第5話

 来週からは、自由登校が始まる。自由というくらいだから、学校に行っても行かなくてもいい。けれど、学校に行く生徒は少数派で、春花と爽子も学校には行かない。もちろん、私も学校へ行く予定はなかった。


 カメラとともに、校内を彷徨って五日目。

 思い出を残す日々もこれで終わる。

 私は春花と二人、中庭にいた。カメラを構え、何枚か写真を撮る。爽子は用事があるとかで、写真を数枚撮った後、帰ってしまった。


「緑子ちゃん、こんなにハゲちゃって。今は茶色ちゃんだね」


 ベンチの脇、生徒たちから緑子ちゃんと呼ばれ、親しまれている何者かよくかわからない木は、春花が言うとおり葉を落とし、幹と枝だけになっていた。


「そこは少しひねろうよ。ブラウンちゃんとかさー」

「それ、センスなさすぎ。ブラウンちゃんなら、茶色ちゃんってストレートに言った方がいい」

「そう?」

「そう!」


 自信に満ちあふれた顔で断言され、私は誇らしげに微笑む春花と緑子ちゃんを写真に収める。液晶モニターを確認していると、冷たい風が吹いて体が震えた。シャッターにかけた手がかじかむ。

 私は古びたベンチに座ってカメラ置くと、ふうっと息を吹きかけて手を温めた。隣に、寒そうに肩をすくめた春花が座る。


「緑子ちゃんさ、冬は一人で寂しそうだよね」


 春夏秋冬、いつだって緑子ちゃんはここにいる。何年前からいるのかは知らないけれど、この中庭で生徒を見守り続けている。けれど、このベンチに生徒が腰掛けたり、中庭でおしゃべりしたりするのは春と夏と秋の三つの季節だ。冬は寒さに負けて、ベンチを使う生徒も中庭に立ち寄る生徒も滅多にいない。必然的に、緑子ちゃんは独りぼっちになる。


「慣れちゃってるかもね。ずっと一人だし」


 私は葉が落ちて、悲しげにも見える緑子ちゃんを見た。


「あたしたちも慣れるのかな。大学に行って、みんな離ればなれになって、そういう生活に」

「……時間が経てば慣れるだろうね」


 ぽつりと言った春花に、ぽつりと呟き返す。

 どんなに長い時間を一緒に過ごしても、離れてしまえば一緒に過ごした時間は思い出にかわって、記憶の底へと沈み、沈殿物となる。


 私自身、高校に入学したばかりの頃は、中学時代の友達のことをよく思い出したけれど、今はあまり思い出さない。小学校や幼稚園まで遡れば、なおのこと思い出すことが少なくなる。ときどき、頭の中にある引き出しから、思い出を引っ張り出して眺めることがあってもすぐにしまってしまう。


「そうだよね。小学校のときも、中学校のときも、卒業式は悲しかったけどすぐに慣れたもん。いつかは慣れるよね」

「うん」


 同じような答えを導き出した春花に、相づちを打つ。

 春花のことが好きで、離れたくなくて、ずっと一緒にいたくても、離れてしまえばそれが日常になって、春花がいないことにいつかは慣れる。そんなことはわかっている。でも、春花への想いを消すことができないような気がした。


 どうせ、消すことができないのなら、春花にこの気持ちを知ってもらいたいとも思う。

 春花を好きだというあやふやで形のないものは、確かに私の胸の中にあって、口には出さなくても存在している。本人に伝えることができれば、ふわふわとしたこの気持ちも輪郭を得て、確かなものになって、想いが通じなくてもずっと心に残るのかもしれない。私の心にも、春花の心にも、言わないでいるよりもずっと長く残るのかもしれない。


 そんなことを考えて、私は灰色の空を見た。

 叶わない思いを抱えているよりは、記憶の引き出しにしまって鍵を掛けておいた方がいいような気もする。

 私は、カメラを手に取った。


「春花」


 笑ってよ、とは言わなかった。けれど、彼女は鮮やかに笑って、私はそれをカメラという箱に大切にしまった。


「良い写真、撮れた?」

「うん、撮れた」


 春花は、見せて、とは言わなかった。だから、私はカメラの電源を切ってベンチから立つ。カメラをケースにしまい、トートバッグに入れようとして手に冷たいものを感じた。

 春花の肩を見れば、ふわりと雪が落ちてくる。

 雲に覆われた空から降ってくる雪。

 

