第4話
あれから、私たちの休み時間と放課後はカメラに捧げられた。思い出は黒い箱の中に積み重ねられていき、ミルフィーユのような層を作っている。
カメラの腕も少しばかり上がり、機能を使いこなせるようになってきた。思い出を切り取りながら、新たな思い出を作り出していく行為に感傷的な気持ちになることもあるけれど、それなりにやり過ごしている。
でも、今日は上手く自分の気持ちをあしらうことができるかわからない。
学校を写真に収め始めて四日目の放課後、私は音楽室にいた。
磨かれた白と黒の楽器。
春花がピアノを弾いている。
いつもは騒がしい爽子も、大人しく音楽に耳を傾けていた。
音楽室には、思い出が詰まっている。
私と春花と爽子、ときどき私と春花。クラシックやドラマの主題歌、流行の音楽、私たちはここで春花が弾くピアノを聴いた。心地良いクラシックに眠たくなってうとうとしたり、春花が奏でる音にあわせて歌ったりもした。
私はピアノから少し離れた場所でカメラを構え、液晶モニター越しに春花を見る。
小さな画面に写し取られた彼女は、纏う空気がいつもと違う。普段は年齢よりも幼く見えるけれど、ピアノを弾く春花は凜としていて少し大人っぽく見える。
教室には、彼女の指先から生まれた音が跳ね回っていた。誰が作った曲かは知らないけれど、教室に響いているのはおそらくクラシックで、スキップしたくなるようなリズムの曲だ。
私は音楽のことはわからないけれど、春花が奏でる音が好きだった。春花が作り出す音は、優しい。ふわふわした毛布に包まれたみたいに、温かい気持ちになる。
教室に溢れる音楽は、彼女を好きになったきっかけでもあった。けれど、卒業したら春花のピアノを聴く機会もなくなる。私は写真を一枚撮ってから、液晶モニターを閉じてファインダーを覗く。
レンズによって切り取られた世界が、私の目に飛び込んでくる。
そう高いカメラではないけれど、それなりに良いものを買ったから、私のカメラには上の方にのぞき穴のようなもの、――ファインダーがついていた。
カメラに顔をぺたりとつけて覗いたファインダーは、レンズが捉えた風景を私に伝えるだけのものなのに、教室に私と春花しか存在しないような気持ちにさせた。
ピアノを弾く春花の横顔。
滑らかに動く指。
もっとよく見たくてボタンを押してズームすると、すっと彼女に近づく。見えているのは拡大されただけの世界なのに、本当に春花の側にいるようだった。
心臓がせわしなく動いていた。大人しくしろと命じても、言うことを聞いてくれない。
春花がこちらを見る。
爽子もいるのに、春花が私だけを見ていると錯覚しそうになる。
音楽は止まらない。
教室には、柔らかな音が溢れている。
二人きり、春花が私のために音楽を奏でているような気がした。
レンズから入ってきた信号を表示しているだけのファインダーが見せる世界は、都合の良い世界だった。
わけのわからない回路で、カメラと繋がってしまっている。そんな感覚に足元がゆらりと揺れて、私はカメラを下ろす。教室を満たしていた音楽は、いつの間にか消えていた。カメラの電源を切ってピアノに近づく。
「久しぶりに学校で弾いた。というか、ピアノ自体、久しぶりに弾いたかな」
「受験の間、ピアノやめてたんだっけ?」
机を椅子にしていた爽子が問いかける。
「うん。もう習うのもやめて、趣味にした」
「趣味かあ。音楽のことわからないけど、春花すごく上手いと思ってたんだけど」
「二年の時、音大行きたいって言ってたから、普通の大学受けるって聞いたとき驚いたもん」
私が正直な気持ちを伝えると、春花が大きく息を吐き出した。それは、ため息というほどの憂鬱さはなかったけれど、少しばかりのやるせなさを含んでいた。
「音大行けるって言われたけど、行ったあと、どうするのかなって考えちゃって。ピアノは好きだけど、音楽とかピアノの先生になりたいわけではないし。弾くのは好きだけど、演奏で生活していくほど才能ないもん」
