第3話
旧校舎はその名の通り古く、放課後になると薄暗くて少しだけ怖い。歩くと床がきゅっきゅっと鳴く。私は廊下が寒くて、コートのボタンを一番上まで留めた。隣を見れば、爽子もコートを着込んでボタンをすべて止めている。
私たちは磨かれてはいるけれど、くすんだ床を上履きを鳴らしながら歩く。
古い美術室や家庭科室。
倉庫のように、備品が詰め込まれた教室。
一階は、人気がなくて幽霊でも出そうな雰囲気が漂っている。
二階に上がれば、一年生の教室があるから少しは明るい雰囲気になるけれど、今、用があるのは一階だった。
「あたし、一階怖いんだけど」
ダッフルコートを着た春花が呟く。彼女が着ているコートは校則違反だけれど、校内でコートを着用することも禁じられているから今は私も爽子も違反者の一員だ。でも、先生の姿は見当たらないから注意されることはなさそうだった。
「いいじゃん、なにか出そうで」
ショートカットの爽子が寒そうに首をすくめて、笑う。
「だから、やなんだってばっ」
生活指導の先生を見つけたときのような、心底嫌そうな声で春花が言った。
旧校舎には、学校によくある七不思議のうちのいくつかがあって、その中には幽霊に関するものもある。トイレに何かいるだとか、美術室の絵がどうしただとか。
定番と言えば定番、ひねりがないと言えばひねりがない七不思議のことは、噂話に疎い私でも知っていた。だから、春花が怯えるのもわかるし、過去には実際にそんな騒ぎがあった。そして、私と爽子もその現場にいた。
「一年のとき、幽霊騒ぎあったよね」
私が記憶の扉を開けて旧校舎であった出来事を告げると、爽子の目が輝く。
「あー、文化祭の準備のとき。誰かが幽霊を見たって言い出して、みんなで出たーって大騒ぎになってさ、先生にめちゃくちゃ怒られて。あれ、面白かったなー」
「なにそれ、あたし知らない」
春花と私たちが同じクラスになったのは、二年生になってからだ。幽霊騒ぎはちょっとした騒動になったが、一年生全員が知っているようなものではなかったから、春花が知らなくても不思議はなかった。
「おばけーって、真っ青な顔して真っ先に逃げた桜、春花にも見せたかったなー」
廊下の突き当たり、社会科準備室の前で爽子が言った。がらりと扉を開けて中に入ると、私はカメラの電源を入れる。
「あれは、爽子が脅かすから」
「逃げ足、はやいはやい。あっという間に見えなくなったと思ったら、すぐに戻ってきたんだよね」
「戻ってきたの? なんで?」
「一人で逃げたから、怖くなったんだってさ」
廊下を脱兎のごとく駆けだしたと思ったら、Uターンしてきた私を思い出したのか、爽子がけらけら笑いながら言った。
「ちょっと、爽子っ」
私は、余計なことを口にする爽子の背中をばんっと叩く。けれど、爽子は気にもせず、春花に囁いた。
「この教室の前の廊下だよ、でたの」
「え?」
「お、ば、け。春花、ほら後ろ」
「やめてよ。本当に怖いから」
爽子の声に、春花がびくりと反応して振り向く。
春花が私たちに背を向けたのは一瞬だった。けれど、爽子はそれを見逃さず、春花に飛びつこうとした。私は春花の前へと回り込む。そして、教室に響く春花の声。
「ひゃあっっ」
冷たいものをぴたりと背中にくっつけられたときのような鋭い声を上げ、春花が目を見開く。予想通りのシャッターチャンスに、私は少し情けなくて、でも愛らしい春花の表情をカメラに収めた。
「良い顔、撮れたよ」
液晶モニターを二人に見せると、爽子は口元をゆるめ、春花がふくれた。
「ちょっと、これだめ。変な顔してるじゃん」
「こういうのも思い出、思い出。残しておかないと」
手を伸ばし、カメラを奪おうとする春花から逃げながら、私はもう一枚写真を撮る。
液晶モニターに閉じ込められた春花が、一年生のときの思い出に重なる。幽霊騒ぎがあったとき、春花と知り合っていたら、今よりもたくさんの思い出を共有できていたのにと思う。
もっと三人で、もっと春花と一緒にいられたら。
卒業しても、いつまでも。
それが無理でも、この時間がずっと続けば――。
