/10.
押し当てた銀が滑って、クロスで軽く、吹き口を拭う。
気を戻せば息苦しい。熱いくらいに照り返す真昼の海が暗く歪んでいた。目を閉じて呼吸を整える。明らかに吹き過ぎだ。ここのところ、いやに酸欠を起こしている。もう少し体力がありさえすれば、こんな情けない目には遭わないのに。
息がもたない。誰にも明かせないけれど、真っ直ぐな息が続かなくなっていた。吹いていて支障があるのではなくて、自分の音を聞いていて気がついてしまっただけのことに等しい。直そうとすればする程、息が足りないと知れてしまう。
港祭りが終わって、残すはコンクールただ一つ。練習曲もたった一つきり。つまり、あと三日で部活が終わる。これまで分厚くかさばっていた筈のファイルも、たった一枚の楽譜だけを残して、すっかり痩せ細っている。
音楽室の裏手に一人だった。当然のように美果はいないし、ここにいるのは私だけだ。港祭り以来、美果については全く音沙汰なしだった。
当然、母は無事だった。
港祭りの翌日には、熱が三八度台に下がったと祖父から聞いた。冷静に考えれば、これ以上に病状が悪化してかき回される方が厄介極まりなかった。こうも続くの暑さの下、家と病院を行き来する羽目になった祖父と祖母はぐったりとしていて、これ以上の忙しさにはとても耐えられそうになかった。だから、葬式なんて羽目にならなくて良かったのだろう。
余計な奴ばかりが残る。美果はどこ。どうしていないの。
持ってきていた水筒で、喉を湿らせた。
それでも、肝心のソロは、私にとってこれ以上ないくらいに完成している。
――この曲はね、フルートソロが重要なの。ここのために他があるってくらいだ、赤木君ね、君、責任重大だよ。
昨日、ヤマさんはそう言っていた。
「旧い曲だからね、審査員も昔吹いたことがあるって方が多いんだね、これ。私も高校生の時分に吹いたんだけどね、まあこんなオジサンにも若い頃があったから。だから、手慣れている。よく知られているんだね、懐かしいなんて思う審査員もいるんじゃないかと思います」
都合のついたヤマさんが学校に来てくれたおかげで、急遽、昨日の午前練は合奏に変わったのだった。ヤマさんは私のソロのところで指揮棒を止めた。それで私にそう告げたのだ。曰く、ソ、ド、ときて次のレの音が微妙に上ずっているらしかった。修正は簡単に終わった。
「次があるとすればそこだ。いいね、君たち、音を聞きなさい。相手の音だ。合わせて。正確に吹くのは然程難しくないだろう。なのにズレるのはどういうことか、わかるね」
ヤマさんが止めた理由は、けれども私のフルートにはなかった。ソロを支える中低音の音程を気にしていたのだった。とにかく、私は歌えば良かった。私以外に歌う楽器がないのだから、ある意味当然の話だけれど。
……そう、自意識とか関係なしに、ここを私が歌わなくて誰が歌うのだろう。奏でるのだろう。私しかいない。旋律があるのは、私だけ。
誰にも知らせない、縋るような夜の歌。
フルートを構え直した。曲の頭から吹く。
冒頭は高音が続いている。フォルテ、勇ましいイメージ。雑にならないように。走らないように。フルートの出番はあまりなく、少し吹いては休み、また吹いては休みの繰り返し。
第二楽章に入ると、これまでの曲調が一転、ゆったりと落ち着いたメロディになる。金管の中低音が導入にあって、これを引き継ぐ形でいよいよソロが入る。
――違う、ズレた。
それでも通すか迷って、結局は止めた。ソの次、ド。どうしても気になってしまう。居心地の悪い感じ。これを外すと一気に締まりが悪くなると感じる。
再び吹き直す。ドの音を強くイメージして、ソの後にすぐ意識通りの音へと息を当てる。レを正確に、その後は徐々にスケールを大きく。私は歌う。抒情的で哀し気に。他のフルートも加わって、曲はそのまま盛り上がる。音が私を引っ張ってくれる。その流れへと身を委ねる……。