 去年も見た光景なのに、今年は違って見える。それは、この景色が来年は見ることができないものだと知っているからだ。

 一つ落ちてはまた一つと、ゆっくりと宙を舞うように落ちてくる雪が春花の髪に、コートに着地して消える。

 私はカメラ越しではなく、自分の目に春花の姿を焼き付けておく。


 どれくらいの時間か春花を見ていると、彼女が立ち上がり、空を見上げて、帰ろうか、と呟いた。私たちは、中庭から自転車置き場に向かう。申し訳程度の屋根の下、赤い自転車を見つけてカゴに鞄を放り込む。ついでに、春花の鞄も乗せて解錠する。


 校門を通って、下り坂。

 朝、傾斜を呪いながら登った坂を下る。油断すると勢いがつきそうになる自転車を押し、春花と歩く。

 自由登校を前に、過去を振り返りとりとめのない話をしながら、私たちは坂を下った。時間にしたら十分もない。五分とちょっとほどで、坂の下についてしまう。いつもなら、そこで私と春花は別れる。けれど、今日は違った。


「ごめん、忘れ物した。学校まで付き合ってもらっていい?」

「いいけど」

「じゃあ、桜。乗って」


 春花がぱんと、私の自転車のサドルを叩いた。自転車を押して坂を登るつもりだった私は、思わず間の抜けた声を出す。


「へ?」

「後ろから押してあげる」

「ええ?」

「ほら、早く」


 もう一度、春花がサドルを叩いた。そして、どういうわけか楽しそうに自転車に乗れと私を急かす。


「押して歩けばいいじゃん」


 両腕に力を入れてぐいっと自転車を押すと、春花にコートを思いっきり引っ張られる。急に後方への力が加わって、私の体はぐらりと揺らいだ。バランスを崩した私のせいで、自転車もふらりと揺れる。なんとか足を踏ん張ってふらふらする体を支えると、春花が、上まで一気に行くよ、と息巻く。

 これはだめだ。

 抵抗することを諦めて、私は自転車に跨がる。よいしょとペダルに足をかけると、春花が自転車のリアキャリア、――荷台を掴んだ。


「はい、いくよっ!」


 威勢の良い声が後ろから飛んできて、私はペダルを漕ぐ。けれど、春花が気になってスピードが上がらない。


「桜! 気合い入れて漕いで」


 ぐっと押される感覚があって、自転車がぐんっと進む。

 ここまできたら、やるしかない。

 私は覚悟を決める。


「あー、もうっ。全力出すよ!」

「おー!」


 弾んだ声が後ろから聞こえてきて、私はペダルを漕ぐ足に力を込めた。

 そして、短いような長いような数分後。

 校門の前には、足を着かずに坂を登り切った私と息も絶え絶えな春花がいた。


「大丈夫?」


 背中を丸め、ぜぇぜぇと肩で息をする春花に声をかければ、途切れ途切れの声が聞こえてくる。


「ちょ、ちょっと、まっ、て」

「無理するから。すっごい息切れてるじゃん」

「いい、んだって。やりたかった、から」

「自転車押して歩いた方が楽だったじゃん」


 浅くなった呼吸を整えている春花に声をかける。

 何度かゆっくりと息を吸って吐いて呼吸を落ち着け、春花が背筋を伸ばす。額には、冬なのに汗が浮いていた。


「いいの」


 ダッフルコートのボタンを二つ外して、春花が答える。


「で、忘れ物は?」

「自転車、置いてから」

「わかった」


 赤い自転車を押して、自転車置き場へ向かう。

 雪は勢いを増し、私たちの肩を濡らす。

 あれから二十分も経たないうちに、私たちは自転車置き場に戻ってきていた。


「忘れ物、教室?」


 スタンドを立てて自転車を止めてから、春花に問いかける。彼女はうーんと小さく唸ると、少しばかり迷ってから答えた。


「ううん。ここでいい」

「ここでいい? 忘れ物は?」

「あー、うん。忘れ物っていうか。ちょっと、言いたいことがあるっていうか」


 忘れ物があるという話はどこへやら、春花が話があると言い出して、私は疑問符を顔にいくつか貼り付けることになる。意識したわけではないけれど、眉根を寄せ、怪訝そうな声を出してしまう。