そう言って、白い鍵盤を春花がゆっくりと押さえた。小さな音が空気を震わせ、ピアノの斜め前、机の上から爽子が静かに言った。
「そんなものかねえ」
「そんなもんだよ。音大、学費も高いしね。先のこと考えたら、ピアノは趣味にして堅実にいこうかなって」
「春花って校則守らないわりには、きっちりしたところあるよね」
私は、春花が座る椅子の背もたれにかけられたダッフルコートのフードを摘まむ。
「校則と将来は別問題だから」
「規則守るって、将来に関係ありそうだけど」
「ない、ない」
春花が手をぶんぶんと振って私の言葉を否定する。
「でも、東京の大学じゃなくても良かったかな。みんなと離ればなれになるの寂しいし」
「じゃあ、浪人して地元に残ろうか」
爽子が冗談めかして言った。
「んー、そーだなあ。桜も一緒に浪人しよう」
「なんで私まで」
「春花と桜、そして私! みんなで地元に残るために決まってるじゃん」
「もう受験勉強したくない」
私がため息交じりに答えると、爽子が「確かに」と同意してから思い出したように言った。
「そうだ、桜。写真、さっきみたいに撮ってよ」
「さっき?」
「なんか、覗いて撮ってたでしょ。カメラマンみたいな感じで」
「ああ、ファインダー。あれ、なんかわかりにくいから、普通に撮っていい?」
カメラの電源を入れながら、爽子を見る。あまりファインダーは覗きたくなかった。
「えー、せっかくだから一回あれで撮ってほしい」
「……いいけど」
私には、液晶モニターとファインダーで撮った写真の違いはわからない。ただ、ファインダーを通して見た世界は、モニター越しの世界とは違った。
カメラが切り取った世界に迷い込んだような感覚。レンズが映した春花はとても近くて、私だけのもののように思えて、嬉しかったけれど怖かった。
偽物の世界を本物の世界にしたくなって、春花に気持ちを伝えたくなる。でも、願いが叶うだなんていう急坂に縋るくらいしかできない私には、そんな勇気はない。春花に拒絶され、友達ですらいられなくなるのは嫌だった。
できれば、今ある気持ちを消して、ただの友達だった頃と同じ気持ちになりたい。そうすれば、卒業は一つのイベントでしかなく、悲しいけれどすぐに新しい生活に馴染める。
私はふうと息を吐いてから、カメラを構えた。
爽子が座っている机は、ピアノの斜め前。
春花を見ずに、爽子だけを写すことができる。私はカメラを爽子に向け、ファインダーを覗いた。
教室が四角に切り取られ、視界が爽子に奪われる。シャッターを切って、写真を一枚撮る。心臓は、一定のリズムを刻んでいた。ズームして、爽子を見る。そこにいたのは、私の小学校からの友達で泉爽子だった。
私は、もう一枚写真を撮ってカメラを下ろした。
「なんか、失礼なこと考えてなかった?」
撮った写真を液晶モニターで見せていると、不満げに爽子が言った。
「失礼なことは考えてない」
「でも、何か考えてはいたんだ?」
「んー、爽子は爽子だなって」
「なにそれ?」
「いつまでも変わらない友達だなって」
ファインダーから覗いた世界は、同じようで違っていた。春花を見たときのような不思議な気持ちはどこにもなく、爽子はいつも通り爽子だったし、私の友達のままだった。
「何をいまさら。三人とも、ずっと友達でしょ」
「――そうだね」
小さく答えて、そろそろ帰らないと、と付け加える。春花と爽子が頷いて、コートを着た。私も机の上に置いていたコートを着て、勝手に入れたエアコンのスイッチを切る。
「卒業しても、みんなで集まろうよ」
春花が言った。
「二人とも、休みになったら帰っておいで」
地元に残る爽子が笑って、私たちは不確実な約束をした。
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