第三楽章に入ると一気に吹きやすくなる。変化した主題を繰り返しつつ、主役は徐々に木管から金管へと移る。坂を駆けくだるようなイメージだった。揺れ戻すように静かになって、第二楽章を彷彿とさせるシーンで音は総て消え、静かになる。その後、パーカッションからクライマックスへと突入していく。吹く方からしてみれば、最後は体力勝負だ。一番盛り上げなければならないぶん、息を多く使う。高音も多く、そこかしこにトリルがある。失速させないように息を保つ。
吹き終わる。やるだけのことはやった。そんな手応えがあった。出来ることは全てやった。今の私に出来る精一杯だ。
――そんな綺麗事で通用する筈がない。フルート一本がどうしたところで、他の音をどう誤魔化せよう。そも、誰が本気でやっていよう。こんな素人が我流で足掻いたところで人並み程度が関の山、努力の仕方なら他に幾らでもあったろうに、自己陶酔と自己満足にはしっているだけ――。
頭の中でひび割れて顔を出したどす黒さから目を背ける。信じるしかないし、信じていればいい。他に何がある。他にどう出来た。どうあれこれが最善でしかない。これ以上を私はこなせそうにない。もっと時間があったとすれば、或いはもう少し吹きこなせるだけの地力がついていたかもしれないのに。
空の青色が、壁だった。
信じよう。歯触りのいい言葉。求められた言葉は、どうせそんな程度。
「――マコちゃんマコちゃん。終わった?」
振り返ると、曲がり角から麻由が手招いていた。
「準備室に来てって。楽器は置いてていいから」
誰が、とも思ったけれど、訊けなかった。言うだけ言って、麻由は音楽室へと駆けこんでいく。上ずったような白々しい声音だった。
まるで肉食獣から逃げる小動物のような足取りの麻由からは、悪い予感しかしなかった。けれど、無視する訳にもいかない。
やむなく、楽器を置いて音楽室に帰る。麻由は既にいなかった。準備室に続くドアの窓は小さすぎて、こちらからは余り見えない。
「でもそれは私の決めることじゃ――わ」
準備室のドアを開けると、理沙が驚いたように口を噤んだ。
「――ん?」
嫌な予感に満ち満ちた空気。緊張感のある沈黙。
理沙に楓、さやか、恵美、真白。遅れて来たのだろう、さやかと楓は楽器の準備中らしかった。全員の視線が一斉に、私へと集まっている。
「部長。説明しろ」
有無を言わさない乱暴な口調で、恵美が理沙に命じた。
「……今ね、マコちゃんテストの結果が良くないんじゃないかって話しててね」
「またそれ? 今になって?」呼び出された理由はそれらしい。うんざりする。もうその話題は過ぎたと思っていたのに。
「うーん……でも私が決められることでもないんだし、先生も何にも言ってこないし、いいんじゃないのかなあ。関係ないとは言い切れないっぽいけど、全然関係ないんかもしれないし、別にうちらがとやかく言わんでも」
「真白」
「え、あ、はい、恵美先輩っ」
「説明」
「あー、わかりました。えっとですね……マコちゃん先輩のテストが不味いんじゃないかって話になってるんですけど、ああでも私が言ってるんじゃないんですよ、それ。私が先輩にどうこう言える立場じゃないですし、ってか私が停部になっちゃいましたし、この前のとか」
「――マコちゃん、期末テスト何点だった?」
楓が割って入って静止する。いまいち要領を得ない真白は恵美に睨まれていた。
「教えてくれないかな?」
「そんな気になる? あんなものが」
「教えてくれないなら、はっきり言うね。マコちゃんの点数、下がり過ぎてて部活に来ちゃいけないんじゃないかなって、そういう話になって」
見渡しても、誰一人として首を振らない。口も挟まないし、目を丸くすることもない。ついでに、楓以外は目を合わそそうとすらしない。
