を抱くのはそう時間はかからなかった。
「まあ、希望の職業に就けただけでも幸運と思わなくちゃ……このご時世、正社員で福利厚生完備という好待遇だし……」
ただ、同居人との時間がもっと取れれば、仕事のモチベーションが上がる。今は繁忙期に入る前だし、なんとか早めに仕事を終わらせよう。まずは部長から指示された印刷だ。
だが、空気を読まない印刷機はビーッビーッと、雄叫びを上げて赤ランプを点滅させ、動きを止めてしまう。どうやら紙詰まりのようだ。
「ああっ!ちょっと勘弁してよお!!」
慌てて印刷機の内部カバーを外し、引っかかっている紙を引っ張り出す。会議まで、後わずかな時間だ。
なんとか、書類を印刷し、会議室へと運んでいく。会議室は少々広く、丸いテーブルに上品な椅子、そして、前方にはホワイトボードが見える。既に何人かは座っており、書類を眺めていたり、ペンを回して時間まで遊んでいる者もいた。
今日の会議は化粧品のキャッチコピーだ。冬の新商品を出すにあたって、有名女優を起用し、そこで印象に残るコピーを考える。クライアントの意向としては、少しエロティックな内容にして欲し いという。下品にならず、清純なエロスということらしい。
「集まったわね。これから、会議を始めます」
ゆり子のかけ声と共に会議は始まった。皆、各々意見を出し合う。どの女優やモデルを起用するか、広告方法は。雑誌、パンフレット、電車の中の広告、テレビCMなどなど。宣伝方法を絞り込む。そして、消費者の心に響くようなキャッチコピーの案もだ。
「柊さんは何かある?」
「えっ?」
突然、ゆり子から話しを振られた凛々はぎょっとした。最近、寝不足で頭が回っておらず、あまり内容が頭の中に入って来なかったのだ。当然、良案も浮かんでこない。
しかし、皆の視線が集まる中で、特に無いですとは、口が裂けても言えなかった。ごくりと唾を飲み込む。
「えっと……テーマがエロティックなので、旬な女優と俳優を絡ませて、キャッチコピーは、私を食べて、はいかがでしょうか……」
あー…と、ため息のようなものが聞こえたような気がした。そして、錯覚だと信じたいが、空気が凍った気がする。誰でも思いつくようなコピーをこの場所で言うのはなんなのと言う声が頭の中に入って来そうだった。書類をめくる紙の音がいっそう大きく聞こえる。
しかし、そんな空気を凛とした声によって、一瞬にして変えられた。
「確かに、エロスというテーマでは女性だけの広告だとインパクトにかけるわね。今回は男女の俳優を起用ということでいい? だけれども、コピーは平凡でつまわらない。他に何か案がある人はいる?」
ゆり子の一言でその場の空気が変わった。他の者も自分の意見を出し合う。
こういったことをさらっと容易に出来るからさすがだと凛々は思う。いつも助けてもらってばかりの自分もあんな風になりたい。もっと役に立ちたい。憧れの藤川部長にもっと褒められたい、認められたい。
そして、自分の思うままのコピーを作りたい。そのためには、やることは数多くある。
思わず、書類をぎゅっと握りしめた。
凛々は休憩室に入り、自販機の前でほっと息をついた。もうそろそろ冬に差し掛かる季節なので、自販機に赤いランプが目立つ。
今日の会議では話しは纏まらず、後数日は時間が必要だろう。最高の形でクライアントの要望に応えるためだ。もちろん、期限はあるが。すると、突然熱い何かが首筋に触れる。
「ひゃうっ」
「お疲れさま」
いきなりのことで、思わず甲高い声を上げてしまう。声と共に振り返ると、ゆり子が温かいカフェオレの缶を差し出していた。
「今日の会議は長かったから疲れたでしょ」
「いえ……もう慣れました」
2人は肩が触れ合うほどの距離で、自販機の前のベンチに並んで腰をかける。