「なに?」


 普段よりも低い私の声に春花がうつむく。暑くて開けたはずのダッフルコートのボタンをすべて留める。整えたはずの息が、少し乱れていた。

 春花が顔を上げる。

 ピアノを弾くときのように、真剣な目。


 春花が少し大人びて見えて、肋骨の内側がきりりと痛くなる。足元のコンクリートが、ふにゃりと柔らかなスポンジにでもなった気がした。

 春花が小さく息を吸って、私は一瞬息を止めた。


「――あたしが桜を好きだったってこと、覚えていて欲しい」


 少し震えた声で告げられた言葉を理解できない。

 声は耳に入ってきた。けれど、すべては平仮名に分解されて、ばらばらになって頭の中で散り散りになってしまった。同じ言葉に並べることができず、私は呆然と立ち尽くす。


「卒業して東京に行ったら、なかなか会えなくなるし、さっき話してたみたいに、桜がいないことに慣れちゃうと思う。それに、桜だってあたしのこと、思い出さなくなるだろうし」


 春花は、いつもよりも早口だった。

 私は慌ただしく並べられた言葉を理解しようと、働かない頭に鞭を入れる。


「だから、覚えていて欲しいなって」


 今度は、ゆっくりと静かに春花が言った。そして、ようやく私の頭も動き始めて、口を開くことができるようになる。


「あの、ちょっと。意味がわからないっていうか。……好き?」

「そう、好き。桜が好き」

「それってどういう」


 いくつかの意味がある好きという言葉。

 大きく分類すれば、それは私が欲しい好きと、そうではない好きの二つになる。春花の好きがどちらに分類できるのか予想はできる。でも、確信を持てずにいると、春花がにこりと微笑んだ。


「こんなところで、二人きりでわざわざ話すような好き」


 静かに言って、春花が私に背を向ける。


「本当はこういう気持ち忘れたくて、桜とは違う東京の大学選んだんだけど。やっぱり、忘れるのは嫌だなって思って、桜があの坂、足を着かずに登り切ったら気持ちを伝える、無理だったら言わない。そう決めたの。だから、告白してみた。それだけだから、もう帰ろう」


 ショート丈のダッフルコート。

 タイツをはいていない足。

 学校を白く染めていく雪。

 春花が寒そうに首をすくめて歩き出す。私は一歩、二歩、先へ行こうとする春花の手を掴んだ。


「――それ、返事はいらないの?」

「うん。いらない」

「返事、させてよ」


 振り向こうとしない春花に声をかける。


「いやだ。泣きたくないもん」


 私は、掴んだ春花の手をぎゅっと握った。

 勇気を出せ、と心の中で一度呟く。

 落ち着かない心臓を叱りつけてから、春花に告げる。


「両思いなのに?」

「え?」


 春花が振り向く。

 冷え切っていた繋いだ手の温度が、少しだけ上がった気がした。


「勇気がなくて告白できなくて、春花と両思いになりたいっていう願掛けしてた。あの坂に。まあ、成功したことなかったけど」

「……そうなの?」

「そうなの。そうなんだよ。でも、坂じゃなくて、春花が願いを叶えてくれたっていうか。突然、好きって言ってくるから驚いた。っていうか、突然過ぎてずるい。卒業、したくなくなるじゃん」


 一気に喋って春花を見ると、彼女が言った。


「そんなの、あたしもだよ」


 握っていた手を離すと、春花は気が抜けたようにくすくすと笑い出し、自転車のリアキャリアに腰掛けた。


「馬鹿みたい。もっと早く、桜に好きだって言えば良かった」

「ほんと。勇気出しておけば良かった」


 私は、寒さでトナカイのように赤くなった春花の鼻に触れる。ぴたりとつけた人差し指に、春花が顔を上げる。視線が合って、私は春花の頬に唇で触れた。


「なっ、ちょっと。不意打ち」

「さっき驚かされたから、勇気を出してお返し」


 私は、どくどくとうるさい心臓の音をあははと笑って誤魔化す。雪が降って寒いはずなのに、顔だけが熱かった。


「いいもん。今度、私からするから」


 春花がふくれて、リアキャリアから勢いよく降りる。濡れたコンクリートがぺたんと情けない音を出して、春花を受け止めた。


「あと、自由登校の間も会って、卒業しても休みには帰ってきて、桜に会う」

「私も春花に会う」

「じゃあ、約束」


 はい、と春花が小指を差し出す。

 自転車置き場の屋根の下、私たちは赤い自転車の前で指切りをした。

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君と二人、坂道を登って 羽田宇佐 @hanedausa

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