教えて欲しいと言われても、何点だったかすらあやふやだ。そんなこともあったな、と思い出すくらいには、記憶が薄れている。
「で、何。そんなくだらないことで駄弁ってたってわけ。もう意味ないでしょ、この話は」
「くだらなくはないんじゃないかな。マコちゃん知ってるよね。部活の決まり」
「知ってるけど」
そこで、でも、と理沙が口を挟んだ。思いきり剣呑になりつつある空気を必死になって止めようとしているのが見え見えだ。
「マコちゃんの点も気になるかもしれんけどさ、先生は何にも言わないし、もう今さらなんじゃないかなあ。だって」
「先生先生うるせえ」
そう言って、さやかが勢いよく立ち上がる。肩にはアルトサックスが掛けられていた。開いていたケースの蓋が重力任せに閉じられて、乱暴な音をたてた。
「はーもー、これだからウチの部長は。だいたい理沙だってそーだったくね。宿題出すまで部活禁止って、去年の夏だっけか、即刻喰らってたじゃん。部長になってすぐ」
「あれは……また別だよ」
「何が別だよ。同じじゃん。それにさ。真白、あんたも言ってたでしょ、自分だけちゃっかり逃げてんじゃねーよ。つーかマコのカンニングがどうのってあんたが言い出したからこうなってんじゃん」
「そんなの言ってませんよ。適当なこと言わないでください。それだって双葉先輩から聞いただけですし」
「またまた。他人のせいにしてんじゃねーって。まーいいけど。どいて理沙、邪魔」
言うだけ言って、さやかは準備室から出て行こうとする。楓が引き留めようとしたけれど、鼻で嗤って肩を竦めるだけで、結局はさっさと廊下へと出て行ってしまった。台風みたいな勢いに、理沙はいよいよ戸惑い気味に委縮してしまって、それ以上は何も言おうとしなかった。
もしかしたらこのまま流れでこの場も解散となってくれるとも期待したけれど、楓とさやかに恵美といった面々が引き下がってくれそうもない。
「私がそんな点数のバカになったと本気で思ってるの?」
言いながら、さやかの言葉を反芻している。
――真白、あんたも言ってたでしょ。
「くだらない。他人のテストででよくそんなに騒げるね。もっと気にすることあるんじゃない」
真白、何を言ったの。双葉から何を聞いたの。
言葉を重ねるしかなかった。けれど、重ねても重ねても虚しいだけだった。
「カンニングしてたの?」
「そんなのあり得ない。どう間違ったらそんな話になる訳」
「でも、じゃあどうして点数言えないの? 不正がなくて、何で?」
「言いたくないだけ。先生に訊けば良い、それはないって教えてくれるから」
「マコちゃん提出物も出してないよね。変すぎて目立ってるって聞いたの。七月くらいからだっけ」
「……だったら、何」
黙ってしまった。責めるような目だけ残して。わざわざ楓に言われるまでもなく、だったら何かくらいわかっている。来るな、と言いたいのだ。こいつは。こいつらは。
私までここを取り上げられなくてもいいのにな、と明後日の思考が冷静だった。
「……点数は覚えてない。覚える気もなかったし」
「うん」
「でも聞いて、どうする訳。こんなどうでもいいこと。くだらない。他人には関係ないのに首突っ込んできて、ただの自己満足だよ、こんなの」
「うっせぇな。何でてめーが偉そうにしてんだよ」
最後は恵美だった。
「くだらねーかどうかなんて知らねーよ。別におめーの勝手なんて聞いてねえし、うちら」
「まあまあメグちゃん抑えて」
「だってうぜーし。何なん、馬鹿にしきってや。だからこんなヤツ呼ばなくて良かったんよ、こんなん頭っから部活に来させなきゃいいだけの話じゃね」
「めーぐーちゃんっ、抑えて抑えて。駄目だよー、乱暴なこと言っちゃ」
どうして、あんなことしたんだっけ。
いつだったか、私は因果応報と言った。これもそれだ。因果応報、自業自得。でもあと少しだけ、見逃していて欲しかった。ああ、そうだ、順番を間違えたのだ。せめて全部――部活が終わってからなら。けれど、それでは遅すぎる。