ゆり子は足を組み、かぽっとブラックコーヒーの缶を開け、ぐびっと煽った。
「もう、辞めなくなった?」
「それはないです!!」
凛々は思わず声を張り上げ、立ち上がっててしまう。ゆり子もつい呆気に取られてしまったようだ。
しかし、凛々は、はっと我に返ってすっと勢いよく座り、かーっと勢いよく頬が紅く染まっていく。
そんな様子を見ていたゆり子はそっと凛々の肩を抱き、横から凛々に視線を合わせる。ゆり子が身につけているカサブランカの匂いが一層強くなった。
「わかってる。あなたが途中で投げ出す子ではないことを」
「はい……」
凛々はぎゅっとカフェオレの缶を握りしめる。その上にゆり子が己の手をそっと重ね合わせた。
「ねえ……あなたにとって、エロスってなんだと思う?」
ゆり子の熱い吐息が凛々の耳に触れる。そこからぞくぞくと、ぴりぴりとした甘い何かに身体が支配されそうになる。
「そうですね……エロスはギリシャ神話の性愛を司る神から来ていて、官能的……ということでしょうか」
我ながらにありきたりなことを言ってしまい、少しだけ反省する。しかし、ゆり子は何とも思ってはいないようで、重ねている手をそっと動かし始めた。
「そうね。間違ってはいない。 エロスとは性愛を意味し、自分には持っていない愛を相手に求めるの。その相手っていうのが……」
ゆり子は己の手を凛々のそれの裏側に潜り込ませ、細指の間に指を絡ませる。重なり合っている手が鼓動を刻み、まるで一つの心臓になったかのようだ。凛々もそれに応えるべく、ゆり子の甲を撫でる仕草をしてみせる。それに気を良くしたゆり子は、手に軽く力を込める。
「想い、焦がれる人。ただその人に求める欲求。それがエロス」
睦み合っている手がお互いを主張するかのように、確かめ合うようにゆるゆると動く。
「だから……その想い人のことを想って作りなさい」
「はい……」
名残惜しげに、手が離れてゆく。
「さ、私はまだ仕事が残ってるから、早く帰りなさい」
「はい。もう仕事もないですし、お先に失礼します」
「気を付けてね」
頭をぽんぽんと撫でられ、ゆり子は休憩室から立ち去った。
手が異様に熱を持っている。しかし、時間が経てば、その熱も時期に消えてしまう。少しでも逃がさないように、頬に当て、そっと瞼を閉じた。
家に帰ると、部屋の中は真っ暗だった。同居人もまだ仕事から帰っていないらしく、閑散としていた。電気を付けて、鞄とスーパーで買ってきた食材をソファーへと投げる。
「よし、やるぞ!」
疲れているからといって、食事や入浴、掃除もちゃんとやらねば。前日に洗っておいた浴槽に湯を溜めるために浴室へ向かう。
今日の夕食は昨日の残りでカレーライスだ。カレーのルーで何かドリアやカレーうどんなどにアレンジしても良いのだが、残念ながらそんな気力はなかった。スーパーでは明日の食材と疲れた時には甘いものをとプリンを買ってきた。2つ買ってきたので、食後に同居人と一緒に食べよう。
すると、玄関の方でがちゃりと鍵を回す音が聞こえてきた。凛々は出迎えにと玄関に向かう。
「ただいま~凛々!今日の会議でヘコまなかった?お腹すいたよ~!」
目の前にいる同居人にぎゅっと抱きしめられる。そして、愛おしげにうりうりと冷たい頬で、頬ずりされる。
走ってきたのか、息が乱れており、いつものカサブランカの匂いが薄れている気がした。
「おかえりなさい。ゆり子さん。今、お風呂沸かしてます。その間にご飯食べちゃいましょうか」
同居人である藤川ゆり子は、寒さのためか、くしゅんと、くしゃみをしてみせた。
リリーより、愛をこめて。 藤堂ゆかり @yukari_BxB
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