Interlude.2.
/6.
――直接的な契機があったとすれば、それはこの日のことなのだろう。
全体の数はともあれ、私が最後に一位を取ったテストの結果を知った夜の、次の日のこと。期末テストまでは一か月弱あった。
その日の昼休み、私は北向きの廊下で手摺にもたれかかりながら文庫本を広げていた。強い陽射しでアスファルトは焼け付いていて、蜃気楼が立ち上っていた。修学旅行の纏めも一段落し、私たちは月末に控えた体育祭の準備と練習に追われていた。吹奏楽部はマーチングで忙しかった。体育祭といいながら、吹奏楽部にとっては音楽会のようなもので、マーチングに行進曲のBGM、国歌に校歌までを吹かなければならなかった。
この日の午後からは確か、三年生恒例のヨサコイ擬きを練習する予定だった筈だ。
本を読んでいると麻由が駆け寄って来た。麻由の所作は仔犬じみている事も多い。無邪気に可愛いときもあれば、少々鬱陶しいときもあった。
「本。読んでた」実際、中身は頭に入っていなかったけれど。
「だよねー。うんうん」
手にした本を少しだけ掲げて示しても、麻由はその本の中身について問おうとしなかった。だからなのか、僅かに不自然な間が空いた。私からその間を埋めようとする気も起らず、けれどもこの本についてどうこうする気にもなれなかった。本の中身を麻由が激しく嫌うことは明白だった。
結局、麻由と私は、私の手にある本の存在そのものを無視することにした。この場合の、ちょうどいい妥協点だったと思う。
「ねーねー、さっき双葉から聞いたんだけど」
「うん」
「マコちゃん、県模試一位だったん?」
「……まあ」
「ホント?」
「うん」
「ホンマにやるとは思ってなかったわー。おめでとー!」
その前日の夜の塾にて、私は模試の結果を突きつけられていたのだった。温い夜だったからなのか、息が詰まるような心地になった私は、結果云々で騒がしい塾の教室から早々と外に出た。逃げた、とは言いたくないから、避難もしくは転進したと言いたいところだけれど、事実として私は明らかにその場から逃げた。息を吐いた後、見知った顔が出て来る前に、父の車へ乗り込んだ。
「……マコちゃん?」
「ん?」
「嬉しくないん? いつもだったらすっごい喜んでそうなのに。前だって十何位だーって言ってたじゃん」
喜んでいたのか、私は。
「嬉しい……よ? たぶん」
「ふーん?」
偽らざる気持ちだった。かなしい、とすら思った。何かが急にすっぽ抜けたような、そんな意味不明な――虚しさのような何かよくわからない――感情を俯瞰していた。
少なくとも、当の私はこのとき、家で待ち受けているであろう祝福を想像してげんなりしていた。他人に喜ばれるのは苦手だ。もっと突き詰めれば嫌いだ。どうでもいい。喜べばいい。でも私は知らない。私が喜んでいるなんて期待しないでくれ。どうか私に感情を外注させないで。
無条件で私とお前は他人だけれど。ただの他人でなくなるだけの条件もなくはない。
そんな荒れた思考だった。
途切れた会話のままページに視線を落としていると、双葉が、給食当番の片付けを終えて私たちの横に合流した。双葉も私と同じ塾に通っていた。
「あー疲れたぁー。途中で寒川先生に捕まってや、プリント運べって。もー、私に頼まんくて良くね」
あの模試が返却された後、双葉は睡眠時間を削ってまで見直しと宿題に追われたらしく、いつも以上にぐったりとしていた。そんな双葉をねぎらうためか、はたまた単純にいつものテンションのままなのか、麻由は双葉に纏わりつきながらその頭を撫でていた。
「三往復させられたわ。職員室から。あーもう撫でんな頭くしゃくしゃんなるやろ。で、何話してたん」
「私の模試とか」
「あれね。羨ましいわー、私なんてBよ、B、判定」
双葉の判定が厳しいことも、私は知っていた。
「双葉も志望校って東山だったっけ」
「うん、そう。今年倍率高くね? 去年より上がってるし。ってか撫でんなってもー、ああもう乗っかろうとすんな! 流石に重いわ! ちょ、真琴、取ってこれ、コイツコイツ」
おぶさりかけた麻由の重みで、双葉の姿勢は半ば潰されかかっていた。滑稽だったけれど、そのままにしておくのは不憫だった。私は麻由を抱えるようにして引き剥がした。