いや、これでも遅すぎたのか。最初から。
無理筋、なんて単語が浮かんだ。
準備室のドアが開く。入って来たのは川本先生だった。後ろには麻由も見えた気がした。先生は、スリッパの音を響かせながら沈黙を切り裂くように歩いて、自分の椅子に座った。それから足を組んで、こちらへ視線を向けた。
「何やってんの、はよ練習行く。あとカエラ、あんたミーティングん時いなかったっしょ。何遅刻してんの」
誰も、動かない。先生だけが丸椅子を甲高く軋ませていた。
「今、マコちゃんの期末の話、してたんですけど」
楓が言った。
「先生も知ってますよね、何が問題かって。――おかしくないですか。真白も理沙ちゃんは駄目で、マコちゃんは良いって」
「やー先輩、それはまた、ね。あたしがバカなのもありますしそれに」
「黙って真白」「あ、はい。すみません」有無を言わさず、再び恵美が遮った。
「お前だけ特別扱いなのが気に食わないの、みんな」
恵美は先生も誰もを無視して、私だけに向かった。ああ殴られるな、とだけうっすらとよぎった。身を引きかけて、それだと面白くない気がしてそのまま恵美を見据えることにした。殴られるのを嫌がったところで、どうせここだけで収まる気もしない。
それよりも、とすら思う。もうなるようになれ、と。
「お前さ、嫌われてる自覚がないんだよ」
幸か不幸か、拳は飛んでこなかった。
「何でこんな話してるかわかんねーんだよな、やけ他人事みたいな顔してられんじゃん。な、やることだけやってくれない? 最低限。そっから先とかやんなくて良いから。知らんけど、うちらのことぐちぐち言ってや、何様のつもりなん。皆からうざがられてるって知らねーの」
なー聞いてる? 言うこと無いん。次から次へと投げつけられて、唯一、殴りたいとそれだけは明確に意識する。襟は手の届く距離にあったし、私の両手は塞がっていない。
「口だけかよ。ホント気持ち悪いわ。いい加減、来ない方が良いって気づけよ。嫌われててよく来れるよな、それも平気な顔で」
けれど、それはあからさまな挑発で。
私と恵美の間に手が入った。先生が立ち上がっていた。はいはいはいはい。そう繰り返しながら先生が物理的に、私たちの距離を稼ぐ。
「やめやめ。はい終わり。マコからも話聞いたし、先生方とも話し合った。それでこの話はおしまい。それで、問題って何?」
口を開きたかった。最低でも、それくらいは。
「そうやってまた庇う。それがおかしいって言ってんの。そいつお気に入りだから? 抜けられたら困るん?」
「マコを特別扱いする気なんてないんだけど」
「してんじゃん」
「してない。アンタもどういうつもりなん。練習行きな」
「でも陽ちゃん、何で。何でこいつは許されるん」
「お終い。この話はこれで終わり。いい? いいね? 練習行き」
ここで私を責めるのも、お前らの自己満足だろ。
「で、カエラの遅刻の理由は?」
川本先生は、もう次の話題を楓に振っていた。
「いやあ、寝坊しちゃいましてー……」
話にならんわ、と吐き棄てて、恵美は廊下へ出て行く。申し訳なさそうに、理沙が私に視線をくれて、すぐに逸らしていた。
閉ざした口のまま、どう考えてもこの話はそれで終わりになっていた。それ以外に考えられなかったし、自己満足と言われて楓たちがどう反論してくるのかも楽しみだったのに、私から蒸し返せもしない。ずっと前からそうだったけれど、この勝手なやり切れなさについて終ぞ誰も理解しそうになかった。
音楽室と準備室を隔てるドアが勢いよく開いて、全く場違いなホルンが飛び込んでくる。いつの間にか、音楽室は雑多な音色で賑やかになっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます