/9.

「先輩先輩! 可愛いですかこれ! 可愛いですよね!」

 涼し気な水色の浴衣を着た真白は、ふと見ただけでは誰なのか分からないくらい様変わりしていた。

「え……うん、そうだね」

「そーじゃなくてー。ちゃんと可愛いって言ってくださいよー、先輩」

「可愛いよ。似合ってる」

「でしょでしょー。菜々と選んだんですよ、これ。リョウ君とかと回るんです」

 真白に限らず後輩たちのうち何人かは、早々と浴衣で着飾っているようだった。

 艶やかに晴れた宵の口だった。年に一度だけ、ささやかな渋滞と人混みが発生する港祭りとあって、気を許せば、人の気配に倒れてしまいそうなくらいだ。融通の効くアテもなく、そのなかで私はぽつんと会場から外れた駐車場の薄闇の中、自転車と共に立ちつくしている。出番を無事終えた楽器たちと同じようにこの場で用済みになったまま、なのに私は片づけ損ねられている。

 そんな中、駐車場の外の人の流れから、よく知った人の影が抜け出してはしたなく走ってきたのには、ひやりとした感触を覚えた。けれども真白は真白で、危惧したような揶揄いもなく、ただただ高まったテンションに任せに行動しているらしい。真白を追って、これもやはりめかしこんだ菜々と、あと一人――これは一瞬、本気で誰なのかわからなかった――、薫が、少し歩きにくそうにして着いて来ているのが見えた。

「先輩も一緒にどうですかー? って、まあ二年ばっかなんでアレですけど」

 屋台の並んだ船着き場で私たちの演奏が終わってからも、出し物は続いている。とはいえ、遠くのスピーカーから発せられるのは正体不明になってしまった爆音で、近くの声を聞き取るのも一苦労だ。

「私は、約束があるから」声が、細く震えないか心配だった。約束、なんてものが守られるとは信じていない。

 真白は、きょとんと目を丸くする。

「え! マジですか。約束って何ですか。てか誰とですか、ってあ、ああー、そうですね、ああー」

「何よ、その反応」

「ふふふ。そうですよね、良かった良かった」

 察したかのような口ぶりで、真白は頷いた。

 美果はいなかった。吹くだけ吹いて、けれどもそのまま帰ってしまった。本当に、本番前の練習だとか準備だとかの一切には参加できないまま、ろくに言葉を交わす暇もなく、本番、隣で吹くだけ吹いて帰ってしまった。

「いやあ、先輩も変わったなって思って。明るくなりましたもん。去年とか考えらんなくないですか、それ。ねー菜々、マコちゃん先輩これからデートだって」

 真白は、やっと追いついた菜々に話を振る。予想外の単語が並んでいた。あらぬ方向に話が向かって行ってしまいそうな気配は止めらそうもない。

「えー、何、真白。デート?」

「これから美果ちゃん先輩と」

「マコちゃん先輩? わー、良かったですねえ」

「……二人とも、そんなんじゃ」

「分かってますよって。――でも体操服のまんまって、何か足りなくない」最後は声のトーンを下げて、菜々に話しかけていた。

「足りない足りない。折角のデートなのに」

「だからデートじゃなくて」

「先輩は黙っててください。分かってますからって。ねー薫。マコちゃん先輩の浴衣姿見たかったよねー?」

 手を横に振って否定しても、真白は引き下がらない。急に矛先を向けられた薫は微妙な首の動かし方をしていた。口元は動いているものの、声は聞こえない。

「ほら、薫コもこう言ってるー。可愛くしなきゃ駄目ですよー、こんな日しか着れないんですから」

「私は、いいよ。私は」

 そう言われても、端から私には着る発想がなかった。そも、着ることができるとも思えなかったし、仮に私が着られたとしても、美果の方は着られないだろう。それでは不公平だ。

 妥協点として、美果は会場から家に一度帰るように強いられていた。美果の家から会場の船着き場までは結構な距離がある筈で、どれだけ自転車を飛ばそうと往復で小一時間は掛かってしまう。そもそも、『あの人』との約束が守られる保証はなかった。一度帰ったところでこの話が反故にされて無しになってしまうことは、半ば諦めと共に予想できてしまっていた。

「あ、じゃあ真白と薫コはこっちで預かってきますから。応援してますもん」

「ちょ、菜々ー」

「ほら行くよ。すみません、先輩、こんなのがお邪魔して。楽しんできてくださいねー……真白、邪魔だって。行くよ」

 ニカ、と明るい笑顔を浮かべて、菜々が真白の腕を取って引っ張る。菜々の視線が幾度か私の後ろを示している。

 つられて後ろを見れば、果たして、待ちわびた姿が自転車を押している。

 菜々に引きずられるようにして、半回転しながら手を振る真白が、射的の的みたいに見えたのは、凡そ気のせいではなかったろうけれど。

 真白たちは、こちらを遠巻きにして待っていた一群へと戻っていく。誰がリョウ君なのかはわからないけれど、吹奏楽部の二年生に混じって見覚えのある男子たちもいた。薫の後ろ姿もすっかり華やいでいて、薄闇の人混みに同化してゆく。

 私の隣に、美果は自転車を停めた。

「お待たせー……あれ、もしかして薫ちゃんだった?」

 息が切れている。見送りながら、美果も意外に思ったらしい。

「そう」

「え。マジか」

「薫だった」

「薫ちゃんだったのか……何か心配だわ」

 遅かったなんて文句のひとつでも言いたかった。

「腕……」「いい。誰も見てないし」美果は長の体操服のまま、袖をまくっていた。腕に走る傷痕も、闇に紛れている。

「急いだかいがあったのかな、これなら。待ったでしょ」

「そんなに待ってない。――あ」

 とん。

 赤。

 遅れて一拍、轟音。

「間に合った。ってことはもう八時か」

 一発目の花火はシンプルな赤色。重低音に殴られるような衝撃に身を震わす。

「もうここで見よ。疲れたし」

 美果は駐車場の背の低い柵に背を預け、地べたに座り込んだ。弾みで、今し方停めた自転車に引っかかって倒しそうになる。

 私は隔てられた自分の自転車一台分が鬱陶しくて、それを逆側に引っ張って退けると、辛うじて二人分になったスペースに自分を押し込んだ。

 自転車はそれでも邪魔だった。花火が咲いても、眺めた夜空は車輪と荷台越しだった。背もたれはあれども並んで体育座りしかできない即席のこの場所では、特等席には程遠い。少し移動しさえすれば、ここ以上に見物しやすい場所はどこにでもありそうだった。

「私って明るくなった?」

 気になっていたことを尋ねる。自覚はない。

「さあ。そうなの?」

「質問に質問で返さないでよ」

「さあ。どうなんだろう、言われてみればそんな気もするような」

 美果の答えは曖昧だ。

「さっき真白に言われたんだけど。変わったって、去年から」

「あー……真白に……そうかも。暗くて狂ってる方に、明るくなってる」

「何それ。矛盾してる」

「でも硬さがなくなったかな。前までガッチガチなところあったじゃん、理由はともかくとして、去年の真琴なら港祭りで居残りそうもないもん」

 指摘されれば頷けなくもない。本番が終われば余りに生真面目になってすぐに帰っていたし、港祭りを巡ろうなんて発想がなかった。そこから考えれば、明るくなったと一概に断じれないにせよ、少なくとも柔軟になっているかもしれない。

 花火が上がる。背の低い花火の群体で、この場所からはうまく見えない。開いた光に、傷跡が瞬く。一発一発が重い轟音から、油が跳ねるような、連続して細かく爆ぜる音たちに変わった。

「死体って見たことある」

 おもむろに、美果が私に問うた。

「そりゃあ、あるでしょ。てか美果だって見てるでしょ、一緒に」

「生の?」

「え……動画までかな。見るチャンスないじゃん。そこらに転がってる訳でもなし」

「そうだよね。そんな、運良く事故現場に遭遇できたりもしないし」

 ただの死体とすれば幾らでも見たことはある。でも、死体の実物となれば話は別だ。美果は淡々と続けた。

「この前さ、葬式行ってきたの。死んだ人間に寄ってたかって花を手向けたりしてさ、もう死んでるのに意味なんてあるのかなーって思うけど。だって死んでるんだからわかんないじゃんね、折角の花が綺麗でも」

「生きてる人間の自己満足だよ、そんなの。そっか、葬式か」

 合点がいく。

「おかげで死体見えた。本物、生の、人間の死体。って言ってもまあ、あんなの死体そのままって訳じゃなくって、何やかんやの処理した後のヤツだけど。でもやっと死体見た」

 花火の音にかき消されないようにと、耳をそばだてる。どことなく、美果の声は弾んでいた。美果は、指先で何度も円を描く仕草をしていた。

「死体ってね、重いんだよ。質量的な重さとは違う、観念的な重さがある。もう自力で動けないってのもあるんだろうし、そもそも人間ってだいたい五〇キロはあるから、当然そんな重さもあるんだろうけど、それ以上に重そうに見えるんだ。実際に持った訳じゃないから、もしかすると私が思ってる以上に軽いのかもしれないけど、そうじゃなくて。でも死が重いなんて言いたいのでもない。ただただ、死体が重いんだって、それだけ」

 いつになく、美果は饒舌だった。その口ぶりは、死体を実際に見た体験が美果にとって貴重で素晴らしいものだったことを物語っていた。

 葬式の死体なんてグロテスクでも何でもない、ただの人間だと思っていたけれど、これは考えを改めなければいけないかもしれない。

「……美果が難しい言葉使ってる」

「使っちゃいけないのかよー。たまには使わせなって。これでも一応、色々考えたんだぞ。あれをどうしたら真琴に伝えられるかなって」

「だったらたぶんそのチョイスは間違ってる。だって全然わかんないし。……でも、私も見たくなった。死体」

「真琴の読解力が欠けてんの。どこのお婆ちゃんだったか覚えてないけど、良いもの最期に見せてくれた」

「薄情だよ、それ。葬式に呼ばれるくらいなんだから、ちょっとくらいは世話になってたんじゃない」

「そう? 薄情、結構。だって誰なのかもわかんないし」

 美果はあっさり言い切る。

「もし、うちのお母さんが死んだら、死体見とく」

「すっごい先になりそう。もしかして真琴、殺して死体見るとかする気?」

「明日とかになるかもよ。殺さなくても。肺炎だって。今、入院してる」

「マジ? 良かったじゃん」

「どうせさっさと退院するんだろうけどね」

「真琴も薄情じゃん」

「むしろ情はあると思うんだけどな」

「どこがよ」

「死んで欲しいって思えるだけ情があるんじゃない。無関心より」

「世の中一般ならそれ、充分薄情だよ」

「報い報い。私にはわからないもん、そんなの」

「……勢い余って殺さないでよ?」

 照らされた笑顔の裏側に、心配そうな、そんな不安も垣間見える。

「殺さないよ」少なくとも、夏が終わるまでは。「美果も、殺さないでよ。あの人」

「え、何で」

 本当にわかってないような、テンポだけは良い、そんな返事だった。

「んー、どうだろ。どうなんだろうね。善処します」

「何それ。殺しそうじゃん」

 私に対して殺さないようにと頼んでおきながら、美果は本当にふとした拍子で殺しにかかりそうだ。

「……殺したいっていえばさ、理沙ちゃん殺したい」

 唐突に、理沙の名前が出される。けれどそこには、ほんの僅か前にまであった本気さが抜けていた。強炭酸と砂糖水くらいの違いがある。

「また――どうして。美果と理沙ってそんな仲悪かったっけ」

「いや、全然。てか最近話してもない」

「だったら何でよ」

「何となくよ、それこそ。何かさ、理沙ちゃんって殺されたがってない」

「どこが。殺されたがるって、そんなふうには見えないけど」

「殺したいのに、理由なんて必要? だって、殺したいってそんなの、いちいち理由づけする方が面倒なくらい、ありふれてるじゃん。むしろ、あえて殺したくないなら、そっちの方に理由があるっていうか」

 ――再び、轟音が一撃。不意を突かれて跳び上がりそうになる。美果も驚いたようで、また自転車を倒しかけていた。

 微笑む美果が、最高に鮮やかだ。

 理沙は余計だけれど、美果は正しい。それに今なら、私も理沙を殺したいと感じている。寄付金が充分集まったのか、今年の花火は例年になく豪華だ。金色の柳が流れ落ちた後、原色の蝶たちが数匹、砕け散った。

 この夜の花火を、きっと、私は一生忘れられないに違いない。月並みにそう思った。

 花火が全部打ち上がって済んだと思って腰を上げようとしたとき、数発の花火が一斉に輝いた。それで、夜は静かになった。

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