自分の腰を叩きながら、双葉が尋ねた。
「はいはい、麻由ちゃんは高校どこにするんですかー」
「ウチ? えー……」
麻由は言い淀んでいた。私は何となく、麻由のことだからあっさりと白瀬に進むのだと思っていて、そう迷ったのは少し意外だった。
「まだ決めてないとか遅くねー。進路希望そろそろ来るぞー」
「だねぇ。私も東山にしようかな」
そんなものだったから、麻由の口から東山の名前が出たのはもっと意外だった。双葉ですら苦戦必至なのに、麻由が目指すのは現実的ではなかった。少なくとも、軽く決めてしまえる志望校ではなかった。
「だって双葉も行くんでしょ。それにあそこって音楽科とかあるじゃん」
友だちが行くから行こう、だなんて。双葉も鼻白んでいるようだった。
「まー、音楽ならなー、あれはあれで倍率高いらしいけど。私、別のとこにしようかな。第二志望ならA判定だったし。真琴、脳味噌分けろー! 私にくれ!」
「どうする、食べる? 私の脳味噌」
「食べんわ! カニバか!」
「中国ではそんな迷信もあるらしいよ。身体の弱いとこを食べたら強くなるみたいな」
「気色悪―……」
「ほら麻由引いたー。なーそういうの言うからやでー、わかっとんのかー」
そのときだった。視界の端を横切った姿に、私は本を閉じた。
「――え。今の」
呟きながら、双葉は背伸びして手摺りの向こうを伺った。アスファルトの上を一台の自転車が滑り抜けて行ったのだった。相変わらず双葉の背中に纏わりつこうとしていた麻由も、その姿を見送った。
「ねえ双葉、そろそろ着替え行こ?」
麻由はあからさまに避けようとしていた。
登校時間をとっくに過ぎていたにも関わらず颯爽と自転車置き場へと流れていったその姿は、明らかに私たちのよく知るそれだった。
「頭欲しいならあげるよ、頭ごと」
そんなことを言い放って、私は麻由たちから離れた。仄かな期待と根拠のない予感のもと、休み時間になる度ずっと、教室の裏からその姿を待っていたのだった。自分の席に戻った私は、もう一度本を広げた。待っていたことを悟られたくはなかった。
そうして待っていてやっと、美果が登校してきたのだった。長袖の隙間からは、分厚く巻き付けられた白の包帯が覗いていた。
「おはよ」昼の日中、正午も回って小一時間が経とうとしているのに、美果は真っ直ぐに私の方へ向かってきて、そんなふうに挨拶した。
「……どうしたの、また」
「いやちょっと、手元狂っちゃって」
美果は私の隣の席に腰を降ろす。苦笑いだった。顔には疲れが浮かんでいたように思う。どうしようもなく消耗してしまった後のような、そんな疲れが。
「するっていっちゃって。さっきまで縫ってもらってた」
「するって」私は繰り返した。
「そうそう、するーって。で、病院行ってた。それで遅れました。五時間も遅刻とか初めてかも」
「流石に――」やり過ぎじゃない、と言いたかった。「――暑くない? それ」けれども言おうとする手前の危ういところで、それだけはいけないのだと気が付いたのだった。
美果は無事な方の手で、顔をパタパタと仰いだ。
「あっつい。やーもう外したい。外すなって言われてるけど」
やり過ぎだ。
そんなそこら中から転がされそうな感想をせめて私だけは口にしてはいけなかったし、そもそもあっさりとそう思ってしまうことじたいが、私に思考が足りていない証拠だった。
美果は伸びをしたままのけぞって、天井を見上げていた。
「次やったら入院だって言われた。腕切っちゃいけないのかよー。うっざくねー、あの医者――って真琴は知らんよね。もう面倒なのがいるのよ。黙って縫ってろよ。私が切る理由とか気にしなくていいんだよ。外科医だろ。
あ、でも医者になれば傷口見放題、上手くいけば縫い放題で切り放題なのか」
「美果に医者は無理なんじゃないかな」
「何だよ失礼な。ボクだってもしかしたらなれるかもしれないじゃんか」
「動機不純だし。私だったらそんな医者にはかかりたくない。身体を治してもらいたいのに、知らず知らずに壊されるとか嫌だし」
「いいじゃん、ちょっとくらい弄らせなって」
