Allegro.
/7.
音楽室で楽譜と向き合う。
ストーリー、並べられた景色たち。冒頭は勇ましく、それはいわゆる主題なのだと思うけれど、それと比べてここはどうだろう。
――深い森の中、夜、星あかりしかない空。誰もいない。ひとは誰も。そのなかにひとり、歌っている、ハミング、調べ。足音がすればたちどころに消えてしまうくらい、辿る儚い糸の先、光の泡たちが歌っている。
そんな物語がよく似合う、と思う。
歌は誰も招かず、けれど呼んでいる。あるいは……このやりきれなさの正体と哀しみを孤独なままに愛しんでいて、それに縋りつくように、同時に突き放している。追想、かもしれない。
感傷的なフルートの音が曲を阻害してしまわないか心配になる。けれどもここを吹くのは私だ。そしてこれは私にとって最後の曲だ。やらないより、やって止められてしまえ。邪魔と決まったわけではないのだから――。
フルートを構える。
静かに、息をした。
私が合わせることはない。ここは、少なくともここに限っては、このフルートの音が主役だ。
目は閉じて、息を吹き込む。伸びやかに、素直に、思うがままに。音だけに集中した。
音を追ったその数小節の間、私そのものがフルートになった心地にすらなった。どちらがフルートでどちらが私なのか、そんなものはどうでもよくて、その調べを如何に私が吹くか、それだけに意識が向かっていた。吹きたいままに吹いていた。
教室の外、廊下で麻由と双葉が並んでクラリネットを吹いていた。向こうに見える海は今日も輝いていて、目が眩んだ。
音が並ぶ。深い森の中。冷たい水で喉を湿らす。
冬にアンサンブルで吹いた経験が役に立つ。ビブラートをつけて、歌うように、心のままに。この曲は早くもなく複雑でもなく、仄暗さも好ましい。明るい曲はよくわからないから苦手だ。けれどこれなら、繰り返せば繰り返す程に感情移入しやすかった。
私は私の思考しかできないし、私はこの部分を私として吹く以外にできそうもない。だから私の思考が滲み出してしまうのは道理なのだろう。
こんな時に限って薫もいない。お昼休憩の後、二年生はランニングらしい。薫の足だと散々に遅れることは明らかなのに、あの子は真白らに連れられて嬉しそうにグラウンドへと降りて行った。足取りはぎこちなかったけれど、私から薫にやめといた方がいいんじゃないのなんて言い出せないくらいに喜んでいた。真白たちにしたって、薫を置いて先に走ったり、足の遅さを馬鹿にしたりなんて絶対にしない。
私も積極的に走りたいようなタチの人間ではないにしても、もし三年生が自発的にランニングを始めるだけの気概があるなら良かった。仮に今から私が言いだしたところで、理沙も双葉も動きそうにない。
あのなかに、私の居場所は最初から用意されていない。邪険にされているわけではないのに、私の居場所がそこにない。結果も何も見え透いている。不毛だ。
……音が少し上ずっている。頭部管を調節し直す。三年間の酷使で付いてしまった黒い傷が露わになった。頭部管の位置はだいたいこの傷のあたりとわかりやすい。チューナーの電源をいれて針をみれば、今度は逆に低い。もう一度、微調整。まともに吹くぶんには音が合った。
グラウンドの方から甲高い声があがった。姿は見えなかったけれど、恐らくは真白と菜々のもの。あの二人は仲がいいから。
問題は譜面の上。ソからドに下がる個所、ここが下がり過ぎている。ならばと意識すれば今度は上ずってその後の音程がわからなくなってしまう。音がわかっていないからこうなる。ソ、ド、ソ、ド、ズレた音を繰り返してピントを合わせる。居心地の悪い音。ドが定まらない。だからドの次の次まで狂ってしまう。頭に正しいドを叩き込む。イメージに合わせて音を落下させる。もしくは支える。腹の底に力を入れて、正しくドを吹く。
階段から現れた姿、ひとつ。長袖。
ソ、ド……ソ、ド。
――あ。
ドの音は窓の外へと逃げて消えた。
美果。
戻すには遅すぎた。また私はソに戻る。今まで吹いていたドの行方は失ったまま、もう次の音すら継げそうにない。フルートを手に譜面台に向かっているだけだった。私は片手にシャーペンを持って、メモすべき内容を探している。
美果、今日はもう来ないって思っていたのに。
音もメモもどこかにやってしまったまま、考えているふりをして、美果が真っ直ぐ廊下を歩いて音楽室にまで来るのを視界の横で捉えていた。
足取り軽く、美果は私の隣の席へナップサックと練習道具一式を置いた。その間、私はただの一音も吹けずじまいで、焦点の合いにくい目で楽譜を見つめ続けていた。
「抜け出して来ちゃえましたー。終業式ぶり。あっついなー、もう」
夏休みに入って一週間は過ぎていた。
「……ああ、美果、来たんだ」
「えー、何だよー。さっき目があったじゃんよー。やっと来れたんだよー」
私は楽譜を閉じた。愛嬌のある笑顔を、美果はつくっていた。
「行こ。あっち」
美果が来たなら、いつもの場所が良い。私たちは音楽室の裏手に回る。今さらだとしても、人目がなくて自由に話せる場所の方が私たちには適しているから。丁度、さやかたちがやっと午後の練習を始めたところでもあった。自分の音だけならまだしも、美果の音と声とがアルトサックスの騒がしさにかき消されるのは鬱陶しかった。
美果が長袖の体操服を脱いで半袖になる。両腕につけられている傷の数々が露わになっても、ここには私たちしかいなかった。
「さっきのって、コンクール?」
美果に尋ねられて、私は頷いた。今日は、上手く言葉が出てこないらしかった。つっかえた言葉が何なのかすらわからない。きっと、午前中の間あまり話していなかったせいだ。今日はもう人と話せることなんて殆どないと思っていたからだ。
「へー。綺麗だった」
「聞こえてたんだ」
「うん。あー、真琴の音だなーって思った」
「私の音って」
「や、綺麗よ、めっちゃ」
二、三度、美果は頭部管に息を入れる。いつもより音に勢いと張りがあるように感じられた。
「ピアノの練習してくるって言ったら、あっさり通してくれたの。便利だねぇ、伴奏って。まあ、あの人が伴奏取ってこいってうるさかったからだろうけど」
「良かった、来れて。本当……」
「後で練習付き合って、真琴。ピアノの方も。一応はホントのことにしとく。最優先はフルートだけどね」
丁寧に基礎練をする時間は確保できそうになかった。最低限の音合わせをした後、私たちはコンクールよりも本番のほど近い港祭りの曲を練習することにした。メトロノームに合わせながら、一曲一曲を通して練習していった。譜読みだけでもしていたらしく、合わせるぶんには苦労しない。ずっと練習していた私と同じくらい、美果も吹きこなしていた。
美果の義父は何故だか、港祭りが終わって残すはコンクールだけになれば、毎日部活に行っても良いと言っているらしい。だから港祭り用の曲は吹けるときに吹いておかないと、いつ美果と練習できるかも分からない。『あの人』の理屈は全く理解できなかった。
そんな心配も要らないくらい、美果はスムーズに吹いてしまうけれど。
カットされた部分も少なくない。合奏で決まった変更点はその都度教えた。美果はすんなりと受け入れてこなす。このあたり、美果の実力が表れていた。
「どうなの、実際」
削られた箇所に印をつけながら、美果が私に尋ねた。
「どうなのって」
「合奏よー。やってんでしょ、ここのとこ毎日」
「正直な話、酷いものかも。金管がねー……」
「あー……だいたいわかった。音程悪いよな、あの人ら。それでか、三分の一くらい削られてるのは」
「いや、それだけじゃないっぽい。今年、曲数増やしてるじゃん。だからフルに吹いてたら時間取られるし、後これ長いし、原曲。合わせるとなると途端、トロンボーンで何吹いてんのかわかんなくなるとこまで出て来るしさ」
美果に愚痴を言ったところでどうにも変わらないことは理解していた。それでも言わずにはいられなかった。
「なー真琴、練習だけでも全部合わせよ。これ私好きなのよ、これ、Eのとこ」
美果が示したのは、カットされた煽りで削られてしまった部分だった。前後を消された結果として、物静かで切ないEの間奏が無くなってしまったのだった。
繰り返しの2カッコを含め、インテンポで私たちは吹いた。インテンポで合わせられるのも、精々私と美果、それから薫を含めてどうか、といった具合でしかないのだから、そうやって譜面通りに吹くのは自己満足でしかなかった。
五曲目の後半に差し掛かったところで、美果はフルートを口から離した。
「ストップ。真琴、ここもっかい」
楽譜のその場所が、美果のフルートの先端で示された。止められた箇所から遡って五小節目から合わせ直すと、今度は私に聴こえた。掛け違えたみたいに音と音との間に不自然な隙間が空いていた。どちらともなく顔を見合わせて、私たちは再び音を止めた。
「そこたぶん微妙に違う。タン、タタ、タタタン、なんだけど、真琴はこの、タタ、のところが半拍くらい早いかな。だからズレた気がする」
「えー……ホント?」
「うん、違う」
「ええー……」
「ほら、もっかい。Gの三小節前から」
言われるがまま、美果の音を追う。上手くいったのかどうかははっきりとしないまま、それでも音と音との間に明確なずれは聞こえなかった。美果は満足気に小さく頷くと、そのまま曲を続けた。
美果の音は正確で手堅い。指は素早く正確に回るし、音程も外さない。ピアノにしてもそうで、私なんかでは敵いそうもない。教科書で手本として紹介されそうな音色をしている。羨ましくとも真似はできない。
――だから、本当なら。パートリーダーもファーストも、ソロも当然、美果にこそ相応しかった。その筈だった。
黙々と吹いていた。二つだけの音が響いていた。最後の曲は特にお気に入りで、二本のフルートの掛け合いがあった。吹くことに決まって初めて知った、流行りのJポップ。可愛らしいのに哀し気で、切ないメロディの曲。旋律部分はフルートを含めた木管中心。
薫と吹いているときよりも音は自然に重なってくれていた。一度吹くだけでは足りなかったけれど、それを口にする余裕はありそうになかった。それでも私は、こうして美果と吹いていられるのが心地いい。
吹き終わっても取り立てて吹き直すべき箇所は見当たらず、私は素直にフルートを下げるしかなかった。通しで吹けば、流石に相応の体力を使う。直すべき箇所があるにしても、少なくとも合奏のレベルを考えれば、先生がわざわざ美果にかかずらう暇はなさそうだった。
けれど、美果は首を捻った。
「真琴、平坦じゃない?」
「……平坦?」
そういうところよ、と指摘される。
「平坦。どうかした? 何かあったりした?」
「何も」
「んー……元気ない。元気ない気がする。上の空みたいな」
「そうだっけ」
「そうだよ。張り合いがない。折角来たのに、真琴、気が散ってる感じがする」
メトロノームの打つ音だけが、うるさく無機質に繰り返している。
――言うべきではないと知っている。美果には今しかないのだから。完全に余計なことで、まともな必要性は皆無だった。第一、港祭りもコンクールも、美果はいつ行けなくさせられるかもわからないというのに。
「ねえ美果」
まだ吹きたそうにして楽譜のファイルを弄っていたのに、私はけれども食い縛っていた歯をこじ開けてまで、それを口にしてしまっていた。
「……後で、行ったりしない?」
「え?」
「だから……」
「行くって、どこにさ」
「港祭り。演奏終わったら」
メトロノームが止められた。ずっと遠くの方を見つめる美果とは、今度こそ、目が合わなかった。
「あー……なるほど、それで。そっか」
美果はひとりで納得する。くるくると指で小さく円を繰り返し描いていた。奇しくも音は何もしなかった。音楽室から他の楽器の音が響くことも、誰かの声があがることもなかった。
いっそのこと、私がこの静けさを破ってやりたかった。
「だって私、本番に行けるかもわかんないんだよ」
案の定、美果は渋る。なのに動けもしない。
「真琴の方は、大丈夫なの」
「私は大丈夫。親から何て言われてもそんなの知らない」
行けると言って。
「でも、コンクール」
「コンクール……?」
「……無理に行ったら、コンクールの方に出してくれないかも。約束破るようなヤツは部活行かなくて良い、みたいな。そんなこと言いそう」
でも、とひと息入れて、美果は続けた。私らしくもなく、せめて私は私らしく片足に体重を乗せて肩をすくめていたところだった。だから、その『でも』を耳にして、うっかり美果の目を見てしまった。
どうせ言ってしまえば、今の私は私に対して決着がつくのだから。
そんな風に思っていたのがバレてしまいそうなくらい、無防備に美果を見詰めてしまった。
「実のところ、私も誘いたかったりしたんよ。でも諦めてたし。行けないなんて見え透いてるからさ。何だよーもう、あの人は何とかどうにかして、そんなの行くしかないじゃんか」
くつくつ、美果は笑う。そうするとブレス記号に合わせたみたいにして、私の胸に息が入る――気がした。
「いいよ、行く。でも期待はしないで。行けるとは限らないから」
そう言って、美果はフルートを構え直す。今さらいつも通りに吹くのは恥ずかしいかもしれない。けれどそれでも、もう一巡、しっかり合わせ直そうと私たちは決めた。
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