そこまで考えて私は、自分にとって都合の良い未来を思い描こうとする感情を絶ってしまいたくてシャッターを切った。液晶モニターに埃を被った地図が映し出され、保存される。
私は小さく息を吐く。カメラを構え直すと、遠くなっていた二人の声が聞こえてきた。
「もう、なんでこんな教室来たの。怖いじゃん」
「ここ、春花にとって思い出深い場所だし」
「ええ?」
使われていない備品が押し込まれた社会科準備室。過去に、こうして三人で来たことがある。私は、疑問符を顔に貼り付けている春花に思い出の一つを語る。
「覚えてない? 二年生の時に春花、制服のことで怒られて罰として社会科準備室の掃除をしろって言われたの。あのとき、私と爽子も掃除手伝ったじゃん」
「――そういえば、そんなことが」
腕を組み、視線を五秒ほど宙に彷徨わせてから、春花が言った。爽子が懐かしそうに、地図の埃を払う。
「そうそう、あれ大変だった。一時間ぐらいかかったよね、確か」
「あのときは、すみませんでした」
「まあ、それも良い思い出ということで。この教室も写真に撮っておかないと」
かしこまって頭を下げる春花に笑顔を向けてから、私はシャッターを一つ切る。カメラがカシャリと味気ない音を立てて、雑然とした教室を写し取る。液晶モニターを確認してから、もっと違った写真が撮れないかとダイヤルをぐるりと回すと、爽子が言った。
「そうだ。桜。こういうカメラって、マニュアルっていうの? なんか自分の力で撮るやつ。そういうのあるでしょ」
「あるよ」
「テクニックを駆使して、なんかすごいヤツ撮って」
「いや、わかんないから。そういうすごいテクニック」
「あ、あたしも見たい。やってみてよ、桜」
二人の言葉は宿題を出す先生のように軽かったけれど、簡単なのは言う方だけだ。言われた私にとっては、無理難題以外の何物でもない。
カメラのマニュアルは読んだ。でも、読んだだけで頭には入っていないし、理解もできていない。あれもこれもとつけられたサービスの良い機能は、私にとっては謎の機能でしかなかった。
私はお宝満載のカメラを片手に、うう、と唸る。
それでも、期待に満ちた二人の視線に耐えきれず、ああでもない、こうでもないとボタンやダイヤルをいじってシャッターをぽちりと押してみる。
その結果、液晶モニターに映し出されたのは残像のような春花と爽子。なにがどうしてこうなったのかは、写真を撮った本人にもわからない。
「うわ、ブレてる」
写真を見た爽子がげらげらと笑えば、春花が口元をおさえて目だけで笑う。
「下手すぎ」
「あー。もう、うるさい。やれっていったの、二人でしょ」
ぶっきらぼうにそう返したものの、楽しげな二人に笑みがこぼれる。
思い出を残すという行為自体も思い出の一つになり、私たちはきっといつかこの日のことをどこかで話す。
そんなことを考えると少し切なくて、私はそれを誤魔化すようにカメラのダイヤルを回した。
「桜、カメラ貸して。あたしも撮りたい」
マニュアルからオートへ。
ダイヤルが指す場所がかわり、春花の手が私の手に触れる。
何気なく重なった手に胸のあたりが痛くなって春花を見ると、顔がやけに近かった。
私の意思とは関係なく手が動き、シャッター音がする。
鼓動が早くなって、もっと春花に近づきたくなる。
けれど、そんなことができるわけもなく、私は何を撮ったかわからないまま春花にカメラを渡した。
春花がシャッター音とともに、私と爽子を写真という枠に収めていく。いくつか注文が飛んできて、何枚かの写真を撮られる。何度もシャッターが切られ、笑い合った後、唐突に爽子が口を開いた。
「そうだ。セルフタイマーあるでしょ? あれで三人で撮ろうよ。」
「いいね」
短く答えて、私はごちゃごちゃと物が積み上がった棚を少し整理して、カメラを置く。液晶モニターで二人の姿を確認してから、タイマーをセットした。
十秒間の猶予。
なんだか息苦しくて、私は爽子の隣に立った。
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