第2話

 ガラス張りの渡り廊下を歩いて、新校舎へ向かう。薄く曇ったガラスの向こうには、誰もいない中庭が見える。少し汚れたベンチの脇にはなんだかわからない木が植えてあって、私たちはそれを緑子ちゃんと呼んでいた。もちろん、今は葉が落ちてただの枯れ木になっているけれど、それでもその木を緑子ちゃんと呼んでいる。


 春花と二人、たわいもないお喋りをしながら階段を上る。

 三階の一番奥。昇降口から随分と遠い教室の扉を開く。

 外よりはましだけれど、暖かいとは言えない廊下から教室に入ると指先や足先、体の末端に向かって血液が走り出し、冷え切った体が温まる。教室は、少し暑いくらいだった。


 私は、教卓から三番目という勉強にはもってこいの机に向かい、鞄をかける。席に座ると、小学校時代からの友人、泉爽子いずみそうこが机の上に腰掛けてきた。


「おはよー」


 行儀が良いとは言えないが、いつものことだから気にはならない。私が爽子に、おはよう、と返すと春花もやってきて、私の隣の席に座った。

 春花が座った椅子は、本当は松原さんのものだ。けれど、彼女が教室にやってくるのはホームルームが始まる直前だから、いつも松原さんが登校してくるまではそこが春花の席になっている。


「ねえ、さっきの荷物。バッグになに入ってるの?」


 春花が机にかけたトートバッグを指さすと、爽子がすかさずそれに反応する。


「え、なにか面白もの持ってきたの?」

「ふっふっふっ。知りたい?」

「知りたい」


 そう言って春花が身を乗りだし、爽子が「さっさと言う!」と急かす。でも、せっかちな爽子はそれだけでは物足りなかったらしく、机にかけてあるトートバッグを手に取って私に渡してくる。

 バッグの中身は私にとっては大切なものだけれど、珍しいものではない。もったいぶる必要もないので、素直に中身を取り出し、ケースから出して見せる。


「じゃーん! カメラです」


 大きなレンズに、張り出したグリップ。

 存在を主張するシャッターボタンと撮影モードダイヤル。

 私は、やや大きめのカメラを構えて見せた。


「あ、なんか高そうなカメラだ。買ったの?」


 春花が物珍しそうに、カメラを眺める。

 ネットショップで三割引になっていたカメラは、高い方ではないと思う。でも、高校生の私にとってはかなり大きな買い物だった。


「そう! 昨日、届いた」

「これ、一眼レフとかいうヤツ?」


 机の上から、爽子がカメラを覗き込む。


「だったら良かったんだけどね。一眼レフは、すっごく高くてさ。あと、機能が凄すぎてよくわからなかったからやめた」

「じゃあ、何なのこれ」


 眉根をぎゅっと寄せて尋ねてくる春花に「ニコンのコンデジ」と答えると、片仮名が平仮名になって返ってくる。


「にこんのこんでじ?」

「ニコンってメーカーのコンパクトデジタルカメラ」

「へえ」


 私は、わかったようなわからないような曖昧な言葉を口にした春花にカメラを向け、電源を入れる。すぐに液晶モニターに春花の姿が映し出され、シャッターボタンを押した。少しの間があってから、画像が保存される。

 今度は、爽子にカメラを向ける。シャッターボタンを押そうとすると、爽子が言った。


「学校でなにか撮るの?」

「学校を撮るの。大学、県外だしさ。思い出に写真を残しておこうかと思って」


 私はそう言って、いいね、と笑う爽子を写真に収める。

 貯金を下ろして買ったカメラは、手のひらにのるような小さなものではなく、黒くて無骨な少しばかり良いカメラだ。シャッターを押すだけでそれなりの写真が撮れるから、見返すと二人ともいい顔で写っていた。


 春になれば、今ここにいる三人はばらばらになる。爽子は地元に残り、春花は東京、私は大阪へ行く。ここに残る爽子と会うことはそれほど難しくないかもしれないけれど、東京へ行く春花とはなかなか会えないはずだ。


 私は、椅子を引く音や喋り声、笑い声で溢れる教室を写真に撮る。

 春花とは、二年生のときに同じクラスになった。席替えでたまたま近くの席になって、たまたま好きな音楽が同じで、二人とも四月生まれだった。いくつかの偶然が重なって仲良くなったけれど、重なり合った偶然が私たちを繋ぎ続けてくれるとは思えない。新しい生活に慣れて、新しい友達が出来て、過去は遠くなっていく。


 きっとそれは当たり前のことで、私はそれを受け入れているし、卒業したら今を過去にすべきだと考えている。

 私はもう一度、カメラを春花に向けてシャッターを切り、春花をカメラという箱にしまい込む。こうして、伝えることができない春花への想いもカメラに閉じ込めてしまえればいいなと思う。


「今日からずっと撮るの?」


 カメラを構える私に、楽しそうに春花が言った。私は春花と爽子を一枚の写真に収めてから、二人に提案する。


「もちろん、そのつもり。放課後、みんなで撮ろうよ」

「じゃあ、旧校舎行かない?」


 爽子がわくわくした顔で言った。


「いいね。旧校舎っていかにも学校って感じだし、まずはあそこから撮ろうよ」


 春花の言葉に、いいよ、と返すと話はすぐにまとまって、放課後の予定が埋まる。

 二月も中旬になり、来週から自由登校で二人は学校には来ないと言っていた。そうなったら、卒業式まで会えない。


 残された時間は五日間。

 学校に残る思い出をカメラで切り取っていく時間は、それほど残されていなかった。

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