そうしてひと息つくと、美果は自分の鞄から教科書の類を引っ張り出し始め、途中で固まった。
「あ、ヤバ。今日って何曜日だっけ」
「水曜だけど」
「……本返し忘れてる。これ」
「今から行く?」
「行く。――行く?」
鞄から取り出されたのは一冊の文庫本。件の、地獄で天使を殺す青年の物語だった。美果の誘いに、私は頷いた。
昼休みも終わりかけの図書室には誰もいなかった。電気すら点いていなかった。
美果は自分の借りた本を、直接本棚に返していた。誰もいないときは図書委員として勝手知ったる振る舞いをするのが、美果の常だった。勝手といっても精々仕事の手間を減らす為のショートカット程度に本を片付ける程度で、寧ろ他の図書委員よりも真面目にきっちりと仕事をこなしている。この時も美果は自分の本を返すついでとして、出しっ放しにされていたハードカバーを片付けていた。それからカウンターの裏に回ると、これも自分の貸出カードを探すついでに、他のカードの束を学年ごとに分け始めた。
「今日は部活来れる」
カウンターの向こうで貸出カードを弄る美果に、私は尋ねた。この際と思って、私は時間を無視していた。二人だけの図書室はとても開放的で、居心地が良かった。
「五時までなら、たぶん」
「短い」
「私に言われてもさ。仕方ないじゃん。この怪我じゃあ、まあ、今日はどっちみちあんまり腕使わない方がいいんだろうけどさ」
そう言いながら、ぶんぶんと包帯で固められた腕を振っていたあたり、本心から腕を庇う気が抜け落ちていたのだろうけれど。
「辞めればいいのに。行きたくないんでしょ」
自分が言った筈のその言葉が、果たして自分の言った言葉なのか、このときの私はすぐにわからなくなった。大机に寄りかかった。些細なその変化が読み取られることはなかった。
「まあ、そうだけど。今日は塾もあるし」
「じゃあ塾も辞めちゃいなよ」
辞められないとは知っていた。美果は困り顔に微妙な笑みを含ませた。
「もっと馬鹿になっちゃうよーボク」
「美果が馬鹿なのは元からだし。多少勉強しなくても変わんないって」
「は、酷いなー。馬鹿馬鹿言うなよー」
軽口を叩いていると予鈴が鳴った。手早く貸出カードを纏め、片付けたところで図書室を出た。
既に教室は空になっていた。
「げ、誰もいない」
呟いて舌打ちをした。ある程度は予想していても、よもやここまで、ものの見事の空っぽとは思っていなかったのだった。私の机の上には、これみよがしに教室の鍵が残されていた。
「――薄情なやつら」
とは言っても、私たちに合わせていては到底授業に間に合うとは思えなかった。締め出されていないだけマシだったかもしれない。
美果は首を傾げていた。
「次って移動教室なの?」
「体育」
「マジ? どっち」
「外。知らなかったの」
「知らない知らない。数学違ったっけ……って、あ、火曜じゃなかったんだ。もー、真琴言ってよー」
本を返したところで、美果の曜日感覚はズレたままになっていたらしかった。半分揶揄いながらも密かに、これからは注意を払っておこうと心に決めた。私たちは口を尖らせながら、各々の荷物を取りに席へ戻った。鍵を閉めるのが面倒くさいなんて文句も口にしていた。間に合わないことは明白だったから、却って急ぐ気にならなかったのだった。
ところがそこで、美果は、つぅ、とその場にしゃがみこんでしまったのだ。椅子は近くにあったのに、そこに座る余裕すらなさそうに、床にへたり込んでしまっていたのだった。
先に行って、と言われたところで、そのままひとり置いていく気にはなれなかった。俯き加減の美果の視線は不安定で、床のどこでもない場所に向けて浮遊しているような危うさを帯びていた。
いずれにせよ、動けるとは到底考えられなかった。かつて、小学一年生の私がプールの授業前になると必ず吐気に襲われていたように、それが気のせいだと理解できるようになってなお、その時の私にヨサコイ擬きを踊る為の気力など残されてはいなかった。
その日、私は初めて体調不良を装った。
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